青春スクエア ~綾崎翼の片思い~ 小学生編22
父の厳しい一言が頭の中で反芻する。
〝俺は言ったはずだ。柳葉李哉の事ばかり構うなと。お前はその条件を破った。お前の言っている東中学校へは通わせないからな〟
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
唐突に告げられた一言。
李哉との明るい未来を断ち切る言葉。
確かに父の約束を破ったのは翼の方だ。
〝今〟に甘えていた罰だろう。
いや、そうなのだ。
そうでなければ、こんな事を告げられるわけがない。
全ては自分が蒔いた種だ。
「そういう事だ」
父である綾崎吾郎はそれだけ言い残すと翼に背を向ける。
言葉を吐き捨てるだけ吐き捨てて、行ってしまう。
夢を奪われた、あの日のように。
ずっと夢見ていた明るい未来が、奪われてしまう。
自分だけが失うなら良い。
夢を奪われた時のように、翼一人が失うならば。
翼一人だけが傷付くならそれで良い。
しかし、今回は李哉の為に選んだ道だ。
李哉は今、翼と同じ中学校へ通いたいが故に頑張っている。
そんな李哉の努力を無駄にはしたくない。
李哉を裏切りたくはない。
拳を強く握り締め、翼は顔を上げる。
そして廊下を歩いて行く父の背に向けて声を張り上げた。
「待ってください‼」
翼の発した声に周りに居た患者やナース達が驚く。
けれどそんな事はどうでも良かった。
呼び止められた吾郎は歩みを止め、こちらへと少しだけ振り返る。
父から出されていた東中学校へ通う為の条件を破ったのは紛れもない、自分だ。
確かに〝今〟に甘えて李哉と逢っていた。
悪いのは全て自分に甘かった翼だ。
今ならばまだ間に合う。
今までの行いを改め、やり直す事は出来る。
今ならまだ、引き返せる。
翼は吾郎の元へと歩み寄り、深く頭を下げて告げる。
「申し訳ありませんでした。父さんからの条件を破ってしまったのは全て自分に甘かった俺のせいです。これからはちゃんとしますので――チャンスを……。俺に最後のチャンスをください!」
ここで引くわけにはいかない。
吾郎が一言でも〝良い〟と言うまでは帰らないつもりで頭を下げた。
家で嗄が待っていると言う事も忘れて。
すると、吾郎の吐く溜め息が耳に届く。
許して、くれたのだろうか。
そう思うのも束の間、吾郎の冷たい言葉が降って来る。
「お前の行きたい東中学校へ通いたいならば今後一切、柳葉李哉の病室へは行くな。一度でも病室へ通う姿を見掛けるようならこの話はないものだと思え。良いな?」
吾郎の言葉に一瞬戸惑う。
もう、李哉の元へは行けない。
李哉がこの病院を退院するまでは。
下手をすれば退院しても李哉と逢う事も許されないかもしれない。
こうなってしまった全ての責任は自分にある。
断る選択肢など、最初から存在しない。
今逢えなくとも、四月からは毎日逢えるのだ。
それまでの我慢だと思えば良い。
「四月まで年の近い子供達のカウンセリングをするんだ。良いな?」
「――――はい、わかりました。ありがとうございます」
今一度深く頭を下げ、顔を上げる。
顔を上げて、目の前にあった物を目にして少し驚いた。
「わかったならこれを受け取れ。家庭教師の事は全てお前に任せる。仕事中に俺の方に掛けて来られても迷惑だ」
冷たく言い放って差し出された物は、携帯電話だった。
少し狼狽えながらも差し出された携帯電話を受け取る。
翼が吾郎の手から携帯電話を受け取ると、吾郎は背を向けて行ってしまった。
吾郎が去った瞬間、威圧感と圧迫感が瞬時に消え去る。
緊張して身を強張らせていた翼も全身から力を抜く。
なんとか最後のチャンスを貰い、安堵の息を漏らす。
それから手に握る携帯電話を見つめる。
白無地で至ってシンプルなボディーの携帯電話。
スマートフォンが流行っているという時代にガラケー。
考えが古い両親だからか、それは仕方ないだろう。
これでも産まれて初めて手にする携帯電話だ。
今まではずっと自宅の固定電話から電話を掛けていた。
友達も知り合いも少ない翼ではほとんど使う事はなかったが。
実は去年の誕生日くらいから携帯電話が欲しいと思っていた所だった。
嗄と連絡を取る為にも。
どうやらそれは吾郎も同じだったようだ。
それ以前に携帯電話を手にするのが翼の場合、遅かったのだ。
クラスメイトは既に三年生か四年生の頃には手にしていたと言うのに。
携帯の渡され方はどうあれ。
受け取った携帯をナースステーションで受け取ったランドセルに入れて帰路に着く。
家へと帰ると門の前にはいつものように嗄が待っていた。
父と話していたせいで十分も待たせてしまう事になった。
嗄へと駆け寄りながら翼は嗄に声を掛ける。
「嗄さん、遅くなってすみません!」
「翼君。いや、大丈夫だよぉ。そんなに待ってないからぁ」
「帰る前に少し、父と話していたんです」
「そうだったんだぁ。どんな話?」
「――俺が、父の約束を破ったので東中学校へは通わせないって言われました」
「えっ」
驚いた表情で嗄は翼を見つめる。
嗄を心配させないようにと翼は言葉を付け加える。
「でも、最後のチャンスをもらえて東中学校には通わせてもらうようになりました。その代わり、退院するまで李哉とは逢わないようにって言われましたが」
苦笑しつつ、翼はそう告げた。
李哉と逢えないのは正直、辛い。
それも一ヶ月上もだ。
抜糸の時は傍に居てあげたかったのだが……。
こうなってしまったのは全て自分のせいだ。
黙って受け入れるしかない。
嗄は静かに聞いてくれていたが。
優しい微笑みを浮かべて言ってくれた。
「今は辛いだろうけど、四月までの我慢だよ。四月から同じ学校だから逢えなかった分、キシヤ君と一緒に居てあげて。一緒に居れなかった分も、それ以上の分も一緒にね」
嗄の言葉に救われたような気がした。
嗄の言う通りだ。
〝今〟は我慢して、四月からは逢えなかった分を取り返せば良い。
――時間はまだ、たくさん残っているのだから――
その後、翼は玄関の扉を開けて嗄を家の中へと入れるといつものように勉強をする事にした。
嗄お手製のテストを翼が解いていき。
翼の解いたテストの採点を嗄がしていく。
いつも通りに勉強を終わらせると嗄との雑談の時間に入る。
嗄が今日あった出来事を話してくれたので、翼も吾郎から携帯電話を貰った事を話した。
吾郎はただ携帯電話の〝本体〟だけを渡して来た。
使い方を知ろうにも、説明書も何もない状態だった事にそこで初めて気付いた。
初めて触れる携帯電話。
扱い方に戸惑いながらも携帯に触れていた。
説明書がない限り、手探りで触っていって覚えていくしかない。
翼が携帯と格闘していると不意に嗄が言って来た。
「ちょっと携帯貸してねぇ」
「え、あ……はい」
翼の手から携帯を奪った嗄は鞄から自分の携帯電話を取り出す。
嗄の携帯もスマートフォンではなく、ガラケーだった。
一体何をするのかと思っていると――
嗄は右手に翼の携帯を持ち、左手で自分の携帯を持つと。
すぐ翼に携帯を返してくれた。
嗄は何をしたのかと思い、携帯を弄っていると嗄がした事に気付く。
翼が気付いたと同時に嗄が教えてくれた。
「何かあった時の為に僕の電話番号とメールアドレスを登録しておいたよぉ」
「――ありがとうございます」
恐らく、赤外線通信でメールアドレス等を登録したのだろう。
アドレス帳には嗄の名前が入っていた。
一番最初に登録出来たのが嗄で良かった。
李哉でも良かったのだが、やはり嗄を一番最初に登録したかった。
それが出来たのですごく嬉しい。
翼が喜んでいると、嗄の微笑む姿が視界に入った。
嗄に見つめられている事に気付き、少しだけ俯く。
普段はそんなに喜びはしない翼が年相応に喜んでいた。
その姿を嗄に見られたと思うと少しだけ羞恥を感じる。
すると嗄が微笑んだまま口にした。
「懐かしいなぁ。僕も初めて携帯を手にした時の事を思い出しちゃったぁ」
「嗄さんが初めて携帯を持ったのって、いつなんですか?」
「ん~っとねぇ。小学校四年生の誕生日だよぉ。クリスマスなのに誰も祝ってくれなくてねぇ。部屋に籠って勉強してたんだ。その時に宅配便が届いてね。兄さん達からのプレゼントが。そのプレゼントがこの携帯電話だったんだぁ」
「そうだったんですか」
嬉しそうに、懐かしげに目を細めて嗄は教えてくれた。
――――嗄にとって、兄達とはどのような存在なのだろうか――――
嗄の話には必ず〝兄〟の話が話が出て来る。
きっと一人だった嗄を唯一支えてくれた存在なのだろう。
以前、嗄は兄達の事を〝自慢の兄〟と言っていたのを思い出す。
嗄から話を聞く限り、嗄は兄達を大切に想っている。
それと同じくらいに兄達もまた、嗄の事を大切に想っている。
忙しい合間を縫って嗄にプレゼントを贈ったり、誕生日を祝ってくれるなど。
そんな兄弟愛を知り、少し羨ましく思えた。
翼には知る事の出来ない想い。
羨ましく思うのはそれだけではない。
嗄は翼とは違って兄達から愛されていた。
それが嗄との違いだろう。
愛を受けていた嗄と、愛を受けていない翼。
時折、感じる事がある。
嗄と李哉を重ねてしまう事が。
二人は似ていると思ってしまう事が。
嗄も李哉のように努力を積み重ねて、今の嗄が居る。
だからだろうか。
李哉の強さを見た時に。
李哉の強さを目の当たりにした時、強いショックを受けたのは。
――李哉が遠くに感じてしまったのは――
「――――」
翼は李哉とは違う。
もちろん嗄とも。
恐らく李哉と嗄は同じ人種なのだろう。
だから、翼にとって憧れの存在なのだ。
少しだけ、そう思ってしまった。
何故か、胸に寂しさが襲っていた。
吾郎から新しい条件を出されてから数日が経った。
李哉に逢えなくなった理由を伝えたい。
幾度となくそう思ったのだが、どうしても伝える事が出来なかった。
李哉の病室前を通る事も避けて、なるべく李哉と接触しないようにと心掛けた。
もしも逢ってしまって話をする姿を父に見られたとしたら、せっかくのチャンスが水の泡になってしまう。
藤森先生かバジルに伝言を頼もうかとも考えたのだが……。
突然四月まで逢えなくなったと人伝に伝えられて、納得出来るだろうか。
出来ないに決まっている。
自分の口から伝えた方が一番わかりやすいだろう。
