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薄幸少女と英雄騎士  作者: 小林あきら
第五章 魔法の国
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野獣と魔物

ツキ・ネフェイマルさん。魔術研究所でアキヨに餌付けしていた女の人です。



 ツキ・ネフェイマルは激しく後悔していた。



 両手を壁の手錠にかけられ、まるで磔のような形で身動きを封じられて数日。


 ここへ来てから水分しか取れていない。体もそろそろ限界だ。



 ……こんなことになったのも、何もかもアイツのせいだ。


 ツキはギリギリと歯を食いしばった。






 ツキ・ネフェイマルは、元々貴族の娘だった。


 しかし金遣いの荒かった親は、借金返済のために魔術研究所へツキを売った。


 一度入ったら、例え研究員でも出ることは叶わないと噂されるケダトイナの魔術研究所。実の親により牢獄へと捨てられたツキは、胡散臭い笑みを浮かべる『所長』に迎え入れられ、その研究員の仲間入りを果たした。


 ツキは、表向きは従順に、言われた通りに物事をこなした。――例えそれが、人道に反する犯罪行為であったとしても。


 そうして、虎視眈々と出し抜く隙を窺っていたのだ。




 『所長』は魔導師だった。


 膨大な魔力と、研究者としては申し分ない頭脳を兼ね備えた彼は、その才能を間違った方向に駆使していた。


 『所長』がなぜこんな研究をしているのか、実のところ誰も知らなかった。――否、誰も知ろうとしなかった、と言うのが正しいのかもしれない。


 研究所で働くのは身元のない孤児か、ツキのように借金の形に売られた者ばかり。それ故、誰もが従順だった。


 逆らわなければ、最低限の衣食住は保証されている。暴力を振るわれるわけでもない。むしろ“仕事”さえしていれば、穏やかな日々は確約されている。そこに、やりがいを求める者などいはしない。




