第九章
第九章
晃達の住む街から車で約一時間。
街の喧騒とは無縁で、緑の山々に囲まれた田舎の集落に晃の実家があった。
公共交通機関は町からのバスだけで、それも夕方六時に町を出るのが最終便。とても車なしでは生活できないような場所だ。
「わー緑がたくさんあっていいところじゃん!」
窓をあけ、吹き抜ける風に優は感嘆の言葉を発している。藍も流れる風景を見ながら緑の豊かさを楽しんでいるようだった。
しかし、晃の心中は穏やかではない。
昨日まで藍がそうだったように、自分の戦いが始まるのだから。
晃の実家は山の中ほどにある小さな集落の中ほどに建つ一軒家だった。
とはいえ、晃が物心つく前からある家なので、時代を感じさせる古い古民家のような佇まいをしている。晃は少し離れた場所に車を止め、歩いて実家に向かうことにした。
時間は朝。田舎とはいえ、いつ通勤車がくるか分からない。逆に街の通勤ラッシュなどは常に車が行き交っているので注意しない人はいないが、田舎はたまにしか通らないため、来ると思っていないと不意を突かれてしまう。しかも、今は『見知らぬ人』となっている可能性も高い。晃は事を慎重に運ぶため、わざわざ広い場所に車を止めたのだった。
実家の前に到着すると晃はいつものように扉を開ける。
見慣れた玄関なのだが、今日は妙に違って見えた。精神的なものの大きさを感じながら、家内部に向かって声をかける。
「おーい。いるー?」
晃の後ろ、少し離れた場所から様子を伺う優と藍も緊張で手を握り合っていた。まるで晃の冷や汗が移ったようである。
この時間ならもう妹の愛は登校しているはず、となると出勤前の母親がまだいるはずである。
晃がそう考えていると家の奥から一人の女性が現れた。
小柄な体に白髪の入り混じったショートヘア、薄化粧をしているあたり、すぐにでも出かけるつもりだったのだろう。晃の母親で間違いなかった。
「あの…どちら様でしょうか?」
晃の予想通り、余所行きの笑顔ではあるが、明らかに警戒している。
それもそのはず、晃だけならまだしも、およそ四十歳の男が十代の女性を二人も連れているのだから、そうでなくても犯罪を疑われてもおかしくない組み合わせである。
「俺…分からない?晃なんだけど…」
恐る恐る問いかける晃。ここにきて昨日までの藍の気持ちがよく分かってきた。
昨日晃は自分の偽物と対峙し、職場の人たちに忘れ去られていた現実を前にしてきた。しかし、そこまで落ち込むことはなかった。それはやはり、実家の存在を信じていたからかもしれない。
「晃…?確かにそういう息子はおりますが…」
母親がそう言いかけたところで家の奥から晃の妹、愛が飛び出してきた。
「遅れるーーー!!あ、おはようございます!」
愛は晃を一瞥すると、何事も無かったかのように車庫から自分の自転車を取り出して吹き抜ける突風のように去っていった。
しかし、晃は愕然として、
「あ…いえ、すみません。失礼します」
晃が帰ろうとすると、後ろに控えていた優が、
「ちょっとおばさん!晃さんが分からないの?」
と、食って掛かる。晃は慌てて制止しようとするも、優はあきらめない。
母親は改めて晃を凝視すると、
「…確かに私にはこの方と同じような年恰好の息子がおりますが、この方ではありません。本日は忙しいのでお引き取り願えますか」
そう言うと、家の奥へと入っていった。
晃は、まだ食い下がろうとする優の口を塞いで車まで引き摺ってきた。そして晃は確信した。
愛と一瞬目が合ったにも関わらず、明らかに他人行儀な挨拶。じっくり対峙していたにも関わらず思い出す兆候すら見られない母親。父親は随分前に他界しているし、親戚は遠方なので頼るのも難しい。
