其の1
意識が覚醒する。
今日も何も変わらず朝がやってきた。
朝の日差しはどんな人間にも等しく降り注ぐ。
裕福な人間にも、困窮な人間にも、善良な人間にも、悪どい人間にも平等に朝はやってくる。
もちろん俺のようなろくでもない人間にもだ。
だから俺は朝が好きだ。
朝の光は俺も他の人間と同じヒトなのだと思わせてくれる。
「うっし」
俺はパシンッと頬を叩くとベッドから降りた。
俺には朝になると起こしに来てくれるような妹や幼なじみはいない。なので『もうっ、早く起きてよ! 学校に遅れちゃうよ!』的なイベントは発生しない。
ちくせう。非常に残念である。
どうして両親は妹をつくってくれなかったのか。もし俺に妹がいたら、それはもう猫のように可愛がっただろうに……。
「ガッデム」
俺はどこにいるか、生きてさえいるのかも知れない両親に文句を吐き捨てた。
一階に下りて食物を漁る。
一日は朝食をとるところから始めなくてはならない。朝食を食べるかどうかで一日の元気具合が変わってくる。だから、朝食を食べていない人はこれからはちゃんと食べるようにして欲しい。バナナ一本でもいいから食べておけば違うものだ。
と言う俺も買い置きのパンもなく、冷蔵庫の中には雪だるましか入っていなかった。去年、家の前で一人で寂しく作った雪だるまだ。
雪だるまの鼻になっていたニンジンをとってかじる。
腐っていた。捨てるのはもったいない気がするので、ふたたび雪だるまの鼻にしておく。
仕方ないので早めに家を出て、学校に行く途中にあるコンビニで食料を調達しよう。
制服に着替えて玄関から出る。『カチャジャキガコンッ』とドアがオートロックで何重にも鍵が閉まる音がした。誰かがこの家に侵入しようものなら各場所に備えつけてあるレーザー線で撃ち抜かれることだろう、はっはっは。
とことこと歩いて学校を目指す。まだ朝も早いせいか、周りに生徒の姿は見当たらない。それどころかサラリーマンや胸ドキュンなお姉様OLの姿もない。まるで世界に自分一人しかいないみたいだ。
コンビニで朝食を購入する。ついでにエロ雑誌も購入しておく。いやぁ健全な一六歳には必須でしょ。
コンビニから出るとちらほらと道を歩く人たちがいた。時計を見るともう登校や出勤の時間になっている。どうもエロ雑誌を選ぶのに時間をかけ過ぎたらしい。道理で店員が俺を不審そうな眼で見るわけだ。あれほどエロ雑誌コーナーで真剣に悩んでいる学生も珍しかったのだろう。
学校に向かって歩いていると前方に見知った後姿を発見。
私立禄央学園の薄い赤を基調にした女子の制服、後頭部につけた赤いリボン。
我が経研部こと経済研究部の後輩、桜咲菊だ。桜と菊が一つの名前に混ざってるとはなんてヤツだ、と出合った当時は思ったものである。
菊はいつもの短いスカートの裾をひらひらと翻しながら学校への坂道を歩いて行く。
ああ、なんて無防備な。あれでは誰かに襲われても文句が言えないじゃないか。ここは先輩として後輩に注意しなければならない。
ではスニーキングを開始する、大佐。
俺は忍び足でそろそろと彼女に近づいて行った。今の俺の足音はどんな些細な音を集音するマイクでも拾うことはできない。
これこそ樹マジック! 世界の真理さえ改竄するスーパースペクタクルショー!
俺は菊の美尻に手を伸ばした。
しかし、その果実を掴もうとした瞬間。
ゴスッ!
