青春スクエア ~綾崎翼の片思い~ 小学生編21
李哉の二度目の手術は無事に成功。
後は李哉の努力次第という所まで来た。
来たのだが……。
手術を受けて一週間程、以前のように吐いては気を失っていた。
恐らく、以前よりも酷い激痛が伴っているのだろう。
一度目の手術後、李哉は前よりも痛いと口にしていたのを思い出す。
普段ならば無理をしてでも料理を口にするのだが、今回はすぐに気を失ってしまう為に流動食となっていた。
無意識に李哉の病室前まで訪れても、李哉の意識がない間は病室に寄る事はしなかった。
父の告げた条件の為、目を覚ますまでは逢わない事にしたのだ。
李哉と逢わない代わりに樹姫達と逢う。
樹姫達と話すのは楽しい。
楽しいのだが、最近一つだけ問題が生じていた。
それは、バジルだ。
バジルの事を思い出しながら廊下を歩いているとそこに丁度、金髪の頭が人と人の間を器用に縫って走る姿が視界に入る。
良くもあんなに器用に人を避けて走れるものだと少しだけ感心するが――
小さな溜め息を零し、翼の横を通り過ぎて行こうとするバジルに声を掛ける。
「バジル君、ストップ」
翼が声を掛けた瞬間、バジルは足を止める。
振り返って翼の顔を目にすると少しだけ嬉しそうな顔をして見せた。
そんなバジルに歩み寄るとバジルの方から尋ねて来た。
「ドシタ、メグミ」
一昨日までは英語で翼と話していたと言うのに。
今では一応カタコトで日本語が喋れるようになっていた。
カタコトで話せるようになったバジルと逢い、最初は驚いた。
流石は樹姫のスパルタ教育だと。
「廊下は走っちゃいけないって、色んな人から言われているはずだよ」
「イツキ、クル。ニゲテル」
「――また何かしたの?」
「イツキ、キビシイ。ツライ、ニゲル」
「確かバジル君の方から日本語を教えて欲しいって言ったんだよね?」
「――――イツキ、コワイ」
バジルの一言に思わず納得してしまう。
だが、翼は実感していた。
バジルと話をする度に少しずつ、日本語が上手くなっている事を。
多分、李哉が退院する頃には大分日本語を喋れるようになっている事だろう。
そう思っていると、廊下の奥から樹姫の怒声が聞こえて来る。
刹那、再びバジルは走り出す。
走って逃げるバジルの後を樹姫がズカズカと足早に追い掛けて行く。
足早に歩いている――
というよりも女の子とは思えない程の大きな歩幅で歩いているからだろう。
バジルに追い付いて襟首を掴んでいるのは。
嵐のように去って行く二人の背中を見つめながらそんな事を考える。
一ヶ月程前では日本語を教える時の樹姫の怒声が問題だったのだが。
最近ではバジルが病院内を走り回って樹姫から逃げ回っている為、患者とぶつかっては危ないと何度も注意する事になっていた。
何度もバジルに走るなと注意するのだが、全くもって効果がない。
更には樹姫までもが走り回る始末だ。
ナース達が注意しても改善される兆しが見えなかった為、ナース達から翼の方からも注意するようにと頼まれたのだが。
どうやら翼でも駄目なようだ。
ほんの少し、溜め息を零す。
丁度その時、アラームが鳴り響いて帰宅時間を知らせる。
樹姫とバジルの事は諦める事にし、ナースステーションからランドセルを受け取って帰路に着く。
暗くなっていく空を仰ぎ見る。
もうすぐ、李哉は退院する。
もうすぐ、小学校の卒業式がやって来る。
卒業すれば、中学校の入学式が待っている。
中学校へ通う頃にはもう病院へ行かなくても良い。
中学校三年間は病院へ毎日通わなくて済む。
早く、四月が来ないだろうか。
翼は誰よりも四月が来るのを心待ちにしていた。
四月が待ち遠しく感じられる。
中学校の事を考えると自然と足取りが軽くなっていた。
そのまま何処にも寄る事はなく、真っ直ぐ家へと向かった。
家の前まで来ると、門の前には嗄の姿があった。
両手に大きな紙袋を四つ程手にした嗄の姿が。
「こんばんは、嗄さん」
「あ、翼君。こんばんわぁ」
「どうしたんですか? その紙袋」
門を開け放ち、玄関の施錠を解きながら尋ねた。
嗄は紙袋を手にして玄関前に足を踏み入れる。
すぐに扉を開けると、嗄の手から紙袋を少しだけ手に取って運ぶのを手伝う。
紙袋を手にした瞬間、想像していたよりも軽かったので少し驚く。
「ほら、今日はバレンタインじゃないかぁ。だから全部チョコレートだよぉ」
「えっ⁉」
嗄の言葉に驚愕し、思わず紙袋の中へと視線を向ける。
紙袋一つには三十個以上のチョコレートの箱が見える。
確かに嗄の容姿だとモテるだろう。
バレンタインとは全く縁のない翼とは対照的だ。
嗄はチョコの入った紙袋を目にして少し困ったように笑う。
改めて紙袋に目を向け、流石は嗄だと思う。
「とりあえず翼君の部屋に行ってるねぇ」
「あ、はい……」
玄関に置いていればいいと言うのに。
嗄はわざわざ紙袋を二階にある翼の自室まで持って行っていた。
嗄に驚きながらも翼はいつものように手洗いうがいを済ませる。
キッチンからお茶を手にして自室へと向かう。
本当に嗄はすごいと思う。
