表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/22

青春スクエア ~綾崎翼の片思い~ 小学生編5

投稿すると決めていた小説の原作を、クラスメイト達の手によってバラバラに切り刻まれてしまった。

そのため、全ての欠片を拾う事は出来なかった。

それでも翼は切り刻まれたノートの――

小さな欠片を集めるだけ集め、セロハンテープで繋いでいった。

失われた一行や言葉は、新しく考え直す。

覚えている範囲は改善を加えてパソコンへと打ち込んでいく。

寝る間も惜しんで失われた時間とページの分書き進めていくのだが。

翼はいつも最低七時間は寝るようにしていた。

それだけは絶対の事だった。

七時間寝ると平均寿命が伸びると本に書いてあったのを見てからずっとそうしている。

早く眠れる時はもっと早くベットに入って眠るのだが……。

そのようにして、翼の生活は本で得た知識を使いながらの日々を過ごしていた。

そんな生活をしていると、一日など一瞬で過ぎ去るようで――

気が付いた時にはもう小学校三年生へとなっていた。

三年生になり、二年生だった頃の事を思い返してみる。

――あれから学校で誰とも関わらず、毎日話を仕上げる為に遅くまで手を動かしていた。

毎日同じ日々。

変わりようのない毎日。

面白くもない、つまらない日々。

その証拠に、翼は笑ってはいなかったのだ。

あれからほとんどと皆無と言って良いほどだ。

そんな日々を一変してしまう――

翼の人生を変えてしまう年がついに、来てしまった。




〝蒼泉の歌声はまるで空のように透き通り、風のように何処までも響き吹き抜ける。

――この歌声で、人々を笑顔に出来るようになりたい。

笑顔と幸せを与えられるような、そんな人間になりたい。

蒼泉はそんな願いを歌に込めながら歌う。

願いを込められた歌声は優しくも暖かく、包み込まれるような歌声だった――〟

そこまでパソコンに打ち込み、翼は手を止めた。

右手を顎に添え、原作の書かれているノートとパソコンを交互に見つめながらこの先をどうするかと考える。

話の構成はもう頭の中で出来上がっている。

結末も思い付いていた。

後はそれを形にしていくだけ。

それは簡単な事だ。

一度思い付けば手が止まらなくなり、時間も忘れて書いてしまうので問題はない。

しかし――

翼はパソコンから少し離れて、ある人物の事を思い出す。

それは、両親の事だ。

もうそろそろ、両親に小説を投稿する事を告げても良いだろう。

その事を思い出したのだ。

両親と話をしなくてはいけない。

そう思い、翼は勉強机の上に置かれた卓上型の小型カレンダーを見つめる。

(――今週の土曜にでも、病院に行こうかな)

藤森先生を通じて、両親に一度家に帰って来てもらうように言ってもらう。

最初、そう考えていたのだが……。

土曜日になり、翼は病院へと向かった。

いつも藤森先生の居る、桜の木の下へとすぐに足を向けたのだが――

そこには、藤森先生とパジャマ姿の少年が居た。

年齢は高校生くらいか。

最近良く、藤森先生はあの患者と一緒に居る。

流石に翼はそんな藤森先生の元へ行って声を掛ける事はしなかった。

それに少年と仲良さげに話している藤森先生の表情がなんだか、今まで見た事がないほど穏やかで。

とても優しくて。

そんな藤森先生に声を掛ける事など出来なかったのだ。

そのため、翼は藤森先生に言伝を頼むのは諦めて幼い頃から知り合いのナースに頼む事にした。

病院の正面玄関から病院内に入り、翼はナースステーションへと向かう。

白く長い廊下を歩き、ナースステーションの前まで来たのは良いのだが。

ナースステーションのカウンターが少し高く、翼の身長ではナース達からは姿が見えない。

なので翼はカウンター横の出入り口から顔を覗かせた。

中に居るナース達に声を掛けようとした時。

「あらぁ! めぐみ君じゃない!」

聞き覚えのある女性の声が聞こえ、翼は振り返る。

そこにはナース服を来た四十代くらいの女性が立っていた。

そのナースの顔には見覚えがあった。

幼かった頃、良くこの病院に来ていた。

その時に良く話をしたり、遊び相手をしてくれていたナースだった。

ナースは少し腰を下ろしてなるべく翼と目線を合わせて口を開いた。

「随分と大きくなったわねぇ……今何年生?」

「小学校三年生です」

「まぁ! もうそんなに大きくなったのねぇ。確かに、私ももう五十に手が伸びる寸前だもの。それくらいよねぇ」

「ねぇ、悪いんだけどお父さんとお母さんに一回だけでいいから家に帰ってきてって伝えてくれない?」

「わかったわ。ちゃんと伝えておくわね。何か大事な話でもあるの?」

「うん。そうなんだ」

「じゃあ絶対に伝えておくわね」

「うん、お願い」

「ちょっといいですかー?」

「あ、はーい。今行きます。じゃあまたね、めぐみ君」

呼ばれるとナースはナースステーションの中へと入って行った。

目的は済ませた。

もうこの病院に居る理由はない。

すぐに病院から出て家に戻り、話を書かなくてはいけない。

そう思いながら正面玄関へ向かうのだが――

廊下でふと、足を止めた。

どうしてだろうか。

何故だか、もう少しだけこの病院に居たいと思った。

幼い頃、良くこの病院内を彷徨いていた。

懐かしい人に逢ったからだろうか?