しかし、逢いたくても逢えないのだ。
下手をすれば退院の日も逢えないかもしれない。
翼は小さく溜め息を吐く。
李哉の現状を知るにはバジルから話を聞くしかない。
自ら今日あった出来事を話してくれるバジルには助かる。
李哉の様子について自分からは聞けないからだ。
本当は李哉の様子が気になって仕方がない。
気になって仕方ないのだが、どうしても聞けないのだ。
頻繁に尋ねてしまうと李哉の耳にも入ってしまう可能性があるからだ。
更には李哉を不安にさせてしまう。
それだけはしたくなかった。
頑張っている李哉の足枷にはなりたくなかった。
「メグミ! 今日モミンナノ所行ッテルノカ?」
「バジル君……。そうだよ。今日は、どんな事があったの?」
「今日モキシヤト逢ッタヨ。デモ、今日ノキシヤ悲シソウダッタ」
「え――」
「元気ナカッタカラドウシタノッテ聞クト、キオクソウシツニナル前ノ夢ヲ見タッテ言ッテタ。イツモハ明ルイキシヤガ笑ッテナカッタカラ心配シタヨ」
「――――」
バジルは話を続けてくれる。
だが、その声は翼の耳には届いていなかった。
李哉の足枷にはなりたくないと思っていた。
今のバジルの話を聞いて悟ってしまった。
あの元気な李哉が、元気ではなかった。
失う前の記憶を少し思い出し、本当に悲しい気持ちになっていたのかもしれないが。
李哉の元気がなかった理由は恐らく自分のせいだと。
何も言わず、突然李哉の前から姿を消したからだ。
その事を知り、罪悪感に押し潰されそうになった。
本当は逢えなくなった理由を告げるべきなのだろう。
翼も伝えたいのだ。
けれど李哉と間接的にでも関わった事を父に知られ、明るい未来を絶たれる事が怖いのだ。
お互い、今は我慢する時。
次に逢える時は李哉が立てるようになり、同じ中学校へ通える時だ。
それまでの我慢。
全てが終わってから李哉に説明する。
途中で逢って説明するよりは確実だ。
その時はきっと、笑って伝えられるだろう。
もしかすると李哉から嫌われるかもしれない。
絶交すると言われるかもしれない。
それでも、翼は李哉の事を信じていた。
李哉は翼を信じて待っていてくれると。
立つ為の努力を続けながら待っていてくれると。
ほんの少しだけ、李哉に甘えていた。
普通ならば呆れられて離れて行ってしまうだろう。
しかし、李哉は違う。
李哉は今までの人間とは違う。
翼の事を理解してくれた。
傍に居てくれると言ってくれた。
だから李哉の言葉を信じる事にしたのだ。
李哉が頑張るのならば、自分も頑張りたい。
親友の為に。
親友と笑って過ごせる日々の為に。
辛いのは李哉も同じだと何度も自分に言い聞かせて。
早く四月が来るのを祈りながら……。
それからの日々は今までの生活の中でも最も辛いものだった。
罪悪感に耐えながらも一日を乗り越えていると、すぐに李哉の抜糸の日がやって来た。
本来ならばずっと傍に居てあげたかった。
それを奪ったのは誰でもない。
自分自身だ。
罪悪感と酷く自分を責めて自己嫌悪に陥る。
自分の中で酷く渦巻く感情を必死に押し殺し、以前のように患者達と接していた。
次の病室へ向かおうと廊下を歩いていた時、不意に声を掛けられる。
「翼君」
聞き慣れた声。
翼はすぐに振り返って、声を掛けた人物を見つめる。
「藤森先生」
「今日は李哉君の抜糸の日だね」
「そうですね」
「後は李哉君の努力次第だし、立てるようになったら退院か……。少し、寂しいね」
「俺達がそう思っているんですから、李哉の方が一番寂しく思っていますよ。それに外へ出た事がないので不安でしょうし」
「確かに、翼君の言う通りだね。一番不安なのは李哉君だ」
「でも、李哉なら大丈夫ですよ。ちゃんと乗り越えられます。李哉は強いし、何より……努力家ですから」
「その通りだ。流石翼君だね。李哉君の事は何でもわかってる。これから李哉君の所に行くの?」
「――ええ、そんな所です」
「そっか。なら引き留めちゃ悪かったね。じゃあ僕はもう行くよ」
「わかりました」
白衣を翻して去って行く藤森先生の後ろ姿を見て少し溜め息を零す。
何でもない顔をして嘘を吐く自分が嫌になる。
けれどこんな生活もあと一ヶ月と少しだ。
それくらいならばすぐに経つだろう。
だが、時間とは不思議なもので。
楽しい時間は一瞬のように過ぎ去ってしまう。
逆に辛く、苦しい時間は長く感じられる。
――本当に辛かった――
笑えないと言うのがこんなにも退屈だとは。
こんなにも、つまらないとは。
李哉と離れてようやく気が付いた。
気が付いて、少しだけ思い返してみる。
李哉と逢う前の自分を。
あの時は確か学校行事で上手くいかず、嗄とも逢えなかった。
一体どれ程つまらない日々を過ごしていたのかと思った。
それでも時の流れが早く感じられたのは嗄のおかげだ。
嗄との一時が、唯一の楽しみだった。
今でも十分に楽しいが、嗄と居る時とは違う楽しさ。
恐らくそう思えるのは、李哉の前では年相応に過ごせるからだろう。
嗄の前とは違い、自分を飾り付ける必要はない。
ありのままの自分で居られる。
本当の自分で居て良いと、李哉は言ってくれた。
だからだろう。
李哉と居る時に嗄とは少し違う安心感を抱くのは。
早く、李哉と話がしたい。
そう強く思いながら数日が経った。
まるで翼の心を見透かすかの如く、李哉は翼の前に姿を見せた。
頭を打たない為にヘルメットを被り、肘と膝にはサポーターを付けて必死に手摺にしがみ付き。
膝を引き摺りながらもリハビリ室へ向かう、李哉の後ろ姿。
必死になって頑張っている李哉に声を掛けたかった。
たったの一言。
〝俺も頑張るから、李哉も頑張れ〟と伝えたい。
伝える所か、翼は李哉の姿を目にした瞬間足を止めてしまった。
頑張っている李哉の姿を目の当たりにして、改めて感じてしまう。
自分との違いを。
李哉が、遠くに感じられてしまう。
強い李哉の姿を目にして、少しだけ思ってしまった。
嗄の隣に立てるのは、李哉のような人間ではないだろうかと。
同じ努力を積み重ねて来た人でなければ、嗄の事は理解出来ないのでは?
自分では、嗄を好きでいる資格さえないのでは?
「――ッ」
そんな事を考えてしまう自分に酷い自己嫌悪が襲う。
どうして、頑張っている人の姿を見てそんな事を考えてしまうのか。
それはきっと〝嫉妬〟だ。
自分には持っていないものを羨む、醜い嫉妬心。
気持ちが暗くなってしまうのは、以前のように楽しい日々ではないから。
それに今、李哉に声を掛けてしまってはいけない。
もう少しの、我慢だ。
話し掛ける以前にこんな気持ちで声を掛けたくない。
いつもならばすぐに声を掛けるのだが――
〝今〟は出来なかった。
またもや、明るい未来を自らの手で壊すわけにはいかない。
翼は心を鬼にして李哉の横を通り過ぎる。
李哉を、傷付けてしまうかもしれない。
いや、傷付けるに決まっている。
今振り向くと、きっと傷付いた李哉の顔があるだろう。
ズキンと、酷く胸が痛む。
今自分は、親友を傷付けている。
本当は今すぐにでも振り返って李哉に謝りたい。
しかしそれをしてしまうと……。
翼は強く拳を握り締め、振り返る事はなく前へと進んで行った。
三月に入り、翼は李哉を傷付けてしまった事を後悔していた。
けれど、あの時は李哉の横を通り過ぎて行くしかなかった。
あの廊下でなくては行けない病室に向かっていたからだ。
李哉を傷付けてから翼は李哉と逢う事を完全に避けていた。
これ以上、李哉を傷付けるわけにはいかない。
流石に李哉には嫌われただろう。
謝って、許してもらえるだろうか。
ここ数日、考える事は李哉の事ばかりだ。
絶交と告げられる事を考えて溜め息を零す。
その時だった。
「バジルぅぅぅぅぅ‼ どこだゴラァァァァァ!!!」
樹姫の怒声が廊下に響く。
またかと思い、諦めにも似た眼差しで樹姫の方へと視線を向ける。
だが、視線の先に居る樹姫の姿を目にして目を見張った。
廊下の中央で苦しそうに胸を押さえ、蹲る樹姫の姿。
樹姫の姿を目にした瞬間、自然と身体は樹姫の元へと駆け寄っていた。
「樹姫! 大丈夫⁉」
「……そう心配、すンなよ……。ちょっと……発作が出た……だけだろうが……」
すぐに樹姫を診てみるが、どうやら対した事はないようだ。
最近、樹姫の容態は良くない。
つい先日も倒れたばかりだった。
とりあえず大丈夫そうなので安堵の息を漏らしつつ、樹姫に告げた。
「この間倒れたばかりなんだから、安静に」
「でも――」
「病室に戻りましょう」
「――――」
一瞬樹姫は悲しげな表情をして見せた。
少しだけ俯き……。
顔を上げた時にはいつも通りの樹姫に戻っていた。
大きく深呼吸をした後、ゆっくりと立ち上がる。
「わかったよ。戻りゃあ良いンだろうが」
「――どうかした? 樹姫らしくないけど」
歩き出した樹姫と並ぶようにして歩きながら尋ねる。
いつもならば発作が出た時点で大人しく病室へ戻って行くのだが。
今日の樹姫は尚もバジルを追おうとした。
何かあったのだろうか。
樹姫は横目で翼の顔を見て、少しだけ悲しげな表情で告げた。
「……テメェでわかってンだよ。わかるに決まってンだろ。テメェの身体の事だ。もうアタシは長くはねェ。わかったから少し焦っちまっただけだ。死ぬまでの間にアタシに出来る事つったら――アタシに残せるモンつったら、バジルに完璧な日本語を喋らせる事だろ。だから……」
「――そんな事ないのに」
「わかるンだよ。だから、翼。アタシが死んじまったら拓海とバジルの事、頼むな」
「樹姫……」
普段の樹姫とは様子が違う。
いつもならばすぐに混ぜっ返すのだが、それがない。
つまり、本気で言っているのだろう。
たとえそんな事はないと何度伝えたとしても、今回ばかりは笑ってくれないだろう。
確かに今月に入ってから樹姫の容態は日に日に悪くなっていっている。
――本当は知っていた――
もうすぐ、樹姫には手の施しようがなくなる事を。
数か月後には日々衰弱していく樹姫の姿を見る事になると。
薬の効果がほとんど見られない。
診断結果とカルテからそれがすぐにわかった。
だから樹姫が焦る気持ちもわかる。
自分が死んでしまう前にバジルには完璧な日本語を喋らせたいと。
恐らく、医者の息子である翼だからこそ。
