異世界物における故事成語の使用に関する私見
異世界物において、日本語の故事成語を使う件について。
問題があるか無いかでいえば、問題ないと私は思っています。
今回はその理由について簡単に説明を。
まず、異世界ものの小説における異世界言語の定義から。
・ 舞台は異世界であり、地球とは違う歴史を辿っている
・ 使われているのはその土地独自の言語であり、日本語とは違う
・ 過去に日本人が来ていた記録は無く、日本語が混じっていない
前提がちょっと違うものもあるでしょうけど、今回のエッセイではこの条件を満たすものが異世界言語と言う事で。
問題の発端は、異世界人が日本の故事成語を使った事に違和感があるという話からです。
なぜ異世界言語の会話中に異世界人が日本の故事成語を使う事に違和感を感じるのか?
それは異世界人が故事成語の基になる歴史・経験・情報を持っていないからです。
例えば「人間万事塞翁が馬」というのは中国の故事成語です。
でも異世界に中国はありませんよね?
ならばどこからこの言葉が出てきたのか? 異世界人が言うのはおかしいのではないか? そう思う事は不思議ではありません。
でも、それでも、小説の中で異世界人が「人間万事塞翁が馬」と言っても不思議はないのですよ。
だって、作者がキャラクターの台詞を日本語に翻訳しているから。翻訳されたのであれば、故事成語も作者の意訳次第で使われるのです。
もともと、小説を読むのが誰かという話なのですよ。
日本人が、日本語の文章を読む。
ならば日本語で表現できる文章であるのなら、どんな書き方も作風次第となります。それこそ、故事成語の使用に関しても作者の自由なのです。
もとは「人生何が幸いとなるか分からない」と言ったのを「人間万事塞翁が馬」と翻訳した場合、読者に与える印象が変わるでしょう。
それを狙って使うのは間違った考えではないと思います。
また、異世界に「ゴブリンの巣で金貨を拾う」という同じ意味の成語があったとして、それをキャラクターに言わせたとします。
その場合は読者には「ゴブリンの巣で金貨を拾う」がどんな意味の言葉なのか、説明が必要になります。
説明することで読者に負担を与える代わりに異世界情緒を感じてもらう。それも一つの選択肢ですが、別に「嫌な事があったがトータルでは黒字だな」と書いてもいいわけで。
それこそ作風に合わせた選択をすればいいのではないでしょうか?
とまぁ、そんなわけで私は異世界物でも読者が日本人であれば日本語のどのような表現も許されると思うのですよ。
大事なのは「作者の作風」と「読者に意味が通じるのか」だと、結論付けておきます。