あの時のように、無邪気に歩き回りたいと思ったのだ。

そう思うと同時に、翼は正面玄関ではなく病室の方に向かって足を向けた。

幼い頃から小学校に上がるまでずっと、ここに居た。

小学校に上がるとこの病院に来る事はなくなった。

その上に藤森先生と逢ってからは病院内で話す事はあまりなくほとんどが外で話をしていた。

本当に数えるほどしかないのだ。

そのせいか、病院内が懐かしく感じる。

所々手直しした形跡があるが、あの頃とは何一つ変わっていない。

三年ぶりぐらいか。

こうして病院内を歩くのは。

昔のように病院内を歩いていると、とある病室が視界に入った。

その病室の扉が少しだけ空いており、翼はその病室内を覗いてみる。

特に何もなく、他の空いている病室と同じ光景がそこには広がっていた。

何も変わった事はなく、翼は何の躊躇いもなくその病室に入る。

どうやらこの病室は個室のようで、ベットが一つしかない。

その上に、どうやら誰も使っていない部屋のようだ。

所々に埃が被っている。

ベットにも少し埃が被っていたが、その埃を少し払いそのベットに腰を下ろす。

誰も使っていないベット。

それにこの病室は個室。

とても静かで、心が穏やかになる。

ここならば、良いアイディアが浮かびそうだ。

そして、翼は気付いた。

この窓からは下にある公園が見える事に。

そこに、藤森先生と先程見た患者が楽しそうに話をしている光景が見える事に。

しばらく藤森先生達を見つめていると少年が手を振ると少年は病院の方へ戻って行った。

すると、そこには藤森先生一人だけが残された。

そんな藤森先生の姿を見ても、翼は藤森先生の元へ行こうとは思わなかった。

今日の目的は既に果たした。

今は――

少し、落ち着く時間だ。

ゆっくりする時間だ。

どうしてだか、この病室に居ると安心する。

この病室には、自分の部屋にはない何かがある。

「……今度から話を書く時はここに来ようかな」

翼は小さく呟いた。

だが、安心感からか睡魔が襲って来てすぐに立ち上がる。

このままここで眠ってしまってはいけない。

話の続きを書かなくてはいけない。

そう思い、翼はすぐに病室から出て行った。

 それからの翼は、話が煮詰まった時などにあの病室へ行くようになった。

何も考えたくない時などに行くと、心が安らぐのだ。

その理由はわからなかったが、あの病室へ行くようになった為病院に行く頻度も多くなった。

そのおかげか、書いていた話も大分書き進められた。

そんなある日の事。

いつものように目覚まし時計の音で目を覚まし、制服に着替えて学校へ行く準備をする。

準備が整うとランドセルを手に、一階へと降りて行く。

洗面所で顔を洗い、ランドセルを玄関に置いてリビングの扉を開ける。

いつもと同じ動作を繰り返す。

いつもと同じなので、リビングの台所には森さんが立っており、丁度朝食の準備が整った様子だ。

「おはようございます、翼様」

「おはよう、森さん」

「お話の方は進んでいますか?」

「うん。このまま書いていったら書き終わりそうだよ」

「そうですか。それは良かったです。では、朝食を食べましょうか」

「うん」

何も変わらない朝。

変わる事のない日々。

翼はそう、思っていたのだ。

学校が終わり、家に帰ると森さんが家に居て夕食を作ってくれる。

夕食を食べ終えると出海さんが家に来て、勉強する。

出海さんが帰ると、話を書く。

いつもと何も変わらない。

対して変わらない。

なので、気付くわけがなかった。

いや、気付けるはずがないのだ。

放課後になり、翼は家に向かって帰る。

今日は何処まで話を書き進めようかと考えながら。

いつもと何も変わらない。

翼は家へと戻った。

玄関の扉を開けて、手洗いうがいをして自分の部屋に戻る。

何も変わらない。

――しかし、今日だけは違っていたのだ。

玄関の扉に手を掛けた。

だが、ガチャッと玄関の扉には鍵の掛かった音が耳に届いた。

いつもなら、玄関の扉に鍵は掛かっていない。

掛かっている時は森さんが買い物に行っている時か、少し遅れて来る時ぐらいだ。

それか、用事があって先に夕食だけ作ってくれている時だ。

(なんだ。森さん、今日はいないのか…)