「冗談じゃないわ」


 しかし、ツキはこんな生活を続けて死ぬなんて真っ平だった。


 折角、堅苦しい貴族社会から解放されたと思ったのに、今度は牢獄のような犯罪施設で働き続けなければならないなんて。


「冗談じゃないわよ」


 与えられた個室で、食事用に添えられたナイフを机に突き立てる。


 絶対にこんな場所、出て行ってやる。そして、自由に世界を見て回るんだ。


 それは小さい頃に、世界中の美しい景色を描いた絵画集を見てから抱き続けている、ツキの密かな夢だった。



 そうして、隙あらば逃げ出すタイミングをうかがっていたツキだったが、その日は前触れなく訪れた。






 突如、何の音沙汰もなく『所長』が消えたのだ。


 最初、どこかへ出かけていて、すぐに帰ってくるだろうと気に留める者は少なかった。


 しかし、10日経ち、一月が経ち、貯蔵庫の食料が段々と少なくなってきた頃、やっと皆が確信した。


 『所長』はもう、戻ってくることはないと。



 研究所内は騒然となった。


 そして段々と、不安と期待の声が上がり始めた。



 ツキはもちろん後者だった。


 嬉々として混乱するその場を放って出口へ駆ける。



 しかし、


「!?」


 外へ一歩を踏み出そうとした瞬間、バンッという大きな衝撃と共に体が跳ね返される。


 尻餅をついて呆然とするツキだったが、すぐに理解した。



 『所長』はいない。だが、研究員を外に出さないために張られた結界は健全であると。



 出口への扉を見つめたまま固まったツキの横を、一人の少年が通り過ぎた。


 その顔を見て、ツキは反射的に眉を寄せた。


 銀縁の眼鏡をかけたツキと同い年くらいの少年。元奴隷である彼は、『所長』に心酔する数人の内の一人だった。



 迷いない足取りで扉の前まで歩み寄った彼は、そのまま何の抵抗を受けることもなく、そのまま外へ踏み出した。



「え?」



 思わず声を漏らすツキを、無感動な目で振り返った彼は、業務連絡でもするように淡々とした口調で宣言した。


「前所長から業務を引き継いだ。これからは私が所長だ」



 後で分かった事だが、外に出れるのは所長となった彼を含め、『前所長』に心酔していた数人だけだった。


 つまり、ツキは『前所長』に見抜かれていたのだ。隙あらば逃げ出そうとする、自身の反発心を。






 それから、ツキは全てを諦めた。


 研究所から出ることも、夢を叶えることも、何もかも。


 全てを手放して、そして全てを受け入れた。




 ――だから、まさかこんなふうに外に出ることが叶うなんて、思ってもみなかったのだ。




 騎士団が乗り込んできて、その衝撃でなのか何なのか、結界が破られた。


 それに気付いた瞬間、考えるより先に体が動いていた。



 自分の部屋へ飛び込んで、机の引き出しの奥の奥に仕舞いっぱなしになっていた転移陣を引っ張り出す。


 研究所へ売られると決まった日、早々にとんずらしてやろうと思っていたツキが、研究所へ持ち込んだものだった。


 実際入ってみれば結界に阻まれ転移できないことに気付いたわけだが、捨てずに机の中に仕舞いこんでいたのだ。過去の自分の執念に思わず感謝する。



 ツキは、転移陣を迷わず発動させた。


 今度は問題なく魔陣は作動し、気付いた時には研究所へ来る前から計画していた場所――ウユジ共和国へツキは降り立っていた。



 ――そして、もう一人。横を見れば、ガタイの割に存在感が全く感じられない大男が隣りに立っていた。


 彼は、『前所長』がいなくなった後に現所長が連れてきた元戦闘奴隷で、『前所長』心酔派以外で唯一結界の影響を受けずに研究所を出入りできる存在だった。


 恐らく、ツキの転移陣に便乗して一緒に転移してきたのだろう。


 転移する直前、肩に何かが触った気がしたが、彼だったか。


 強張っていた体から力を抜き、その巨体を見上げる。



「一緒に来る?」


「……」



 そうだった。彼は喉を潰されていて、喋ることができないのだった。


 しかし、重々しく一つ頷いて見せる彼に、案外悪くない連れができたかもしれないと、ツキはほくそ笑む。


 そして、愉快な気分をそのままに高らかな笑い声を、青空に向かって響かせたのだった。





 まさかその後、元研究対象と母国の英雄に鉢合わせするなんて思わなかったが、そんなハプニングさえ今となっては些事であると思えるほど、ツキは充実した日々を送っていた。


 ずっと憧れていた夢を叶えるため、各地を転々としながら、時に路銀を稼ぐために作った薬を売る。もちろん真っ当な治療薬だ。


 そして病気が治ったと喜ぶ人の笑顔を見て、微かに燻る罪悪感を紛らわす。


 そうして、お金が貯まったら、また心向くままに旅発つ。




 だから、ホマーノ王国を訪れたのも、何か明確な理由があったわけではない。


 敢えて言うなら、たまたま。偶然と言うやつだった。






 元研究者としては見どころのありすぎる街並みを忙しなく見回していた時、視界の端にとらえた見知った姿。


 その男は、すぐに裏路地の方へ曲がり、もうすでに見えなくなっていたが、気付いたら足がそちらへ向いていた。



 研究所から何だかんだずっと一緒にいる旅の連れが、戸惑ったようにこちらを見るのを感じて、僅かに残った理性が自身の口を動かす。


「少し、別行動しましょう。ついてこないで」




 なぜ、後をつけようと思ったのか。単なる気紛れか、はたまた好奇心旺盛な性質故か。ただ、衝動に突き動かされるように、足が動いていた。



 ……今なら分かる。あの時の自分は冷静ではなかった。脳裏に浮かんだこれまでの記憶が、らしくない行動を起こさせたのかもしれない。



 ただ、そう。確認したかっただけだ。


 自分達を捨てたあの男が、今何をして過ごしているのを。その結末を。




 しかし、途中で――否、恐らく最初から奴は気付いていた。




 男を追って裏路地に足を踏み入れた瞬間、ツキの足元で転移陣が発動し、気づいたら石壁で囲まれた冷たい部屋の中にへたり込んでいて、その目の前には見知った顔――『前所長』が相変わらず貼り付けたような笑みを浮かべて立っていた。



