第八章
第八章
藍が自宅に戻って数分後、晃の車の中で優が目を覚ます。
「あれ…?私どうしちゃったの…?」
半分寝ぼけている優に晃は事の顛末を語った。
「そ…っか。やっぱり」
優の納得した表情に晃は、
「ん?何がやっぱりなんだ?」
優は藍の自宅を見つめながら、
「私、どうしてもおじさんが許せなくて、夢中で話してたら、いきなり意識が真っ白になってさ。でも、なんか心地よくってさ。そしたら、おばさんが語り掛けてきたんだ、『少しだけ体を貸して』って。すぐにおばさんだって分かったから、いいよ!って。でも、元に戻って本当によかった…」
涙ぐむ優を見て晃は『ドキッ』としてしまう。
明朗快活な少女。今までの優からは想像できないような柔らかで慈愛に満ちた表情に一瞬で落とされそうになる晃。これがギャップというものなのだろう。
「でも、戻ってよかったのかな…藍ちゃん」
晃は自らの心を悟られまいと、話を続ける。
しかし藍にとって日常に戻るということは、今までの苦悩と対峙するということ。藍の事情を知ってしまった晃にはそれが藍にとっていいことなのかどうか分からなかった。しかし優は、
「大丈夫。藍にとってはお父さんやお母さんに忘れられることの方がよっぽど辛いんだ。それに…」
優はスマートフォンを取り出すと、SNSアプリを晃に見せてきた。
「ほら!大丈夫でしょ!」
画面には藍からのメッセージが表示されている。
『優いろいろありがとう。今お父さんと話したんだけど、今の人とは離婚するって』
優はうんうんと頷くと、
「おじさんもちゃんと考えてたんだ。藍一人が早まってしまっただけ。それを晃さんが寸前で止めてくれた。藍に代わってありがと!」
優はそう言うと晃の頬にキスをした。
晃は突然のことに一瞬慌ててしまうが、すぐに平静を装い、
「じゃ、とりあえず藍ちゃんのことはOKだな。送るよ」
そう言って車を発進させた。頬に残る感触を楽しみながら。
優の自宅前に着くとすっかり夜は暮れていた。
「晃さんさ、ちょっと待ってて」
優はそう言い残すと自宅へと入っていった。
晃は特に急ぐ用事もないので、言いつけ通りにその場で待つことにした。数十分後、優は服を着替えて再び晃の車に乗り込んだ。
「…?なんだ?」
晃が優を見ると、
「じゃ、行こっか~」
優は前を指さした。
晃はしばらく固まっていると、
「ほら!どうせ今日は泊まるところもないんでしょ!女子高生が暇つぶしに付き合ってあげるって言ってんじゃん!早くいく!」
晃はその辺の公園で車中泊するつもりだったのだが、どうもそれは許して貰えないらしい。発進して少し走ると、
「ストップ!止まって!」
晃は半ば急ブレーキ気味に停止する。すると藍が乗り込んできた。
「お邪魔しまーす」
今までのどこか儚げで消えそうな笑顔とは対照的に、少し照れながらも柔らかくて明るい午後の日差しのような笑顔を浮かべる藍は、積年の悩みが取れて嬉しさが体から滲み出ていた。
「こんな時間に出かけて大丈夫なのか?」
晃が問いかけると藍の後ろから声がした。
「ああ、君になら任せられる。今晩藍を貸すよ」
藍のお父さんだった。どうやら、事の顛末を藍から聞いたらしい。
「すまなかった。家庭の事情に君を巻き込んでしまったみたいで。藍を助けてくれたこと、礼を言わせてくれ」
そういって頭を垂れるお父さんは晃の中のお父さん像とは大きく乖離していた。
(俺もこんなお父さんだったらどんなに…)
晃は考えかけてやめた。晃が形ばかりの礼をすると、
「でも、変なことはしないでくれよ?」
お父さんはそう言って笑った。どうやら完全に信用されているようだ。
すると優は満足げな表情を浮かべ、
「さ!カラオケいこ!」
晃は女の子二人とカラオケなど、もう十年近く無縁だった。いきなり降ってわいた幸運にワクワクしながらも、迫りくる眠気に年月の流れを感じずにいれなかった。
(俺がもう十歳若ければねぇ…)
誰もが思うセリフを実感しながらも晃は、楽しくも眠れない一夜を過ごすことになるのだった。
カラオケルーム内には藍と優の歌声が響いていた。
テーブルにはオードブルが積まれ、晃は否応なしに財布の中身を確認する。その中身を後ろから優に見られてしまい、
「お!全然大丈夫じゃん!これあれば!」
そう言って、器用にも財布からクレジットカードを取られてしまった。すぐに取り返しはしたが、どうやら無限に使えると勘違いされているらしい。