そう思いながら持っていた家の鍵で玄関の扉を開けた。

家の中に入り、鍵を閉める。

それからいつもと変わらない動作を行う。

手洗いうがいをする。

そして、リビングの扉を開け放つ。

――何も変わらない日常。

それが、非日常へと変わる瞬間だった。

食卓の上には、いつもと変わらない森さんの作り置きされている夕食が置かれていた。

やはり用事で出ているのかと思いながらも、自分の席の方へ行く。

自分の席にはいつも置き手紙がされており、翼はその置き手紙を手に取って見る。

だが、そこに書かれていた事を見て翼は驚いた。

置き手紙に書かれていたものは――

〝このような別れをするのと、ちゃんと目を見てさよならを言えなかった事。本当に申し訳ありませんでした。

きっと翼様は驚いているでしょうが、実は私の家政婦としての仕事は今日で終わる事になっていたのです。

先日旦那様から〝今の翼様ならもう家政婦は必要ない〟と言われましたので。申し訳ありません。

ですが、大丈夫です。翼様なら何でも出来ます。

出来れば翼様の書いた話を読んでからやめたかったのですが……。

翼様、頑張ってください。

翼様ならばどんな事でも乗り越えていけます。あなたはそんな人です。

どうか、お元気で。 森〟

そのような――

別れを告げるような置き手紙だったのだ。

その手紙を読んだ瞬間、一瞬思考回路が停止した。

いや、時間も止まったかのような感覚がした。

突然過ぎる。

前々から言ってくれれば良いのに。

そうすれば、心の準備が出来たのに。

――いや、きっと森さんの方も言えなかったのだろう。

きっと、翼からの別れの言葉を聞きたくなかったのだ。

それか。

以前、森さんが家庭教師が来ると言ってくれた時の事を思い出す。

あの悲しげな表情を。

あの顔を翼に見せたくなかった。

或いはその両方かもしれない。

翼はそう思った。

だが、それだけじゃないかもしれないとも思った。

翼は自分の胸の辺りを手で押さえる。

鋭く冷たいものが、胸のこの辺りに留まる。

これが胸に留まり続けると――

鼻の奥がツンと痛くなり、目頭が熱くなる。

きっと今の自分の表情は――

翼はベランダのある窓の方を見つめる。

まだカーテンは閉められておらず、窓には翼の姿が映し出された。

そこに映し出された翼の表情は。

今にも泣き出しそうな表情だった。

翼は映し出された自分の顔を見て顔を歪めた。

(家でも……一人……?)