「久し振りだね、ツキ。研究所は取り押さえられたと聞いたけど、君はその難を逃れたようだね」



 柔和にも見える笑みを浮かべ、穏やかな声音で朗らかに話しかけてくる『前所長』に、ツキは戦慄した。



 昔から言ってやりたいことはいっぱいあった。なのに、いざ対してみれば、何の言葉も出てこない。


 そんな自分に戸惑い、我に返るのが遅れた。




「っがは!?」


 その数秒が命取りになることもある。


 鋭い痛みが腹に走り、遅れて『前所長』に蹴られたことに気付いた。


 蹲るツキの襟首を持って引きずり、壁に付いている手錠を抵抗する間もなくつけられる。



「申し訳ないけど、思い出話をしている暇はないんだ。こう見えて忙しくてね。事が終わるまで、ここで大人しくしててくれるかい」



 そう言って、ツキが息を整えている間にさっさと部屋を出て行った『前所長』。


 じゃらりと鳴る鎖の音が自棄に大きく響く。


 くそっと吐き出した悪態は、自身の荒い息に飲まれて掻き消える。




 人間を実験道具以上に考えない男がやることだ。


 状況は絶望的。恐らくこのまま放置して餓死させる気だろう。



 だが、こんな終わり方は真っ平御免だ。唇を噛む。今まで何のために生きてきたと思っている。


 少なくとも、こんな死に方をするためではない。




 数日は自身の水属性に助けられ、水分補給で延命していたが、それも徐々に難しくなってくる。食事をとっていないせいで魔力の回復が追い付かなくなってきたのだ。


 さらに数日が経つ頃には、いよいよ魔力枯渇も目前と言うところまできてしまった。



 今までのツケが回って来たのだろうか。


 心のどこかで感じていた罪悪感。


 必死に見ない振りをして自由を謳歌していたが、それがいけなかったと言うのか。


 人を、動物を傷付けてきた自分が、幸福を享受することなどやはり許されないのか。



 ――しっかりしなさい!ツキ・ネフェイマル!


 いけない、精神が疲弊している。首を横に振って深呼吸をする。



 と、その時だった。



 聞こえたのは、大きな破壊音。


 同時に、壁がパラパラと若干崩れた。



 驚き顔を上げる。周りを瞬時に窺うが、暗闇に慣れた目に、異常は映らない。


 恐らくここからまだ距離がある場所で、何かが起こっている。



 再び、破壊音が響いた。さっきより近い。こちらに近付いて来ている……?



 ――バンッドガンッ!!


「!」


 派手な爆発音と煙に塗れ、壁を崩して現れたのは、ツキもよく知る有名人だった。



「あ、あなたは……」


 思わず漏れた声に反応して、ゆらりと彼の視線がこちらを向く。


 知り合いに出会えた安心感で弛緩した身体が、すぐに異変を察知して再び強張る。



 おかしい。明らかに様子が変だ。


 こちらを向く男の瞳孔は完全に開き切り、まるで魔物のような禍々しさを纏っている。まるで理性を失った獣のようなその姿に、ツキはゴクリと生唾を飲みこむ。



 ――ドガンッ!!


 唐突に、ツキの真横の壁が崩れ落ちた。


 男がその長い脚で、鎖ごと壁を破壊したのだ。……おかげで片腕を犠牲にしたが、手錠は外れた。



 しかし、一難去ってまた一難。目の前の男は、どうやら味方ではないらしい。



「……ごきげんよう。貴方は随分、ご機嫌斜めのようね」


「アキヨをどこにやった」


「?」


 理性を失った野獣のようでありながら、その声はひどく淡々としていた。しかし、それが却って不気味だとツキは思った。


「あ、アキヨ?知らないわよ。彼女、まだ貴方と一緒に行動しているの?」


 ツキの質問には答えず、男はまるで獲物を見定めるようにこちらを睥睨した後、すぐに興味を失ったようにフイと視線をずらし、ゆらりと歩き出してしまう。


「ちょ、ちょっと」


 すぐにその後を付いて行く。この男が味方じゃないにせよ、こちらは満身創痍の状態だ。自力でここから抜け出すほどの余力もない。


 しかし、この男――ローアル・スクリムなら、きっとここに張られている結界を破って外に出られるはずだ。魔力が尽きかけている今、彼を頼る他に、もう方法はなかった。




 やみくもに目の前の壁をドカドカ壊して進む彼に、思わず声をかける。


「そんなんじゃ出口には出れないわ。魔力のむだ――」


 ヒュンッと耳元で風が鳴った。


 どろりと血の流れる感覚が頬を伝い、息を呑む。


 前を歩いていた男――ローアル・スクリムが振り向きざまに、こちらへ攻撃魔術を放ったのだ。


 もし咄嗟に顔を横に反らしていなかったら、死んでいた。


 どっと冷汗を流すツキの様子を、無機質に眺めるローアル。



「喋るな。殺したくなる」


「っ」



 再びゆらりと歩き出した彼の様子は、まるで生き場所を失った浮遊霊のようだ。


 ツキは息を詰めてその後に続きながら、本当に彼はケダトイナにいたあの英雄と同一人物なのだろうかと、己の目を疑わずにはいられなかった。それほど、今の彼の様子は異常だったのだ。