乗り込んだ車の中で晃が説明すると優は、
「いや、あきらめちゃダメ!まだきっと方法があるはずだよ!」
藍もこれに同調し、
「そうですよ。私もなんとかなったんだから、晃さんもなんとかなってくれないと困ります」
そう言いながら藍は後部座席で膝の上に座っている猫の頭を撫でている。
「そうなんだけど…って、藍ちゃん、それ…」
晃が猫を指さすと、
「あ、私たちの後を付いてきたみたいで、一緒に乗ってきちゃいました」
晃は少し安堵した表情で、
「そっか…ミーは俺の事覚えていてくれたんだな」
晃が『ミー』と呼んだ猫は藍の膝の上で短く『ナォ』と鳴いた。すこししゃがれた鳴き声を懐かしみながら、晃が『ミー』の前に指を出すと『ウー』と唸りながら噛んできた。
「ちょ…ダメでしょ」
藍が制止しようとするのを晃はそれを制止する。
「いいんだ。好きにさせてやってくれ」
『ミー』は噛むのをやめると晃の手に擦り寄ってくる。まるで確認が終わって安堵するかのように。
しかし、明らかに型の残った手をみて優は、
「…痛くないの?すっごい型になってるけど」
晃は『ミー』を撫でながら、
「ああ、痛いよ。でも、猫が本気で噛みついたら普通に穴空くらしいから、猫からしたら甘噛みなんだと思うよ。それに…信用してるから」
晃はそう言って笑った。
猫に『信用』というのもおかしな話ではあるが、晃には他の言葉が思いつかなかった。高校生のころから一緒に生活をして、大学生のときは少し離れていたが、会えばすぐに擦り寄ってくる。決して裏切らない、晃にとって最も信頼できる相手なのかもしれない。
しかし、もう寿命もそろそろ近いはず。置いていこうかと車の外に出そうとするが『ミー』は決して降りようとはしない。仕方ないので晃はそのまま『ミー』の好きにさせることにした。
晃はとりあえず、自宅方面へ車を走らせる。車内で晃は、
「とりあえずさ、藍ちゃんも優ちゃんも家へ帰りな。これ以上付き合うことはない」
すると藍が、
「そんな。ここまでご一緒したんですから、最後まで付き合いますよ」
優も頷きながら、
「そうだよ。これじゃ晃さん、独りぼっちじゃん。そんなの夢見が悪いし」
しかし晃は諭すように、
「藍ちゃん。お父さんが離婚するんだったら、これからが一番大変になるだろ。そんな時期に他人に付き合ってる場合じゃないよ。まずは自分の足元をしっかり固めるんだ」
藍はそう言われると反論できない。これまでのように二人で暮らすのはいいが、まずあの継母の処理である。お父さんに任せて置いたら何もしないだろうから、自分がやらないといけないのは藍が一番よく分かっていた。
藍が何か言おうとするのを飲み込んでいると、優は、
「私はくっついていくよ。別に何もないし、藍が大変なんだから私が代わって最後まで見届ける」
晃は呆れ顔で、
「優ちゃん…そもそも君は何の関係もない。こんなオジサンに付き合う必要はないよ」
すると優は、
「いいの!私がついていくって言ったらついていくの!」
すごい剣幕で晃に迫ってくる。さすがに晃は、
「ちょ、運転中だっての。分かった、分かったから」
その言葉を聞いた優は満足そうにしながら、シートに体を預ける。
後部座席で『ミー』の寝息が聞こえはじめるころ、藍の自宅が見えてきた。
藍は車を降りる際、名残惜しそうに『ミー』の頭を撫でると、
「ひと段落したらまたご飯連れて行ってくださいね」
そう言うと、自宅の中へ消えていった。
「さて…と」
晃はとりあえず自宅方面に車を走らせる。車内では助手席に優、後部座席では『ミー』が丸くなっている。
「どうするの?これから」
優は晃に問いかける。晃もどうしようか迷ってるようで、