いや、芸能人の兄が居るのだからモテて当然だろうが。
女性から声を掛けられる事も多いだろう。
逆に声を掛けられる事のない翼の方が可笑しいのだ。
それ以前に今日がバレンタインだとは知らなかった。
違う。
確か、藤森先生が病院でナースや患者達からチョコを貰っていたような気がする。
その事を思い出し、階段を上がって行く足を止めた。
藤森先生にはチョコを渡すのに、仲の良いナースや子供達、樹姫は翼にチョコをくれなかった。
翼は今日、一つもチョコを貰っていない。
それに気付いてしまい、少しだけ項垂れる。
チョコを貰えないと言う事はつまり、翼はモテないと言う事だ。
少々落ち込みながらも階段を上がって行き、自室の扉を開ける。
そこにはいつも通りの嗄の姿。
嗄の傍に紙袋が置かれている事が気になるが。
嗄は翼からお茶を受け取って口にした。
「ありがとう。でも、困ったなぁ……。ホワイトデーのお返し、どうしよう……。このチョコねぇ、全部お店のお客さんからのものでねぇ。バイト仲間から貰ったチョコの方が少ないんだよぉ。その上に道ですれ違った女の子達からももらったからぁ……。他にも、持って帰れなかった分は段ボールに詰めて家に送ったんだ。帰ったら近所の人達の分もあるしぃ……。五月くらいまでは残りそうだよぉ……」
嗄の言葉を耳にして更に驚愕する。
想像以上の数だった。
嗄は本当に困ったような表情をするが。
恐らくは初めてだろう。
こんなにも嗄の事を憎たらしいと思ったのは。
しかし、嗄がモテる事は良く知っている。
兄達の事がなくても、確かに嗄は魅力的だ。
今でこの様子なのだから、学生時代はもっとすごかったのだろう。
下手をすれば学校中の女生徒からチョコを貰っていたのかもしれない。
翼がそう思っていると、考える事が同じだったのか嗄が告げた。
「学生時代は一人一人に返すのが面倒だったからイベントで返してたから楽だったんだけどねぇ。お店の常連さんなら兎も角、道端ですれ違った子から貰ったチョコはどうしよう……。どうやって返そうかぁ……」
「そう、ですか……」
「あ、そういえばぁ翼君。四月からは学力の高い所に行くんだよねぇ?」
「いえ、近くの東中学校へ行く事になりました」
「え、東中学校に?」
「はい」
「どうして急に東中学校に行く事にしたのぉ?」
「――友達の為です。俺がサポートした方が良いと思って」
翼がそう告げると、嗄は少しだけ驚いたような表情をして見せた。
そして、優しく微笑んで尋ねて来る。
「もしかして、〝きしや〟君?」
「――――はい」
「そっかぁ……。友達の為に何か出来るって、翼君は友達思いなんだねぇ」
「そんな事ないですよ」
「ううん。すごい事だよぉ。少なくとも、僕には友達の為に進路を変えるなんて事は出来なかったなぁ」
嗄はそう呟くと、少しだけ懐かしむように目を細めた。
その後、勉強を始める事になった。
翼は嗄お手製のテストを解いていく。
翼がテストを解いている間は静かになる。
シャーペンが紙の上を走る音と、嗄が本のページを捲る音だけが耳に届く。
そんな空間で翼は勉強をする。
やはり、嗄と居る時が一番安心出来る。
それに嗄の考えた問題は解いていて楽しい。
違う視点から考えてみれば簡単に解ける問題。
よく考えてみればわかるような引っ掛け問題など。
翼のレベルに合わせたり、時には翼でも難しい問題を用意してくれる。
テストには引っ掛け問題の正しい式と答えを書いていく。
正直、学校のテストを解くよりも嗄の作ってくれるテストの方が好きだ。
十分程時間を掛けてテストを解いていった。
翼の解いたテストを今度は嗄が採点していく。
自室には嗄がテストに丸を付けていく音だけが響く。
嗄が採点している間、翼は嗄の横顔を見つめる。
いつもは優しい微笑みを向けてくれる嗄だが、採点の時だけは真剣な表情をしている。
時折、引っ掛け問題の採点の時に少しだけ嬉しそうに笑って丸を付けていく。
笑う嗄の顔を目にすると、こちらも嬉しくなる。
しばらくして採点を終えた嗄が口を開いた。
「はい。今回も百点――あ、ごめん……。また本、忘れちゃったぁ……」
「良いですよ。本の事は気にしないでください。それに、また本棚が必要になって来ますし……」
少しだけ、本棚へと視線を向ける。
今の所はまだ平気だが、あと十冊程しか収まらないだろう。
なので最近では本を買う事をやめている。
嗄も本棚へ視線を向けて呟く。
「確かにまた本棚が必要だねぇ……。その時はまた、僕が作ってあげるよ」
「ありがとうございます」
翼がそう答えると、嗄は優しく微笑む。
幸せな一時。
時間がゆっくりと流れれば良いと翼が思っていると。
嗄が紙袋からチョコレートの箱を一つ取り出した。
どうしたのだろうかと尋ねようとすると、翼の前に取り出した箱を置いてくれた。
どういう事かとチョコの箱と嗄の顔を交互に見つめていると、嗄が優しく告げる。
「食べて良いよぉ」
「でも、これは嗄さんが貰ったもの――」
「僕一人じゃ食べ切れないから。手伝ってくれる?」
困ったように少し笑って、嗄は言って来る。
