フラグ回収
「フラグ」がどういう意味か思い出したのは、すでにそれを「回収」した後だった。
一人で裏町の閑散とした通りを歩きながら、ふと思い出したのだ。
そうだ、小説読解の問題文だ。そこに「フラグ」という単語が出てきたんだったなと。――今思い出してもどうしようもないけれど。
さて、どうしてアキヨが裏町に一人で佇んでいるのかと言えば、事は数時間程前にさかのぼる。
今朝、起き上がったアキヨに、ローアルはどこか思いつめた面持ちで最終確認をした。
「……アキヨ、裏街に行きたい気持ちは変わってないですか?」
「うん」
「そうですか……」
即答するとへにょっと眉を下げたローアルだったが、外に出る頃には諦めたのか、いつもよりきりっとした表情でアキヨを見つめながら、裏町に行くまでの道中、どれだけ裏町が危険なところかを言い聞かせ、「手を離すな」と三十回くらい言われた。
そうして、辿り着いた裏町。アキヨは、表町との違いに少しだけ驚いていた。
いかにも観光地という風に、綺麗に整えられていた表町とは違い、いつぞやの教材で見たような、貧困に喘ぐ街の様子がそのままそこにあったからだ。
やせ細った人々が生気のない顔でこちらを見ている。土埃に汚れた顔や服。地面にそのまま寝転ぶ人々。傾いた屋根とボロボロの土壁で作られた家々。中には布を木の棒で支えただけの、家と呼べない軒下で身を寄せ合う人たちもいた。野良犬さえもやせ細っている。思った以上に厳しい環境のようだ。
もちろん場所によって少しマシな地域だってあった。裏町にも多少は貧困差があるようだ。しかし、どこか冷たく張り詰めた雰囲気はどこにいても消えることはなかった。
「どこの国にも貧民街はありますが、ウユジはその範囲が大きいんです」
低い声で、静かにローアルが言う。曰く、国の7割がこのような状況らしい。
道の途中、怒鳴り声や悲鳴、何かが割れる音が聞こえることもあった。治安が良くないというのは本当らしい。
また聞こえてきた怒鳴り声にそちらへ視線を遣り、思わず「あ」と声が出た。
「ローアル」
「はい?」
「あの子、助けたい」
手を繋がれているため、単独行動は厳禁だ。指差した先を見たローアルは、一瞬戸惑うようにアキヨと指差した先を交互に見たが、すぐに「分かりました」と頷いた。
「では失礼します」
一言断りを入れ、ローアルはアキヨをひょいとその腕に抱えると、怒鳴り声が聞こえた方へ走り出した。
細い路地の先、追い詰められた男の子と、何か物を振り上げた男の人が見えた。
そこに真っ直ぐ突っ込んでいったローアルは、足音に気付きこちらを振り返った男の腕を片手で捻り上げ、掴んでいた物を落とさせ、その一瞬後にはその項に手刀を入れ、意識を刈り取った。
アキヨはローアルの腕の中から尻餅をついたままこちらを唖然と見上げている男の子を見て、やはりと頷く。
その子は表町で見た、薬屋から追い出されていた男の子だった。
「あ、なんで……」
呆然としたまま、何とかそれだけ絞り出した男の子。
あなたに聞きたいことがあって――、とアキヨが言うより先に、ローアルが口を開いた。
「旅行客なのですが、道に迷ってしまいまして。誰かに聞こうと思った矢先にあなたが追いかけられていたものですから」
「……」
「表町の入り口まで案内していただけませんか?」
怪訝な顔でこちらを窺う男の子にローアルがそう言うと「まあ、いいけど」とぼそっと男の子が答えた。
「あんたらここの国のもんじゃないだろ。何しに来たんだよ」
「この国の魔導師に会いに来たのですよ」
サラリとそう言うローアルに、男の子はまたしても怪訝な目を向ける。
「あれは噂だろ。こんな国にいるわけない。いたらウユジはもっと良い国になってるはずだ」
男の子の言葉に首を傾げる。どういう意味だろう。
「……まあ例えいたとしても、ウユジはこのままな気もするけどな」
鼻で笑う男の子は、少しだけ警戒の取れた表情でこちらをじろじろと見る。
「お忍びってやつか?それともまさかウユジに住む気か?」
「ウユジは住民権の取得がいらないそうですね」
ローアルが否定も肯定もせずそう言うと、男の子はウユジに住む気だと誤解したようだ。
「はっ!物好きなお貴族様だな。何かやらかして島流しにでもあったのか?」
「お貴族様?」
アキヨがオウム返しに聞き返すと、男の子は呆れたようにこちらを見遣る。