 ローアル・スクリム。救世の英雄。老若男女から羨望を集める、生きた伝説。


 若くしてケダトイナの王属騎士団に入団し、あっという間に騎士団長へと上り詰めた稀代の天才。


 加えて名門貴族の出とあれば、それだけで十分持っていると言えるのに、加えて『高嶺の月』と称させる美貌も合わされば、社交界で引っ張りだこになるのも頷ける。


 浮ついた噂一つなく、婚約者すらいない彼の横を狙う女性は、国内外に数知れず。完璧とはこういう人のことを言うのだと、誰もが口を揃えて称賛する存在。


 全て又聞いた噂に過ぎないが、普段まったく町へ行くことのなかったツキにさえそう言った情報が入ってくるほど、この男は誰もが憧れる、そんな人物であったはずだ。




 それが、目の前にいるこの男はどうだ。


 まるで理性を失った獣。完璧どころか知能が働いているのかさえ怪しい。完全に前後不覚になっている。


 本当、意味が分からない。一体何が起こっているのだろう。



 まるで壊れた人形のように少女――アキヨの名前を呟きながら、フラフラと歩き続けるローアル・スクリムの姿に、ツキは自分の体が震えていることに気付き、折れていない方の腕で身体を強く押さえつける。


 しっかりしなくては。これは千載一遇の機会なのだから。



 さて、自分が死ぬのが先か、目の前の壊れた英雄が出口を見つけるのが先か。


 どちらにせよ、英雄が崩し続けた壁のせいで、この建物はもうそう長くはもたないだろう。


 変わらず未来は絶望的。しかし、あそこに繋がれたまま朽ちるよりよっぽど良いと、ツキは必死にローアルの後に続いた。






 この要塞のような地下牢には、入れた者を閉じ込める結界が張られている。ケダトイナの魔術研究所に張られていた結界と同じものだ。


 破壊するには、より大きな魔力で空間をさらに歪めて結界を破るしかない。



 ――そして、それは唐突に起こった。



「っ!」


 ガラッと崩れたその壁の向こう。フワリと頬を撫でた“風”に目を見開く。


 そう、風である。つまり、ついに外に出れたのだ。




 恐る恐る、大地を踏みしめる。結界は問題なく破られたようだ。


 壊しまくった過程で破れたのか、それとも、結界内で魔術を使いまくっていた英雄の魔力に結界が耐えられなくなったのか――。いや、どちらでもいい。


 とにかく外へ出れたのだ。



 思いっきり深呼吸をし、状況も忘れて笑みを浮かべたツキだったが、すぐにその頬をひくりと引き攣らせた。






 最初は夜空かと思った。


 キラキラ光る星が、何だか今日は良く見えると。



 ――しかし、すぐに違和感に気付く。


 星が蠢いている。否、星ではない。あれは……。



「ま、もの」



 空を覆いつくす魔物の群れだった。


 言葉を失くし、茫然自失で空を眺めるツキの様子に気付くことなく、フラフラと外へ出て来たローアルは、何かを探るようにゆっくりと周りを見回す。


 しかしすぐに盛大な舌打ちをして、同時に足元に魔陣を展開した。



「ちょっ、待っ!」


 ここでローアルと離れるのは困る。


 空の魔物が地上に降りて来る様子はないが、それでも異常事態に変わりはない。


 万が一襲われたら、例え下級の魔物であっても、満身創痍な今のツキに勝ち目はない。


 牢獄から抜け出せたと思ったら、次は魔物の群れとは。こんなに最悪な事があるだろうか。



 慌ててローアルへ手を伸ばしたツキだったが、次の瞬間。


「邪魔だ」


 魔物の群れを一睨みし、発動した魔陣で空中へ浮かび上がったローアルが、剣に魔力を乗せ、一振りした。



 真っ直ぐ、閃光が魔物の群れを分断するようにヒュンッと伸びる。


 その瞬間、昼間かと錯覚するほどの眩い光が空を覆いつくした。



「なっ!?」


 その光景を、ツキは呆然と見つめる。


 見渡す限り果てなく空を覆っていた魔物の群れが、一瞬で掻き消えていた。


 ……あり得ない。魔物は決して弱くはない。例え低級のものであったとしても、一匹退治するのに少なくとも2名以上の戦力が必要と言われている。


 しかし、ローアル・スクリムは。それを剣一振りで、目測数百の魔物を言葉通り瞬殺したのだ。しかも、あれだけ上級魔術を連射した後にも拘らず。この男の魔力は底無しか。



 突然の攻撃に、中断された黒い川の端が大きく蠢くのが見えた。どうやら異変に気付いた魔物たちがこちらへ標準を定めたらしい。


 今世界がどうなっているのか、状況は相変わらず読めないが、歴史を揺るがす大事件が起こっていることは間違いない。しかし、頼りの英雄様はツキを振り返ることもなく、そのままどこかへ飛んで行ってしまったし、所持していた魔陣は、『前所長』に捕まった時に奪われてしまった。



 再度、空を見上げたツキは、放心したように突っ立ったまま、しばらくその場から動くことはなかった。



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