学校で一人。

家でも一人。

更には、今まで森さんのしていた家事全般を全部一人でしなくてはいけない。

森さんが居た頃は手伝いをしていた。

その度に森さんは上手に出来たと褒めてくれた。

なので、出来ない事はない。

出来ない事はない、のだが……。

どうしても寂しい。

今までは何とか耐える事が出来た。

それは森さんが居てくれたからだ。

森さんが、優しく話を聞いてくれたからだ。

しかし、そんな森さんまでもが居なくなってしまった。

「……一人は嫌、だな……」

翼は小さく呟く。

その小さい呟きは翼しか居ない、大き過ぎる家に小さく響き。

誰にも届く事はなく、儚く消えてしまった。

一人を意識すると、どうしても涙が溢れてくる。

どんなに涙を拭っても、その都度涙は溢れ出した。

何も変わらないと信じていた日常。

そんな日常は簡単に崩れ去り、非日常は突然訪れた――




 それから少しして。

何とか翼は一人で生活が出来るようにはなった。

しかし、近々両親と話をしなくてはいけない。

何故急に森さんをやめさせたのか。

それから、小説を投稿する事について話し合わなくてはいけない。

そう思うとすぐに翼は休みの日に病院へと足を向けた。

両親に一度家に帰って来てもらって、話をしよう。

翼はそう強く思いながら正面玄関から病院内に入った。

藤森先生の姿が見当たらなかったのでまた知り合いのナースに伝言しようと思った時。

廊下の一番奥から、白衣を着た医者の群れが翼の居る方に向かってやって来た。

群れの中心となって歩いている男性を見て、翼の脳裏に幼い頃の記憶が過ぎる。

〝お前は将来、この病院を継ぐんだ〟

「――――お父……さん…」

確かに、中心になって歩いているのは翼の父だ。

幼い頃に話した時と何も変わっていない。

翼は一瞬、どうして良いのか迷った。

このまま直接父に帰って来るように言うべきか。

選択肢はそれ以外に無いのだが――

視界の先に居る父は、とてつもない威圧感を放っていた。

声を掛け辛い――厳しいような、そんな雰囲気を放っていた。

声を掛けるべきかどうか迷っていると――

一瞬、父が翼の方を見て目が合った。

声を掛けるチャンスは今しかない。

それでも、どうやって声を掛けて良いのかわからない。

――もう、何年ぶりに逢うだろうか。

幼い頃、どうやって父に話し掛けていたのかすら思い出せない。

それほどの年月顔を合わせていないという事だ。

声を掛けたいのに掛けられない。

翼が困っていると――

父は引き連れていた医者達に何か言うと、真っ直ぐ翼の方へ向かって歩いて来た。

そして、父の方から話し掛けて来たのだ。

「学校で勉強の成績はどうだ?」

いきなり、そんな質問を投げ掛けられた。

どうしてそんな事を聞くのかと不思議に思い、父の顔を見てみると――

とても厳しい、逆らえないような。

そんな雰囲気を醸し出していた。

「学年、一位……です」

思わず敬語で喋ってしまうような。

とてつもない威圧感が目の前にはあった。

翼の返事を聞くと父は。

「そうか。もっと勉強するんだぞ」

それだけを言い残し、その場を立ち去ろうとした。

両親に帰って来てもらうように伝えなくてはいけない。

このまま、父を行かせてはいけない。

そう思い、翼は行こうとする父を呼び止めた。

「待ってください!」

「――なんだ?」

振り向きざまに父は翼を睨み付けた。

父の視線は突き刺すように鋭く、氷よりも冷たい。

まるで蛇に睨まれた蛙のように身体が固まった。

しかし、怯んでいてはいけない。

己を奮い立たせて、口を開いた。

「……一度、家に帰って来てはくれませんか……?」

「どうしてだ?」

父の放つ威圧感に押し潰されそうになる。

それでも翼は父の目を静かに見つめ、口を開いた。

「将来について、話し合いたいので。出来れば家族三人で……」

「――――」

父は無言で翼を見つめていた。

翼もまた、静かに父の目を見つめていた。

しばらくの間、沈黙が訪れ――

やがて父が口を開いた。

「良いだろう。近々家に戻ろう」

それだけ言い残すと、父は翼の前から立ち去った。

父が居なくなった瞬間、押し付けて来るような威圧感が一瞬で消え去った。

緊迫とした空気が消え去り、安堵の息を漏らす。

――血の繋がった家族だと言うのに。

どうしてこんなにも緊張したのだろうか。

自分でもわからなかったが、一つだけわかった事がある。

父の放つあの雰囲気には逆らえないのだと。

反射的に父を怒らせてはいけないと悟った。

それに身体が従ったような――

そんな感じがした。

翼は父が去っても家に帰る気になれなかった。

このまま家に帰っても、出海さんが来るまでは一人なのだから。

あんなに広い空間に一人。

それが少し嫌だった。

一人で居るのは好きであり、嫌いでもある。

しかし、あの広い家に一人で居るのだけは嫌いだ。

そう思いながら病院内を彷徨っていると。

いつの間にかとある病室の前に来ていた。

そこは、先日見つけた病室。

翼はすぐに病室に入り、少しベットに横になった。

――これくらいの広さで一人なら良い。

安心出来るのだ。

病室の白い天井を見上げながら、小説の続きについて考える。

次はどのように書こうかと。

そのようにして色々と考えていると、徐々に睡魔が忍び寄って来た。

そして自然と目が閉じていった。

ここ最近、小説を書き進めるために夜遅くまでずっと書き続けていた。

そのせいだろう、睡魔が襲って来たのは――

翼はその睡魔に身体を委ねた。

そうして、翼は意識を手放した。

――しばらくして、翼の意識が現実へと引き戻される。

天井がいつも見る光景とは違い、真っ白な天井。

白い天井をぼんやりと見つめ、自分が病院に来ていた事を思い出す。

起き上がって帰ろうとは頭の片隅で思うのだが、まだ少し眠くもうしばらく眠ろうかと思った時。

視界の端に、病室の壁に掛けられている時計が入った。

時計が指し示していた時間は午後二時半になっていた。

それを見て、出海さんが家に来る時間を夢現で思い出す。

その瞬間、急激に意識が覚醒した。

飛び起きて翼は慌てて病室から飛び出した。

全速力で走り、風を切って家へと戻っていく。

そのおかげでなんとか出海さんが来る時間までには家に着く事が出来た。

非日常に変えられてしまった生活。

そんな非日常を日常にしていこうと翼は頑張っていた――




 病院で父と話してから一ヶ月ほど経った頃。

一ヶ月経っても未だに両親は家に戻っては来なかった。

翼はいつ両親が来ても良いような生活をしていたのだが――

どんなに待っても両親は来ない。

その事に少しショックを受けながらも翼は両親を待ち続けていた。

しかし、最近では両親の事が気になりあまり話が書けていない状況だった。

気掛かりな事がありながら話を書けるほど翼にはプロ意識はなかった。

そのため、最近では本を読む時間が少しだけ増えていた。

その日も翼は本を借りるために学校の図書室に来ていた。

新しく入った本を手に取り、その場では読まずすぐに貸し出しカウンターへ向かい借りる。

そうして、本を数冊借りて家で読む。

それが最近の翼の生活。

家に帰り、夕食を作って済ませた後に出海さんと勉強する。

一連の生活リズムを崩さぬように、同じ事を繰り返す。

出海さんが帰り、家に一人になると翼は本を開く。

そうやって両親が来るのをずっと待っていた。

借りてきた本を読み始め、静かにページを捲る。

ページを捲る乾いた音だけが部屋に響き――

翼は本を捲る手を止めた。

本を読んでいて、ある一文に引っ掛かったのだ。

その一文に翼は改めて目を通す。

〝父の意思を継いで、夢を叶える〟

「……なんて意味だろう」

小さくそう呟き、翼は机の上にある辞書を手に取った。

〝継ぐ〟と言う字の横には〝つぐ〟とルビが振ってあり、辞書で〝継ぐ〟について調べる。

一番最初に開いた行がほ行で、翼はすぐにつ行のページを開こうとしたのだが。

ある一行に視線を奪われた。

そこに書かれていた字は〝僕〟

翼は反射的に〝僕〟の行に目を落としていた。

(僕 意味1、召し使い。下男。意味2、男性が自分を差す言葉。同輩以下の者に対して使う言葉――)

