其の1
「新谷くんの反応で確信できました」
どくんどくん……!
心臓が早鐘を打つように鳴り響いている。
制服が脂汗を吸って背中に張り付く。
「まさかアンサラーなんて人たちが実在するなんて」
呆気にとられている。
思考が鈍っている。
「嘘ついても駄目ですよ。新谷くんのことはよく見てましたから」
やっぱりカマをかけたのか!
彼女に俺がアンサラーであるという確信はなかった!
信じられないほどの推理力……。ロッジの一件から俺がアンサラーかもしれないと導き出したっていうのか?
なぜ先輩が分かったんだ……?
まだ安心はできない。その理由を訊くまでは……。
「不思議そうな顔をしていますね。これ、どうぞ」
彼女が差し出した一通の手紙。
それはどこかで見たようなキスマークのついた手紙だった。
『新谷樹はアンサラーだ。テトラポッド社の調査をしているぞ』
このキスマークは……あの女の差し金か……!
これで謎が解けた。部分的に知っている俺の情報。それは他人によって部分的に与えられたものだからだったのだ。
そして安心できた。
彼女は“敵”ではない。
その事実にほっと胸を撫で下ろす。
「なぜ言ってくれなかったのか、なんて問いませんよ。新谷くんには新谷くんの情報を守る権利があるんですから」
にこりといつもの笑顔に戻る先輩。だがその笑顔には少し黒いものが含まれているように感じられる。
「うっ」
ちくりと俺の胸に言葉が刺さる。
「ええ、そうですとも。アンサラーのことを調べて下さいとお願いした時も平気な顔で『よく分かりませんでした』なんて言うんですものね」
先輩は両手でコップを持つと、お茶をずずずと飲み、ほぅと熱い吐息を吐いた。
「ううっ」
く、空気が痛ぇ……!
「新谷くんにとって私たちなんて村人Aと代わりないんですね」
やはりにこにことしたままの先輩。しかし先輩から立ち昇る負のオーラが俺には見えている。
「せ、先輩……も、もう勘弁してください」
「いいえ、駄目です。私の中では目の前に宇宙人や超能力者がいるのと同じ状況なんですよ。興奮しないわけないじゃないですか」
どう見てもそれだけの理由だけではないように見えるが、そこはツッコまないでおこう。さすがにこの状況で藪を突く気にはなれない。
「でもこれをどうして先輩が持ってるんです?」
俺はテトラポッド社のパンフレットをひらひらさせながら最大の疑問だったことを問う。
「私がなぜ日本に戻ってきたのか、忘れちゃいましたか?」
みちる先輩はもう大学を卒業しているんだよな。そして日本に戻ってきたのは確か日本の研究所に就職するために帰って――
「まさか……! 先輩が就職する予定の研究所って……!」
「はい、そのまさかです。私が所属する研究所はテトラポッド社なんです。今は週末に研修を受けていますが、春休みからは泊り込みで本格的な研修が始まることになっています」
そうか。みちる先輩は遺伝子生命学を学んでいたんだっけか。
世の中ってのは狭いもんだ。こんなところで繋がっているとは。
「質問していいですか?」
「どうぞ。この際です。お答えしますよ」
「どうしてテトラポッド社を調査しているんですか?」
さて、どう話すべきか。
下手に隠さない方がいいか。その方が彼女が危険な場所へ就職しようとしていることが理解できるだろう。
「今、この街では“ヒューマンイーター事件”という殺人事件が起きています。俺の仕事はこの事件の全貌を明らかにし、止めさせることです」
「人食い……ですか」
俺の突拍子も無い話を、みちる先輩はすぐに信用した。これは決して俺がいつに無く真剣な表情だったからではなく、互いの愛が深いからこそ成せたことだろう。
「はい。狙われているのは政府関係者。そしてその殺し方は人間とは思えぬほど残酷な手口なんです」
「事件の名称から想像はつきます」
「この事件を調べているうちにある大企業が動物を遺伝子改良した“キメラ”を創っていることが判明しました。おそらく軍事力として使用するためだと予想しています」
「それがテトラポッド社なんですね」
俺は無言で頷く。
彼女は少し哀しそうにテトラポッド社のパンフレットを撫でてページを開く。そこには赤線などで言葉がピックアップされていて、彼女がよく読んだ形跡が残っていた。
「ご存知かと思いますが、テトラポッド社は遺伝子治療の研究をしているんです。遺伝子治療は現代で最も画期的な治療法と言えるでしょう。病気は遺伝子の欠陥が体に表れたものです。遺伝子治療はそれを根本から治療することができる。ガンやHIVも治療が可能なんです。これをもっと研究すれば多くの人が救われる」
みちる先輩はパンフレットを持ったまま夕日の見える窓際へと移動した。
「私の母の体はガンに蝕まれています。アメリカの病院で治療を受けてはいますが、発見した時には既に手遅れの状態で、もう余命幾ばくもないそうです」
先輩の肩が震えている。
「今からでは私が母を救うことは不可能でしょう。でも他の人たちは……母と同じ苦しみを味わっている人たちは救えるかも知れない。ちょっとでもそういった人たちの哀しみを減らしたかった。だからっ……私はテトラポッド社の研究所の就職を決意したんです……!