一通り歌い終えると晃は気になっていたことを聞いてみる。
「そういえば、さっき出してた巾着袋、なんだったんだ?」
藍と優は顔を見合わせると、ほぼ同じタイミングで取り出す。
「これ?」
小さいが色違いの艶やかな巾着タイプのお守り袋である。二人の関係に大きくかかわっているらしい。
すると、しばらく顔を見合わせた二人は、
「実は、小学校に上がる前くらいの話なんだけど…」
ゆっくりと優から話始めた。
優と藍が幼稚園時代。
親の仕事の関係で優は藍の住む街に引っ越してきた。
当時の藍はごく普通の女の子だったが、優は引っ越してきてすぐ、近所で評判になるような『いたずらっ子』だった。歳も同じで近所だったことで、藍と同じ幼稚園に通うことになった優だったが、その『いたずらっ子』ぶりはすぐに開花され、幼稚園の職員も手を焼くほどだった。そのお転婆ぶりに母親は何度も幼稚園側から注意されていた。そんなある日。
藍は自由時間にお絵かきを楽しんでいた。画力には少し自信があった藍は周囲の『うまい』『すごい』という称賛の声が嬉しく、ヒマを見つけては絵を描いていた。
そこへ優がやってきて、書いている絵を取り上げてしまった。
優は当然ながら『返して!』という反応を予想していたのだが、藍はニッコリ笑ったままで、
「欲しいの?わかった。あげるね」
そう言って、それまで書いていた画材をしまってしまった。優は意外な反応にどうしていいか分からなくなり、
「ふ、ふん!いらないもん!」
その場で絵を破り捨ててしまった。藍は捨てられた絵を拾い集めると、
「そっか。じゃ捨てておくね」
そう言ってゴミと化したかつての力作をなんの躊躇もなくゴミ箱へと収めてしまった。
その日から優の藍に対するイタズラはエスカレートしていった。
藍が外で遊んでいるときにわざと体当たりして転ばせてみたり、皆で真剣に先生の話を聞いているときに後ろから脇をくすぐってみたり。幼稚園児で思いつく限りのイタズラを試みるも、藍の反応はどれも優の予想に反するものばかりだった。
当初、優のイタズラは幼稚園のなかだけで終わっていたが、自宅が近所だと知るとその行為は『仲良し』の仮面の元にお互いの家でも始まっていった。
お互いの家に遊びに行くが、優は藍のジュースだけ少なくしたり、おもちゃをどこかに隠したり。直接的に叩くこともあった。しかし、藍の反応は優の予想にはことごとく反するもので、
「うん。分かった。いいよ気にしないで」
というものばかりだった。そして決定的な事件が起きる。
この日、近くの公園で数人の女の子で集まっておしゃべりをしていた。ちょうど買い物帰りに親が立ち話をしていたため、それを真似たようなものであった。しかし、その公園には他の親子連れや休憩しているサラリーマンなど比較的大勢の人がそれぞれの時間を楽しんでいた。
このころ優はイタズラ感覚がすっかり麻痺しており、ごく当たり前のように藍へのイタズラを楽しむようになってしまっていた。
そして親たちの真似事をしてお話に花を咲かせている藍に、何の前触れもなく『躓いた』フリをしてジュースをかけた。
真っ白のワンピース姿だった藍。この服が藍のお気に入りだったことは優もよく知っていた。もちろん、ワザとである。
「あ、ごめん!風邪でも引いたら大変!脱がなきゃ!」
優はそう言うと、さすがに嫌がる藍から強引にワンピースをはぎ取った。
昼間の公園で大衆の見守る中で全裸にされ、物心つく前とはいえ、さすがに藍はその場で蹲り泣き出してしまった。事態を察知したお母さんたちはすぐにその場を収集すべく、自分の子供たちを抱えて去ってしまった。
後日、藍の家には親に強引に頭を下げさせられる優の姿があった。
藍は、『気にしないで』と笑ったが、優はそれすら嫌味に感じてしまう。そして親たちが席を外したとき藍は、
「もう本当に気にしないで。これからも仲良くしてね」
そう言われた優は、彼女のなかで何かが決壊するのを感じた。次から次から溢れ出る涙の意味が分からず優はただ自分の思いを藍にぶつけた。
「なんで…なんでよ!藍はなんで?!あたしにこんなにイタズラされて、嫌だったんでしょ?嫌いだったんでしょ!なのに…なのに…なんでそんなに優しくするんだよ!」
藍は黙って聞いていた。まっすぐに優を見つめて。そんな視線に優は耐えられずに目を逸らしてしまう。
「そんなことない。優がどう思おうと、私は優好きだもん。昨日だって、私のことを心配してくれたからでしょ?それだけで嬉しいから…」
