魔導師の家
『過度な精神負担による、記憶障害です』
真っ白な部屋の、これまた真っ白なベッドの上で目を覚ました時 、診察しに来た医者はそう言った。
当時6歳。言われている意味もよく分からず、ただ自分が何も持っていないことだけは理解できた。
何も、思い出せなかった。6歳までの記憶も、ここがどこなのかも、なぜここにいるのかも。何も分からなかった。
暫くその白い部屋で診察を受け、数日を過ごした後、今度は違う施設へと移された。
その施設は、親のいない子供が集まる場所だった。そして、とても騒がしい場所でもあった。
夜中でも奇声が止まず、誰かが暴れることは日常茶飯事で、あまり口を開かない者もいれば、常に形を成さない言葉を発し続ける者もいた。
施設には「先生」と呼ばれる大人が数人いて子供達の世話をしていたが、あまり関わることはなかった。恐らく、自分が他の子供より手が掛からなかったからだろう。
施設では比較的、自由な時間が多かった。国語や算数、アルファベットなどを皆で学ぶ時間もあったが、そう言った決められた時間以外は、ほとんど書物庫で過ごしていた。
忘れられたように、施設の庭の隅に建てられた書物庫の中には、所狭しと本が並べられていて、一人の老人がカウンターで眠っている以外に人影はなく、施設の中で唯一、静かな場所だったと思う。そこで読書をするのが日課だった。漢字が分からなかったため、読んでいたのは専ら振り仮名付きの本ばかりだったが。
集団行動の時間以外は、書物庫に向かう。そんな生活を4年続け、10歳になった頃。
『あなたを引き取りたいって方が来られているの』
今まで話したこともない「先生」に呼ばれ、連れて行かれた先にいたのは、白髪混じりの黒髪をきっちりと後ろに撫で付けた、スーツ姿の男だった。
恐らく還暦は過ぎているのに、それを感じさせない真っ直ぐ伸びた背筋。眼光鋭くこちらを射すくめたスーツの男は、真一文字に引き結んでいた口を徐に開いた。
『私は、お前の祖父にあたる者だ。田島の血を引く以上、お前には果たすべき義務がある』
目の前の男が、自分の「祖父」。
ドクンと、心臓が音を立てる。
記憶がないことに当初、戸惑わなかったと言えば嘘になるが、この施設にいる間、そのことに対して悩むことはなかった。記憶を取り戻すにしても、手がかりがなかったからだ。
しかし、この人は恐らく、自分が憶えていない――忘れてしまった「何か」を、知っている。
気付けば、周りに促されるまま祖父の家へ向かう車に乗り込んでいた。
連れて行かれた家は、大きかった。一般的な戸建ての広さがどれ程かは知らないが、恐らく相当広い。
敷地内を車で移動し、下ろされたのは隅にひっそりと建てられた平屋だった。
『お前は道具だ。決して奢るな』
それだけ言い残し、その場を後にした祖父は、結局それっきり、二度と顔を見せることはなかった。
それからは、その平屋から出ることを許されず、ただひらすら勉学を強要された。
毎日、朝から晩まで様々なことを教わる。休むことは許されず、失敗すれば叩かれ、間違えれば罵声が飛ぶ。
無理矢理詰め込まれていく知識の中で、あの祖父が「田島」という大きな企業のトップであること、そして祖父が自分をここに連れて来たのは、別の大きな企業の息子と政略結婚させるためであることが分かった。
しかしそれを知ったからと言って、何が変わるわけでもなく。ただひたすら、与えられるものを受け入れる毎日。
そうして祖父の家に来て4年が経った頃。
――雪の降る、寒い日だった。
唐突に部屋を訪れた教育係の女性は、昼食を摂っていたこちらの様子を意に介さず、事務的な口調で告げた。
『ご祖父様がお呼びです。今すぐご準備を』
質の良い服を着せられ、髪を結い上げ、軽く化粧まで施されて、その全てを抵抗することなく受け入れながら、ぼんやりと使用人達の会話を盗み聞く。
『急にお呼び出しなんて、何の御用なのかしら』
『たぶんあれよ。顔合わせ。話しを進めるならそろそろってタイミングじゃない』
『向こうは16歳ですっけ?大丈夫かしらね~。こんな貧相な子供と結婚するなんて、頷いてくれるのかしら』
『相手のご子息様が可哀想よねぇ』
『ちょっと、そんな結果になったら怒られるのは私達なのよ。少しでも見栄え良くしなきゃ』
準備が終わり、促されるまま車に乗り込む。
――使用人の会話から察するに、これから向かう先に待っているのは祖父だけではないのだろう。
今まで顔すら知らなかった、政略結婚相手。恐らく彼も、そこにいる。
施設から連れ出され、「田島」となった自分の存在意義。
だけどもし、その彼に「いらない」と言われたら……?