「どうしたものかな…」
この日は平日ではあったが、晃は前々から有給休暇消化のために休みを入れていた。予定を変えられていなければ自分の偽物もこの日はまだ自宅にいるはずである。
「じゃあ、家に行ってみようよ」
優の提案に後部座席から『ナー』と同意の声があがる。優が『よしよし』と撫でていると晃は、
「それしかないよな…」
頼みの実家が頼めなくなった以上、打つ手が思いつかない。とりあえず、打開策を見出すためにも、もう一度対峙してみることにした。
ほどなくして晃は自宅の駐車場に車を止める。
そしてアパートの二階にある自室のドア前に立つと、その小脇に『ミー』が陣取っていた。
優が抱きかかえようとすると『フーッ』と威嚇する。
「ごめんな。好きにさせてやってくれ」
優が少し俯くと晃の背中に隠れてしまう。そんな一人と一匹の様子を確認すると、晃はドアを開けた。
「やあ、やっと帰ってきたか。もう車は返してくれるんだよね?」
開いたドアの向こうには『あの』男がいた。相変わらず不気味な笑みを浮かべている。優は晃の背中からこっそり覗いていた。
「いや。あれは俺の車だ。ここも俺の部屋だ。出ていくのはお前だ」
晃はそう言い放つが、『あの』男は、
「…何をしにきたのかと思ったら。君も往生際が悪いね。実家にも行ったんだろ?さっき電話があったよ。『俺』に成りすまそうとしているヤツがいるってね」
晃が返答に窮していると男は続けて、
「いろいろ走り回って分かっただろ?もうこの世のどこにも君の居場所なんてないんだよ」
そう言い放つと、晃の肩を押してドアを閉めようとする。しかし、
「待て!」
鋭い制止の声にその場にいた全員が一瞬動きを止めた。
晃は思わず優を見るが、優は『あの』男の異様な迫力に押されて晃の後ろですっかり縮こまっている。晃はその声の先を見ると、『ミー』がいた場所に一回り大きくなった『猫』がいた。
晃は『ミー』と直感する。何年も生きてきた飼い猫はやがて猫又になるという伝説がある。その証拠は二本に分かれた尻尾だと言うが…晃は恐る恐る尻尾を確認すると、確かに二本に分かれていた。
淡い光に包まれたその姿は神々しささえ感じる迫力があり、猫又といえば妖怪の一種として恐れられるものではあったが、『ミー』を昔から知っている晃にとっては安心感を感じさせてくれるものであった。
『あの』男も猫又と化した『ミー』の迫力に押されて、一歩部屋の中へと後退している。
「ミー…なのか?」
晃は恐々としながら尋ねると、
「ああ、晃…やっとなれた…これでやっとあなたの役に立てる…」
『ミー』は『あの』男に向き直ると、
「お前…これ以上、晃を困らせるな」
猫又と化した『ミー』の迫力に圧倒されている『あの』男は徐々に後退しながらも、
「な、なんだお前は!出ていけ!警察呼ぶぞ!」
そう言って電話を取るが、すぐに受話器を投げ捨てた。
「なんで通じてないんだ!くそっ!」
その様子を見ていた『ミー』は、
「晃は…ずっと見てきた私のご主人は、そしてこの部屋の主はこの人だ。お前は一体何者だ!」
『あの』男に向かって問いかける。すると『あの』男は、
「あああぁぁぁ…あり得ない…猫…なんかに…猫なんかにいいい!!」
もがき、苦しみ出すと、徐々に姿が薄くなっていく。『ミー』はさらに続けて、
「さっさと、自分の居場所に帰れ!偽物!」
そう宣言すると、『あの』男は黒い渦と共に消え去ってしまった。
『あの』男が消えてなくなると、『ミー』は力なく崩れ落ちる。晃は慌ててその体を抱えると部屋の中へと運ぼうとするが、
「やめてくれ…」
『ミー』はなんとか自力で立ち上がると、
「これでもう…元通りのはずだ…」