そんな嗄の顔を目にして断れるわけがない。
翼は恐る恐る、置かれた箱へと手を伸ばす。
翼がチョコの箱へと手を伸ばすと、向かいに座っていた嗄も紙袋からチョコレートの箱を取り出す。
取り出したチョコレートの箱を開け、まるで何事もなかったかのようにしてチョコを口へ運ぶ嗄。
チョコを口に含んだ嗄が〝ほら、食べてごらん〟と優しい微笑みを浮かべる。
嗄に促され、渡されたチョコの箱を開けてみて驚いた。
何故ならば中身は高級チョコレートだったからだ。
それを当たり前のように口へ運ぶ嗄。
本当にこんな良い物を口にしても良いのだろうか。
このチョコレートには渡した女性の想いが込められている。
嗄への想いが込められたチョコレートを、本当に翼が食べても良いのだろうか。
チョコレートを渡した女性に対して後ろめたい気持ちで嗄を見つめる。
ほんの少し潤んだ瞳で見つめられ、心臓が大きく跳ねる。
思い切って高級チョコレートを人差し指と親指で摘まみ、口元へと運ぶ。
口に入れた瞬間、仄かな甘さが口の中に広がってまるで雪のように溶けていく。
流石高級チョコレートだ。
上品な甘さであり、今まで口にしたチョコの中で一番美味しい。
こんなにも美味しいチョコレートならば毎日でも食べられる。
食べられるのだが、翼はチョコレートを受け取っていない。
多くのチョコを受け取った嗄は嗄で大変そうだが。
ふと、嗄の方へと視線を向ける。
いつもならばこのタイミングで今日あった出来事を教えてくれるのだが……。
どうしてか、今日は無言だ。
どうかしたのだろうか。
気になって嗄の顔を見つめ、ある事に気付く。
眠そうに、少し潤んだ瞳。
顔も少し紅潮しているような気がする。
明らかに普段の嗄とは様子が違う。
大丈夫かと尋ねようとした時、嗄が先に口を開いた。
「これぇ……お酒、入ってる……」
「え」
嗄の言葉に数秒、理解が遅れた。
確か、ウィスキーボンボンというものは中に洋酒の入ったチョコレートの事だ。
ウィスキーボンボンの知識を思い出し、気が付く。
もしかして、嗄は酔ってしまったのだろうか。
いつもとは様子の違う嗄を見つめながら尋ねてみる。
「――もしかして、酔ったん……ですか……?」
「ん~……そう、みたい……?」
まるで子供のように首を傾げて答える嗄。
容姿と釣り合うように子供っぽい。
心を射止められるというレベルではない。
あまりの可愛さに一瞬、気が遠くなり掛けた。
こんな嗄は初めて目にする。
どう対処すれば良いのかと少し戸惑う。
この場合は酒を飲んだ時のように介抱すれば良いのだろうか。
そんな事を考えていると、嗄が舌足らずで告げる。
「僕……お酒、弱いんだぁ……。すぐに眠くなっちゃう…」
眠そうに目を擦る姿は正に子供。
酔った状態の嗄と居るのは危ない。
主に心臓が持たない。
このまま一緒に居れば、心臓が壊れてしまいそうだ。
とりあえず水を持って来ようと思い、立ち上がる。
「今、水を持って来るので待っていてください」
ウィスキーボンボンで酔ってしまったのならば介抱しなくては。
水で対処するのが妥当だろう。
そう思い、嗄の横を通り過ぎようとした時――
嗄が翼の服の裾を掴んだ。
引き留められ、一体どうしたのかと振り返って嗄の方へ顔を向ける。
嗄は潤んだ瞳に悲しげな。
寂しげな色を帯びて、甘えるようにして告げた。
「行かないでよ……。傍に、居て……」
今まで、翼には見せなかった表情。
子供のように甘えて来る嗄。
子供のようになってしまった嗄の姿を目にし、一瞬自分と重ねてしまった。
以前、嗄は翼と同じような生活を送っていたと言っていた。
恐らく、今の言葉は嗄の本音だろう。
嗄の気持ちが痛い程わかり、翼は嗄の隣に腰を下ろす。
すると嗄は安心したように表情を綻ばせる。
「一人に、しないで……。ずっと、いっしょに……居て……」
翼の腹部に顔を埋めるようにして、嗄は座っている翼に抱き付いて来る。
嗄の行動に戸惑いつつも、優しく。
嗄を傷付けてしまわないように、優しく嗄に触れる。
「――ずっと、傍に居るよ。だから、安心して」
嗄が安心出来るように、優しく、頭を撫でる。
普段とは完全に別人となってしまった嗄。
子供のようになってしまったからだろうか。
敬語で言わなかったのは。
こんなにも簡単に、触れられるのは。
抱き締められる力が、ほんの少し強まる。
翼が頭を撫でれば、更に腕の力が強まるような気がした。
翼の腹部に顔を埋めながら嗄は呟く。
「僕ね、嫌なんだ……。僕だけ、置いて行かれるの…。みんな、気が付いたら居ないから。さっきまで、傍に居てくれたのに。まるで、夢みたいに…僕の前から居なくなっちゃうんだ。みんな、みんな…僕の手の届かない所に行っちゃうんだ……。僕が求めるものなんて……どこにも、ないんだ……。もう、どこにもない……」
悲しげに。
今にも泣き出してしまいそうな声で。
消えてしまいそうで、儚げに告げられた言葉。
嗄の顔は見えなかったが、見なくても容易に想像出来た。
きっと、今にも泣き出しそうな表情なのだと。