ふと横を見れば、こけた頬を誤魔化すために綿を口内に含まされ、血色の悪い肌を厚化粧の裏に隠した自分の顔が車窓に映っていた。
疑念が現実感を伴い、その先を暗示しようと訴えかけてくる。
意志とは関係なく膨らむ思考。それから逃れるように窓の外へ視線を移し、流れる夜景をぼんやりと眺めた。
その時だった。
――――キキイイイッ!!
鋭いブレーキ音と、タイヤの摩擦する耳障りな音が響いた。
運転手の叫び声をどこか遠くに聞く。
車の窓ガラスが割れ、眩しい光が視界を覆う。その全てが、スローモーションのように見えて――。
その時、その瞬間。
心のどこかで微かに、しかし確かに感じたのは、絶望でも、悲哀でも、後悔でもなく――――、
解放感、だった。
ふわり、意識が浮上する。
なんだか長い夢を見ていた気がする。懐かしい昔の夢。
そう確か、日本にいた頃の――。
……いた頃?
はっと目を開き、体を起こそうとする。しかし頭に鋭い痛みが走り、目眩がして、再び沈んだ体。
そこでふと違和感を覚えた。床が柔らかい。いや、これはベッドだ。
随分久しぶりに感じる、そのふかふかとした感触に戸惑う。
そう言えば、妙に辺りが明るい。あの薄暗い地下室ではない。木の良い匂いがする。
見上げる天井には木の目があり、そこからぶら下がっているランプが柔らかい光を発している。
ゆっくり辺りを見回せば、木材で作られた家具が幾つか見えた。
紙や本が散乱している机と、開け放された大きな窓。外が明るい。日の光を見るのはいつ以来だろうか。やけに眩しく感じて目を細めてしまう。
壁沿いに置かれた棚には、本や瓶が綺麗に並んでいる。部屋には扉が一つあり、その上には小さな壁掛け時計が振り子を揺らし、時を刻んでいる。数字は書かれておらず、蔓のように曲がった一本の針が左下を指していた。
……ここはどこだろう。生活感のある部屋を見る限り、誰かの家のようだが。
呆然と、窓から吹き込んでくる爽やかな風を感じていると、微かな音を立てて扉が開き、長い尾を持つ真っ赤な鳥と一人の少年が、部屋に入って来た。
パチリと目が合うと驚いたように動きを止めたその少年は、真っ白な髪に金色の瞳という、神秘的な見た目をしていた。その綺麗な色彩に状況も忘れて見入ってしまう。
お互いに暫し無言で見つめ合った後、すぐに我に返った少年がその表情を緩ませた。
「初めまして。そしておはよう。良かったよ目が覚めて。十日間も昏睡状態だったんだよ」
そう言いながら近付いて来た少年は、ベッドの近くにある小さな机に本を置き、こちらに笑いかける。
「あ、喉渇いてない?これ、モレのお茶。自分で飲めるかい?」
確かに喉は渇いている。差し出されたマグカップをありがたく受け取り、少しだけ体を起こした。
お礼を言おうと口を開くが、なぜか声が出ない。声帯を痛めているのかもしれない。
お茶を口に含み、ゆっくり飲み込むと、焼けるような痛みが喉を走る。
「大丈夫?どこか痛い?」
こちらを窺う少年に喉を抑えてみせると、納得したように何度か頷いた。
「喉……、声帯かな。回復魔術をかけるね」
少年が指先をこちらに向け、何か呟いた。途端にじんわりとした心地良い熱が喉に広がる。
そうして暫くすると、熱と共に痛みが引いていくのが分かった。
「……ありがとう」
するり、言葉が出る。
少年は少しだけ目を見開くと、すぐに笑顔で頷いた。
「改めて、僕はヘル。ここは僕の家だよ」
ヘル、と名乗った少年は、続けて窓際に留まっている赤い鳥を示した。
「あの鳥はムゥ。僕の家族だ」
紹介されたムゥは、答えるように翼を広げた。日光に当たり、綺麗に煌めく朱色。とても美しい鳥だ。
「ここに来る前のことは、憶えてる?」
問いかけられ、ゆっくり頷く。
脳裏に浮かぶのは、白衣の人間、地下室、調合物、笑う女、眼鏡の男。
――そして、暗闇。
「っ!!」
反射的に耳を抑える。神経を逆撫でするような、ひどく不快な音が聞こえた気がした。
背中に嫌な汗が滲む。
「落ち着いて、大丈夫。……ごめんね。嫌なことを思い出しちゃったよね」
ギュッと手を握られ、はっと我に返る。顔を上げると、眉をハの字に下げたヘルと目が合った。
……そうだ、ここはもう研究所ではない。上がりかけた呼吸を落ち着けようと、ゆっくり息を吐く。
ぼんやりと覚えている。意識を失う前に見えたのは、淡い金色の髪と、冬の夜空のような瞳。
あの人が、助け出してくれたのだろうか。
「気休め程度かもしれないけど、モレの茶葉には、精神を落ち着かせる作用があると言われているんだ。全部飲んじゃっていいからね」
