旅立ち
サワサワと木々の揺れる音がする。吸い込んだ空気は澄んでいて冷たい。
被ったフードを一度外し、玄関先に立つ少年の方へ向き直る。
「ヘル、いろいろと、ありがとう」
金色の瞳に真っ白な髪を持つ少年、ヘルは無邪気な笑顔を浮かべ手を振る。
「礼を言うのはこっちだよ。ここ数日、とても楽しかった。……道中気をつけてね。困ったらいつでも連絡してよ。助けになるから」
「――うん。……行ってきます」
お辞儀をしながらそう言うと、少しだけ目を見開いたヘルが、すぐに満面の笑みで頷いた。
「行ってらっしゃい」
今日は旅立ちの日。爽やかな空気がとても気持ち良い、絶好のお出かけ日和だ。
ヘルの家を離れ、深い森の中をひたすら歩く。思えばこうして、この世界を自分の足で移動するのは初めてである。
森の景色を眺めながら、チラリと隣りを見遣る。
視界に入ったのは、こちらのスピードに合わせ、ゆっくりした歩調で歩く背の高い男。すぐに目が合い、ニコリと微笑まれる。
そう、ローアルである。
――こんなはずではなかったのに。吐き出そうとした溜息を押し殺し、旅に出ると決意したあの日のことを、ぼんやりと思い出した。
「え、ローアルも行くの」
思わず言葉に出てしまったのは仕方ないと思う。
旅に出ると決意したは良いものの、それ以外は何も決めていないアキヨのために、これからの事を色々と話し合っていたのだが。
その会話の内容には、当たり前のようにローアルが付き添うという前提が含まれている。
今までは仕事で側にいてくれたローアルが、旅にまで同行する義理はないはずだ。しかも、王様の話しではその仕事も退職したらしい。
ローアルにはこの国での生活もあるだろうし、それを犠牲にしてまで付いて来ると言うのなら、ここはきっぱり断らなければ。
「私一人で、行くから、もう仕事は、しなくて――」
「仕事?」
アキヨの言葉に被せるように、ローアルが呟く。
目が合うと、キョトンとした表情でこちらを見てくる。
「仕事とは、どういう意味ですか?」
「えっと、ローアルが、私の世話を、してくれたのは……、お仕事だからでしょ?」
「え?違いますよ?」
「?」
お互いに首を傾げて見つめ合う。
ヘルが小さく溜息をついた。
「だからちゃんと説明しとけって言っただろ」
ローアルはふと何か考え込むように目線を下げ、しかしすぐに「ああ」と手を打った。
「なるほど。確かに説明していなかったですね」
「……?」
「アキヨ、私が貴女に誓いを立てた時の事を覚えていますか?」
問いかけられ記憶を辿る。
――もしかして、ローアルと初めて会ったあの日、彼が跪いて言っていた言葉のことだろうか。
「私が終古に主と定めた貴女の傍で、貴女の御身をお守りすることを、許して頂けませんか」
記憶の中に朧気ながら覚えている言葉を、ローアルが再び口にする。
「これは騎士が、生涯唯一の主に絶対の忠誠を誓う際の文句です」
「主……?」
ふと、この前会った王様との会話を思い出す。
あの時、王様はアキヨに対して「主」という単語を何回か口にしていた。
「そうです。そして貴女はあの日、私の誓いを受け入れた」
受け入れた……?
