其の3
『あ、ちょっと! トイレの中に立て篭もらないでよ! 行きたかったんだから!』
ドンドンドン!
トイレの扉を叩く音。
だが裏切られ固く閉ざされた俺の心の扉は二度と開くことはないだろう。
「うるさい、黙れ。そのへんでしてこい」
俺はトイレの便座にどかりと座り込み腕組みをして言う。
『無茶言わないでよ! あんたの方がよっぽど鬼畜じゃないのよ!』
と、その時だった。
トゥルルルルル……!
PCが鳴った。
すぐさま俺は電話に出た。
「はい、こちら禄央区ライオンマンショントイレ内派出所」
『あら? これは新谷くんのPCじゃないんですか?』
その声に俺はハッとなった。
「みちる先輩! 無事ですか!?」
『もうっ、いきなりそんな大きな声出さないで下さい』
困ったような先輩の声。
先輩の声を聞いて俺はほっとした。
『あまり長い間話していられないので簡潔に話しますね。一応、規則でPCの通話を使ってはいけないことになっているので』
「はい。分かりました。今日、どうでしたか?」
『本格的な研修開始初日ということもあり、今日は研究の説明を聞かされました。私はやはり遺伝子治療の発達を目的とした研究部署に配属されるようです』
「そうですか……」
遺伝子操作を行っている部署の情報を集めにくくはなるが、それでいいと俺は安堵した。研究所に潜入させておいて言うのもなんだが、先輩にはできるだけ安全なところで捜査して欲しいのだ。
『後は研究所内を案内してもらったのですが、やはりこの研究所はおかしいです』
「詳しく聞かせてください」
『すいません。私もよく分からないんです。ですが、ある部署から誰かが叫ぶような凄い叫び声が聞こえたんです』
「叫び声?」
『はい。研究員の方に尋ねてはみたんですが……知らないほうがいい、と。その部署が――』
俺は先輩の言葉を先にとる。
「遺伝子操作の部署なんですね」
『はい』
…………人体実験。
有り得る。だとすれば、MSNで入手したリストの人たち。この街で起きている行方不明事件は――
気持ちが重くなる。おそらく遺伝子を操作されて廃人同様にされている可能性がある。動物たちが“キメラ”にされているように。
それが“コード:A計画”か……?
『ちょっと樹! 開けてってば! もう本当にやばいのよ……! 限界なの……!』
ドンドンドンドンドン!
人がせっかくシリアスな感じになっているというのにうるさい人だ。
『? 今の声は……もしかして橘さんですか?』
『エ・リ・よ!』
どうやら聞こえたらしく橘さんが扉の向こうから訂正している。
『そういうことですか。ロッジの一件も何かこの事件に関わりがあったのですね』
さすがみちる先輩である。すぐに関係性を導き出したようだ。
「すまない、先輩。経研部を使うような真似をしてしまって」
『いいえ。お二人には私が帰ってからたっぷり質問に答えて貰いますから』
「肝に銘じておきます」と苦笑いを浮かべる。
『今のところはそれぐらいでしょうか。地図はもう少し待ってください。思った以上に広くて……』
「はい、ゆっくりで構いませんから。目をつけられて先輩に危険が及ぶのもまずいですし」
『うふふ、心配してくれてありがとうございます。それじゃあまた連絡しますね』
通話が終わるとふうと息をついた。
と、その時だ。
ダゥン! ダゥン!
銃声がした。
見ると扉の取っ手が撃ち抜かれだらりとやる気をなくしていた。
ギギギギギ……。
扉がゆっくりと開くと、はんにゃのような顔をしたエリさんが俺に銃を突きつけて立っていた。
「出なさい」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
橘さんから見たこともないほど怒りのオーラが立ち昇り、髪の毛がゆらゆらと揺れている。その彼女の背後に俺はスターでプラチナな薄い人影が見えたような気がした。
俺は向けられた銃口に思わず両手をあげる。
「おいおい! 何もそこまでしなくたって――」
「うるさい! いいから早くそこをどきなさい! 十数える間に出なければ射殺するわ! 十九八七六五四三……!」
「わー! 待った、待った! 数えるの早いって! どく! どくから!」
俺は慌ててトイレから転がり出る。
橘さんは扉を閉めようとして、鍵が壊れたノブを見、こちらへと振り返って銃を再び突きつける。
「リビングに戻ってなさい」
「おいおい、いくら何でも俺だってそれぐらいのデリカシーは――」
ダゥン!
