第六章
第六章
「さあ、どうしようか…」
晃は大下と別れてから、急に現実に引き戻された。
旧友との時間は何をしてても楽しいものだ。しかし、その時間が過ぎ去ったあとは楽しかった分だけ寂しさが襲ってくる。晃が今抱えている非現実的問題を考えればなおさらである。
「やっぱりまずは藍ちゃんだな」
大下に言われたからではない。晃も薄々気になってはいたが、自分のことで精いっぱいだった。しかし、大下と会ったことで心に僅かな余裕が生まれたようである。
晃は自分のスマホを確認すると、晃がメールする前に藍からメールが入っていたようだ。
『ちょっとさっきのコンビニでお話しできませんか?お待ちしてます』
時間を見ると、大下と食事をしていたころであり、もう一時間ほど経過している。晃は『すぐ行く』とだけ返信すると、コンビニへと急いだ。
晃がコンビニに到着すると、店の外に藍が佇んていた。
しかし、顔が下を向いているためその表情は読めない。考え込んでいるのか、あまり周囲を気にしていないのか、晃が近づいても気が付かない。晃は目の前まで進むと、
「藍ちゃん?」
と声をかける。そこで初めて藍は顔を上げて、
「あ…晃さん…」
晃は思わず『ドキッ』としてしまう。
藍は目を涙で腫らして、泣いていた。女性の涙というのは沈静効果があると言われているが、それ以上に何か罪悪感を感じてしまう。晃は女性に接するのも久しぶりなのに、目の前で泣かれていたらたまったもんじゃない。
「と、とりあえず乗って」
晃は自分の車に藍を乗せた。とりあえず、この場から逃げなければ周囲の目が怖かった。
しばらく車を走らせた晃は河川敷の広場に車を止めた。藍も少し落ち着いたようで、表情は暗いものの、もう泣いてはいない。
「それで、どうしたの?」
晃ができるだけ優しい口調で尋ねると、藍はゆっくり話し始めた。
サイクリングロードからコンビニまで帰ってきたあと藍は自分の家へと歩を進めていた。
(とりあえず朝食を簡単に作って、早く準備しないと学校に遅れちゃう)
非現実的な体験をした後でも、長年の習慣は簡単には変わらないものである。藍は覚えている冷蔵庫の中身から朝食のレシピを考えつつ、登校の心配をしていた。
(自転車…とりあえず、今日は電車しかないか…)
自転車はサイクリングロードでトンネルに飲み込まれてから行方が分からなかった。替えを用意しようにも時間がかかるので、とりあえず今日のことである。別の自転車はないので、歩くか電車くらいしか思いつかなかった。普通ならば、親に車で送ってもらうという選択肢もあるはずではあるが、これまでの環境から藍にはその選択肢はなかった。
自宅に到着して玄関へと進んでいると、藍が開けるより先にドアが開く。藍は思わず手を引っ込めると、次の瞬間、藍と似ている少女が現れた。背丈や年の頃は同じなのだが、明らかに別人である。
藍が一歩下がるとその少女はドアを後ろ手で占めると、
「あら…生きてたのね」
そう言って『くすっ』と笑った。
藍は背中に冷や汗を感じながら、
「あ…あなたは?」
「私?私は都築藍よ」
その少女はにこやかに話す。当たり前と言わんばかりの口調に藍は、
「な…何言ってるんですか?私が都築藍です。…あ、同姓同名ですか?」
すると少女は面倒臭そうに、
「だから、あなたの代わりよ。あなた、サイクリングロードに入ったでしょ?死んだはずなのになんでここにいるのよ」
藍は思考が真っ白になり、数秒間放心状態になってしまった。すると少女は面倒臭そうに、
「つまり、もうあなたの居場所はないわよ。ちょっと居心地悪いけど…。分かったらさっさと消えて」
「そ、そんなこと…」
藍が何か言おうとすると、少女の背後のドアが開き、父親と継母が姿を現した。目の前の状況を一瞥すると継母は『フン』と鼻を鳴らす。自分の車に乗ってさっさと行ってしまった。
その様子を見守っていた父親は、
