運転手は見た。
ウユジへ行く前に寄ったパン屋で働いていた、女性店員。
登場は一瞬だけだったので、誰だっけ…?と言う人も多いはず。
彼女のことを思い出したい方は、第一章「旅立ち」話を見返してみてください(^^)
「いらっしゃいやせ~」
自分でもやる気のない声だと思う。しかし、親の手伝いと言うのは、年齢関係なくどんな内容でもかったるいものだ。
母親に無理矢理押し付けられた店番をしながら、パラパラと入って来る客をぼんやり観察する。
俺はケダトイナにある、とあるパン屋の息子だ。何の特徴もない人生を歩んで20年。薄給だが楽な事務職員として生計を立てる傍ら、たまにこうして実家のパン屋を手伝っている。
そんな所謂モブのような俺だが、実は誰にも言っていない秘密がある。……とは言ったものの、別に秘密にするようなことでもない。前世の記憶があるってだけだ。
今の俺に生まれる前は、日本と言う国でVIPの専属運転手をしていた。
前世の俺も大した人間ではない、平凡な奴だった。就職氷河期の中、必死の就職活動で勝ち取った内定先は珍しくもないブラック企業。無理な働き方に体を壊して、5年後には退職した。
それからしばらく体も心もメンテナンスが必要で、ニートを決め込み、手持ち無沙汰に開いた就職サイトで偶々見つけた専属運転手の仕事にビビッときて、即応募。奇跡的に再就職が決定した。
これが割と天職で、給料は良く、待機時間は好きに過ごして良い。乗せる客は、官僚や社長のような立場のある人ばかりで、会話も必要なく、ブラック企業で鍛えられた気配りをちょちょいと発揮すれば、後は運転さえできればいい。
これこそ俺の求めていた人生。当初は諸手を上げて喜んだものだ。
乗せる客の中で特に多かったのは『田島』の人間だった。田島財閥と言えば知らない者がいないほどに有名な大財閥だ。
そのトップはいかにも堅物そうな老人で、数あるお偉いさんを乗せてきた俺だったが、この爺さんを乗せる時はいつも息が詰まるような緊張を感じていた。
田島にはいくつか分家がある。皆、上層教育がしっかりなされた嬢ちゃん坊ちゃんばかりだ。
しかし、本家には子供がいない。田島の一人娘である『田島椿』が一般人と駆け落ちしたことで田島の籍を抜けたからだ。そう聞いていた。
――だがその日、車に乗ってきたのは、その『田島椿』の一人娘だと言う、『田島明夜』だった。
雨が降る日だった。
シルバーグレーの、一目で高級品だと分かる上品なスーツに身を包んだ田島社長は、徐に孤児院へ行って欲しいと依頼してきた。
俺は、そんなところに何の用かと不思議に思いながらも口には出さず、粛々と言われた通りに孤児院へ向かった。
到着すると同時に、無駄のない動きでさっさと孤児院へ入っていた田島社長が、ものの数分で帰って来た時、その傍らに痩せた少女を引きつれていた。
この時は、さすがの俺もポーカーフェイスが危うく剥がれるところだった。
堅物爺さんと子供と言う組み合わせが余りにアンバランスだったのもあるし、その子供が随分貧相だったのもある。あの分家の生意気そうなガキ共どころか、一般の子供と比べても見劣りするような、ガリガリな子供。
田島家に引き取られたその少女の話題は、あっと言う間に使用人の間に広まり、噂好きの女性たちがどこから仕入れてきたのか、少女に関するあらゆる情報をあらゆる所に吹き込んでいた。
「ちょっと聞いた?あの子、6歳までの記憶がないんですって」
喫煙所で煙草を吹かしていると、庭の手入れをする専門掃除婦のおばさんが話しかけてきた。
「あの子って、明夜様のことですか?」
「そうそう。明夜ちゃん。何でも警察の人に保護されて、あの孤児院にいたらしいわよ」
「警察?」
眉を寄せた俺に、おばさんは瞬時に周りを見回してから、声を潜めた。
「ほら、椿さん、駆け落ちだったじゃない?でも、相手が結婚詐欺師だったらしくて、お金は盗られて子供だけできちゃって……。それで、その相手の人は捕まったらしいんだけど、どちらにせよシングルマザーじゃ今の時代大変でしょう?お仕事、風俗店で働いてたみたいで、明夜ちゃんのことも育児放棄していたらしいのよ。随分治安の悪い所に住んでたみたいで、麻薬とかにも手を出してたんですってよ。他にも色々余罪があったみたいで、警察が彼女の家に踏み入ったら……」