記憶を遡る。ローアルの「誓い」に対して、自分は何と答えたか。
――そうだ、確か。……お願いします、と。
軽く受けた挨拶は、とても重い誓いだった。
「その時から、その瞬間から。私は貴女の騎士になったのです。これから先一生、アキヨ以外に仕えることは有り得ません」
「……」
「仕事だからではなく、私が望んでアキヨの傍にいるんですよ」
「なんで――」
ローアルの綺麗な瞳に、呆然とした面持ちの自分が映っている。
「なんで、私……?」
出会って精々数日、何の因縁もないであろう自分に、“騎士の誓い” とやらを立て、絶対の忠誠を捧げたローアル。
分からない。とてもじゃないが理解できない内容に、ただただ戸惑うことしかできない。
そんなこちらの様子を見て、ローアルはなぜか寂しそうに瞳を揺らした。
「今の私があるのは、アキヨのおかげですから」
それは一体、どういう意味なのか。
分からないことが多すぎて、もう何から考えれば良いのかすら分からない。
混乱するアキヨの思考を止めるように、パンと手を叩いたローアルは、打って変わってとても良い笑顔を浮かべた。
「さて、私がアキヨについて行く理由が分かったところで、話しを戻しましょう」
「強引に進めたなぁ」
ポツリと呟き、呆れたようにローアルをチラ見したヘルだったが、結局話しを進めることにしたようだ。
「――それじゃあ、これ。アル坊とアキヨちゃんに」
ヘルが渡してきたのは、いつかの黒いチョーカーだった。着けると髪や瞳の色が変わる魔道具だ。
「アキヨちゃんもアル坊も、まあ色んな意味で目立つからね。色彩の変化は案外印象を変えるものなんだよ。二人で同じ色を設定しといたから、兄弟設定にしとけば詮索はされないでしょ」
ヘルはこちらに腕を伸ばし、首元にチョーカーを着けてくれた。
「いろいろあれから効果を付け足しておいた。使い方はアル坊から聞いてね」
「え、あ、うん……?」
「あと、これ」
ヘルは近くに掛けてあった服を取ると、こちらに渡してきた。反射的に受け取ると、それは灰色のモッズコートのような形をした上着だった。
「着てみて」
言われるがまま袖を通せば、サイズは少し大きく袖が掌まで来るが、とても暖かかった。
「うん、いいね。それあげるよ」
言われて思わず顔を上げると、ヘルがニコニコと笑っている。
「着てないのだから遠慮しないでね。僕のお古でも良かったら、だけど」
「……ありがとう」
「いーえ」
一先ずコートを脱ぎ、腕に抱える。
「さて、後は最初の目的地だね」
――と、そこでやっと我に返ったアキヨは、(あれ、結局ローアルがついて来ることになってる……?)と慌てたものの、ローアルとヘルが真剣な表情で机の上に広げた地図を覗き込んでいるところ、話しを蒸し返すような真似はできず、ただ二人のやり取りを呆然と見つめることしかできなかった。
「ウユジに向かうのがいいんじゃない?アキヨちゃんもアル坊も、そこで国籍登録しとけばこの先役に立つでしょ」
「そうだな……。アキヨ、この国から海を隔てた所に、ウユジという国があります。どの国に行くとしても、一度私達の国籍をそこで作った方が良いかと」
「国籍?」
「はい。身分を証明するものを持っておいた方が、この先色々と便利でしょうから。他国にも渡りやすくなりますしね」
つまり、この世界の住人として、自分の国籍を作るということか。
不意に、日本での日々が走馬灯のように頭の中を巡った。
目を閉じ、一つ息を吐き出す。
そうしてゆっくりと、ローアルとヘルの顔を見上げ、アキヨはこくりと頷いた。
「分かった。ウユジへ、行こう」
「ウユジはいい国だよ」
恰幅の良い女性店員はアキヨが選んだパンを袋に詰めながら、朗らかな笑顔でそう言った。
「行ったこと、あるんですか?」
「いいや、ないけどさ。あそこは商人だったらこぞって行きたがる国だからね。珍しい物がたくさんあるのさ」