「藍、お友達か?」
そう言って藍のほうに視線を向け、
「仲良くしてやってくれ」
を微笑みかける。そして、少女のほうに向くと、
「今夜は大事な話があるから、早く帰るよ」
そう言うと自分の車に乗って行ってしまった。
親二人を見送った少女は藍のほうに向くと肩に手を置いた。
「ね?もうあなたは『都築藍』じゃないの。死ねとか言うつもりはないけど、面倒だからさっさと消えてくれない?」
少女はそう言うとドアを施錠してその場を立ち去った。
しかし、藍はしばらくその場から離れることができなかった。
自分が長年過ごしてきたこの家の住人ではなくなった。お父さんも私のことを忘れてしまった。言いようのない絶望感が藍を襲っていた。
(もう…私の居場所はないの…?でも、それならばせめて…)
藍は自宅に侵入した。施錠されていても長年住んでいた我が家。父親が万一のために鍵を隠してある場所はよく知っているので、家に入ることは造作もないことだった。
藍はそのまま真っすぐ仏壇に向かうと一度手を合わせてから母親の位牌をバッグに忍ばせるとそのまま家を後にした。
(せめて…お母さん。私を…私を守って…)
藍は当てもなく歩を進めていたが、やがて駅前に差し掛かった。
駅前のベンチでこれからのことを考えていた藍の前を友人の一人が通りかかった。藍はそんなに多いほうではなかったが、いろいろ話せる友人が数人いた。そして偶然、通りかかった友人に藍は声をかけようとするが、先程の『もう都築藍ではない』という少女の言葉が引っかかってしまい、一歩が踏み出せない。藍が思案に暮れていると偶然、その少女と視線が合ってしまった。しかし、その少女は何事もなかったかのようにすぐに行ってしまった。
藍が落胆していると、凄まじい足音と共に一人の少女が駅に向かって走ってきた。
「優!」
藍は思わず口をついて出てしまう。その少女は藍の幼馴染の『永瀬 優』だった。幼馴染とは言っても昔のことで、藍の母親が他界してからは疎遠になっていたので、藍自身忘れかけていた。しかし、幼馴染として過ごした時間が一瞬にして藍の記憶を呼び起こしてくるのだから不思議なものである。
優はどうやら電車の時間にギリギリみたいで猛ダッシュで駅前を爆走しているところだった。
藍の声を聴いた優は一瞬立ち止まると、藍のほうを見て、
「何?ってか、誰?何で私の名前知ってるの?」
藍は瞬時に悟り、
「…い、いえ。ごめんなさい」
その消えそうな声を聴いた優は、頭を抱えると、
「イタッ…なに頭痛?…あ…い…?」
しかし、すぐに、
「あ!そんなことしてる場合じゃない!」
そのまま再び猛ダッシュで駅へと消えていった。
「そうか…藍ちゃんも…」
晃の言葉に藍は、
「え?じゃあ晃さんも?」
「ああ、俺部屋にも別人が住んでて、職場の人間も俺のことは覚えていなかった」
晃は自嘲気味に笑う。なかなか非現実的な出来事であるし、二人とも同時にとなるとやはり疑わざるを得ない。
「サイクリングロードで爺さんが言っていたもう戻れないってのはそういうことだったのか…」
晃は絞り出すように呟いくと、藍は隣で静かに頷いた。
車内を重い空気が包み込む。二人とも何か話したいのだが、何も言葉が出てこない。
そして数十分…いや、実際にはもっと経っていたのかもしれないが、突然その場に似つかわしくない音が鳴り響いた。
『ぐ~』
藍が慌ててお腹を押さえる。
「あ、ご、ごめんなさい。あれから何も食べていなくて…」
晃は思わず吹き出してしまった。
「ぷっあはは!分かったよ、じゃちょっと何か食べに行こうか」
藍が恥ずかしそうに俯いているのを見ると、晃は車を発進させた。
「もう一度、あのお爺さんに会ってみるっていうのはどうでしょう?」
藍はお皿の上でフォークを回しながら言った。藍の前にはミートソースパスタとサラダが並んでいる。