そこでぐっと俺の方に顔を近付けたおばさんが、囁くように言った。
「自殺してたらしいわよ。首を吊って。それでその遺体の前で倒れこんでいたのが明夜ちゃんだったんですって。それで目を覚ましたら記憶が無くなってたって。そりゃあ、母親の自殺なんて見たら、ねえ?」
俺は途端に嫌な気分になった。
こうして、彼女の事を聞いてしまったことに、何だか罪悪感が湧いたのだ。
あれから一度も乗せたことがない少女のことを思い出す。噂では、離れに閉じ込められて、朝から晩まで勉強詰めらしい。
ぼうっとした様子で、言われるがままに車に乗ってきた少女。
彼女は今、何を思って離れに留まり続けているのだろうか。
「すみません、これからはそういう話し、俺にして来なくていいですから」
「え、ちょっと?」
呼び止める掃除婦のおばさんに背を向けて、俺は眉を寄せたまま庭を後にした。
俺が彼女と再会したのは、それから4年後だった。
そして、その日が前世の俺の命日となる。
俺はその日、田島社長の言いつけで、田島明夜を御用達の料亭へ連れてくるように指示を受けていた。
久しぶりに会った少女。その姿を見た時、俺は酷く胸が痛んだ。
あれから4年が経ったと言うのに、同年代の女の子と比べて随分小さい身長。痩せたままの顔には厚く化粧が施されているが、貧相な体にあまりにミスマッチで、悪目立ちしている。
口が不自然に歪んでいるところを見ると、綿でも含まされているのか。痩せた体系を隠すように厚着をした少女は、まるで獣に捧げられる生贄のようだと不謹慎にも思ってしまった。
それでも、自分のすることは変わらない。干渉しすぎず、言われた通りに客を運ぶ。
あちらは俺の顔など覚えていないだろう。昔も今も、彼女の視線は下を向いていて、どこかぼんやりとした様子のまま、こちらを見ることはない。
しかし、それが分かっていても、バックミラー越しにチラチラと少女の様子を確認してしまう。
彼女がこれから会うのは、婚約者だ。恐らく、明夜様には顔すら知らされていないだろうその相手を、俺は知っていた。車に乗せたことがあったからだ。
見た目は、まあ正直に言えば豚みたいな奴だ。贅肉を隠しもしない体系に、特有の早口と人を見下すような態度。
決して明夜様と吊り合うとは思えないし、彼女が幸せになれるような相手でない事は断言できる。
これは俗にいう政略結婚。田島社長は、たった一人の孫ですら、駒のように扱う人間なのだ。
――そして、その事実に気付きながらも、こうして金のために少女を奈落の途へと運ぶ俺も、また同罪ではないのか。
そんなことを考えていたからだろう。
反対車線を走るトラックの荷台から、何かがすごい勢いで落下したことに気付くのに、少しだけ遅れた。
それが命取りだった。気付いた時にはその落下物が窓を突き破り、車を大壊させていた。
衝撃で意識がブラックアウトする寸前、俺は確かに見た。
後ろの席に座っていた少女の姿が突如として、煙のように跡形もなく、消えるところを。
次に目を覚ました時、俺は赤ちゃんだった。ただし、前世の記憶がある、だ。
新しく生まれたのは地球ではなかった。驚くことに異世界だ。魔法や精霊がいるファンタジーな世界観。
俺は決意した。もう前世のように金のために頑張るのはやめようと。
程々だ。人間、欲を出すと碌なことにならない。前世でもそうだった。ブラック企業に就職したのだって、人間関係も労働環境も最悪だったが、給料だけは良かったからだ。
VIPの運転手だって、名誉と金が手に入るからやっていたことだ。
しかし残ったのは、罪悪感と空虚感だけ。死んで残るのは心だけなのだ。
だから俺は、心に正直に生きようと決めた。程々が良い。現状を甘んじて受け入れる生き方が一番波風立たずに平穏を保てる。
それに正直、俺はこれで良かったと思っている。
確かに運転手の仕事は天職だった。しかしあの瞬間、幼気な少女を生贄に捧げなければならない時間だけは、苦痛で嫌で仕方がなかった。
道中、本当にこれで良いのかと何度も自問自答していたのだ。だから、むしろ事故に遭うことでそれを阻止できたのなら。彼女にこの先待っていたはずの不幸を潰せたのならラッキーだと、そんな風に思っていた。
――もう数月前の話しだ。この世界に突如として“世界樹”と呼ばれる大木が出現したのは。
その日、俺は世界が終わるのだと思った。