「そんな良い服着てるやつは、表町の奴らでもそういねえよ。どんな事情か知らねえけど、ウユジに住む気ならもっと安っぽい服にしねえと人攫いにあうぞ」
「そうなんだ」
ヘルとローアルがそろえた物だったが、思ったより良い服を着ていたようだ。
自分の服を見下ろし神妙に頷いて見せたアキヨに、男の子は毒気が抜かれたような表情で頭を掻く。
「そうなんだってお前……」
「お母さんは、病気なの?」
「は?」
脈略も何もないアキヨの質問に、男の子はぐっと眉を顰めた。
「表町で、そう言ってたから」
「……ああ。お前見てたのか。言っとくが嘘じゃねえぞ。本当に病気で……。なのにあのクソ野郎っ」
男の子はとても悔しそうに唇を噛み、そう吐き捨てたが、すぐに晴れやかな笑顔になった。
「だけどもう大丈夫なんだ。今日、兄貴が医者を連れ帰ってくれたんだ!女で変な奴だったけど……。腕は確かだって兄貴も言ってたし。うん、変な奴だったけど……」
すっかり機嫌が良くなった男の子は、キラキラと瞳を輝かせて無邪気に言った。
「兄貴は俺らのためにケダトイナで仕事してたんだ。俺、いつか母ちゃんも連れてケダトイナで暮らすんだ。それで騎士になる!ケダトイナの騎士になるのが俺の夢なんだ!」
「なんで、ケダトイナの騎士なの?ウユジではなれないの?」
「はあ?ウユジに騎士制度はねえよ。軍すら存在しねえんだから。それにケダトイナの騎士っつったら世界中の憧れだろ!強くてかっこよくて……。それに英雄がいるじゃねえか!」
男の子は鼻息荒く熱弁し、自慢げに言葉を続けた。
「俺、英雄騎士に会ったことがあるんだ。何年か前にこの裏町にケダトイナの犯罪者が逃げ込んで、それを追ってケダトイナの騎士が乗り込んできたことがあって、それがあの英雄で……。それからずっと、俺の憧れなんだ」
頬を上気させ、夢見る顔で、男の子はその名を口にした。
「英雄ローアル・スクリム。まじでかっこいいよな!」
思わず隣りを歩く男を見上げる。
目が合った彼は、フードの奥でいつものようにニコリと笑った。
「その、……英雄って?」
男の子に視線を戻し恐る恐る聞くと、大きく目を見開いてこちらを見た彼は、大げさに身を仰け反らせた。
「嘘だろ!?お前、あの英雄騎士を知らねえの!?どんな辺境から来たんだよ!?」
「そんな有名なの?」
「有名なんてもんじゃねえよ!知らねえのは生まれたての赤子とボケた老人くらいだぞ!」
「……」
「あの炎毒竜を一撃でやっつけた英雄だろ!被害が出なかった国はなかったって話だったけど……。お前相当な箱入り娘なのか?」
興奮した様子から一転、憐れむような目を向けてくる男の子にどう答えていいか悩む。
黙り込んだこちらに、男の子も何か思うところがあったのか、ことさら優しい声音で誤魔化すように言った。
「ま、まあ知らなくてもいいことってあるよな。いや、これに関しては知ってた方がいいとは思うけどよ。世界を救った英雄なんだからな!」
まさか目の前に当の本人がいるなんて思いもしない男の子は、それからどれだけその英雄が伝説を残したのかを延々と語ってくれた。
曰く、軽く町一つ分の大きさはある竜の首を一刀両断しただとか。この世界の技術発展に大きく寄与した『祝福の魔導師』とは旧知の仲で、他の魔導師達も彼の英雄には一目置いているだとか。敵国との戦争で英雄一人に一千の兵が敗れただとか、その強さを見込まれ敵国に勧誘されて断っただとか。それだけの武勲を立てながら決して奢らず微笑むこともせず、酒も女も買わないストイックさとその美貌故に国内に留まらず諸外国からも縁談が殺到し、一時期ケダトイナの郵便物の8割が英雄宛のものだったとか――……。
「今はケダトイナで騎士団長してるって話だぜ。23歳って若さでそこまでのし上がるなんてすごいよな!俺、いつか英雄の部下として働くのが夢なんだ!」
「……詳しいんだね」
「こんなもん常識だっつうの」
フンッと鼻を鳴らした男の子に、曖昧に頷く。
まだ何か続けようとしていた男の子は、道の先に誰かを見つけて、「あ」と声を上げた。
「兄貴!」
そう言って駆け出した彼の目線の先を辿り、その先にいた人物を見て、アキヨは目を見開いた。
「お前今までどこで何して……」
男の子の姿を見て眉を寄せた男が、こちらを視界に入れた途端、目を見張る。
「あ、あんたたちは……」
その男は船で会った、頬のこけた不健康そうな男だった。