はいよ、とローアルにパンの入った袋を渡した店員は、店の窓から見える海を眩しそうに見つめた。
「帰って来たら土産話、聞かせておくれよ」
「――はい」
気さくな店員に頷き返し、礼を言って店を出た。
目の前に広がるのは、太陽の光に煌めく海。
アキヨ達はヘルの家があった森を抜け、船が出ているという海岸に来ていた。
靡くコートのフードを抑えながら、初めて見る海に目を細める。
「アキヨ、船に乗るのは初めてですか?」
「うん」
見上げたローアルの瞳は茶色い。マントのフードを被っている彼の首にはアキヨと同じチョーカーが巻かれている。
「船酔いが心配ですね……。なるべく船体の大きいものに乗りましょう」
ローアルにならって周りを見渡すと大小様々な船が並んでいる。
その中でも一際大きな灰色の船に、乗船待ちをする人の列が見えた。船に塗装はなく、鉄板のような物が剥き出しで船体に打たれている。随分武骨な造りだが、客船だろうか。
「あれに乗っていきましょう」
ローアルも灰色の船を見てそう言うと、手を差し伸べてくる。躊躇いながらそれに自身の手を乗せると、優しく握られ引っ張られた。
ふたり手を繋ぎ、灰色の船に並ぶ列に加わる。
「一人、5000ヒラだよ」
ふてぶてしい船員にローアルがお金を渡すと、二枚の細長い紙を渡される。
「到着地で必要な入国許可証だ。失くすなよ」
ローアルが受け取り、一枚をこちらへ渡す。触ってみると、藁半紙より粗い紙質で、画用紙のように硬い。
「私が持っていましょうか」
確かに失くしたら大変だ。言われるがままローアルに紙を返し、船に乗り込んだ。
甲板には十人程の乗船客がおり、出航までの時間を潰していた。
「どれくらいで、着く?」
「半日程で着きますよ」
穏やかに答えるローアル。一日以上はかかると思っていたが、案外早く到着するようだ。
「ローアルは、行ったことある?」
アキヨの問いかけに、何かを思い出すように水平線へと視線を向けたローアルは、一つ頷いた。
「はい。仕事で行ったことが数回」
ローアルと一緒に、ぼんやりと海を見つめる。
キラキラ輝く水面が眩しくて目を細める。と同時に、ポッポッポと汽笛が鳴り、許可証を渡してくれた船員が叫ぶように声を張り上げた。
「出航―!!」
チラリと陸の方を見ると、見送りに来たのだろう人達が点々と見え、甲板の上からそちらへ手を振る乗船客の姿があった。
ローアルの方を見ると、いつの間にかこちらを見ていたのか、バッチリ目が合う。ぱちぱちと瞬きすると、ふわりと微笑まれた。
「楽しみですね」
「――うん 」
小さく頷き、甲板の手摺を強く握り込む。
そして船は静かに、動きだした。
ウユジ共和国は、東大陸と中央大陸の間にある島国である。
もともと無人島だったところに、流刑者が流れ着き、土地を開拓したのが始まりで、非常に物流が盛んなことで知られているらしい。
歴史は浅いものの、建国から今日まで、その門の緩さだけで目覚ましく発展してきた国なのだと、ローアルは語った。
「基本的にはどのような人種でも入国が許されます。入国審査もなく、言ってしまえば門というもの自体、ウユジにはないのかもしれませんね。ただ、そのせいで国の治安が非常に悪いのも、ウユジの特徴です。あまり知られてはいませんが……」
言いながら、ローアルは微かに眉を顰めた。
「統制の緩いウユジでは裏商売――、人身売買や薬物などの輸入が制限されていません。ウユジの国民はほとんど、他国からの亡命者だと言われていますが、国籍を得て実際にウユジで生きていけるかは、五分五分と言ったところでしょう」
ウユジは誰にでも籍を与える。しかし、その生活は保障しない。
国民は自給自足、自衛を余儀なくされ、それができなければ人攫いに捕まり売り飛ばされてしまうのが、ウユジでは当たり前、日常茶飯事であるらしい。
籍だけとは言え、そんな国の民になるべく自分達は船に乗っているのだから、少し複雑な気持ちになる。