空を覆いつくす魔物の群れ。地上に降り立った魔物に蹂躙される地。それを前に成すすべなく震える民。
ファンタジーの世界へ転生したからと言って、生まれてこの方、魔物というものを見たことはなかった。
しかし、その日の光景はまさにゲームの中のようで。異世界と言われて想像する光景がそのままそこにはあった。
そしてそれは、想像よりずっと恐ろしく、興奮よりも死ぬかもしれないと言う絶望感を与えるような、衝撃的な光景だった。
しかし、その魔物は出現した時と同様、突如として再び空へと戻って行った。何事もなかったかのように、あっさりと。
世界は救われた。驚くことに、魔物に壊された建物のみならず、魔物に殺された人たちも蘇ると言う奇跡のようなオプション付きで。
そしてその数日後、魔導師達がそろってこう証言した。
『“世界樹”が今後は世界を守る。そのため、この先もう魔導師は生まれないだろう。“世界樹”を傷付けることは禁ずる。これは神より授かったモノ。そしてその神より、新たに世界の調整者が定められた。その呼称を、神子と聖騎士とする』
その声明によると、聖騎士に任命されたのは、かつて世界を毒と炎で侵略した魔物“炎毒竜”を討った英雄騎士、ローアル・スクリムであると言う。
そして、もう一人。
神の定めた初代神子は、本来この世界で持つ者はいない、黒髪黒目の色彩を有していると言う話しだった。
俺はそれを聞いて、思い出したのだ。
俺が死んだ日。事故に巻き込まれたあの時。
激しく揺れる車内で倒れるでもなく、血を流すでもなく、突然消えてしまった少女の存在を。
……もちろん、ただの妄想だ。そんな偶然、万が一の確率もないとは思う。
しかし、もしこの先、万が一、俺が神子様と相まみえる機会が来て、そしてその神子が、億が一、明夜様だったとしたら、俺は彼女にどうしても問いたいことがある。
カランコロンと軽快な音を立てるドアベル。新たに客が入って来た。
「いらっしゃいやせ~」
そちらを見ずに、窓から空を見上げる。今日は快晴。
この空の下、同じ星の上に奇跡的に巡り合った俺達が未来にいるのなら、教えて欲しい。
――明夜様は、今幸せだろうか。
俺は、確かにこれで良かったと思っている。
でもやっぱり少しだけ不安だから……。
「すみません」
センチメンタルな気分に浸っていた俺は、客から声をかけられてハッとついてた肘を上げる。
いけないいけない。慌てて前世からのスキル、営業スマイルを浮かべて窓から視線を反らし、前に向き直った俺は見事に固まることになる。
「女性の店員さん、いますか?ウユジのお土産話を聞かせてあげたくて」
豊かな黒髪を揺らして首を傾げた可憐な少女と、目が合う。
唇を戦慄かせ、目を見開いて突っ立ったままの俺に、少女が瞬きをする。
「あの……?」
「あ、あ……」
明夜様。
そう声をかける前に。
彼女の後ろに立っていた長身の美丈夫が、彼女の肩に手を置いた。
「今日はいないようですね。パンだけ買って、また後日来ませんか?」
「そう、だね。じゃあ……」
ケースに並ぶパンに視線を移した少女の後ろから、男が鋭い視線をこちらへ投げる。
恐らく、彼女の髪色に畏怖したのだと勘違いされてしまったのだろう。
我に返った俺は、何度か口を開閉した後、
「女性の店員ってのは、恐らく俺の母親かと思うが……。もうすぐ帰って来るよ。なんだったら、そこの席で待ってるかい?」
精一杯の勇気を出して、そう声をかけた。
少女がパッとこちらを見上げて、その表情を明るくする。
「いいんですか?」
「あ、ああ」
少女が男を振り返って、その腕を軽く引っ張る。
「ローアルは、どれにする?」
途端に、こちらに向けた鋭利な表情は鳴りを潜め、とても優しい笑みを浮かべる男。
「アキヨが選んだものが食べたいです」
――ローアルとアキヨ。
聖騎士と神子。
間違いない。彼女はあの明夜様だ。
見た目はだいぶ変わっているが、面影はある。
パンを手に、飲食スペースに腰かける二人を見つめ、俺は開きかけていた口を完全に閉じ、代わりにふと笑みを浮かべた。
……よお、数分前の俺。明夜様が幸せか、だって?そりゃ、愚問ってやつだぜ。
なぜって?そりゃあ、聞くまでも無く、お前はその答えを知ることになるからだ。
火を見るよりも明らかってやつさ。
――明夜様はこの世界で今、誰よりも幸せそうに笑っているよ。