頭に何かが刺さって視界が揺らいだ。
俺はばたりと地面に倒れ伏す。
くっ……一体、何が……。
「だいじょーぶですか、樹先輩」
上から声が降ってきた。見ると菊が心配そうにこちらを見下ろしていた。
「き、貴様……何をした……。簡潔に述べてみろ……」
「はい。身の危険を感じたので所持していた物で対象を無力化した次第であります」
菊はえっへんとない胸を張って学生鞄を見せた。
「その武器は面積の少ない部分を使うと非常に殺傷力のある鈍器に変貌する。以後、その武器の使用権を没収する」
俺は地面に這いつくばって菊を見上げたまま言った。
「でもこれぐらいしないと樹先輩は止められないじゃないですか」
「それがそもそもの間違いだよ、キミィ。私を止めてはならん。そもそも人間は立ち止まるべき生物ではない。常に後より出でる子たちのために成長し続けなければならないのだ」
「はいはいゴタクはいいです。そんな事よりいつまで見れば気がすむんですか?」
菊はスカートの中を隠そうともせず俺を見下ろしている。
「薄い緑とはこれもなかなか……」
「もう、起きて下さいよ。他の人が見てますよ」
菊は俺の手を引っ張って立たせようとする。だが俺は強固の意志を持って抵抗した。
「ま、待ってくれ。せめてあと五分……! 俺が眼を閉じても思い浮かべられるくらいになるまで……!」
「ブー! タイムオーバーです。またの機会にご利用ください」
無理やり上半身を起こされ、俺は渋々と立ち上がった。
「改めまして。おはようございます、樹先輩」
「うむ、おはよう、梅」「菊です」
俺がボケたのと菊がツッコミをいれたのは同時だった。
「あー、そうだったな、松」「松でもないです」
さらに俺がボケたのと同タイミングでツッコミを入れる菊。
「………………」
「てへっ」
俺が睨むと菊はぶりっ子のように舌をちょろっと出してコツンと拳で自分の頭をうつ。
「菊りんっていつもこんな早い時間に登校してんの?」
「菊りんって呼ばないで下さい。
早いですか? フツーだと思いますよ」
俺と菊は何事もなかったかのように歩き出した。
「そうかな。俺なんかいつも予鈴ギリギリに教室に入ってるから、こんな時間に登校するのが新鮮に感じるけど」
ペラッ。
「先輩みたいにギリギリに登校する人にすればそりゃ早いでしょうね。でもこの時間帯が一番登校してる人が多いですよ。知り合いにもよく会いますもん」
ペラッ。
「そういえば今日クラブあんのかね」
「それは部長に訊かないとわからないですよ。でもあってもなくても同じような部活じゃないですか」
ペラッ。
「確かにあれほど自由奔放に部活動している部活も他にないだろうな」
「部室にゲーム機がありますしね。誰が持ち込んだんですか?」
ペラッ。
「あれは廉人が何かの賞品で手に入れたものだったと思う。テレビは使ってなかったやつを俺が家から運んだんだ」
「そうだったんですか」
「だっだんだ」
ペラッ。
「あのぉ……ところで樹先輩?」
「なんだい、菊っち」
「堂々と隣でえっちな本を読むのやめてくれませんか」
俺はエロ雑誌から視線をあげた。
「なんだ……菊っちも読みたいの? ほら、今ちょうどいいところだよ。ビール瓶が入るなんて人の体って凄いよね。もうお兄さんドキドキだよ」
俺は開けていたページを菊に見せた。
「うわー。これはキツそうですねぇ~」
「今度試してみる? かなりハードル高いと思うけど」
「いやぁ菊はまだ処女でいたいんで拒否させてもらいます。って、そういう話じゃないんです。そういう本は人のいない所で一人で読むものだと思うんですよって話です」
もちろん俺一人ならこんな公共の道路でエロ本を読みながら歩くことなどしない(するけど)。それではただのクレイジーくんだ(クレイジーだけど)。だが菊と二人で歩くことで間接的な羞恥プレイが成立してしまうのだ。うむ、実に素晴らしい樹マジックだ。
だが菊は俺のそういう責めに慣れてしまったのか受け答えも実にさっぱりしたものだった。少しも嫌そうな顔をしない。
「もっとこう『樹先輩のえっちぃ! ばか! なんてもの見せるんですか!』みたいな反応してくれよ。出会った当時はあんなに顔を真っ赤にしてたじゃないか」
「樹先輩に鍛えられましたからね」
と、やはりない胸を張る。
「そうか。俺が菊を汚してしまったんだな」
俺は目頭を押さえておいおいと悲しんだ。
「そうですよ。樹先輩は取り返しのつかないことをしたんです。責任とってください」
菊は頬を染め少し唇を尖らせる。
うっわ。やっぱかわええ、こいつ。
菊はかなり可愛い部類に入る。本来ならば恋人の一人や二人は軽々と作ってしまえるだろう。だが嘘や曲解が入り混じった噂を持つ経研部の部員であるということが男どもが手を出せずにいる原因だろう。まあ、その噂はあらかた俺がでっちあげたデマなのだが。