全てを知っている翼にだけ、樹姫は本音を告げたのだろう。
そんな樹姫に掛ける言葉が見つからなかった。
先程樹姫が言ったように、自分の身体の事だから樹姫が一番知ってるはずだ。
嘘を言っても、信じてはくれないだろう。
無言で廊下を歩いていると、樹姫達の病室に着く。
病室には誰もおらず、静寂に包まれていた。
樹姫の使っているベットに腰を下ろし、不意に樹姫が思い出したように告げた。
「それにしても、立つ練習してる〝キシヤ〟ってすげーなアイツ。ものすげー真剣で、必死に頑張ってよォ。絶対に諦めねェンだよ」
そう言う樹姫の表情は普段とは変わらない様子だった。
普段の樹姫に戻り、胸を撫で下ろす。
それから、やはり李哉は樹姫とも逢ったのだと実感する。
「李哉と逢ったんだ」
「おゥ。でもアイツ、危なっかしいンだよなァ。この間なんかよォ、いつも付けてるヘルメットとか付けねェで立つ練習しててよ。案の定倒れそうになったンで咄嗟に庇ってやったンだよ」
「――ありがとう、樹姫」
「あ? なんでお前が礼言うンだよ?」
「李哉を庇ってくれて、ありがとう」
「いや、アレだよアレ。なンつーかァ……アレだよ! 聞いたけど記憶喪失らしいじゃねェか。それなのに頭とか打ったら――アレだろ?」
「うん。だから、ありがとう」
「……おゥ」
照れたように翼とは視線を合わせようとはせず、荒く頭を掻く樹姫。
樹姫から李哉の事を聞いて少し安心した。
自分が傍に居なくても周りから支えられている李哉。
樹姫と仲良くなれた事。
その様子ならすぐに立てるようにもなるだろう。
それを知れて安心した。
それからしばらくは樹姫と話し、病室を後にする。
他の患者の元へも行かなくてはいけない。
廊下を歩いていた時の事。
視線の先には李哉の姿があった。
李哉と顔を合わせる事が出来ず、すぐに廊下を引き返す。
今回は違う道からでも行ける病室だ。
ならば違う道から行けば良い。
今、李哉とは顔を合わせたくない。
一体、どんな顔をして逢えば良いのだろうか。
階段を使い、一階へと降りて病室へと向かう。
待合ホールを抜けて、反対側の廊下に差し掛かった時だった。
「翼君」
不意に藤森先生から声を掛けられた。
振り返って藤森先生の姿を探すが……。
藤森先生の姿が見当たらない。
後方から聞こえたと思ったのだが。
気のせいかと思いつつ、視線を巡らせているとようやく藤森先生の姿を捉える事が出来た。
どうやら廊下からは死角になっている自動販売機のコーナーに居たようだ。
自動販売機コーナーに足を踏み入れると、缶コーヒーを手にしていた藤森先生が尋ねて来る。
「最近、李哉君と逢ってないんだって? 抜糸の日に李哉君から聞いて驚いたよ」
「――藤森先生……」
「年の近い患者さんの所に行ってるみたいだね。もしかして、お父さんから何か言われた?」
「……俺が、悪いんです。李哉の為に東中学校に通えるように頼んだのに、李哉と居るのが楽しくて父さんからの条件を破ったんです。だから……」
「そっか……」
「それに俺、李哉を傷付けて……。絶対に許されない事を……したんです……」
どうしてか、翼は藤森先生に相談していた。
まるで幼い頃のように。
初めて相談に乗ってくれた時のように。
すると藤森先生は優しく頭を撫でてくれた。
あの時と、同じように。
優しく微笑んで、言ってくれた。
「大丈夫だよ。ちゃんと説明して謝れば李哉君もわかってくれるよ。だって、翼君は李哉君の為に頑張ってるんだよね? だったら李哉君もわかってくれるよ」
「藤森先生……」
「ほら、そんな顔しないで。絶対に大丈夫だから」
そう言うと藤森先生は子供をあやすように頭をポンポンと軽く叩く。
優しい微笑みを浮かべる藤森先生を見つめる。
やはり藤森先生はあの頃から変わらない。
いや、あの頃よりもずっと優しくなった。
大切な人を失ってから、とても優しくなった。
「あ、翼君も何か飲む? 奢ってあげるよ」
「良いんですか?」
「たまには息抜きもしなくちゃね」
優しく、藤森先生は言ってくれた。
藤森先生の言葉に甘える事にして自動販売機の前に立って、何を買うか決めると藤森先生が自動販売機に小銭を入れてくれる。
ボタンを押すと買った飲み物が勢い良く取り出し口に落ちて来た。
買った飲み物を手にして藤森先生に礼を告げる。
「藤森先生、ありがとうございます。話を聞いてくれた上に飲み物まで……」
「良いんだよ。それに気を遣わなくても良いんだよ。翼君はまだ子供なんだから、素直に受け取って」
微笑んで藤森先生は告げる。
奢ってもらった飲み物を見つめ、少し元気が出たような気がした。
藤森先生の言うように、ちゃんと説明して謝れば良い。
もしかしたら許してくれるかもしれない。
そんな期待を胸に、奢ってもらった飲み物に口を付けた。
数日後、今日も翼は病院に訪れていた。
三月も中旬に入り、翼の卒業式も来週の二十一日とまで迫っていた。
父が出した条件も後二週間程で終わる。
四月が来れば翼は自由だ。
李哉の退院もすぐだろう。
謝るのはとりあえず、李哉が退院した頃に決めた。
流石に病院の外ならば父の目も届かないだろう。
退院後、カルテに書かれていた住所に行って謝れば良い。
そう思いはするのだが、翼はまだ李哉が退院する日を知らない。
こればかりは担当医である藤森先生の判断で決めるものだ。
なので翼には皆目見当も付かない。
次に藤森先生と逢った時に聞こうかと思っていると。
実にタイミング良く、藤森先生が視界の先に居た。
子供達の相手をした後のようで、乱れた髪を直していた。
髪形を整えている藤森先生の元へ歩み寄り、声を掛ける。
「藤森先生」
「ん?」
髪を搔き上げて後頭部で纏めようとし。
ヘアゴムを口に銜えた藤森先生がこちらを振り向いた。
翼の姿を目にした瞬間、藤森先生は少し嬉しそうな表情をして見せた。
「ひょっとまっふぇねぇ……」
ゴムを銜えたまま、そう告げる。
恐らくは「ちょっと待ってね」と言ったのだろう。
後頭部で纏めた髪の位置を定め、口に銜えていたゴムを手にして結う。
髪形が整うと藤森先生は嬉しそうに口を開いた。
「良かった翼君に逢えて。実は翼君に伝えたい事があったんだ」
「伝えたい事、ですか?」
「先週、李哉君が立てるようになったんだよ」
「え――」
「退院は来週の二十日。松葉杖を付けるようになったから今は樹姫ちゃん達の病室に移動したよ」
「そう、だったんですか……」
驚きながらもそう呟く。
先日樹姫と逢って以来、バジルや拓海とも逢っていなかった。
容態が悪くなっている樹姫の病室には自然と足が遠ざかっていた。
なので知らなかったのだ。
李哉の病室へも近寄らなかった為、全く知らなかった。
李哉の病室が変わっている事など。
更には李哉が立てるようになっていたとは。
もうそろそろ立てるようになっているだろうとは思っていたが――
まさか、先週既に立てるようになっていたとは。
翼が驚いていると藤森先生が優しく言ってくれる。
「卒業式の後に謝れば良いと思うよ」
「そうですね……」
二十日が退院ならば、藤森先生の言うように卒業式が終わった後にでも李哉の家に足を向ければ良い。
李哉の退院日は翼の小学校卒業式の翌日なのだから。
翼がそんな事を考えていると、少し離れた所からナースの声が耳に届いた。
「藤森先生―! 少し良いですかー?」
「あ、ごめん。じゃあ、またね」
「はい」
ナースに声を掛けられ、藤森先生はナースの元へと行ってしまった。
一人だけその場に取り残され、少しだけ途方に暮れる。
それから、患者の病室へと向かっている最中だった事を思い出す。
患者の元へと行く為、再び廊下を歩み始めた。
それにしても驚いた。
先週の内に李哉は立てるようになっていた。
抜糸をしたのが先月の二十六日。
その翌週には立てたと言う事になる。
抜糸後、一週間程で立てた……。
やはり李哉はすごい人だと思う。
李哉の努力は本当にすごい。
誰にでも出来る事ではない。
――李哉は自分のやるべき事をした――
ならば次は翼の番だ。
後二週間程の我慢だ。
翼がそう思いながら廊下を歩いていた、その時だった。
「翼…ッ‼」
翼の名を呼ぶ声が廊下に響く。
この病院内で……。
いや、翼の名を呼び捨てに呼ぶ人物は限られている。
今まではずっと一人だった。
聞きたくもなかった声だったが。
今回は違う。
吾郎の発した声ではなかった。
後方から聞こえた声の方へと振り返る。
翼の視線の先には――
松葉杖を付いて立っている、李哉の姿があった。
目が合った瞬間、李哉は嬉しそうな、安心したような柔和な笑みを浮かべた。
笑みを浮かべると力が抜けたのか、倒れそうになっていた。
思わず翼は李哉の元へと駆け寄り、身体を支えていた。
李哉の元へ近寄って気が付く。
李哉の瞳が以前とは変わっている事に。
以前よりも強い色を宿した瞳。
――知らない――
こんな李哉は知らない。
まるで、翼の記憶にある李哉とは全くの別人のようだ。
李哉の変化に驚愕しながら口を開く。
「李哉――しばらく見ない間にすごい変わった」
「え…?」
「まるで、別人みたいに感じる。また、強くなったんだ」
自分の知らない李哉が目の前には居る。
以前よりも遥かに強くなった李哉が。
逢えない間に随分と変わってしまった李哉が。
また強くなってしまった李哉を目の当たりにして、自分一人だけが置いて行かれたような気持ちになった。
李哉の変化にも驚いたが、まず一番最初にしなくてはいけない事を思い出す。
まず、李哉に謝らなくては。
傷付けてしまった事に対して、謝らなければ。
そう思い、翼は李哉と同時に口を開いた。
「めぐ――」
「李哉、逢いに行けなくてごめん」
李哉の言葉を遮るようにして告げ、深く頭を下げて謝る。
もう絶交だと言われるかもしれない。
それほどまでに李哉の事を傷付けてしまった。
許してもらえないような事をしてしまった。
李哉が許してくれるまで、この頭は上げられない。
翼がそう思っていると、翼の考えとは裏腹に李哉は告げる。
「それは、いいよ。こうやって逢えたから。退院する前に一度でも逢えてよかった。でも翼、何かあったんじゃないかな」
「え――」
驚いて顔を上げる。
李哉の顔を見てみると、李哉は心配そうな。