俺の頬を銃弾が掠める。
「戻ってなさい」
「はい」
俺は素直にリビングに戻って窓ガラスの破片を拾う作業を始めた。
「彼女。うまく潜入できたみたいね」
窓ガラスを拾っていると橘さんがハンカチで手を拭きつつリビングへと戻ってきた。
「まあ、もともと研修生として所属する予定の人だったからな。疑われることないはずだ」
俺は割れた窓ガラスから研究所を見つめた。
ひゅおぉぉおぉ、と冷たい風が吹いていた。
◇◇◇
テトラポッド社研究所の人気の無い屋上。
通話を終えると私はPCをポケットへとしまった。
「誰と話していたのかね?」
「!?」
急に声を掛けられて私はびくっと体を震わせて振り返った。
「……貴方たちは……」
そこには二人の男性が立っていた。
一人は同じ部署の堂時という男性だった。
身長は一七○後半。髪型はオールバック。今はその身を白衣に包んでいる。それが堂時という男性だった。
もう一人は見た事もない男性。
身の丈は堂時さんと同じか少し高いぐらい。どこかひょろりとしたか細い印象を受ける人で、銀縁の眼鏡をかけている。ここの研究員ではないのか、白衣ではなく薄い青のスーツをきっちりと着こなしていた。そしてその脇にはノートパソコンを挟んで持っている。
「内部情報を守るために携帯電話は禁止されているはずですが」
銀縁の男はにこりと笑い私を嗜めるように優しく言った。
ぞくり。
しかし、なぜか私の背中に悪寒が駆け抜ける。
この人……凄く嫌な感じがする……。
ズォオオオオオオォ……!
銀縁眼鏡の男性……。この人はどこか雰囲気が異質だった。
まるで人を人と見ていないようなそんな視線。
私の考えをよそに彼はにこにこと笑顔のままだ。
私は平静を装い、すまなそうな顔をした。
「すいません。どうしても家族の声が聞きたくなってしまって」
私のその言葉に彼らは顔を見合わせハハハと笑った。
「…………当然だな。君はまだ若い。家族が恋しくなるのも頷ける話だ」と堂時さん。
その時だ。
屋上の扉が開き、一人の女性がやってきた。
黒いジャケットを羽織った赤髪長髪の女性。とても綺麗な人で、それに加えてどこかカッコ良さみたいなものを感じる。
赤髪の女性はくいっと首で出入り口を指して言った。
「呼んでるわよ」
その言葉に銀縁眼鏡の男性はやれやれと肩をすくめてみせる。
「このことは内密にしておきますよ、禄央高等学園経済研究部所属、川澄みちるサン」
銀縁眼鏡の男性は私の横を通り過ぎる際、そう言って私の肩にポンと手を置いた。
この人……なんで私の名前……。
私は振り返り、歩いていく彼の背中を見つめる。
そのまま彼は赤髪の女性と一緒に屋上から出て行った。
扉が閉まる直前。
赤髪の女性は私にちらりと目線をやった。
「…………?」
「変な奴らだろう」
不意に堂時さんがそう言った。
「え、あ、いえ……」
表情に出ていたのか、私はすぐにお茶を濁した。
「彼はどういう方なのですか? ここの研究員ではなさそうですが……」
「…………それは調査かね? 川澄くん」
すっと堂時さんの眼が細くなる。
そんなことを言われ私の額に脂汗が滲む。
「フ、冗談だ。
……さあてな。彼らは何でもうちの重要な計画の手助けをしている一味らしい」
重要な計画?
まさか“コード:A計画”?
「ま、あまり気にするな。今日は早く休むんだな。疲れたろう」
堂時さんもそう言って出入り口へと向かう。
「ええ、有難う御座います。それでは、また」
堂時さんは私の言葉に歩きながら振り返り手をあげて応えると、そのまま歩いて行った。
…………嘘だ。
堂時さんは嘘をついた。
彼はおそらく彼らが何のためにこの研究所にいるのか、どういう人間たちなのかを知っている。
でなければこんな人気の無い屋上で二人で話しているはずがない。
私はふぅと息を吐いた。
「調べ甲斐があるじゃないですか……」