優はますます激昂して、
「だから!それは藍を泣かせるためにわざとやったの!泣いてる藍が見たかったから!」
しかし、藍は、
「でも、優。私が泣いてるとき、笑ってなかったよ?」
優は心に『なにか』が深く刺さるのを感じた。
確かに藍の泣き顔を見るためにイタズラをしてきた。しかし、実際見たときにはいい感情は生まれなかった。それどころかマイナスの感情しか生まれていなかったことを思い出していた。
『じゃ、自分は何をやっていたんだろう。今までなんでイタズラをしていたんだろう』
優の頭の中にこのような言葉が浮かんだとき、藍の母親がいつの間にか二人の間に座っていた。
「ね。二人とも。手を出して」
藍の母親は二人の手に小さなお守り袋を置いた。
「きれい…」
思わず出た声が二人でピッタリ一致する。
優は思わず顔を背ける。しかし、藍の母親は優の顔を藍の方に向けると、
「優ちゃん。素直になりなさい。せっかく自分の本当の気持ちを打ち明けたんだよ?今、素直にならなければ、絶対後で後悔するよ?」
見つめ合う藍と優。しかし、その言葉を聞いてから優の顔は崩れていき、そのまま藍に抱き着いて泣き崩れてしまった。
「ごめんなさい!藍、ごめんなさい!」
藍は優を支えながら、
「気にしないで。私は優のこと、大好きだから」
シンと静まり返ったカラオケルームには他の部屋の歌声が鈍く響いている。
冷めたポテトを頬張りながら優は話を続ける。
「そんで、その時から私たちは大親友になったのよ」
なぜかドヤ顔の優とはにかむ藍。
藍のお母さんが取り持って二人の大親友が生まれた。お守り袋はその証拠なのだった。
「そうか。お母さんあっての二人なんだな」
晃は少し羨ましかった。自分にも幼馴染というものがいないわけではなかったが、とっくに疎遠となっており、どこで何をしているのかさえ知らない。高校生の頃の友人となると、数名心当たりはあるが、親友とまで呼べる存在に晃は思い当たるものが無かった。
(親友…か。そんな存在がいたなら、俺の人生も変わっていたのかな…)
晃は再び歌いだした優を見ながらウトウトしていた。
翌朝。
晃は室内電話の音で目を覚ました。結局、カラオケ中に全員寝てしまったようである。
優と藍は仲良くソファで眠っている。晃は時間を伝える電話を処理すると二人を起こしてカラオケルームを後にした。
三人は近所の喫茶店でモーニングを食べながら話している。
「それで、晃さんは私みたいなのに心当たりはないの?」
優がトーストを咥えたまま話すので藍は、
「優。食べるか話すかどっちかにしなよ…」
優は『じゃ、食べる』と、咀嚼に集中する。晃はそんな二人を見つつコーヒーを飲んでいた。
「そうだな…幼馴染とかはたぶん無理だろう。すでに疎遠になってから二十年以上経ってるしな」
晃の言葉に藍は、
「他にしっかり覚えていてくれそうで、来てくれそうな人いませんか?」
晃は腕を組んで考える。
大学時代の友人は皆同じ県内にはいないため、難しい。高校時代は数名いるものの、今はそれなりの地位で仕事をしているため無理も言えない。中学以前の友人はもう交流がなく、それこそ疎遠になってしまっていた。
晃はこのときほど自分の人付き合いの悪さを呪ったことはない。
人が人の社会の中で生きていくのに、人と付き合うことを避けていたら到底生きていけるわけがない。晃も分かっていたはずなのだが、『今』を言い訳にして自分を甘やかしていたのかもしれない。
「ちょっと優、食べ過ぎ!」
目の前では優が晃のポテトを奪っていた。晃はそのまま優にポテトを促すと、再び考え込む。
しかし、いくら考えてもないものは出てこない。晃はコーヒーのおかわりを注文すると、
「ま、とりあえず実家に行って様子をみてみるよ。藍ちゃんのときのように、相手に少しでも変化があればいけるかもしれないし」
優や藍のお父さんもなんとか藍のことを思い出した。その前に少し頭痛のようなアクションがあったので、そのような兆候が見えれば可能性はあると踏んだのだ。
「一般論で、血のつながった親兄弟だったら、そう簡単に忘れないと思うしね」
そう言う晃の表情には不安の影が見え隠れしており、藍は自分が体験しているだけに、痛いほどその感情が理解できた。しかし、自分で解決するしかないのもまた事実。
「大丈夫ですよ。きっと」
藍はそう言って微笑みかけるのが精一杯だった。