――翼にはわからない――
自分と似たような日々を送っていた。
だが、実際に嗄がどんな生活を送っていたのかはわからない。
嗄について、何も知らないのだ。
嗄が何を抱えているのかも知らない。
嗄がどんな想いで居るのかもわからない。
何一つ、知らないのだ。
翼は少し、目を閉じる。
自分から嗄に掛けられる言葉など、きっとない。
けれど、この言葉だけは本物だ。
髪を撫でる手を更に優しくして告げる。
「――嗄さん。俺は、何処にも行きませんよ。ずっと、嗄さんの事を見ていますから。だから、安心してください」
翼がそう告げると嗄は驚いたように顔を上げて、翼の顔を見る。
そして、悲しげに微笑んで静かに目を閉じた。
目を閉じると翼に身を預け、そのまま眠ってしまった。
静かに規則正しい寝息が耳に届き、眠ってしまった嗄に少し狼狽える。
だが、安心したように微笑む嗄の顔を目にすると自然と表情には笑みが浮かぶ。
翼も安心して嗄の頭を優しく撫でる。
それから机の上に置かれた、嗄が口にしたチョコレートの箱に視線を向けてみる。
嗄は箱の中身をほとんど食べてしまっていた。
そんなにも、アルコール度数が強かったのだろうか。
ほんの少し気になり、チョコを一つだけ指で摘まんで口元へと運ぶ。
嗄が口にしたチョコを口にして驚いた。
確かにチョコの中にはワインが入っている。
しかし、そこまでアルコールが強いわけではない。
数個口にしただけでこんなにも酔ってしまうレベルではなかった。
つまり、嗄は相当酒に弱いようだ。
嗄の酒の弱さに驚いていると、嗄が魘されながら呟いた。
「……行かないで……おにいちゃん……。おいてかないで……」
本当に、子供のようで。
翼は魘されている嗄の頭を優しく撫でてみる。
嗄の髪はとても柔らかく、艶やかで触り心地が良い。
嗄の頭を撫でていると、徐々に嗄の表情が和らいでいった。
その姿を目にして翼も微笑む。
眠っている嗄の姿を見つめ、ふとある問題に気が付く。
嗄は何時頃に目を覚ますのだろうか。
今日中には目を覚ますだろうか。
嗄の事だから明日もバイトがあるだろうし、早く帰らないといけないのでは?
そう思いはするのだが、もう少し。
もう少しだけ、このままで居たいと思う自分も居る。
――――もう少しだけ、このままで――――
しばらくして、嗄は目を覚ました。
本当はベットで寝かせたかったのだが、自分の体重の倍はある嗄を抱き上げる事は出来なかった。
その代わり、嗄に布団を掛けて膝枕ではなく、翼の使っている枕を貸して自分は本を読んでいた。
と言っても、嗄が眠ってしまったのが九時前で目を覚ましたのが日付の変わった午前二時過ぎだった。
目を覚ました嗄はまだ夢心地のようで、茫然とした様子で翼を見つめる。
「起きましたか。嗄さん、大丈夫ですか?」
「えぇっと……。僕、何してたんだっけ……?」
「ウィスキーボンボンを食べて酔ってしまったんですよ。それで今まで眠っていました」
嗄は身体を起こしてその場に座る。
テーブルの上に置かれたままのチョコレートの箱を目にしてようやく思い出したようだ。
自分の食べたチョコレートの箱を手に取り、嗄は不思議そうに呟く。
「可笑しいなぁ。今までずっとチョコは貰って来たけど、ウィスキーボンボンなんて一つもなかったのに……」
「え、そうなんですか?」
「そうだよぉ。だから不意打ちだったなぁ」
確かに、自分で酒に弱いと分かっている嗄が自らウィスキーボンボンを口にするわけがない。
ウィスキーボンボンを初めて口にした場合ならば問題外だが。
恐らく、嗄は今日初めてウィスキーボンボンを口にしたのだろう。
そこで一つだけ気掛かりな事を見つけた。
毎年これだけの量のチョコを貰うのだから、今回のように中にはウィスキーボンボンが紛れている事があるだろう。
それにも関わらず、今まで一つもウィスキーボンボンが入っていないとは。
翼のように学生であり、未成年者であるならばその理由もわかるのだが。
嗄ももう二十二歳だ。
大学生くらいの年齢ならばウィスキーボンボンを渡されても可笑しくないはず。
嗄本人が酒に弱いと公言していたのならば入っている事はないだろうが。
どうやらそうでもないようだ。
翼がそんな事を考えている間にも、嗄は時計を目にした瞬間帰り支度を始めていた。
そんな姿を目にして嗄に尋ねる。
「大丈夫なんですか? 一人で帰れますか?」
「途中でタクシーを拾うよ。この時間じゃあもう終電出ちゃってるし」
「そうですか……」
もう少し一緒に居たいと思うが、これ以上嗄を引き留めるわけにはいかない。
帰り支度を済ませて紙袋を手にした嗄は階段を下りて行く。
足取りはいつも通りなのでもうアルコールは抜けたのだろう。
玄関まで見送りに行くと嗄はいつものように笑って告げる。
「じゃあ、今日は帰るねぇ。こんな時間までごめんね。また明日――あ、今日かぁ。また来るねぇ」
そう言い残し、嗄は玄関の扉を開け放って出て行ってしまった。
扉を開けて嗄の様子を確かめたかったが、それはやめた。
これ以上、引き留めてはいけない。