思い出したようにそう言われ、持ったままだったマグカップを見下ろす。中にはクリーム色の液体が入っており、仄かに甘い匂いがする。
改めて一口飲んでみると、少しの酸味と、優しい甘味がフワリと広がり、目を瞬かせる。
「おい、しい」
「よかった!お茶入れるのは自信あるんだ」
自慢げに鼻を掻くヘルに、強張っていた肩から力が抜ける。
フワリと舞う風に揺れる、さわさわという葉の音。毛繕いをしているムゥの爪の音。窓際に止まった小鳥の鳴き声。日に照らされた明るい部屋。
“安穏” をそのまま体現したかのような空間に、安堵するより先に呆然としてしまう。
「落ち着いた?」
気遣うように声をかけてくるヘルに、小さく頷く。
「体調が大丈夫そうなら、状況を説明しちゃおうと思うんだけど、どうかな?」
問いかけられ、それにもまた一つ頷き、了承を示す。
「体調悪くなったらすぐに言ってね。……それじゃあ早速で悪いんだけど。まず、大前提から」
と、そこで一旦言葉を切ったヘルは、神秘的な金色の瞳でじっとこちらを見つめ、ややあと徐にその事実を告げた。
「ここは、地球じゃない。別の次元にある、ウホマトンケという異界なんだ。理由は分からないけど、君は地球からこのウホマトンケに、次元を越えて転移してしまった」
「……」
「……あれ、もしかして知ってた?」
無反応なこちらを見て、パチパチと瞬きをするヘル。
……知らなかった。だけど、予想はしていた。初めから、おかしいと感じることは多々あった。
明らかに日本ではない場所で、言葉が通じることも。古めかしい階級に縛られた、身分制度も。屋敷で見た、異形のコレクション達も。魔術と呼ばれる、手品のような現象も――。
どれもこれも、不可解な事実。
「この世界には魔術と呼ばれる力があるし、精霊や亜人、魔獣と呼ばれる人間以外の種族も存在する」
考えても分からないからと放置していた違和感に、答えが与えられていく。
なぜだかそれに、逃げ場を失うような、大事な何かを失ってしまうような不安感を覚えた。
「異界から来た人間は、僕の知る限り君が初めてだ。だから、元の世界に帰れる方法も今のところない。そもそも前例がないからね」
ヘルが真剣な表情で、こちらを見つめる。
「そこで一つ、確認しておきたいんだけど。君は、元の世界に帰りたい?」
その問いかけに、はくりと空気を呑んだ。
――お世辞にも、この世界に残りたいと言えるような境遇ではなかった。
だから、ここで帰りたいと答えるのが普通なのだろう。
だけどなぜか、その一言が声にならなかった。
「……私には、ここにいる、理由がない」
「君がいた世界には、その理由があるの?」
「ある」と、そう動かしたはずの唇から、声が出ない。
思い出すのは、朧気に記憶している祖父の姿。
そう、日本に帰る理由ならある。祖父の「道具」としての責任を、自分はまだ果たし終えていない。
だから日本に帰りたい。帰らなければならない。
それが今の自分に残された、唯一の “存在理由” なのだから。
「理由が欲しいなら、あるよ」
不意に、まるでこちらの思考を読んだかのようなタイミングで、ヘルがそう言った。
いつの間にか俯けていた顔をゆっくり上げる。
「こっちに来てから碌な経験してないだろうし、帰りたいと思うのが普通だとは思うけど、もし君がこの世界に留まる理由が欲しいと言うなら、あるよ。それも、とっておきのがね」
この世界にも日本にも、己の存在理由があるとして。
そうなった場合、どちらを選ぶ?
分からなかった。
なぜすぐに、日本へ帰ると言えなかったのか。
自分が何を望んでいるのか。
分からなかった。
だって今まで一度も、自分で何かを選択することなんて、なかったから。
黙り込んだこちらの様子を見兼ねてか、ヘルが肩を竦めてみせる。
「まあどちらにせよ、地球とこっちを繋ぐ方法は探すつもりなんだけどね」
「――ごめん、なさい」
「え、何で謝るの?むしろ、謝るのはこっちの方だよ」
言うが早いか、椅子から立ち上がったヘルは、
「これは僕の自己満足だけど、この世界の人間として謝らせてほしい。本当にごめん」
ごめんなさい。そう言って深々と頭を下げた。
ポカンと、その小さな旋毛を見つめる。
自分が謝ることはあっても、謝られたことなどなかったため、状況を飲みこむのに数秒かかった。
しかしすぐ我に返り、意味もなく手を上下に振りながら、慌ててヘルの方へ身を乗り出す。
「か、顔、あげて。ヘルが、謝る理由、ないから」
そう言って何とか止めるように説得したが、それからしばらく、ヘルが姿勢を戻すことはなかった。