悲しそうな表情で、以前と同じように優しく尋ねて来る。
「翼の目が、前に逢った時よりも悲しそうだから。何か、あった? 俺で良かったら、相談に乗るよ?」
「――――」
――――どうして、わかったのだろう――――
どうして何かあったのだと、わかるのだろうか。
そんなにも自分は悲しげな目をしているのだろうか。
どうやら李哉には全てお見通しのようだ。
その事が嬉しい。
李哉は本当に、翼の事を良く理解してくれている。
嬉し過ぎて涙が出て来そうだ。
涙を必死に堪え、李哉と逢えなくなった理由を告げる。
「父さんから、遊び過ぎだって言われたんだ。李哉の事ばかりに感けて、他の患者の事を見ていないって。李哉ばかりに逢っているって。だから、強制的に父さんに今までみたいに年の近い子供達のカウンセリングしろって言われたんだ。何回も、李哉に逢いに行こうとしたけど行く時間がなくて――」
けれどそれはもうすぐ終わる。
もうすぐ、この病院から解放される。
例え一時期の幻だとしても。
普通の中学生になる事が出来る。
李哉と共に、中学校へ通える。
その為ならば、頑張れる。
李哉のようには出来ないが。
翼なりに頑張るつもりだ。
「この間も、本当は声を掛けたかった。手を貸してあげたかった。頑張ってって、言いたかった。李哉の顔をまともに見たかった。でも、それをやったら――」
自分で口にして気が付く。
父との約束を、破ってしまっていると。
約束の最中で李哉と逢ってしまった事に気付く。
今までずっと我慢していたと言うのに。
もしも今、李哉と話している姿を父に見られでもしたら――
せっかく貰ったラストチャンスまで失ってしまう。
少しそう思い、吾郎の放った言葉を思い返す。
〝お前の行きたい東中学校へ通いたいならば今後一切、柳葉李哉の病室へは行くな。一度でも病室へ通う姿を見掛けるようならこの話はないものだと思え〟
病室へ行くなであって、李哉と逢うなではなかったはず。
ならば、李哉と話していても良いのでは?
そこまで考えて思い出す。
そうやって前回、李哉にばかり感けて今の現状だ。
自分に甘くしてはいけない。
四月になるまでは気は抜けない。
父に見つかって咎められる可能性もある為、早く李哉と別れなくては。
翼がそう思っていた時だった。
不意に李哉の手が伸びて来て、翼の手を握って来た。
その事に驚き、李哉の顔を見つめる。
李哉は嬉しそうに微笑んでいた。
瞳には揺るぎのない強さを宿して告げる。
「俺、翼にああやって冷たくされたからこうやって立ててるんだ。意地でも、翼の隣に立ちたかったから。だから、寧ろ感謝したいんだ。やっぱり、翼が居なかったら今の俺は居ないよ。今の俺を生み出してくれたのは、翼なんだ。だから、ありがとう…」
握られる手に力が込められる。
李哉の言葉は本当に真っ直ぐだ。
思った事を素直に伝えて来る。
李哉の言葉には何一つ、嘘はない。
本当に、心の底からそう思っているのがわかる。
普通ならば李哉に嫌われるはずなのに。
李哉に気付いておきながら無視して、更には横を通り過ぎたと言うのに。
李哉は翼を嫌う所か、冷たくされたおかげで今こうして立てていると。
そう、言ってくれるのだ。
立てたのは、翼のおかげだと。
李哉は言ってくれる。
「本当に、逢えて良かった…」
嬉しそうに、泣きそうな声で告げられた一言。
握られた手にまた力が込められる。
李哉の一言に、自分もそうだと思えた。
本当に、李哉と逢えて良かった。
李哉と親友になれて良かった。
李哉と逢えたから、今の〝綾崎翼〟が居る。
それは李哉だけではない。
翼も、李哉と同じだ。
李哉が素直に想いを伝えて来るならば、翼も伝えたい。
何度も、李哉に〝ありがとう〟と。
「俺も、李哉と逢えて良かった。退院した後に逢うのは、嫌だったから」
「あ、退院する日…は知ってるか」
「五日後だよね。聞いてるよ。今度逢えるのは、五日後になるけど……」
「いいよ。また逢えるなら」
「今日はまだ、逢わないといけない子供達が居るからもう行かないといけないけど……。本当に、ごめん」
「翼は悪くないよ。俺からは頑張ってくらいしか言えないけど」
「その言葉で救われた。李哉に話しただけで、気持ちが楽になった。ありがとう」
李哉に謝れて良かった。
気掛かりだった事が一つ解決して安心する。
李哉と親友になれて、本当に良かった。
そう思うと自然と表情が緩んでいた。
来週の退院の時、これで見送る事が出来る。
年の近い患者の退院日。
今まで退院する患者達を見送って来た。
流石に父も咎める事はしないだろう。
「じゃあ、俺もう行くから。五日後、絶対に見送りに行くから」
「うん、じゃあね」
翼がそう切り出すと李哉は少し寂しげな表情をしたが、手を放してくれた。
そしてそのまま李哉に背を向けて廊下を歩いて行く。
廊下を歩きながら、先程まで握られていた手を見つめる。
手にはまだ李哉の温もりが残っていた。
とても暖かく、優しい温もり。
もうすっかりと忘れてしまっていた温もり。
しばらく手を見つめていたが、温もりの残った手に拳を作って顔を上げる。
あと、もう少しだ。
もうすぐ、この日々は終わる。
気合を入れて翼は廊下を歩いて行った。
李哉と仲直りが出来て翼は上機嫌で帰路に着いていた。
吾郎と逢う事もなく、無事に病院を出る事が出来た。
嗄と逢った時に李哉の事を言おう。
軽い足取りで家へと向かう。
その時だった。
「――翼様?」
不意に、声を掛けられた。
翼も自分を呼び止める声に驚いた。
一体、何年振りだろうか。
随分と久しく感じてしまう。
翼は振り返って声を掛けた人物を見つめる。
声と同じで、翼の記憶の中と全く変わっていない。
懐かしく思い、自然と微笑んでいた。
そう、翼を呼び止めた人物は幼かった頃に家政婦をしていた森さんだったのだ。
買い物の帰りだったのか、買い物袋を手にしていた。
「お久しぶりです。森さん」
「随分と大きくなったんですね……。あれから何年経ったんですっけ?」
「三年です」
「三年ですかぁ……。本当に成長しましたね」
「そうですか?」
「ええ。以前お逢いした時よりも優しく笑われるようになりました。成長もされましたが、変わりましたね。強くなられました」
「――――」
森さんの言葉に少し驚いた。
久々に森さんと逢えた事もそうだが。
三年前と今の自分では、まるで別人のようなのだろう。
今日逢った李哉のように。
その証拠に森さんが信じられないといった表情で翼を見つめて来る。
以前との違いを感じて実感した。
三年前では確か、まだ嗄とは出逢っていない。
もちろん、李哉とも。
この三年で、色んな人と出逢った。
人との出逢いは自分を変える。
以前読んだ本に書かれていた一文を思い出す。
どうやら、そのようだ。
嗄と出逢って翼は恋を知った。
李哉と出逢って様々な〝初めて〟を知った。
翼にとって人生を変えるような出逢いをしたのはこの二人だ。
嗄の言ってくれた〝無限の可能性〟を信じて李哉と同じ中学校へ通えるように頼む事が出来た。
李哉と出逢えたから、今の自分が居る。
それに気付けて翼は微笑む。
李哉と逢えて良かった。
そう思うのと同じくらいに、嗄とも逢えて良かったと思う。
二人が翼を変えてくれたのだから。
「森さん、夕食の買い出しの途中だったんじゃないですか?」
「あ、そうでした。それではそろそろ失礼しますね」
「――頑張ってください、森さん」
「翼様も頑張ってくださいませ」
森さんは優しく微笑んで告げると急ぎ足で行ってしまった。
森さんの背中をしばらく見つめていたが、翼も歩き出す。
早く嗄と逢いたいと思いながら。
嗄の事を考えて少しだけ思う。
卒業式、嗄も祝ってくれるだろうか。
やはりただの家庭教師なので祝ってはくれないだろうか。
嗄には小学校卒業を祝って欲しい。
だが、嗄も忙しいだろう。
ほんの少しの期待だ。
ふと、顔を上げて気が付く。
視界の先にあったケーキ屋から出て来た人物が嗄だと言う事に。
嗄は「お先に失礼します」と声を掛けて店から出て来た。
恐らく、丁度ケーキ屋のバイトが終わった所だったのだろう。
ケーキ屋の扉を閉めた嗄と視線が絡み合う。
少し嬉しそうな表情をした嗄が翼の元へと駆け寄って来てくれた。
「こんばんは嗄さん。ここのケーキ屋さんでも働いていたんですね」
「うん。今日はちょっとケーキのデザインを考えてて遅くなっちゃったんだぁ。ごめんね?」
「いえ、嗄さんと逢えて良かったです」
早く逢いたいと思っていた所だったので願ったり叶ったりだ。
嗄と並んで歩き、自宅へと足を向ける。
先程までケーキ屋に居たからだろうか。
ケーキの甘い匂いが嗄からする。
ケーキのデザインを考えていたと言っていたが。
もしかして嗄がケーキを作ったりするのだろうか。
気になってしまい、直接嗄に尋ねる事にした。
「嗄さんって自分でケーキを作ったりするんですか?」
「うん。作れるよぉ。お店に並べられる事もあるよ?」
「今、新しいケーキを作ってるんですか?」
「まぁね。チョコレートにするか、生クリームにするか少し迷ってるんだぁ」
「どっちも良いですね」
「何個か作ってみたんだけど、どれもしっくり来なくて何度も作り直してるんだぁ。今日も二個作ってみたんだけどやっぱりイメージ通りに来なくて食べたんだぁ。二個はちょっときつかったなぁ……」
苦笑しながら嗄はそう告げる。
きつかったと言う事は、つまり……。
「自分で作ったケーキを、食べたんですか……⁉」
「うん。だって試作品だからぁ。バイト仲間の女の子にも手伝ってもらったけど、甘いものばっかり食べてられないねぇ」
だからだろう。
嗄からケーキの甘い匂いがするのは。
ケーキを作っていた上に自ら作ったケーキを食べていたから、すっかり匂いが染み付いてしまったのだろう。
しかし、嗄には甘い匂いが合う。
とても似合っているように感じられた。
似合うと言う事は、甘いものが好きなのだろうか。
「――嗄さんって甘いもの、好きなんですか?」
「甘いもの? ん~……大好きってわけじゃないから普通かなぁ? でも、どうしてそんな事を?」
「甘い匂いが似合っていたので、好きなのかなと少し思っただけです」
「そっかぁ。翼君は甘いもの好き?」
「俺ですか?」
「うん」
甘いもの。
好きだろうか?