小さく手を伸ばし、その手で玄関の鍵を掛ける。
それから階段を上がって行き、自室へ戻って行く。
自室に足を踏み入れた瞬間、寂しさから胸が酷く締め付けられる。
――嗄はずるい――
行かないでと、引き留める事が出来るから。
傍に居てと、言う事が出来るから。
一人にしないでと、言えるから。
翼には何一つ出来ないと言うのに。
テーブルの上には先程まで嗄が居た証拠のチョコレートの箱が残されている。
箱の存在が嗄の事を強く思い出させる。
嗄の言葉が、頭の中で反芻する。
〝行かないでよ……。傍に、居て……〟
〝一人に、しないで……〟
〝みんな、僕の手の届かない所に行っちゃうんだ……〟
〝おにいちゃん……おいてかないで……〟
「――――」
翼は箱の置かれたテーブルの横を通り過ぎ、勉強机の前に立つ。
棚から日記を取り出すと椅子に腰を下ろして日記に書き記していく。
今日翼が目にした嗄について。
――嗄が零した本音について――
それから数日後の事、翼は病院に訪れていた。
四月までの間、この病院へ通っていれば四月以降は病院へ通わなくて済む。
その為に翼は父が出した条件に素直に従っていた。
いつも通り正面玄関から病院内へ足を踏み入れて。
ナースステーションにランドセルを預けると今日は年の近い患者の病室へと足を運ぶ。
病室に向かおうと廊下を歩いていると。
「翼君」
不意に、後方から声を掛けられた。
良く聞き慣れた声。
足を止めて自分を呼び止めた人物へと視線を向ける。
「どうしたんですか。藤森先生」
振り返ってみると、翼を呼び止めたのは藤森先生だった。
藤森先生は少し嬉しそうに微笑んでこちらへ歩み寄る。
何か良い事でもあったのだろうか。
翼がそう尋ねるより先に藤森先生の方が口を開いた。
「今日、李哉君が目を覚ましたよ。相変わらず流動食じゃなくて、自分で食事を採りたいって言って自分で採ってたけど……。やっぱり吐いたみたい」
「そう、ですか……」
「でもね、食事を採った後すぐに匍匐前進をしてたよ」
「え――」
「朝食、昼食を採った後はずっとね。だから午前中からずっと匍匐前進してるよ。もしかしたらまだしてるんじゃないかな」
藤森先生の言いたい事が瞬時に分かった。
李哉の元へ行ってみたらどうだと。
李哉と逢って来いと。
遠回しに藤森先生はそう言っているのだろう。
言われるまでもなく、翼は李哉と逢うつもりだった。
李哉の事について教えてくれた藤森先生に「教えてくれてありがとうございます」と告げるとその場を立ち去る。
逢って話をするにしても、他の患者の元へも向かわなければならない。
李哉とはほとんど話せないかもしれない。
それでも良い。
少しでも元気な姿が見れるのならば、それで良い。
とりあえず、李哉の病院へ足を向ける事にした。
もしかすると自分が来る時間だと、病室に戻っているかもしれない。
そう思い、李哉の病室へと向かっていた最中。
廊下で李哉の姿を見つけた。
疲れ切った様子で力なく、匍匐前進をしている李哉を。
必死に前に向かって進もうとしている李哉の姿を。
もう何処にも動く為の力など残っていないはずなのに、諦めずに前へ進もうとしていた。
そんな李哉の姿を目にしてまた、感じてしまう。
李哉と自分の違いを。
また、比べてしまう。
自分と李哉を。
李哉は翼が思い描くよりも遥かに強い。
とても、強い人だ。
決して諦めず、努力を続けるような人だ。
翼のように、目の前に立ちはだかる壁にぶつかるとすぐに諦めてしまうような人ではない。
自分とはまるで正反対な人間だ。
李哉の強さを知る度に思い知らされる。
自分の弱さを。
本当に李哉は強い人間だと思いながらも声を掛ける。
「李哉、頑張ってるんだ」
声を掛けてみると李哉は匍匐前進をやめて翼の方へ顔を向ける。
全身汗だくで、息もすっかり上がってしまっている。
藤森先生が言っていたように、ずっと匍匐前進をしていたのだろう。
この様子だとどうやら随分無理をしているようだ。
李哉と視線を少しでも合わせようとして李哉の前で屈んでみせる。
「――でもそんなに根を詰めたら身体壊すよ」
「今日はそんなに頑張ってないよ?」
「嘘。すごい汗だくだよ。それにもう、動けないんじゃない?」
先程から見ていた限り、対して前に進めていない。
初めての匍匐前進。
その割にはかなり頑張った方だ。
余程、早く歩けるようになりたいのだろう。
李哉の気持ちもわかるが、流れる汗の量と手足へ視線を向ける。
ほとんど一日中腕を酷使し、早く病室へ戻る為にと膝を付いていたのだろう。
見ただけでわかる。
手足がもう限界だと悲鳴を上げ、小刻みに震えている。
恐らく、もう動けないだろう。
それを目の当たりにし、翼は優しく告げる。
「――車椅子、持って来てあげるよ」
「いや、いい!」
「でも――」
「ごめん、気持ちはすごく嬉しいんだけどね。自分で病室から出たんだから自分の力で病室に戻りたいんだ」
「――そっか」
「でも、匍匐前進って意外と難しいんだね。実際にやってみて驚いた」