二人は近所にあるファミリーレストランに来ていた。二十四時間営業なので、話し合うには最適である。
「でも、あの爺さん。確か『主の使い』って言ってたよな。使いってことは本人じゃないんじゃない?」
晃もハンバーグ切り分けながら返した。
「あ、そんなことを言ってましたね…」
藍が巻き取ったパスタを口に放り込むと、恍惚の表情を浮かべる。相当好きなようだ。
「それに、次の満月まで一か月くらいはかかると思うしね」
晃がハンバーグを掻き込んでいると、
「でも、万が一ってこともありません?お爺さんなら私たちの状況分かってると思うし、他に手がかりがないし…」
藍の言うことも最もである。
自分たちのことを知っている人がいない現状で、元の生活に戻るのは不可能である。唯一全てを知ってそうな人物といえばあの爺さんくらいである。
「でもさ、俺たちもう自転車ないぜ?」
晃の言葉に藍は『あっ』と小さく呟く。二人の自転車はサイクリングロード終点で漆黒のトンネルに吸い込まれていしまったままだ。藍は少し考えてから、
「でも、とりあえず行ってみましょうよ。他にいい方法思いつかないし…」
晃はハンバーグ最後のかけらを口に放り込むと、
「そうだな。行くだけ行ってみるか」
そうして二人はレストランを後にした。晃の奢りで。
そして数時間が過ぎた深夜。
あのサイクリングロード入口には二人の姿があった。月はわずかに欠けているが、満月と言われればそう見えなくもない。二人は並んでサイクリングロードの入口へと立つと、
「我を助けよ!存在を消したまえ!」
そして、目を閉じてゆっくりと歩き出す。
すると以前と同じように生暖かく重い空気が流れたかと思うと、すぐに元の空気に戻った。
そして二人はゆっくりと目を開ける。そこには以前と変わらないサイクリングロードの姿があった。
「入れた…よな?」
晃と藍は頷きあうと足早に歩き出した。
自転車で結構な時間を要したサイクリングロードなのだから、歩きとなると更に時間がかかるだろう。しかし、他に手が思いつかない二人には唯一の手段である。
サイクリングロードを早足で進んでいくと、以前のような妙な現象はなく、ただ静けさの中で二人の足音のみが響く空間があった。あまりの静けさに思わず口を開く晃。
「で、でもさ。昨日までここに死にに来てたのに、今は生活を取り戻すためにここに来たって、変な話だよね」
自分で言っておいて我に返ってしまった。
藍も晃の言葉に思わず立ち止まる。
「…そう…ですよね。私、死にたいって思ってたはずなのに、何で今は助けてほしいんだろう…」
藍に合わせて立ち止まった晃も、藍の呟きに再び沈黙してしまう。
晃自身も薄々感じていた。昨日までは『死んでもいい』と思っていたはずなのに、今は真逆のことを考えている。何て都合勝手のいい頭なんだろうと、つい自己嫌悪に陥ってしまう。
一方の藍も、『死にたい』と思っていたはずなのに、自分の居場所が奪われ、自分の存在が忘れ去られている現実を目にした途端、真逆のことを考えてしまっている自分のことが分からなくなっていた。
晃も藍も、自分で望んだ結果なのに、今はそれを否定している自分がいる。この矛盾が二人の歩を止めていた。
「そういえば、あの爺さんも言ってたよな。死にたいようには見えないって」
晃が誰ともなく呟く。特に返事を期待している訳ではなく、自分の考えを纏めるための呟きである。
藍は無言で頷くと、再び歩き出した。まるで、今立ち止まっている訳にはいかないと行動で示すかのように。
その後も無言で歩き続けた二人は、意外にも日が昇る前には爺さんのいた山頂の駅跡に到着していた。早歩きとはいえ、ここまで早くつくとは思っていなかった二人は、互いに顔を見合わせるが、それも爺さんの姿を確認すると、それもすぐに忘れてしまう。
「ほっほっほ。やはりお二人とも来なすったな」