ケーキ等は貰って嬉しいとは思うが。
甘過ぎるのもどうかと思う。
つまり、甘いものはあまり好きではないと言う事だろうか。
「甘すぎるのは、少し……。でも好きだとは思いますよ?」
「そっかぁ」
翼がそう答えると何故か嗄は嬉しそうに微笑んでみせた。
何故嬉しそうなのかはわからなかったが。
嗄が嬉しそうにしていたので聞かなかった。
その後、今日李哉と仲直りした事を話しながら歩いていた。
それから、森さんと逢った事も話した。
翼が話をすると、嗄は嬉しそうに聞いてくれた。
いつものように。
ただ一つ違うとすれば、外で話していると言う事くらいだ。
出来る事ならば、少し遠回りして帰りたい。
そうすれば少しでも長く嗄と居られる。
少なくとも、歩くペースは少しだけ落としていた。
嗄と雑談をしながら帰路に着く。
帰り道の途中で本屋の前を通った。
店の出入り口にはベストセラーとなっている小説の事がピックアップされていた。
かなりの人気作のようで、今年の冬には映画が公開されるらしい。
噂ではかなり面白いらしいのだが――
翼はまだ読んですらいなかった。
理由はやはり、本の置き場がないからだ。
読みたいとは思っていたのだが、ずっと読めずにいた。
そんな翼に嗄が尋ねて来る。
「翼君、春の雪ってもう読んだぁ?」
「あ、まだです。読みたいとは思うんですが、本棚の事を考えると……」
「あー……そうだったねぇ……」
思い出したように嗄は呟く。
前に嗄はまた本棚を作ってくれると言った。
だが、嗄の都合が合わず未だに本を買う事が出来ず仕舞いだ。
以前のように本を山積みにする気にはなれない。
本の雪崩はもう懲り懲りだ。
なので本棚が出来るまでは本を買わない事にしたのだ。
本当は読みたいのだが……。
小説をレンタルしている店はそんなにない。
少なくとも、近所にはそういう店はなかった。
翼がそう思っていた時。
突突に嗄が告げた。
「じゃあ、今度の日曜日に僕の家に来る?」
「え――」
「次の日曜日、バイトが休みなんだぁ。春の雪の他にも読ませたい本があるから家においでよ」
一瞬、嗄は何を言ったのか理解出来なかった。
まさか家に来ないかと誘われるとは思いもしなかった。
ずっと前から嗄の家には行ってみたいとは思っていたが……。
突然の急展開に少しだけ戸惑う。
嗄からの誘いを断る事はしないが。
それ以前に読ませたい本について楽しそうに話す嗄を見て。
自分の飼っている猫について表情を完全に緩ませながら語る嗄の姿を目にして。
断れるわけがない。
一度愛猫について語り出すと止まらない嗄だ。
半ば嗄の勢いに負けたようなものでもあるが。
嗄の家に行ける事は嬉しかった。
一体、嗄はどのような家に住んでいるのだろうか。
嗄の住んでいる家を想像しながら、日曜日が来るのを待ち遠しく思った。
日曜日の午後一時数分前。
翼はある場所に訪れていた。
昨晩、嗄から住所と地図が添付されたメールが届いた。
毎回の如く早目に目を覚ました翼は準備を整えて嗄の家へと足を向けた。
たった今、嗄の住んでいる家に着いたのだが。
翼は目の前に立ち聳える建物を眺める。
マンションに住んでいるとは言っていたが……。
まさかの高級マンションに嗄は住んでいたのだ。
よく考えてみればわかる事だ。
嗄の兄達は兆は稼ぐ、日本を代表するとまで言われている芸能人だ。
そんな兄達の弟である嗄が高級マンションに住んでいないわけがない。
例え兄達の仕送りがないとしても、バイトを掛け持ちしている嗄ならば高級マンションに住んでいても可笑しくない。
少し戸惑いつつ、翼はエントランスに足を踏み入れる。
嗄から教えてもらった暗証番号を入力すると、目の前で固く閉じられていたオートロックの扉が開く。
そこでようやくマンション内へと足を踏み入れる事が出来た。
このような建物に足を踏み入れた事のない翼は完全に狼狽えていた。
小説等から得た知識でなんとか入る事が出来たが。
何も知らずに来た場合、恐らくマンション内に入る事も難しいだろう。
エレベーターへ乗り込み、鞄から携帯を取り出す。
嗄からのメールを読み返して再確認する。
嗄の住んでいる階は七階。
七階の一番奥の部屋だ。
エレベーターの階数を見つめていると、階数が上がる度に緊張が襲って来る。
一体、どのような部屋に住んでいるのだろうか。
七階でエレベーターが止まり、恐る恐る降りてみる。
長く広い廊下を進んで行き、突き当りの部屋の前に立つ。
部屋番号の下に〝東夜嗄〟と表札が出ていた。
間違いない。ここが嗄の家だ。
緊張して心臓が煩い。
落ち着く為に深呼吸を一つしてから。
インターホンを押した。
すると数分も待たない内に玄関の扉が開いた。
そこにはアイボリー色のタイトルネックにジーンズ姿と、ラフな格好をした嗄が居た。
嗄は嬉しそうに微笑み、翼を家へと招き入れてくれる。
「いらっしゃい翼君。さぁ、上がって」
「は、はい……。お邪魔します」
まだ少し戸惑っていたが、嗄に促されて家の中へと足を踏み入れた。
玄関に入った瞬間、仄かにラベンダーの香りがした。
香りのする靴箱の上に視線を向けると、そこにはラベンダーの芳香剤が置かれていた。
――このラベンダーの匂いだ――
嗄はいつも仄かにこのラベンダーの香りを纏っている。
嗄の匂いを感じ、改めて実感する。
ここは嗄の家なのだと。
ずっと来たいと思っていた嗄の家に来れたのだと。
靴を脱ぎ、嗄の後を控えめに追って行く。
嗄がリビングの扉を開けた瞬間、扉を開けた先には猫が大人しく座っていた。
恐らく嗄の飼っている、噂のレインだろう。
白と黒の模様をした猫。
だが、翼が見た事のある猫とは少し模様が違っていた。
右目のすぐ横にまるでホクロのように黒い模様があり、左側の口元にも大きな丸いホクロのような模様。
更にはまるでチョビ髭のように顎の下に黒い模様があり、鼻の色は黒かった。
礼儀正しくちょこんと座っているその姿がとても可愛らしい。
甘えるようにして嗄の膝に擦り寄るその猫を抱き上げて嗄が告げる。
「翼君、この子がレイン。雨だった七夕の日に拾ったからそう名付けたんだぁ」
優しく微笑んで猫を――
レインの頭を撫でてリビングへ足を踏み入れた。
翼はリビングに入って、扉を閉める。
改めてリビングを見渡して目を見張った。
ベランダへ続く窓の左側には植木が置かれており。
薄型テレビの置かれたダークブラウンのテレビボードとラックが一緒になっているラックにはCDやDVD、本やフォトフレーム等が立て掛けられていた。
テーブルの間に硝子で出来たセンターテーブル。
テレビが見れる位置にはアイボリー色のソファが置かれ、ソファの奥にはダークブラウンの食卓テーブルが置かれていた。
その奥にはカウンターのあるシステムキッチン。
キッチンは食器棚やレンジ棚等、全てが白で統一されており清潔感に溢れていた。
キッチン以外は主にダークブラウン系の色で統一されているリビング。
キッチンの左側には小スペース空いており、どうやらそこはレイン専用のようでトイレやネコタワーが置かれていた。
更には壁の空いたスペースには嗄が完成させたのであろうパズルが飾られていた。
風景のパズルや、猫のパズル。
かなり大きいものもあり、そのパズルがまるで絵画のようにも見える。
リビングに足を踏み入れてから翼はずっとリビング内を見渡していた。
チェストの上には電話機が設置されており、必要なものはすぐに取れるようにとチェストの上にもラックが取り付けられていた。
電話機の横には壁一面の飾り棚。
そこには雑誌や小説、またもフォトフレームが置かれていた。
リビングだけではなく、キッチンの方も綺麗に収納されていた。
流石は嗄の部屋だ。
センスも良く、オシャレな部屋だった。
「翼君、何を飲む? 紅茶やココアとかもあるけどぉ」
「あ、なんでも良いです」
翼がそう答えると嗄はティーパックをキャビネットから取り出していた。
嗄が紅茶を用意している間、再びリビングを見渡す。
嗄のセンスと、レインの為の部屋。
実に嗄らしい部屋だと思った。
そこで翼はラックや飾り棚に立て掛けられている写真へ視線を向ける。
電話機の設置されたラックの傍に置かれている写真。
そこに映っていたのは幼い嗄の姿。
丁度翼と同じ年くらいだろうか。
兄三人に囲まれて嬉しそうに笑い、良い笑顔で映っていた。
写真を見つめていると、キッチンから嗄の声が耳に届く。
「その写真ねぇ、前に言った誕生日の時に兄さん達が来てくれた時のなんだぁ」
「――みたいですね」
確かにクリスマスと言う雰囲気が伝わって来る。
パーティー用の三角帽を被った嗄を中心に、クラッカーを手にしている兄達。
本当に、幸せ溢れる一枚だ。
他にも飾られている写真を目にしてある事に気付く。
リビングに飾られている写真は全て、兄達と共に映っている写真ばかりだと。
兄弟全員で映っている写真は数枚しかないが。
ほとんどが兄達とツーショットやスリーショットの写真ばかりだった。
しかも先程の誕生日の写真以外は全て小学校一年生くらいか、幼稚園の年長くらいの嗄しか映っていなかった。
写真を目にして改めて思う。
嗄にとって、兄とは大切な存在なのだと。
掛け替えのない、大切な宝物なのだと。
それにしても、本当に中学生と高校生くらいの頃の写真が一つもない。
一枚くらいあっても良いと思うのだが。
中学生や高校生くらいの頃の写真を探して視線を彷徨わせていると……。
いつの間にか足元にはレインの姿があった。