「一度も匍匐前進した事ない人が急にやっても上手くいかないよ。自衛隊は鍛えられてるから速く動けるけど」
「やっぱり、もっと鍛えていればよかった」
李哉はそう呟くとなんとか壁の方まで這って行き、壁に背を凭せ掛ける。
〝自分で病室から出たのだから自分の力で帰る〟
なんとも李哉らしい考えだ。
けれど、李哉は誰よりも頑張っている。
誰よりも、努力している。
普通ならば初めてでここまでは出来ないだろう。
ここまで来るまでに辛かったはずなのに。
李哉は一言も〝辛い〟とは口にしない。
本当に、李哉は強い。
「――李哉は、誰よりも頑張ってるよ」
「え…?」
「今まで俺が見てきた患者の中で、一番。こんなにも必死に、努力を続ける人は見た事がない。だから……李哉の強さに驚いた」
「――――」
こんなにも努力している人を、今までに見た事はない。
こんなにも頑張っている人を、今までに見た事がない。
――自分も李哉のようになりたい――
李哉のように、強くなりたい。
そうすれば自分の好きなように。
自由に生きられるのに。
少しだけそんな事を考えて目を閉じてみる。
もう、小説家の夢は捨てた。
わかっている。
大人になれば夢はいつか終わる。
翼の場合、それが少し早いだけだ。
与えられた運命にはもう、逆らうつもりはない。
李哉を見ているとそう思う事が出来た。
すると、李哉が不意に口を開く。
「翼」
「何?」
「翼は、弱くなんかないよ」
「え――」
驚いて思わず李哉の顔を見つめる。
まさか考えていた事を言われるとは思っていなかった。
どうして李哉は唐突にそんな事を言い出すのだろうか。
そこで以前、李哉の前で涙を流した時の事を思い出す。
あの時、翼は自分は李哉と比べて弱いと口にした。
しかし何故、今それを言うのだろうか。
その答えは李哉自身が口にする。
「なんだか、翼が俺の事を強いって言うと――まるで翼と俺を比べて言ってるみたいに聞こえて」
「――李哉」
「俺、まだまだ翼の事は知らないけど…。それでも俺は、翼は強いと思うよ」
――――恐らく李哉が一番わかっているのだろう――――
初めて逢った時と今では、まるで別人のように変わっていると。
翼が李哉の変化に気付くように。
だから強くなったと思うのだろう。
だが、自分でも変われたと思うのは李哉のおかげだ。
李哉と友達になれたから。
親友になれたからこそ、もっと李哉と一緒に居たいと思えた。
大切にしたい存在だと思えたから。
父親に土下座をしてでも、李哉と同じ東中学校へ通えるように頼んだのだ。
そう、全ては李哉のおかげだ。
李哉から、今の強さを。
今の〝綾崎翼〟を手に入れる事が出来たのだ。
全ては李哉と出逢えたからだ。
李哉が、翼を変えてくれた。
前よりもずっとずっと、強くさせてくれた。
そう思うと目頭が熱くなってくる。
李哉はいつも、翼の欲しいと思っている言葉をくれる。
その事が物凄く嬉しい。
幾度と思った言葉を、何度も伝えたい言葉を翼は告げる。
「ありがとう、そう言ってくれて」
涙を必死に堪えて、笑ってみせる。
李哉と二人きりならば恐らく、涙を流していた事だろう。
けれど今は人通りの多い廊下だ。
李哉以外の人には涙を見せたくない。
それに、嬉しくもあるのだ。
嬉しいのに涙は流したくない。
まだ、流したくはない。
流すならば、李哉が退院する時だ。
翼はそう思いつつ、涙を堪えた。
李哉と廊下で少し話しをし、病室へと共に向かう。
匍匐前進で進む李哉のペースに合わせて。
疲れているせいもあるのだろう。
やはり前へ進む速度が遅い。
それでも李哉は誰の力も借りず、自分の力だけでなんとか病室前まで戻る事が出来た。
腕時計へ視線を落とすと、他の病室に向かう時間が迫っていた。
病室の扉を李哉の為に開けると、最後の力を振り絞って李哉はベットの元まで這って行く。
ベットに背を預けて休んでいる李哉を抱き上げてベットへ寝かせ、優しく布団を掛けてから申し訳ないと思いつつ告げた。
「――悪いけど、今日は他の患者の病室にも行かなきゃいけないんだ。だからもう行くけど……。また、明日も来るから」
「わかった。今日はありがとう」
「こっちこそありがとう。じゃあ」
小さく手を上げ、病室を立ち去る。
本当ならば時間になるまで李哉の元に居たかったのだが……。
李哉と同じ中学校へ通う為だと自分に言い聞かせて歩き出す。
同じ中学校に通えるようになれば、毎日逢う事が出来る。
足が治るまでは一緒に登下校した方が良いだろう。
そんな事を思いながら廊下を歩いているとふと、嗄の事を思い出す。
脳裏に、子供のように甘えて来た嗄の姿が浮かび上がる。
服の裾を掴んで〝行かないで〟と言ったのを思い出し、顔に熱が集まっていくのが自分でもわかる。
こんな時に嗄の事を思い出すわけにはいかないと思い、頭を振って嗄の事を振り払う。
それでも、嗄の言葉が脳裏には残ってしまう。
悲しげに、寂しげに告げたあの言葉。
自分だけを置いて行ってしまう。
自分の手が届かない所に行ってしまう。
それに寝言で口にしたあの一言。
〝お兄ちゃん……おいてかないで……〟