そして晃に向き直ると、『ミー』を包んでいた光は徐々に薄くなっていく。それに伴って『ミー』の姿も元の老猫に戻りつつあった。
「晃…今までありがとう…最後にあなたのお役に立てて…嬉しかった」
『ミー』はそう言うと元の猫に戻り、そのままその場に倒れてしまった。
「ミー!」
晃は慌てて抱え上げるが既に息を引き取っており、その体から僅かに温かさが感じられるも、微動だにしなかった。
『ミー』は自らの寿命を悟りつつ、最後の力を振り絞って晃のために使ったのだった。
晃はこれまでの『ミー』との思い出を回想すると、溢れる涙に視界がぼやける。
我儘でほとんど言うことを聞かなかった子猫時代。毎日ケンカをしていた成猫時代。そして老猫となってからは、よく甘えてきていた。晃が実家に住んでいたころには、共に寝床につき、晃が落ち込んでいるときは気が付けばそばにいた存在だった。
普段は物言わぬため、何を考えているのか分からない。しかし、その心は晃としっかり繋がっていたのだった。
晃は『ミー』を車に乗せると、そのまま実家のお墓へと運んだ。
そして、よく共に戯れていた丘に穴を掘ると、丁寧に埋葬した。手を合わせる晃の横には共に手を合わせる優の姿があった。結局、ここまで付いてきていたのだった。
「やっと終わったんだね…晃さん。あー私も猫飼おうかな」
そう言うと猫のように伸びをする。晃は優のほうが猫っぽいことに気が付いた。懐かし気な視線を送る晃は、
「優ちゃんは猫飼うっていうより、キミ自身が猫っぽいよね」
すると優は、
「…そっか。じゃ、晃さんに飼ってもらっちゃおうかな!」
そう言うと、少し嬉しそうに晃の腕を抱えた。
日常というものは無情なものである。
どんなに非常識な、非現実的な、非情な出来事があったとしても、人は徐々に忘れていく。
そして、それまでの日常に飲み込まれて、やがて風化していく。
晃たちも例に洩れず、数週間もすれば何事も無かったようにそれまでの日常を送っていた。
仕事の作業中、晃はふと手を緩めて虚空を見上げた。
『蒸発のサイクリングロード』
やはり、完走した先には『あの世』とやらが待っていたのだろうか。
自分の変わりに現れた『あいつ』は誰だったんだろう。
そもそも、自分で望んだはずの『死』。しかし直前になって自分は『生』を選んだ。
まだ未練があるのだろうか…それとも、天にある存在が『死』を拒絶したのだろうか。
すべてが終わった今、それらを知る術はない。しかし、一つだけ確実なことがある。
長年、共に生きてきた『ミー』によって、ここに存在できていること。
晃は涙腺が熱くなるのを感じた。
それまでの『ミー』との思い出が蘇る。しかし、そんな思考は作業ブザーによって掻き消された。
「ただいまー…」
晃が自宅に戻り、ドアを開ける。
「…みー…みー」
小さな三毛猫が出迎えてきた。晃が呆気に取られていると部屋の奥から、
「あ、おかえり!この子さーウチじゃ飼えないっていうから、お願い!」
優が挨拶もそこそこに拝み倒してきた。晃はどうしてもと言う優のお願いに仕方なく合鍵を渡していたのだ。
「あぁ、来てたのか。しかし、この猫…」
晃は偶然にしては出来すぎなその猫に、『事実は小説より奇なり』という言葉を思い起こしていた。
そして、言葉を続けることができない晃に優は、
「お願い!いいでしょ?ここで飼っても」
晃はお願いされると断れない。しかし、もう既に答えは決まっている。『ミー』にそっくりな模様を纏った子猫、晃は優に感謝を、子猫に運命を感じながら、
「ああ。明日休みだから、不動産屋にでも行ってみるさ。ここ、ペット禁止だしな」
そう言って優と子猫の頭を優しく撫でた。