翼の匂いを嗅ぎつつもこちらを見つめて来る。
可愛らしい顔立ちだが、賢そうな顔をしている。
少し屈んで、レインが怯えないようにゆっくりと手を伸ばしてみた。
最初は少し怯えていたようだが、恐る恐る翼の手の匂いを嗅ぐ。
撫でられるかもしれないと思い、ほんの少しだけレインの身体に触れてみた。
レインは逃げ出す事なく、身体を撫でさせてくれた。
とても毛並みが良く、頭を撫でると嬉しそうに尻尾を揺らす。
「珍しい。その子ねぇ、すごい人見知りなんだよぉ。初めて逢う人には触らせもしないんだよ。僕が翼君の話をしてたから、わかるのかなぁ?」
そう言って嗄がソーサーに乗せたティーカップとマグカップを手にして食卓テーブルへと向かう。
ティーカップの置かれた席へと翼は腰を下ろす。
角砂糖の入った瓶を手にして嗄が「砂糖は何個にする?」と尋ねて来る。
二個は少し入れ過ぎだと思い、「一個で」と答えると翼のティーカップに角砂糖を一つ入れる。
それから、嗄も自分のマグカップに角砂糖を一つ入れた。
どうやら嗄が手にしているのは珈琲のようだ。
嗄は珈琲を一口啜って尋ねて来る。
「少し、心配だったんだ。ちゃんとここまで来れるかってね。翼君、僕の家に来てどう思った?」
「嗄さんらしい部屋だと思いますよ。猫も可愛いですし」
「やっぱりこの子、可愛いよねぇ! どぉしてこんなに可愛いだろう、本当にぃ……」
嗄が砂糖を入れてくれたティーカップをスプーンで混ぜ、紅茶を口にしながら告げたのだが。
どうやら、地雷を踏んでしまったようだ。
レインの事を一度口にすると、嗄は止まらなくなってしまった。
余程、レインの事が好きなのだろう。
こんなにも可愛い顔をしているのに男の子なんだとか。
あまりの可愛さに拾って一ヶ月くらいはずっと女の子だと思い込んでいたとか。
嗄は完全に表情を緩ませてそう語る。
楽しそうに話して来る嗄といつものように雑談をしていた。
主に嗄ばかりが喋っていたが。
陽気に話す嗄を見ているだけでも十分に楽しかった。
本を読む為に来た事など、二人ともすっかり忘れて話ばかりしていた。
このマンションに引っ越して来たのは二年前の事だとか。
マンションに住み始めた頃にレインを拾ったなど。
嗄にしては珍しく私生活について話してくれた。
時折、レインを抱き上げたりレインと猫じゃらしで遊んであげたりして。
しばらくそうして嗄と話していたが、尿意を催して嗄に尋ねる。
「すみません。トイレ借りても良いですか?」
「良いよぉ。トイレはリビングを出て左手側にあるから」
「わかりました」
嗄に教えられた通りにリビングから廊下に出る。
左側には扉が二つ。
右側には扉が一つあった。
玄関側の方は恐らく風呂場だろう。
そうなると、トイレとは反対側の扉は寝室と言う事になる。
少し躊躇いながらも手前にあった左側の扉を開けてみた。
やはりトイレ内も綺麗に収納されており、トイレだと言うのにとてもオシャレだった。
至ってシンプルな翼の家のトイレとはまるで大違いだ。
この様子だと嗄の寝室はどうなっているのだろうか。
そう思いながら用を足し終えて、トイレから出る。
すぐにリビングへ戻ろうとしたのだが、少しだけ嗄の寝室が気になってしまった。
本当ならば勝手に入ってはいけないのだろうが。
嗄がどのような部屋で寝起きをしているのか気になる。
好奇心も顔を覗かせ、つい嗄の寝室を覗いてしまった。
嗄に気付かれないよう、静かに寝室の扉を開ける。
まず視界に入って来たのはセミダブルのベット。
ベットの右側には引き出し型のナイトテーブルが置かれ、上にはルームランプ。
ナイトテーブルの右隣にはデスクが置かれており、椅子には古くなった大きなくまのぬいぐるみ。
右側の壁際にはクローゼットがあり、部屋に入ってすぐの右側にはマルチタンス。
左側の壁際には大きなスライド式の本棚が一つ。
本棚は翼のように全て本では埋め尽くされていなかった。
恐らくは気に入った本だけをこの本棚に並べているのだろう。
本棚には嗄が気に入ったと言っていた本や、翼にもくれた本が並べられていた。
まだ翼が読んだ事のない本も中にはあった。
黒一色で統一された、リビングと比べればとてもシンプルな寝室だった。
寝室にはパズルが一枚も飾られていなかった。
置かれている家具も少ない。
必要最低限のものしか置かれていなかった。
寝室に足を踏み入れ、嗄の新たな一面を知れたような気がした。
ふと、あるものに目が向く。
それはデスクの上に置かれていた二つ繋がったフォトフレームだった。
この部屋に飾られたフォトフレームはデスクの上に置かれた二枚しかなかった。
デスクの元へと歩み寄り、フォトフレームを手に取る。
写真に写っていたのは中学校と高校の卒業風景だった。
嗄を取り囲むようにして四人の男子生徒、女子生徒が写っていた。
しかし、写真の中の嗄は今とはまるで別人のように見えた。
例えるならば、そう。
まるで翼のようだったのだ。
あまり笑わず、何処か悲しげな表情で写っていた。
もう一枚の高校の卒業式の写真も同じように五人の男子生徒と写っていた。
ほんの少し、嬉しそうに笑う嗄を中心にして。
そこで、翼はある事に気付く。
二つの写真を交互に見比べて確認する。
嗄の隣に居る少年。
漆黒の髪にエメラルドグリーンの瞳。
ハーフと思われる少年は中学校の卒業式の写真にも、高校の卒業式の写真にも嗄の右隣に写っていた。
この人は一体、誰なのだろうか。
嗄とは、どのような関係なのだろうか。
ついそんな事を考えてしまった。
それに、どうしても気掛かりになった。
リビングに飾られていた小学生の頃の嗄は子供らしく笑っていた。
まるで、今の嗄のように。
それなのに、突然中学生からは笑わなくなってしまっている。
一体、嗄に何があったのだろうか。
――――もっと知りたい――――
自分の知らない嗄をもっと知りたい。
けれど、直接聞く事が出来ない。
どうしてか、聞く事が少し怖かった。
もしかすれば、翼のように何か大きな事を抱えているのかもしれない。
ならば傷口を抉るような事はしたくない。
――翼はしばらく嗄の寝室で立ち尽くしていた――
あの後、中々戻って来ない翼を不審に思った嗄が寝室に入って来た。
嗄に見つかってしまい、少し狼狽えたが。
元々は本を読む為に来てもらった事を思い出した嗄は本棚から本を取り出して翼に渡してくれた。
写真については何も聞けなかったが、嗄の過去に何があったのかは気になった。
本を読んだ後は嗄が夕食を作ってくれてご馳走になる事にした。
相変わらず料理の腕は上手く、目の前に出されたオムライスはまるで高級料理店のものかと思える程の出来栄えだった。
オムライスをご馳走になった後も本を読んで、家に帰ったのは午後九時前の事だった。
一人で帰ろうとした時に嗄に「送るよ」と言われて最初は断ったのだが……。
〝呼んだのは僕だから、送らせて?〟と言われてしまえば断る事は出来なかった。
先日の嗄との出来事を思い出していた時、不意にアラームが鳴り出す。
アラームの音で我に返り、すぐさまアラームを止める。
これは帰宅を知らせるアラームではない。
今日だけは、違うのだ。
腕時計を見つめて少し微笑む。
もうすぐ十一時になる。
翼はすぐにナースステーションへと足を向けた。
そこには色鮮やかな花束を手にした藤森先生の姿。
更にはナース達も集まっていた。
三月二十日、李哉がこの病院を退院する日だ。
ナースの手に握られていた紙袋を手にして翼は礼を告げる。
李哉の退院祝いにと持って来ていた本をナース達に預かってもらっていたのだ。
紙袋の中身を確認し、李哉が喜ぶ顔を思い描いていると――
李哉が松葉杖を付いてこちらへと向かって来る姿が見えた。
嬉しそうに笑いながら。
以前逢った時と比べると大分上手く松葉杖を付けるようになっていた。
藤森先生の元まで松葉杖を付いて李哉が歩み寄ると優しく、藤森先生は告げた。
「李哉君、退院おめでとう。良く辛い病院生活に耐えたね。李哉君は偉いよ」
そして背に隠していた花束を李哉の前に差し出す。
一瞬李哉は驚いた表情をして見せたが。
すぐに嬉しそうに表情を綻ばせた。
「これは、僕からやナース一同からの花束だよ。本当に、良く頑張ったね李哉君」
「藤森先生…」
嬉しそうに花束を受け取る李哉だったが。
あまりの嬉しさからか、微かに目尻に涙を浮かべていた。
目尻に涙を浮かべた李哉の頭を撫で、藤森先生は優しく告げる。
「また、逢いに来てくれれば良いんだよ。樹姫ちゃん達の見舞いにも来てあげて。僕と話したいなら、いつでも話を聞いてあげるから。都合が悪い時もあるかもしれないけど、何かあったのなら相談に乗るからね」
藤森先生にそう言われた李哉はついに涙を零していた。
次々とナース達から別れの言葉を告げられ、退院の品を渡される。
別れの言葉を告げられる度に李哉は悲しげな表情をして見せた。
目尻の涙を零して。
――今日で李哉は退院する――
病院と言う狭い世界から広い外へと出て行ってしまう。
外の世界を知ってしまった李哉は一体、どうなってしまうのだろうか。
子供のような無邪気な李哉が外の世界を知り、どう変わるのだろうか。
今よりもずっと、強くなってしまうのだろうか。
中学校入学式の頃には今よりも更に別人のようになっているのだろうか。
そんな事を考えていると李哉が全員との挨拶を済ませて。
服の袖で涙を拭い、こちらへと視線を向ける。
李哉と目が合うと翼は手にしていた紙袋を李哉に差し出して告げる。