あの言葉は、明らかに兄達へ向けた言葉だ。
確か嗄の兄達はオーディションを受けてすぐにデビューを果たした。
そしてそのまま、人気が上がっていって忙しくなっていった。
昨日までは一緒に居た人が、今日にはもう居ない。
一体、嗄はどんな気持ちだったのだろうか。
一人っ子で、物心付いた頃からずっと一人で過ごして来た翼にはわからない。
嗄がどんな気持ちだったのかなんて、全くわからない。
翼には知る事さえ出来ないのだろうが。
〝兄〟と言う存在が居ない翼には、嗄の気持ちは恐らく一生分かり得ないだろう。
少しそんな事を考えて、小さな溜め息を吐き出す。
気持ちを切り替えて顔を上げた、その時だった。
顔を上げると目の前には至近距離にバジルの顔があり、驚いて目を見張る。
それはバジルも同じだったようで、驚きながらも反射的に身を翻して衝突する事は免れた。
免れたのだが、翼のギリギリ横に足を付いたバジルが悲鳴を上げた。
「イタイ!」
「え――」
驚きつつもバジルの方へと視線を向ける。
もしかして、包帯の巻かれた腕が当たってしまったのだろうか。
しかし、どこにも触れていないはずだ。
翼には触れた感覚も、触れられた感覚もなかった。
首を傾げ、バジルを見つめていると……。
バジルは右足だけで体重を支えており、顔を顰めながら告げた。
「グキテイッタ……」
左足を床に付かないように上げて、痛そうに顔を歪めるバジル。
バジルの様子を目にし、翼を避けた際に足を挫いたのだと瞬時に気付く。
捻挫くらいならば翼でも診る事が出来る。
酷いものならば藤森先生かナースに言えば良い。
とりあえず捻挫の具合を診ようとしてバジルに尋ねる。
「ちょっと足を診るから、座らせても良い?」
「イイヨ」
バジルの了承を得て、壁際まで移動してもらうと身体を支えつつその場に座らせる。
痛そうに顔を歪めるバジルの左足のズボンの裾を上げ、左足の様子を診る。
診た所、腫れてはいない。
そっと、バジルの左足に触れて尋ねる。
「痛い?」
「スコシダケ……」
「特に腫れてないみたいだし、軽いものだと思うから大丈夫。もしも痛みが続くようなら先生かナースさんにすぐ言うんだよ」
「ウ~~……」
小さく唸り、バジルは自身の左足を見つめる。
これくらいならば問題はないだろう。
思わず翼は安堵の息を漏らす。
バジルが足を怪我してしまうと大変だ。
ただでさえ両手に包帯を巻いているというのに。
足まで怪我をしてしまえば歩く事もままならない。
捻挫が酷いものだとしたら車椅子が必要になるだろう。
バジルの場合はそこまで酷いものではなく、少し休めばすぐに治るだろう。
「だから何度も言ったじゃないか。廊下は走ると駄目だって。もしも人とぶつかっていたらもっと大変な事になってたんだよ?」
「ソーリー。デモツギハダイジョブ。オナジ事シナイ」
「走り続けていたらまた捻挫するよ。一度ある事は二度ある。二度あることは三度ある、ってね」
「……ニドアルコト、サンドアル……?」
首を傾げて、バジルが意味がわからないと言うように見つめて来る。
まだことわざは少し、難しかっただろうか。
けれどそれなりに日本語が喋れるようになった今ならば大丈夫だろう。
そう思い、翼は言葉の意味をバジルに教える。
「一回でもそういう事が起きたらまたあるかもしれないって事だよ。つまり、また走っていたら捻挫するかもしれないって意味。だから、もう走らない方が良いよ」
「――サンドアル事、ヨンドアルカ?」
「それは――聞いた事ないな。そこまでいったら馬鹿か天然かな」
「ソカ」
「ゴォラァァァァァワン公ォォォォォォォ‼‼」
不意に樹姫の怒声が耳に届く。
バジルがその場から逃げ出そうとした時には既に遅かった。
それ以前にまだ足が痛くてバジルも逃げられなかったのだろう。
あっさりと樹姫に捕まってしまった。
「ちィと目ェ離した隙に逃げるたァ、どういう事だゴラァ。三文字以内に答えろやァ……」
「チョ、チョト……トイレダヨ!」
「十文字じゃねぇかゴラァアアア‼」
「ダテソレッテ、〝ニゲタ〟シカ言エナイヨォ!」
「うるせェンだよ。戻ってさっさとそのカタコト、直してやらァ」
必死にもがいて樹姫の手から逃れようとバジルはするが……。
バジルの抵抗も虚しく、樹姫はそのままバジルを引き摺って行ってしまう。
バジルはこちらに助けを求めるが。
これに懲りてくれたら良いと翼は思っていた。
しかし、確かにあの様子の樹姫から逃げたくなる気持ちはわかる。
それに、病院内を全力疾走した翼が〝病院内を走るな〟と言っても説得力がない。
自分でもそう思っていた。
バジルがそんな人間の話を聞くとは到底思えない。
人には時と場合というのがあるが。
バジルの場合、樹姫に追われている時はそうなのかもしれない。
そんな事を考えながらしばらくの間、茫然としていて翼はその場から動けずに居た。
翌日の事。
学校が終わると翼は真っ直ぐ病院へと足を向けていた。
早く、李哉と話がしたい。
昨日、李哉は病室から結構離れた距離に居た。
今日も昨日逢った辺りに居るだろう。