〝召し使い〟

その言葉の意味がわからず、再び辞書で〝召し使い〟について調べる。

め行で〝召し使い〟を探し、すぐに見つかったのでそこに目を通す。

(えっと……。召し使い 意味、家の雑用をさせるために雇った人。下男)

そこには〝僕〟の時にも出て来た〝下男〟という言葉があった。

〝下男〟の意味がわからず、今度は〝下男〟について調べる。

そして、見つけたのだ。

(下男、召し使いの男。しもべ)

――僕という言葉の本当の意味を知ってしまった。

僕と言う言葉には召し使いという意味も含まれる。

その事を知り、少しショックを受けた。

僕の本当の意味を知った翼は心に誓う。

(今から自分の事を〝俺〟と呼ぼう。自分の事をぼく――じゃなくて俺はずっと下男って呼んでたんだ……。って、そんな事よりも〝継ぐ〟について調べよう……)

ようやく辞書を開いた本来の目的を思い出し、つ行の〝つぐ〟と書かれている一覧に目を通していく。

目を通していくのだが、中々〝継ぐ〟という言葉に行き当たらない。

(どこなんだろう〝継ぐ〟って……。どういう意味なんだろう)

脳裏に浮かんで来るのは幼い頃に聞いた父のあの言葉。

〝お前は将来、この病院を継ぐんだ〟

あの時言った父の言葉の意味が、わかるかもしれない。

そう思いながら翼は〝継ぐ〟という言葉について調べていた。

すると、〝継ぐ〟という言葉が視界に飛び込んで来た。

そこに翼は目を通していく。

(継ぐ、意味は――繋ぐ。続ける。あとを受ける。「会社を継ぐ・家業を継ぐ」受け伝える。「伝統を継ぐ」つくろう。つぎをする……)

継ぐ――

その言葉が一番、父から言われた言葉に合っていた。

父から言われた〝病院を継ぐ〟――

(病院を繋げる? ぼく――じゃなくて、俺――が? 俺が継いで、病院を続ける…?)

翼の脳裏に一瞬、あの白く清潔感のある病院が浮かび上がった。

継ぐという言葉について具体的にどういう意味なのかはわからないが。

直感的にはわかる。

あの大きな病院を自分が継いで、続けさせないといけないと。

そして、父が言ったあの言葉をもう一度思い出す。

〝お前は将来、この病院を継ぐんだ〟

それはつまり。

病院を継ぐという本当の意味は――

自分も父のように、医者になるという事なのではないのだろうか…?

父と同じ医者になり、父の跡を継いで病院を続ける。

そういう事なのではないだろうか。

「俺は……医者になる…?」

翼は自分の心に問い掛ける。

父の言葉を初めて聞いた幼かったあの頃、あの頃はただあの病院の清潔感が好きだった。

あの病院にずっと居たかった。

なので言った。

〝ぼく、びょーいんつぐ!〟

病院を継ぐという本当の意味も知らずに、無邪気に発したあの言葉。

それから、父からあの言葉意外にも言われていた言葉を今更思い出した。

〝お前は医者になるんだ。いいな?〟

〝このびょーいんにいれるならぼく、いしゃになる! いしゃになってこのびょーいんつぐ!〟

幼かった頃に自分が言った言葉が、頭の中で反芻する。

――幼いあの頃。

翼は確かに医者という存在に憧れていた。

父や母のように人の命を救いたいとも思っていた。

(じゃあ…今は……?)