「退院おめでとう、李哉。これ、前に言った俺の気に入ってる本。今は三冊だけだけど、またあげるから」
「うん、ありがとう…」
藤森先生から受け取った花束を右手で抱え、左手で紙袋を受け取る李哉。
紙袋を受け取った時にあるものが視界に入った。
李哉の左手首には、去年のクリスマスに交換したお揃いの腕時計が付けられていた。
ちゃんと李哉も身に付けてくれている。
渡した腕時計を使ってくれている。
やはり腕時計を渡して良かった。
腕時計は李哉に良く似合っていた。
「李哉に良く似合ってる、その腕時計」
「ありがとう、翼。でも翼の方がよく似合ってるよ」
李哉に褒められて嬉しくなり、微笑んでみせる。
恐らく今まで身に付けて来なかった分、李哉はずっと付けていてくれるだろう。
毎日、身に付けてくれるだろう。
翼がそうしているように。
四月に入り、病院へ通わずに済むようになったら李哉の元へ行こう。
今まで逢えなかった時間を埋めるようにして。
梅が藤森先生やナース達に頭を下げて礼を言う姿が視界の端に映る。
梅の姿を見つめる李哉に少し歩み寄り、そっと耳打ちをする。
「今度、李哉の家に行くから」
「え…」
「その時に、俺の家の場所も教えるから」
それだけ告げると翼は数歩後ろへと後退る。
翼が後退ると待っていたかと言うように李哉の背後に居たバジルが李哉に声を掛ける。
すぐに樹姫と拓海に囲まれた李哉の姿を目にして少しだけ思った。
いつの間にか李哉には多くの友達が出来た。
今まで李哉の友達は自分だけだったと言うのに。
なんとなく、外の世界へ出た李哉には多くの友達が出来るような気がした。
誰からも好かれる李哉の性格ならばそうなのだろうが。
どうしてか、少しだけ寂しく感じられた。
病院しか知らない李哉が外の世界を知ってしまえば、自分以上の友達が出来るかもしれない。
そうなってしまった時、また一人になってしまうかもしれない。
少しだけそんな事を考えてしまっていた。
今までは人と出逢う事がなかった為、李哉にとって翼だけが友達だった。
それが今では樹姫達と出逢った。
病室から一歩外へ出た瞬間に。
ならば李哉に自分以上の友達が出来るまでの間。
それまでの間ならば、李哉の傍に居ても良いだろうか。
また一人になる頃にはきっと、医者になる為の決心も付いている事だろう。
もしかすれば意外と早いのかもしれないが。
みんなから見送られる李哉の姿を目にして少しだけ。
自分一人だけが置いて行かれるような。
まるで李哉の居る場所と自分の居る場所は別世界のようで。
ほんの少しだけ、そう感じられた。
四月になれば翼も病院へ来なくて済む。
李哉と同じようにこの病院から去る事が出来る。
それなのに、どうしてだろうか。
その時、嗄の言葉を何故か思い出す。
〝僕ね、嫌なんだ……。僕だけ、置いて行かれるの…。みんな、気が付いたら居ないから。さっきまで、傍に居てくれたのに。まるで、夢みたいに…僕の前から居なくなっちゃうんだ。みんな、みんな…僕の手の届かない所に行っちゃうんだ……〟
――今ならば嗄の気持ちが少しわかる――
取り残された者の気持ちが。
置いて行かれる者の気持ちが。
けれど〝行くな〟等とは言えない。
せっかくの退院だと言うのに、そんな事を言えるわけがない。
永遠の別れというわけではないのだ。
今度からは逢いたいと思った時に逢える距離になる。
なのに、どうしてだろう。
この切なさは。
胸に留まるこの〝想い〟は、何だろう。
今まで幾度となく退院して行く患者達を見送って来た。
見送る時、こんな気持ちになった事はなかった。
こんなにも切なく、寂しく感じた事は。
しかし、今日は祝うべき日だ。
悲しい顔はしたくない。
見送る時は笑顔で送りたい。
そう思い、気持ちを引き締める。
暫しの別れを告げる樹姫達を眺めていた。
拓海は二言程度別れの言葉を告げると黙り込む。
樹姫はいつものようにさっぱりとした別れの言葉を告げて爽やかに笑って見せる。
バジルだけだった。
別れを惜しむようにしてずっと李哉と話していたのは。
何度も樹姫から快く見送ってやれと怒られていたが。
それでも名残惜しそうな視線で李哉を見つめていた。
やがて李哉と梅は正面玄関から外へ出る。
タクシー乗り場でバジルが李哉に何度も手紙を書くようにと念を押す姿が見えた。
李哉も少し困ったような表情をして見せたので、流石に樹姫が軽くバジルの頭を殴っていた。
笑顔で見送ってやれや、女々しい!と樹姫に怒られるバジルの姿を目にして、〝人の振り見て我が振り直せ〟だと思った。
樹姫の言葉に再び気を引き締める。
「バジル、絶対に見舞いに来るから。またね」
李哉はそう告げるとタクシーに乗り込む。
李哉がタクシーに乗り込むとドアが閉まる。
タクシーのドアが閉まるとバジルは包帯の巻かれた腕を李哉に向けて振る。
まだ車は走り出していないと言うのに。
腕を振るバジルに対してタクシーの中から手を振り返す李哉。
李哉が手を振り返した瞬間、樹姫達……。
藤森先生にナース達と、一斉に手を振り返す。
翼も小さく手を振り返した。
少し笑って見せて。
するとタクシーはゆっくりと走り出した。
バジルの腕の振りが少しずつ大きくなっていく。
翼は車が走り出すと振る手を止めた。
李哉が行ってしまうと、少しだけ以前の――
李哉と逢う前の自分に戻ってしまうような気がした。
今までの出来事は全て夢だったのではないかとさえ思ってしまう。
だが、翼が右腕に付けている腕時計は紛れもない現実だという証拠だ。
タクシーが病院の敷地内から出て行き、道路を走って行く。
タクシーが見えなくなった瞬間、バジルは泣き出してしまった。
「泣くンじゃねェよバカヤロー。男だろうが。李哉も手紙書くつってただろうがよォ」
「ダッテェ……」
「……十分後には泣き止めよ。じゃねェと消灯時間までみっちり日本語教えっからな」
「エッ⁉」
それだけ言い残すと樹姫は病院内へと戻って行く。
拓海も樹姫の後を追うようにして病院へと戻る。
そんな二人の後をバジルが泣きながらも追い掛けていた。
ナース達も病院へと戻るが、藤森先生と翼だけは正面玄関前に残っていた。
翼と並ぶようにして藤森先生は立っていた。
二人で李哉の行ってしまった道路の方を見つめて。
すると不意に藤森先生が尋ねて来た。
「行っちゃったね……。翼君、寂しい?」
「――少しだけ」
翼が短く答えると藤森先生は小さく笑う。
それから真っ直ぐ前を見据えて「僕もだよ」と告げた。
――きっと、翼だけが知っている――
子供達が病院から去って行った後、藤森先生がすごく寂しそうな表情をしている事は。
藤森先生が子供達の事をまるで自分の子供のように、大切に想っている事を。
未だに自分の担当している患者が亡くなった時、一人で涙を流している事を。
藤森先生の素顔を知っているのは恐らく、翼だけだ。
しばらく藤森先生は正面玄関前に立ち尽くしていたが、やがて噴水広場へと行ってしまった。
噴水が完成してから藤森先生は休憩時間の時、良く噴水広場へ向かうようになった。
特に、今日のように桜が綺麗に咲き乱れている時は。
桜の花弁が風に乗って空に舞う日は。
風に流されて空を舞う桜の花弁を見つめて翼は思う。
李哉は今日、病院から卒業した。
明日、翼は小学校を卒業する。
小学校を卒業して四月を迎えると新しい日々が待っている。
期待を胸に翼は少しだけ微笑んだ。
風が吹けば桜の花弁が空に舞う。
爽やかに晴れ渡った青天。
最高な卒業日和だ。
暖かい陽気に包まれ、体育館での卒業式。
去年は自分が卒業生達の胸に卒業の証であるリボンを付ける立場だったと言うのに。
今年は翼が付けてもらって送ってもらう側だ。
今までずっと卒業生達を見ていた傍観者だったと言うのに。
今日は自分が卒業証書を受け取る。
出席番号順に名前を呼ばれる為、翼はクラスの中で一番最初に卒業証書を手にした。
翼にとって卒業証書のイメージは丸い筒に入っているものだったのだが。
どうやらその考えは古かったようだ。
渡された卒業証書は本のように開ける形をしたものだった。
卒業生全員が卒業証書を受け取ると校長が再び教壇に上がり、卒業生へ向けた言葉達を告げる。
いつになく長い話だったが、ふと周りを見渡してみると涙を流す生徒の姿が見えた。
それも一人や二人ではない。
涙を流す生徒達を目にして思う。
余程この一年で涙を流せる程の良い思い出があったのだと。
一年だけではなく、小学校六年間を振り返って涙を流しているのかもしれないが。
翼も少しだけ小学校六年間を振り返ってみる。
学校生活が楽しかったのは最初の一年だけだったが。
それも本当に最初の頃だけだ。
それからはずっと虐められて来た。
友達からの言葉の暴力。
常に一人での行動。
学校行事でも良い思い出など一つもない。
クラス一丸で切磋琢磨した覚えがない。
一つ一つ思い出してみれば他の生徒達とは違う、別の涙が出て来そうになった。
けれど、今は進級式の時とは違う気持ちだった。
あの時は、未来に絶望していた。
明日なんか来なければ良いと、本気で思っていた。
そんな自分が今、卒業式を迎えられて良かったと。
嬉しいと思っている。
進級式の時の自分と今の自分を比べて小さく笑う。
本当に、別人のようだと。
人とはこんなにも変われるものなのだと驚きもした。
やがて卒業式も終わり、卒業証書を手に帰路へ着く。
桜が舞う中、ふと歩みを止めた。
周りを見てみれば両親と幸せそうに笑っている卒業生達。
正門では卒業記念の写真を撮っている人達で溢れていた。