なのにっ……!」
ぐしゃりと彼女はパンフレットを握り締めた。
今まで自分のことを語らなかったみちる先輩。
もちろん俺だって初めて知ったのだ。
彼女がこれだけ遺伝子生命学に対する熱い想いを抱いていたことを。
ぽたぽたとパンフレットに雫が彩る。
「っ……遺伝子の研究を悪用するなんて……! 許せない……!」
希望が裏切りに変わったのだ。その哀しみは俺の理解できることではないだろう。
「みちる……先輩……」
俺は静かに彼女を背後から抱きしめようと近寄った。
と、その時、先輩が天井からぶら下がっていた白い紐をくいっと引っ張る。
がつん!
いきなり天井から金色のタライが俺の頭に降ってきた。
え? ドリフ? なんで? どこから?
俺は意味が分からずガランガランと転がる金タライと天井を何度も見直す。
そうしている間に先輩はごしごしと目元を拭うと、こちらへ振り返っていつものように微笑んだ。
「さて、ここからが本題です」
「なんですか? アンサラーについての質問ならある程度は答えますけど」
「いいえ、それは後ほど詳しく聞かせて貰います。私が貴方に問いたいのは、私に何かできることはないか、ということです」
そこで俺はやっと奴の真意に気づいた。
くっ……そういうことかよ! あのアマ……! これが狙いか……!
ニヤける赤髪の女の顔が浮かぶ。
俺はぐっと拳を握った。
潜入捜査。その言葉が俺の頭の中に当然浮かぶ。だがそれはあまりにも危険すぎる。一般人である彼女にそんなことをさせるわけにはいかない。
赤髪の女は――紗枝はこう言っているのだ。
『この女を使いなさい』
くそっ……! できるかよ、そんなこと……! だけど――
欲しい……!
俺はじっと見つめてくる先輩の視線から顔をそらす。
「潜入捜査……ですね」
「………………」
俺は黙ったままでいた。
「やっぱり。そうですよね。当然でしょう。それが私を一番有効に使える手だてですからね。
急いでいるのでしたら、明日からでも研修に参加することは可能ですよ」
「駄目です。先輩にそんなことさせられません。本格的な研修が始まればそうやすやすと家に帰したりしないでしょうし、学校にも来れなくなります」
俺は強い意志でもってきっぱりと言い放った。
「内部情報が必要なんですよね? 研究所で何が行われているか詳しい情報が必要なんですよね? 上に話せば遺伝子操作の研究に参加できるかも知れません。それに私ならある程度中を歩き回れます。造りを記憶してくることもできますよ」
内部地図。喉から手が出るほど欲しい。どれが最短の進入経路なのか、どこに俺たちの目的のものがあるか分かるかもしれないのだから。そして何より……中で何が行われているのかが突き止められるかもしれない。
一気に真相に近づくことができる。
いや、正直に言ってしまえば今のところ先輩に力を借りる以外に方法はない。ないんだが、それは同時に先輩がとてつもない危険を冒すことになる。
内通していることがバレれれば先輩の命はない。間違いなく。
それ以前に遺伝子改良の研究に参加すれば内部情報を知った先輩を簡単に家に帰したりするだろうか。いやない。先輩は研究所に閉じこめられることになる。
結局――
「考えさせてください」
俺は断れなかった。