「どうぞ。狭いですが」
船で会った男の名はビゾン、その弟であったらしい男の子はヤソンと名乗った。
ビゾンはこちらに愛想笑いを浮かべながら、自らの家に掌を向けた。
ヤソンを探していたらしいビゾンと再会した後、唐突に「ビゾン達の家について行きたい」と言い出したアキヨに、その場の全員が戸惑い、特にローアルが存外強く難色を示した。
「長居は危険です。お話ならこの場でも――」
「お願い、ロ……」
ローアルと言いかけて、ヤソンの前だからと、慌てて口を噤む。
そして何と呼びかければ良いか悩んだ末、ふと出発前のヘルの言葉を思い出したアキヨは、その単語を口にした。
「お願い、お、お兄ちゃん」
言い直したアキヨの前から、突然ローアルが消えた。
と、思ったら蹲っていた。
「ロ……お兄ちゃん?」
「す、すみませんっ。ちょっと――、破壊力が強くて……」
胸元を掴み、しばらく苦しそうに息をしていたローアルだったが、しばらくして何事もなかったかのように立ち上がり、先程の苦言はどこへやら、あっさりと彼等に着いて行くことを了承してくれた。
その顔は少しだけ赤らんでいて、何かを耐えるようにぎゅっと口を結んでいた。
そしてその一部始終を見届けていた兄弟二人は、なぜか引き攣った表情を浮かべながら「何もお構いできんが、それでも良いなら……」と案内してくれることになったのだった。
彼らの家は、裏町の中でも比較的大きな通りの中に、ひっそりと建っていた。
年季を感じる造りだが、雨風を防げるちゃんとした家だ。一間しかない小さなところだったが、小綺麗にしている。
その一間に、薄い布団の中で荒い呼吸を繰り返す女の人が寝ていた。恐らく病気のお母さんだろう。土気色の顔に、ひび割れた唇。瞳は固く閉ざされ、布団の上からでも分かるくらいにやせ細っていた。
「兄貴、あの女は?」
「こら、お医者様、だろ。……途中で別れた。材料は受け取ってる。調合を手伝ってくれ」
そう言いながら、ビゾンは懐から何個か小袋を取り出した。
「すげえ!ちゃんとした薬だ!」
「コダランマの根もある。これを煮出してくれ」
「分かった!」
心底嬉しそうに、大事そうに小袋を受け取ったヤソンは、部屋の隅にある小さな釜戸のようなところに座り込み、作業を始めた。
「あの」
「ん?」
「私にも、手伝わせてください」
名乗り出ると、少しだけ迷った様子を見せたビゾンだったが、チラリと母親の方を見遣り、すぐに一つ頷いた。
「助かるよ。調合には時間がかかる。早く薬を飲ませてやらんとな」
狭い一間の家の中で、唯一ある棚から幾つか茶碗のようなものと木の棒を取り出すビゾン。
「これでこの実を磨り潰してくれ」
床の上に直に茶碗を置き、胡坐をかいて実演して見せるビゾンに一つ頷く。そして座り込もうとして、いまだにしっかりローアルに手を繋がれているのを思い出し、チラリと隣りを見上げる。
暫しの無言の駆け引きの後、折れたのはローアルだった。家の中でそこまでの危険はないと判断したのだろう。
しかし、アキヨが座り込んだ隣にピッタリと寄り添い、少し作業し辛いくらいには引っ付いてきた。
その様子を呆れたように見たビゾンだったが、懸命にもそこに言及することはなかった。
「磨り潰したのは、どこに?」
「ああ、そうだな……」
男は手近にあった紙をふと見て、首を傾げながらそれを手に取る。
「なんでこんな上等な紙がここに……。ああ、あの医者のものか」
小さく何やらブツブツ呟いた後、「まあいいか」とそれをこちらへ渡してきた。
「これの上に積んどいてくれ」
紙を受け取り、作業に取り掛かる。赤くて硬い小さな木の実を磨り潰すと、まるで唐辛子の粉末のように真っ赤な粉になる。それを真っ白な紙へ移そうとした時、その紙に何か書かれているのが見えて、ふと手を止める。
よく見ると、紙の裏面に幾何学模様のようなものが描かれている。
アキヨの持つその紙を隣りから何の気なしに覗き込んだローアルが、不意に俊敏な動きでその紙に手を伸ばし、鋭い声で叫んだ。
「アキヨっ!手を放してください!」
え?と顔を上げてローアルの顔を見ようとしたアキヨの目に映ったのは――。
「……?」
真っ青な空。
周りには退廃的な雰囲気を醸し出す建物。
先程まで確かに家の中にいたのに、アキヨはなぜかどことも知れない閑散とした廃墟の真ん中にへたり込んでいた。