翼は改めて自分自身に問い掛ける。

今の翼は何をするよりも話を書く事が好きだ。

翼の書いた小説を読んだ人からは小説家になった方が良いと言われるほど。

それほどの才能を、翼は持っている。

今、翼がなりたいものは医者ではない。

――小説家だ。

それを父に伝えなくてはならない。

あの頃と今では見つめているものが違うのだと。

医者にはなりたくないのだと、ハッキリと自分の意思を伝えなくては。

それに小説を投稿する事も両親に言わなくてはいけない。

翼はそう思いながらもその日、両親が来るのを待っていた。

だが、やはり両親が来る事はなかったのだった。

 病院を継ぐという本当の意味を知ってから一週間程度過ぎた。

それでも翼の両親が家に顔を出す事はなかった。

どんなに待っても、両親は家に来ないのだ。

今度の休日、また病院へ行って両親に家に戻るように話そうかと考える。

もしかしたら、忘れているのかもしれない。

そう思いながら出海さんの帰った後、投稿用の小説をパソコンに打ち込みながら考えていた。

それから、勉強机の上に置かれた卓上型のカレンダーを見つめる。

投稿の〆切が迫って来ている。

それを確認して、翼はパソコンの前に齧り付いて小説を書いていく。

〝これは、夢への第一歩だ。

このオーディションに受かれば、歌手になれる。

蒼泉は喜びを隠しきれず、その喜びを歌に乗せて歌う。

――この想いが、この嬉しさが、誰かに届くように――

この歌声で、人々を幸せに出来るように。

蒼泉は願いと想いを乗せて歌う。

この歌が風に乗って、あの子の元へ届くように祈りながら――〟

その時。

ガチャッと、玄関の方から物音が聞こえて来た。

その音に驚き、翼はキーボードを打つ手を止めた。

一瞬泥棒かと思ったのだが、確か鍵はちゃんと掛けていたはずだ。

すると、ヒールの音と廊下を歩く足音が聞こえた。

その瞬間、両親が帰って来たのだと瞬時に理解出来た。

両親が帰って来た事が嬉しく、翼はすぐに部屋を飛び出して一階へと降りていった。

一階へ降りてみると、玄関には恐らく父と母のものであろう靴とヒールがあった。

玄関に両親の姿がないという事は――二人はリビングにいると言う事だ。

そう思うとすぐに翼はリビングの扉を開け放った。

扉を開けたそこには、父と母の姿があった。

「おかえりなさい」

翼は喜々としてそう声を掛けたのだが。

両親から「ただいま」という言葉は返って来なかった。

それ所か。

「話があるんでしょう? なら早く言いなさい。すぐに病院に戻らないといけないんだから」

食卓の椅子に腰掛けて、足を組みながらウェーブの掛かった髪を掻き上げ母はそう言った。

それも、翼の顔を見る事はなく。

翼は母親の横顔を見て気が付いた。

母親の顔こそ、全く覚えていなかったのだと。

母こそ、他人のようにしか感じられない。

よく考えてみればそれも当然だ。

幼かったあの頃――

あの頃も母と一度も顔を逢わせていなかったのだから。

しかし、母の顔を見ていると確かに自分の母である事はわかった。

――自分は、母親似なのだと思ったからだ。

目鼻立ちや輪郭など、母と良く似ている。

すると、父が口を開き厳しい声音で言い放った。

「仕事の合間を縫って来たんだ。五分で話せ」

「え……?」

「私もこの人も忙しいの。それなのにナースや他の医者にも家に来るように伝えているんでしょう? みんな煩いから仕方なく来てあげたのよ。だから早くしなさい」

母の〝仕方なく来た〟という言葉に一瞬胸が痛んだ。

母の言葉が冷たく感じられる。

それでも翼は両親の顔を見つめながら、一番伝えたかった事を口にした。

「俺、自分の書いた小説を投稿しようと思ってるんだ。それで優賞したら小説家になれる――」

「なんだ。そんな下らない事か」

翼の言葉を遮って、父の冷たい言葉がリビングに響き渡った。

一瞬、父に何を言われたのか理解出来なかった。

翼が父の顔を見つめていると――

「そんな話ならもう行くぞ」

そう言って、ソファから立ち上がる。

そしてリビングから出て行こうとするのだ。

このまま両親を行かせてはいけないと思い、翼はリビングの扉の前に立ちはだかる。

すると父は冷たくも厳しい視線で翼を睨み付ける。

「――退け」

「待ってよ! これは俺にとってはすごく大事な事なんだ!」

「アンタにとってはそうでも、私達にとってはどうでも良い事なのよ」

母の言葉が、刺々しい。

まるで、言葉の暴力のように感じられた。

胸が酷く痛んだが、それでも翼は母の顔を見て反論した。

「どうでも良くない! これで優賞したら、小説家デビュー出来るんだ! 俺の夢は、小説家になる事なんだ!」

「夢?」

父の冷たくも厳しい声音が耳に届いた。

病院で感じたあの威圧感が、再び翼を襲う。

「お前は将来、医者になるんだ」

翼を抑え付けるような、強い威圧感を感じる。

それに押し負けてはいけない。

父の放つ雰囲気から、まるで〝逆らうな〟と言っているように感じる。

それでも自分の意思を貫かなければ。

父に対して恐怖を感じながらも翼は口を開いた。

「父さん。俺――医者じゃなくて小説家になりたいんだ」

静かに父の目を見つめ、自分の強い意思を伝えた。

だが父は怪訝そうな表情をして見せ、少し眉を吊り上げた。

それから厳しい目付きで翼の事を見つめる――

いや、睨み付けて来る。

目の前に居る父が怖い。

恐怖のあまり、身体が動かない。

すると、父が口を開く。

「お前は医者になる。それ以外に選択肢はない」

冷徹な声で、父はそう言い放った。

父の放つ厳しさと、威圧感に押し負ける。

身体が、翼の意思を全く聞こうとはしない。

まるで、自分の身体ではないように感じられた。

「――それだけなら戻るぞ」

翼を押し退けて行こうとする父の腕を掴み、翼は食い下がる。

このままではいけない。

自分がなりたいのは小説家であって、医者ではない。

両親が納得してくれるまで、帰すわけにはいかない。