しかしそれでも菊に言い寄る男はいるようだ。いつ彼女が俺から奪われてしまうかと思うと焦燥にかられる。なのでいっそこの場でさっさと自分のものにしてしまおうと思う。
俺は菊の華奢な肩をがしっと掴んだ。驚いたように俺を見上げる菊。
俺はすぅと深呼吸してはっきりと言った。
「いやです」「結婚しよう」
俺が言う前に菊は却下した。
「うおぉぉおおん! フラれたああ! 一世一度のプロポーズなのにいいいぃ!」
俺は運悪く近場にあった神楽坂さんの家の植木鉢の花をぶちぶちと引き抜いた。
「樹先輩、樹先輩。落ち着いて、落ち着いて」
菊は俺の背中を撫でていた。
平静を取り戻した俺はフッと髪を掻き揚げて振り返る。
「さ・て・は俺の愛を試しているな、菊っち」
「残念でした。試してません。
だって樹先輩、色んな女の子に声をかけてるじゃないですか。先輩の告白ほど信じられないものはないですよ」
呆れた表情を見せる菊っち。
「告白じゃなくてプロポーズだったんですけど……。でもまあ、あれは菊りんの俺への愛を試してるんだよ。あれごときで鞍替えする菊りんじゃないよねッ」
俺は少年のような笑顔でビッと親指をたてた。
「試さないでください。嘘つかないでください。菊りんって呼ばないで下さい。
だいたい樹先輩は顔がいいんですから、もうちょっと性格を改めればすぐ恋人が見つかると思いますよ」
「顔で決めるような愛なんかいらないよ! この新谷樹というエロの権化として生まれたボクの存在自体を愛してくれる人と愛を育みたいんだよ! 菊りん!」
「とてつもなく困難なことを言いますね、樹先輩」
「いーや、俺は分かってるぞ、菊! 最後には俺の胸の中へきてくれるんだよな!?」
「朝からテンション高いですよね、樹先輩。あんまりバカばっかりやってると遅刻しますよ」
菊は体ぜんたいで愛を表現している俺を放ってすたすたと歩いていく。
「あははは、待ってくれよ、菊りーん!」
俺は砂浜でイチャつくカップルのように満面の笑顔で菊を追いかけた。
「菊りんって呼ばないで下さいっ!」
◇◇◇
ガラッ。
「おっはよー!」
教室についた。教室内にはもう既に何人もの生徒が来ていて、友達と談笑している。
こう言っちゃなんだが……。
俺は友達が少ない!
おっと失礼。ついつい心の声が大きくなってしまった。
自分でも顔はいい方だと思う。いわゆるイケメンというやつだ。性格も明るくて誰とでも気が合うはずだ。だというのに俺に友達が少ないのは、とても不思議な現象だといえるだろう。モルダー捜査官でもこの謎は解けまい。ははは、ファイルを編集しなおすんだな、モルダー。
はっはっはと笑って俺ははぁとため息をついた。
「んお? こんなところで猿みたいに反省ポーズしてどうしたんだ。つか、えらく早いな、樹。今日は寝坊しなかったのか?」
と、そこで数少ない俺の友達の秋原廉人が声をかけてくる。
廉人は身長が俺と同じくらいの男だ。俺と同じ経済研究部に所属している。今風然としたヤサ男で、よく女の子と街で遊んでいるのを見かける。そう、信じられない話だがこの男はやたらとモテる。
「俺はいつも早く起きてる。ただ知的階級な俺様は朝のブレイクドコーヒーを楽しんでいると遅刻ぎりぎりになってしまうのだ。これだから日本人って奴は働き蜂だって言われるんだ。もっと時間に余裕を持って楽しまなきゃ人生損だよ、チミィ」
「壊れたコーヒー? 言ってろよ、自称知的階級」
廉人は俺の言葉を完全に受け流していているようだった。これだから無駄にスルースキルの高い奴は困る。
「樹、昨日のニュース見たか?」
「ニュース? いや、見てない。昨日は忙しかったからな」
俺は自分の机に腰かけた。廉人は俺の前の席の椅子に座る。背もたれに両腕を乗せて、跨るようにして座っていた。
「昨日、賊がMSNに侵入した」
「MSNっていったら日本が誇る大企業だな」
俺は記憶を辿るようにアゴに手をあてて呟く。そんな俺の様子と打って変わって、廉人は真剣な眼差しで俺を見て言った。
「アンサラーだ」
「またその話か」
俺はうんざりとした表情を見せる。
「だって、そうとしか考えられないだろ? MSNに侵入なんてちょっとやそっとでできる芸当じゃないぜ。アンサラーは実在するんだよ」
「アンサラー……ねぇ……。にわかに信じられないけどな」
「アンタ、経研部のくせにまだアンサラー否定してるわけ?」
そこに新たな声が加わった。声がした方を振り向くと、そこには制服を身にまとった女子生徒が立っていた。
「あ、水崎さん。おはよう」と廉人が笑顔でその女子生徒に挨拶する。
「よぉ、ツンデレ」と俺も挨拶した。
「誰がツンデレよ! いつ私がアンタにデレたって言うのよ!」
バンッと机を叩く水崎。
「隠さなくても俺はちゃんと理解してるからな、水崎! 俺もお前のことを愛してる!」