爺さんは穏やかな笑顔で二人を迎えた。そして更に言葉を続ける。
「途中で降りるとは、ここの主も初めだと言って驚いておったぞ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに晃は、
「なあ、爺さん。今の俺たちに起こっていること、全部知ってるのか?」
と、問いかけると、
「ああ。一応ここの番人じゃからな。お前さんたちが完走直前で戻ってしまったことも、周囲の人間がお前さんたちの存在を忘れていることもな。じゃから、後戻りはできんと言ったじゃろうに」
すると藍が一歩前に進み出ると、
「お爺さん、お願いします。私、あの居場所を奪われたらお母さんに…お母さんに合わせる顔がないんです」
手を胸の前で組んで懇願している。その様子を見た晃は、
「爺さん、俺からも頼む。何か元通りにする方法はないのか?」
すると爺さんは呆れた様子で、
「お主等、自ら死にたいと願ってここに来ておきながら、ちと都合が良すぎんかの?」
そう言われてしまうと二人は何も言い返せなかった。二人が考えていた通りのことを爺さんに突っ込まれてしまい、まるでイタズラの言い訳を考える子供のように押し黙ってしまった。
顔を伏せてしまった二人に爺さんは、
「まぁ、方法がないわけじゃないんじゃが…」
その言葉にゆっくりと顔を上げる二人。爺さんは続けて、
「じゃが…ちと難しいかもしれんの」
「難しいのは承知の上だ。教えてくれ」
晃の言葉に藍も続いて、
「お願いします。お爺さん」
爺さんは二人の瞳をのぞき込むと、
「…分かった。それは、お主等の存在を他人に認めさせ、今お主等の代わりにいるヤツの存在を否定することじゃ」
晃は首をかしげると、
「…つまりどういうことだ?」
「つまり、じゃ。お主等をよく知っとるヤツに『新田晃はこいつだ。じゃ、お前は何者だ!』という風に、存在を確認、否定させれば、今代わりにいる奴らは消滅するじゃろう。そうなれば、元通りに戻るじゃろう」
そこまで言うと、爺さんはどこから出したのか、お茶を一口啜った。
「よく知ってるやつって…親・兄弟なんかでいいのか?」
晃は一人暮らしのため、まだ親兄弟には会っていない。しかし、藍は会っていたが、どうも藍のことは覚えていないようだった。このため、藍の表情は曇る。
「お爺さん…私もうお父さんと会ったの。でもダメだった…」
すると爺さんは、
「なに、記憶は改ざん出来てもお主等の心の中にある思い出は簡単には変えられないもんじゃ。強い繋がりを持つ間柄には必ず何かしらの思い出があるもんじゃ。よーく考えてみなされ」
そういうと爺さんは、
「さて、長話が過ぎたようじゃの。わしは行くが、お主等は来た道を戻りなされよ」
そして、晃が止めるのも聞かずにさっさと行ってしまった。
晃と藍は爺さんに言われたとおり、サイクリングロードを戻ってスタート地点の駅へと戻ってきた。
空は朝焼け特有の爽やかな赤色に染まっていた。
二人はとりあえず近所の喫茶店でモーニングを頂くことにした。最近近所に出来た喫茶店が早朝からオープンしており、晃もたまに利用していた。
コーヒーを一口飲むと、晃はゆで卵を片手で弄びながら言った。
「まず、藍ちゃんのだね。何か心当たりというか、できそうな人いる?」
実に抽象的な言葉だが、今は二人の間で意味が通じればいい。晃がゆで卵の殻剥きに苦戦していると、
「いえ…それほど友達は多いほうじゃないです…あ、でも」
晃が粉々になった殻を一枚ずつ剥がしていると藍はさらに続けて、
「前に話した優なら…思い出したような感じだったし」
晃は一旦ゆで卵を置くとトーストを頬張る。
「藍ちゃん、その優さんの自宅は分かる?」
藍もコーヒーを一口飲むと、
「はい。分かります」
晃はゆで卵をそのまま口に放り込むと、
「よし。じゃ、そこから当たってみよう」
藍もコーヒーを飲む干すと喫茶店を後にした。