「ですから、向こうではくれぐれも、私から離れないでくださいね?」
顔を覗き込まれ、真剣な表情でこちらを窺うローアルは、相変わらず過保護だと思う。
しかしこの世界に対して、自分が無知であることもまた事実である。
まるで小さい子供に言い聞かせる親のようだと思いながらも、大人しくローアルの言葉に頷こうとした時――。
唐突にグイッと肩を引かれ、気付けばローアルの背が目の前にあった。
「故意でなければ今すぐに謝罪を」
何が起こったのか分からず固まっていると、驚くほど冷たく、低い声が前から聞こえた。
その声がローアルのものだと気付くのに数秒かかる。
「わ、悪かった。足場が揺れるからバランス崩しちまって……」
ローアルの背中から顔を出すと、一人の男がグラスを片手に立っているのが見えた。
粗い素材の黄ばんだカットシャツに、同じく薄い生地のズボン。無精髭が生えた顎は細く、日に焼けた肌は浅黒い。痩身の体躯は猫背のためか、少し前屈みに倒れている。
ローアルより頭一つ分低いその男の足元には、透明な液体が飛び散っていた。先程までアキヨが立っていた場所だ。
恐らく彼の申し分通り、よろけた拍子に飲み物を零してしまったのだろう。
申し訳なさそうに眉を下げ、「かからなかったか?」とアキヨへ問いかける男に、コートのフードを掴みながら頷く。
「大丈夫、です」
「そりゃ良かった」
ホッとしたように息をついた男は、船員を呼んで雑巾を持ってくるよう頼んでいる。その様子を見つめながら、旅立つ前にヘルに言われたことを思い出した。
『魔道具で色を変えているとは言え、どんな拍子にそれが解除されるか分かんないから、コレは常時、被ってた方がいいかもね』
そう言ってパサリと、コートのフードをアキヨに被せるヘル。
『黒髪はどうしても目立つからね……。治安の悪いとこじゃ、物珍しいモノは商品として高く売れるって人攫いに目を付けられやすくなる。気を付けてね』
潮風に揺れるフードを抑えながらそのことを思い出し、船員と一緒に床を拭いている男へ視線を向ける。
男はグラスから零してしまった液体を拭き取ると、立ち上がってもう一度こちらへ頭を下げた。
「本当、悪かったな」
慌てて首を横に振れば、男は愛想笑いを浮かべ、そのまま背を向けて去ろうとした。
その背中に思い切って声をかける。
「あなたは、ウユジの人、ですか?」
呼び止められると思わなかったのか、少しだけ驚いたようにこちらを振り返った男は、質問の意図を探るようにジロジロとアキヨを眺める。
しかし、ちらりとローアルの方を見遣った男は、慌てたように口を開いた。
「俺は、そうだ。ウユジの民だが――」
「……」
黙り込んだアキヨに、戸惑ったように視線を泳がせた男は、ぎこちない動きで片手を上げた。
「あー……っと。それじゃあその、いい旅をな」
「……はい。えっと、あなたも」
そう返すと、今度は苦笑いで答えた男が、ヒラヒラ手を振りながら遠ざかっていく。
その背中が物陰の向こうへ消えた頃、ローアルがこちらを振り返って口を開いた。
「何か気になることがありましたか?」
男へ放った冷たい声が嘘のように、優しく問いかけてくるローアル。
アキヨは、もう見えなくなった男の姿を海へ映しながら、船の手摺を掴んだ。
「……」
――痩せた体躯、落ち窪んだ目、曲がった背中。ウユジの民だと答えた、土気色の唇。決して裕福そうには見えない、小汚い格好。
「アキヨ?」
「……なんでもない」
何か言いたそうなローアルに気付きながらも、今の感情を上手く言葉にできず、結局アキヨは口を噤む。
「……冷えてきましたね。中に入りますか?」
「うん」
ずっと見つめていると、広がる青空と海の境界がひどく曖昧に見えてくる。
シパシパと瞬きを繰り返しながら、視線を引き剥がすように、アキヨはその青に背を向けた。