――――両親が来ていないのは翼だけ――――
今更な事に気付いて小さく笑う。
結局両親は小学校六年間、一度も姿を現さなかった。
六年前は両親が来るのをずっと待っていた。
両親を信じて待っていた、幼き頃。
〝医者の息子〟という立場を全く理解していなかった幼き頃の事。
風が桜を撫で、花弁を攫っていく。
空に舞う桜を見つめて微笑む。
進級式の時とは別人のようになれたのは、李哉と出逢えたから。
李哉から、強さをもらったから。
李哉から、勇気をもらったから。
自分の歩む道を、自らの手で掴んだから。
親の決めた道ではなく、自分で決めた道だから。
だからこそ、以前とは違って笑っていられるのだ。
早く明日が来ないかと、楽しみで仕方がないのだ。
本当に今の自分が居るのは李哉のおかげだ。
李哉に出逢わなければ、今の自分は居ない。
出逢えなかったら、進級式の時のように明日など来なければ良いと思っていた事だろう。
自分を変えてくれた李哉に〝ありがとう〟と伝えたい。
何度も、何度も、伝えたい。
四月に入り、同じ中学校へ通えるようになったら何度も伝えよう。
何度も、〝ありがとう〟と。
桜を見つめて微笑み、家へ帰ろうと歩み出した時。
翼は驚いて目を見張った。
桜の花弁が舞う中。
幼い頃の自分が視線の先には居たからだ。
嬉しそうに、無邪気にこちらへ向かって笑い掛けていた。
翼が驚いていると、不意に強い風が吹いて目を閉じる。
目を覆い尽くすような桜の花弁に顔を伏せた。
風が収まった頃にゆっくりと目を開いてみるが、そこに幼い自分の姿はなかった。
幼い自分の姿はなかったが、桜が舞う中に嗄の姿が見えた。
また幻覚でも見ているのかと思い、数回瞬きをしてみるが。
嗄の姿は消えない。
驚きつつも嗄の元へと駆け寄ってみる。
嗄はいつもと変わらない優しい表情で告げる。
「翼君、卒業おめでとう」
「嗄さん……。ありがとうございます。でも、どうしてここに?」
「これから翼君の家に向かう途中だったんだぁ。もしかしたらまだ居るかもしれないと思って、ちょっと寄ってみたんだ。行き違いにならなくて良かったぁ。じゃあ、行こうか」
「は、はい」
今日はいつもより早い時間に嗄が来る事になっていた。
嗄の都合が本日ばかりは合わず、いつもとは早い時間になってしまったのだ。
いつもは手にしていない鞄を手に下げた嗄は翼の家へ向かって歩き出す。
嗄の後を追おうとしたが、ふと翼は後ろを振り返る。
――先程の幼い自分は一体、何だったのだろうか――
幼い自分の姿を思い出し、少しだけ幼い頃の事を振り返れたような気がした。
あの頃のように無邪気に笑う事は出来ないが。
以前と比べると優しく笑えるようにはなった。
幼い頃の自分を卒業するように。
翼は小学校に背を向ける。
今日で小学生は卒業。
あと十日で三月も終わる。
全てが、新しく生まれ変わる。
翼は小走りで嗄の後を追い掛けた。
自宅に着き、手洗いうがいを済ませると制服を脱いで私服へと着替える。
着替えを済ませて自室へ戻り、いつも通りに嗄と勉強を始めた。
至って何も変わらない。
嗄の作ったテストを解いていく自分も。
小説を読みながら翼がテストを解くのを待つ嗄も。
何一つ、いつもとは変わらない。
翼が小学校を卒業しても、いつもとは変わらない時間。
やはり嗄が卒業を祝ってくれるわけがないかと諦めてテストを解いていく。
少しでも期待していた自分が馬鹿だったのだ。
嗄はただの家庭教師。
翼が小学校を卒業したって、何の関係もない。
それなのに翼は嗄が卒業を祝ってくれるとすっかり期待していた。
誕生日やクリスマスを一緒に祝ってくれた嗄なら祝ってくれると、心の何処かで期待していた。
しかし、その期待はあっさりと裏切られてしまった。
それでも良い。
愛しい人と共に過ごせるならば、それでも良い。
例え祝ってくれなくとも、卒業の日に嗄と一緒に居れるなら良かった。
誰にも祝われなくても良い。
今までそうだったじゃないか。
そう翼は自分に言い聞かせる。
テストを全て解くと、いつものように嗄が採点をしていく。
部屋にボールペンの走る音だけが聞こえる中、翼はクローゼットへと視線を向ける。
クローゼットの前には、中学校から着て行く制服が掛けられている。
机の横には中学校から使うスクール鞄も置かれている。
昨日の夜に机の棚には中学校で使う教科書を並べた。
全てが四月の中学校生活に向けられた自室。
そんな自室を目にして改めて実感する。
本当に小学校を卒業してしまったのだと。
何処となく寂しく感じられた。
小学生としての生活は、今日をもって終わる。
不安もあるが、楽しみでもある中学生生活が始まる。
四月からは本当に、今までとは全く違う生活が待っている。
病院へ行く事もなく。
病院で李哉と逢う事もなく。
普通の生活が待っている。
本当に楽しみなのだが、どうしてか寂しさの方が勝っていた。
大人になっていけば、医者になる道が近くなる。
今はそれが嫌ではないが。
やっぱり、寂しい。
進むしかない時が、寂しいものなのだと翼は思った。
採点を終えた嗄が優しく告げる。
「翼君、今日も頑張ったね。そんな翼君にご褒美があるんだぁ」
「ご褒美、ですか?」
「うん」
嗄は嬉しそうに微笑んで傍に置いていた鞄へ手を伸ばす。
ご褒美と聞いて翼は本棚へと視線を向ける。
翼が勉強をする切っ掛けになった言葉だ。
テストで満点を取る度に嗄はご褒美と言って本をプレゼントしてくれた。
今では本棚の事を考えたり、忙しくて本のプレゼントはしばらくなかったが。
今日は思い出して持って来てくれたのだろう。
一冊くらいならば置き場もなんとかなるだろう。
翼がそう思っていると、翼の想像を覆すようなものが鞄から取り出された。
それは、ケーキの箱。
先日嗄が出て来たケーキ屋のロゴが入っているケーキの箱だった。
翼がテーブルの上に置かれたケーキの箱に驚いていると、嗄が箱を開けていく。
赤いリボンで綺麗にラッピングされたリボンを外し、嗄は優しく告げた。
「卒業おめでとう、翼君。これは僕からのプレゼントだよ」
開けられたケーキの箱の中にはチョコレートクリームで出来たブッシュドノエルが入っていた。
繊細な所まで本物の木のように作られた、完成度の高いブッシュドノエル。
音楽がテーマのようで、チョコレート細工で作られたト音記号や、ホワイトチョコレートの音符達。
まるでメロディを奏でているようなケーキだった。
そのようなケーキを目にして翼は瞬時に気付いた。
この完成度の高さ。
センスの良いテーマ。
もしかしてこれは、嗄が作ったものなのではないだろうか。
以前嗄はケーキのデザインを考えていると言っていた。
もしかして。
あの時から嗄は翼の為にこのケーキのデザインを考えていた……?
驚きながら翼が嗄の顔を見つめると、照れながら嗄が告げる。
「翼君、甘いものはそんなに好きじゃないって言ってたから甘さを控えめに作ってみたんだぁ。食べてみてくれる?」
「そんな……。食べるのが勿体ないです!」
「でも、このケーキは翼君の為に作ったものだから。翼君が食べて?」
こんなにも美しい、芸術品のようなケーキを崩して食べるなんて。
とてもじゃないが翼には出来ない。
しかし、このケーキは翼の為に作ってくれたものだ。
嗄が優しく、プラスチックのフォークを差し出してくれる。
躊躇いながらも翼はフォークを受け取る。
本当に、食べてしまうのが勿体ない仕上がり。
しばらくケーキを見つめていたが、恐る恐るケーキの端を崩して口へと運ぶ。
口の中に入れると、仄かに甘い上品な甘さが口の中に広がる。
翼好みの味に仕上がっていた。
ケーキを口にすると嗄が不安気に尋ねて来る。
「どう……?」
「――――おいしい、です……」
本当に、美味しい。
今まで口にしたケーキの中で、一番の美味しさだった。
もう一口、小さくケーキを崩して口元へと運ぶ。
大切に、大切に嗄の想いが籠もったケーキを。
少しずつ、口にしていく。
ケーキを口へと運ぶ度に涙が零れた。
一つ、二つと。
一口、ケーキを口へと運んで思い出す。
一人で誕生日を祝った、幼き日の事を。
ケーキを口にする度に思い出す。
寂しかった、悲しかった日々を。
祝う人もおらず、一人で過ごして来た日々を。
嗄と出逢い、嗄に誕生日を祝ってもらった日の事を。
嗄の想いが嬉しくて。
嬉し過ぎて。
嗄の作ってくれたケーキが美味しくて。
美味し過ぎて、涙が次々と溢れて来る。
「ありがとう……ございます……」
自分の為に、こんなにも美味しいケーキを作ってくれて。
自分と出逢ってくれて。
様々な想いがごちゃ混ぜになり、涙として零れていった。
とても、満ち足りた気持ちだった。
大切な人から、何かをしてもらえる事がとても嬉しかった。
言葉にできない程、嬉しかった。
――ありがとう――
俺は一体、何度心の中でそう唱えただろう。
嗄さんは涙を流す俺の頭を優しく撫でてくれていた。
何を言うわけでもなく。
暖かい、優しい微笑みを浮かべて。
何もかもが幸せだった。
今までで一番、幸せだと感じたあの日。
全てが明るく輝き始めたあの頃。
綺麗で尊かったあの頃。
それを自分自身で汚してしまう事も知らずに。
自分で積み上げていったものを全て自らの手で壊す事など、この時の俺は知らなかった。
これから犯してしまうであろう罪を知らず。
背負い続けるであろう罪に気付く事もなく。
――あの時の俺は涙を流し続けていたんだ――
~To be continued~