「どうして? どうして俺は医者にならないといけないの? 俺は医者なんかじゃなくて小説家に――」

「これはお前が産まれた時に決まった事なんだ。お前は医者になる運命なんだ。お前はその為だけにこの世に生を受けた存在なんだ」

父は翼に冷たい視線を投げ掛け、そのような事を口にした。

父の言葉を聞き、一瞬思考回路が停止した。

父の言った言葉の意味が理解出来ない。

医者になる運命。

その為だけに生を受けた存在――

「……どうして…?」

わからない。

どうしてそう言われるのか。

どうして医者になるように強いられるのか。

どうしてと父に問うしかなかった。

だが、父から返って来た言葉は。

「お前には医者を継いでもらわないと駄目なんだ」

その言葉が耳に届いた瞬間、激しい怒りを感じた。

医者じゃなくて、小説家になりたい。

どうしてそれが通じないのだろう。

どんなに小説家になりたいと言っても翼の声は両親には届かない。

――何も、伝わらない。

「俺は医者にはなりたくない! そんなのべつに俺じゃなくてもいいじゃないか! 俺以外の人に頼んでよ!」

「病院を継げるのはお前だけなんだ。お前が産まれなかった場合は養子を取って病院を継がせようと思っていたが、お前が産まれたからお前が病院の跡取りだ」

父が今までよりも一番厳しい声音でそう口にした。

そのせいでリビングに静寂が訪れた。

そんな静寂の中で翼は必死に考える。

混乱しながらも、考える。

病院を告げるのは翼だけ。

ならば何故翼だけなのだろうか。

それを翼は聞いてみる。

「……どうして、俺だけしか継げないの…?」

静かなリビングに翼の声だけが響いた。

そんな翼の質問に答えたのは――

再び椅子に腰を下ろし、煙草に火を付けていた母親だった。

「それはあなたが綾崎家で唯一産まれた子供だから。まぁ、どのみちこれから兄弟が生まれてもあなたが跡取りになるんだけど」

「俺が……この家に産まれたから…?」

「幼い頃、俺も親父から跡取りになれと言われた。これは――逃れられない事なんだ」

「でも俺は――」

「翼、よく考えてみなさい。あなたが病院を継がなかったら今のような生活は出来ないのよ? あなたが病院を継がなかったら病院は倒産し、私達は途方に暮れるの。ちゃんとした家にだって住めなくなるの。あなたが病院さえ継げば何の問題もない。良い? 翼。あなたは医者になるの。わかる? あなたは医者になりなさい」

そう言うと母は煙草の火を消す。

煙草の匂いがリビングに漂い、やがて匂いも消える。

そして、翼の方を見つめた。

「病院を継ぐんだ」

「あなたは医者になるしかないの」

「病院を継ぐ為には医者にならないといけない。今はその為に家庭教師を雇っているんだ」

「あなたに拒否権はないの」

「医者になる以外の選択肢もない」

「あなたは医者になるの」

「そして病院を継ぐんだ」

「医者になりなさい」

「病院を継ぐんだ」

――この人達は自分達の事情しか言っていないし、考えてもいない。

翼の事など、全く考えていない。

それ所か、翼の事をまるで道具のように思っている。

そう感じられた。

両親からの言葉攻めに翼は逆らう事も出来ず、ただ黙っている事しか出来なかった。

「医者の家系に産まれたんだからあなたは医者になるしかないのよ。さぁ、医者になると言いなさい」

「医者以外になる事は何が何でも許さないぞ。わかったら返事をするんだ」

しかし、翼は答えなかった。

自分のなりたいものは医者ではなくて、小説家だ。

なのでそう簡単に「はい」等と言うわけがない。

翼だって本気で小説家になりたいと思っているのだ。

ここでそんな簡単に夢を諦めたくない。

「アンタは医者になる為だけに存在してるのよ?」

「病院を継続させる為だけに産んだ」

「アンタには医者になる以外の道はないの」

「お前の人生は医者になる為だけのものだ」

「医者にさせる為に家庭教師を雇って勉強をさせてるってのに……」

「お前も三年生になったんだから、そろそろ医者になるための勉強を始めろ。まず、毎日病院に来て子供達と仲良くなれ。今から医療知識を身に付けるんだ」

「患者の中で子供が一番手が掛かるのよ。だから子供達から信頼を得なさい」

「患者の事は俺が追々教える」

両親の言っている事を聞き、翼は思った。

この人達は自分を洗脳しているのではないかと。

医者になるようにと――

それでも翼は医者になるとは決して口にはしなかった。

自分がなりたいのは小説家だ。

そう強く自分に言い聞かせる。

両親に押し負けないようにと。

「お前は医者になるんだ」

「医者になるのよ」

「――いやだ」

「え?」

翼は小さく呟いた。

両親に逆らう事はやはり怖い。

それでも、自分の強い意思を伝えなくていけない。

医者にはなりたくないと。

翼は自分のシャツを強く握り締め、恐怖に立ち向かう。

そして、両親の目をちゃんと見て口を開いた。

「嫌だ。俺は医者なんかになりたくない! 俺は小説家になるんだ!!」

ハッキリと、自分の意思を伝えた。

これで理解してくれるはずだ。

そう思ったのだが、それは違った。

――リビングに乾いた音が響く。

一瞬、何が起こったのか理解が追い付かなかった。

ただわかるのは、左頬が熱くヒリヒリと痛む。

それから、目の前に立っている母が右手を振り上げていたのを思い出す。

それで理解した。

母親に、頬を叩かれたのだと。

その衝撃のせいで父の腕を掴んでいた手を放していた。

そして、翼を叩いた母は涙を流しながら口を開いた。

「ふざけた事を言わないで!! どんな思いで私達が今の病院を建てたと思ってるの!? 個人院だった病院を私達の代まで継いでやっと今の大きさにするまでどれだけ努力したと思ってるのよ!? あなたが病院を継がないと、私達の努力が全て無駄になるの!! 小説家になるですって? そんな事――絶対にさせないわ! そんな事、絶対に認めるもんですか!!」