顔を真っ赤にしたツンデレラこと水崎は手をボキボキと鳴らした。
「……ちょっとヴァルハラ観光旅行にでも行ってくる?」
「計画性の無さそうな旅行は遠慮しておこう。いつ帰れるか分からないからな」
両手をあげてハハハと爽やかに笑ってみせる。
「旅先で永住したら?」
水崎はとびっきりの笑顔を見せていた。しかし、額にぴきぴきっと青筋がたっているのを俺は見逃さなかった。
「相変わらず二人とも仲がいいな」と廉人が火に油を注ぐような無責任な発言をする。
「誰がっ! どう見たら仲良く見えるっていうのよ!」
水崎は廉人の胸ぐらを掴んでがくがくと揺さぶる。
「落ち着けよ、水崎。もう俺たちの関係を皆に話してもいい頃じゃないか」
なので俺はさらに油を注いでみた。
「アンタとの接点なんてクラスメイト以外にこれっぽっちもないわよ! 誤解されるような言い方すんな!」
ばこんっ。
頭をスリッパで叩かれた。すぐにリアクションを返してくれる水崎はなんてからかいがいがある奴なんだろう。
これほどいじりがいのある奴も珍しい。
「それで……昨日の事件の話をしていたんでしょう?」
「なんだ。水崎も知ってるのか」
「知ってるも何もニュースで流れてたじゃないの」
「たぶんその時間はアニメ見てた。ちなみに『マジカル☆きゅ~と!きづなちゃん』な」
俺がそう答えると、水崎は親指でこめかみを押さえた。
「あんた……高二にもなってアニメ見るのやめなさいよ」
「俺だけじゃない。廉人も見てる」
「見てねぇよ! 適当なこと言うなよ!」
廉人は机をバンッと叩いて否定した。
「そんなのどっちだっていいわよ。
とにかく、MSNに何者かが侵入して警察が出動したって話よ」
「犯人は捕まったのか?」
俺は二人に尋ねる。
「捕まってるわけないだろう。相手はアンサラーだぞ?」
さっきから二人が何度か口にしているアンサラーという存在。それは非公開で存在しているといわれる言わば“何でも屋”のことだ。依頼に必ず応えるということから“アンサラー”と呼ばれるようになったらしい。
だがしかし、アンサラーの存在は噂でしかない。そもそも政府はそんな存在を認めていないし、アンサラーが存在する証拠なんてゆうのももちろんない。ようするにUFOとかUMAと同じなのだ。存在するかしないか分かっていない。
先ほどアンサラーのことを“何でも屋”と言ったが、廉人に聞く限り本当にそれだ。殺し、盗み、情報集めと金さえ払えばなんでもやるとのこと。
よくある都市伝説の一つだ。
国を国として経営できなくなった借金大国の日本は大企業を頼った。不甲斐ないことに大企業のバックアップによって国政を運営しているのだ。そのため大企業が政治に絡み始めたのは記憶に新しくない。
それからしばらくして、いつの間にか日本では企業同士が互いに壮絶な争いを繰り返す時代になったのだ。あの企業の重役さえいなければこちらの運営がうまくいくのに。そんな思いは誰もが抱いているだろう。そんなことは俺でも分かる。そしてそれを実行してくれるのがアンサラーという存在、ということらしい。
それも噂が大きくなりすぎたのかそのアンサラーとやらは国境さえも超えて活躍しているのだとか。だから政府や大企業はひたすらアンサラーの存在を否定し、隠し通しているというのである。
「アンサラーが実在するとしたら超人だぜ。そんな奴らいるわけないだろ」
俺は呆れ気味に言ってやる。
「アンサラーはいるって!」と廉人が断言する。
「アンサラーが実在するかどうかはともかくとしても、企業や政府間で暗躍してる人間がいるのは確かよ。
有名な事件をあげると竜田鉄鋼の社長が本社ビルの屋上で死亡していた事件や九条原コーポレーションの重役の爆死事件、アメリカSFG取締役が狙撃されて殺されたことだってあるわよ。
これ全部犯人が見つかってないどころか目撃者さえいないんだから」
「あの事件で株価がえらく下がったよな、どの企業も。って経研部でもないのに詳しいな。もう入部しちまえよ」
「たまには樹も良いこと言うじゃないか。水崎さんも経研部に入ったら?」
俺の言葉に廉人も水崎に入部を勧めた。
「い・や・よ。同じクラスだってだけでも、うんざりしてるのにどうして部活まであんたたちと顔を合わせなきゃならないのよ。
それにあたしが興味あるのは経済の流れなんかじゃなくて、アンサラーと呼ばれる存在そのものだもの」
「そうか。せいぜいアンサラーに暗殺されないように気をつけろよ。おまえは可愛いからな」
「思ってもないことを……。
まあ、いいわ。そのうちアンタにアンサラーの存在を認めさせるんだから」
そう宣言すると水崎はすたすたと自分の席に戻って行った。
「本気で言っているのにどうしてみんな俺の言葉を信じないんだ?」
「自分の胸に訊いてみろよ」
廉人はやれやれと首を振っていた。