「翼、お前は医者になるんだ」

「医者になりなさい!」

「夢は医者だって言うんだ」

「言いなさい!」

「――嫌だ」

「翼!!」

「嫌だよ! せっかく見つけた夢なのに! 普通ならこういう時、親は応援してくれるんじゃないの!? なのにどうしてこんな――。俺は絶対に嫌だ! 医者なんて、絶対に嫌だ!!」

全ての思いを言葉に乗せて両親へとぶつけた。

自分の思いが届かない怒り。

小説家になりたいと強く思う想い。

医者になる事は心の底から嫌だと言う思い。

全てをぶつけた。

それなのに――

父から返って来たものは、痛みだった。

強く鈍い痛みが、翼の右頬を襲った。

そう、父に殴られたのだ。

顔を殴られた、その上に殴り倒された。

その事が信じられなかった。

驚きを隠せずに父の顔を見上げてみると。

父の目は血走っており、翼に怒鳴り散らした。

「いいか!? お前に拒否権などない! 俺達の言う事に逆らうな!! 言う通りにしろ!! お前は将来、医者になるんだ!!」

――今、この二人に逆らったらどうなるのだろうか?

そう考えて一番最初に脳裏に浮かび上がった言葉は。

〝死〟だった。

殺される。

意地でも小説家になると言い張れば、この二人は自分を殺すかもしれない。

逆らってはいけない。

言う通りにした方が良い。

頬を手で押さえながら翼は父を見上げる。

恐怖で、全身が震える。

頭の中で「医者になると言え」と言っている自分が居る。

そうすれば助かると。

今逆らうと死んでしまうと。

両親に殺されると。

頭の中で警告の声が響き渡る。

それでも――

心の何処かではまだ、小説家になりたいと思っている自分が居る。

ちゃんと話し合えば、両親だってわかってくれる。

そう思っている自分がまだ居た。

まだ、諦めたくない。

そう思うのに――

「――――――はい」

翼はそう口にしていた。

夢よりも、自分の身を優先したのだ。

恐怖と、夢を諦める事から涙が溢れ出て来た。

どうして、こうなってしまったのだろうか……?

「なら良い。明日から学校が終わるとすぐに病院に来るんだ。良いな?」

声が、出ない。

返事をしたくないものあるが。

嗚咽で声が出ない。

すると――

「返事をしろ!!」

父の怒鳴り声が聞こえ、恐怖に身体を震わせる。

泣きながら、震えながらも父を見上げて答える。

「……はい」

翼の返事を聞くと、両親はリビングから出て行った。

母のヒールの音が聞こえ――

最後に玄関の扉が閉まる音が聞こえ、鍵の掛かる音が。

また家で一人になり、翼はその場に蹲った。

蹲り、流石に痛みに耐え切れず涙を零す。

両親に叩かれた頬が痛いのではなく、胸が酷く痛む。

心が、痛んでいるのだ。

見える傷よりも、見えない傷の方がずっと痛むのだ。

心が疼き始める。

痛くて、痛くて堪らない。

涙が次から次から溢れて来て止まらない。

翼はその場で泣き続けた。

泣きながら、自分の人生を嘆いた。

どうしてこのような家庭に産まれてしまったのだろうかと。

もっと普通な家に産まれて来たかったと。

翼は嘆き泣いた。

――少年は、両親の操り人形になるしかなかったのだ。

生きて行くには、医者になる道を選ぶしかなかったのだ。

 ――しばらくして涙が落ち着き、翼は自分の部屋へと戻った。

すると部屋に入って一番にあるものが視界に入った。

それは、机の上に置かれた、電源の入ったまま閉じられてもいないノートパソコン。

そこには両親が来るまでずっと投稿用に書き続けていた小説が画面には照らし出されている。

翼はパソコンの前へ行き、その小説に目を通してみる。

数十分前まで描かれていた世界は美しい夢で輝いており――

とても純粋で無垢な物語。

キラキラと輝いている物語。

夢に向かって、ひたすら主人公が頑張って進んでいく物語――

先程、両親から夢を奪われた今の翼には、到底書けない物語となっていた。

先程までこんなに夢に向かって輝いていたというのに。

この物語を書けない事に苛立ちを感じ、咄嗟に原作の書かれているノートを手に取るが……。

翼にはそのノートを破る事は出来なかった。

この物語は、翼が夢に向かって頑張っていた証だ。

それを破る事は出来なかった。

そう思うと、また涙が溢れ出て来る。

その日翼は両親から夢を奪われ、壊され、自由さえも奪われた。

更には、この出来事のせいで心を閉じてしまったのだ。

――これが、俺の生かされている理由を知った日の事。

俺は、何からもめぐまれてなんかいないんだって気付いた日の事。

俺は名前負けしているんだって気付いた時の事。

自由になる為に飛び立つ翼も無い事に気付いた時の事。

それは、小学校三年生の出来事だった――









                                              ~To be continued~

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