翼はそう思い、昨日李哉と逢った場所へと来てみたのだが。
李哉の姿は何処にもなかった。
まだ来ていないのかと思い、振り返ってみるがどうやらそうではないらしい。
もしかして、もう病室前まで行っているのだろうか。
まさか、そんな事はないだろう。
李哉はまだ匍匐前進を初めて二日だ。
二日でそこまで行けるわけがない。
……いや、李哉ならば行っているかもしれない。
あの李哉ならば有り得る。
努力家で、決して諦めない李哉ならば。
自然と翼の足は李哉の病室へと向かっていた。
そして、李哉の姿を見つける事が出来た。
本当に李哉は病室の前まで来ていたのだ。
そんな李哉の姿を目にして目を見張った。
昨日よりも匍匐前進で行くコースを短くしたのだろうか。
一瞬そう思ったが、李哉の性格では昨日よりも今日の方が少しでも多く匍匐前進をするはずだ。
つまり、一日で李哉は大きく成長したと言う事だ。
人間は一日でそこまで成長出来るものなのだろうか。
李哉は翼の想像を遥かに超える速さで成長していっている。
――そんなにも、同じ中学校に通いたいのだろうか――
翼も李哉と同じ中学校が楽しみで仕方がない。
なのでその気持ちもわからなくない。
けれど、やはり無茶をしているのだろう。
昨日と全く同じ状態だったからだ。
汗だくで、手足が限界だと悲鳴を上げている。
その姿を目にして小さな溜め息を吐き出す。
それから李哉に声を掛ける事にした。
「――李哉、すごいね。一日でこんなに違うんだ……」
「あ、翼…あぁ~! 翼が来るまでに病室に戻れなかったぁ!」
翼の顔を目にした瞬間、李哉が悔しそうに顔を歪めた。
どうやら李哉の目標は翼が来るまでに病室へ戻る事のようだった。
翼が声を掛けてしまったせいで、失敗してしまったようだ。
例え失敗してしまっても、李哉はかなり上達していた。
やはり李哉はすごい。
ここまで出来る人の方が少ないだろう。
この様子だと明日は本当に病室まで戻って来ている事であろう。
悔しそうな顔をしている李哉に告げる。
「いや、すごい進歩だよ」
「あ~、悔しい…。でもそう言ってくれると嬉しい。ありがとう翼。でも、明日は絶対に翼が病室に来るまでには病室に戻って来てるから」
「李哉なら出来るよ。でも、無理はしないように」
「わかってるけど…」
「そう言っても李哉は無理するんだろうけど」
李哉の姿を目にして溜め息を零す。
匍匐前進のし過ぎで頬が擦れてしまっている。
本当に、李哉は頑張っている。
恐らく無理をするなと言えば言う程に無理をするタイプだろう。
それに、こんなにも努力をしている李哉にやめろとはとてもじゃないが言えない。
温かい目で見守る事くらいしか出来ない。
今は李哉の努力次第という所まで来ているのだから。
李哉の為に病室の扉を開け、李哉が病室に入って来るのを待つ。
待つのだが、昨日よりも速く動けるようになっていたので少し驚く。
この速さならば病室前まで戻って来れるはずだと納得する。
病室内に足を踏み入れると梅と目が合い、会釈で返す。
その時に背負っているランドセルの存在に気が付いた。
李哉の事が気掛かりで、ナースステーションに寄る事をすっかり忘れていた。
すぐにランドセルを背から下ろし、椅子の横へ置く。
李哉の顔を目にした梅が心配そうに尋ねる声が耳に届く。
「李哉、無理してるんじゃないのかい? 本当に大丈夫なのかい?」
「俺なら大丈夫。それにね、今すごく楽しいんだ。今日だってすぐそこまで帰って来られたんだ。明日は翼が来るまでに絶対に病室に戻って来るからね」
嬉しそうに、楽しそうに笑って言う李哉を目にした梅も溜め息を零す。
困った子だと、梅の顔にはそう書かれていた。
李哉は辛くても何も言わない。
大丈夫ではないにも関わらず、大丈夫だと言うのだ。
努力家なのは良いのだが、この様子だといつか身体を壊してしまいそうだ。
翼がそう思っているとベットの下まで這って行った李哉が不思議そうに首を傾げて聞いて来る。
「ねぇ、どうしてみんなそうやって同じ反応をするの?」
「李哉はきっとやめろって言っても言う事を聞かないってみんな思ってるからだよ」
少しだけ笑って、そう答えてみせる。
李哉へと歩み寄り、更に言葉を付け加えた。
「そこが、李哉の良い所だから反対出来ないのもあるんだよ。李哉の努力はすごいよ。それに絶対に諦めないから」
翼がそう言うと李哉は嬉しそうに笑う。
照れたように左手で頭を掻く辺り、相当嬉しいようだ。
そんな李哉に優しく尋ねる。
「李哉、ベットに上げてあげようか?」
「え、いいの?」
「良いよ。李哉軽いし」
酔った嗄を抱き上げる事は出来ないが、李哉には出来る。
李哉の身体を少し起こして抱き上げる。
車椅子の時のような抱き上げ方ではなく、普通に抱き上げた。
お姫様抱っこ、というものだろうか。
李哉を抱き上げ、密着していると良くわかる。
李哉の心臓の音が大きく高鳴っているのが。
先程までずっと身体を動かしていたのだから仕方ない。
ベットの上に李哉を寝かせ、いつものように布団を掛ける。
その時、李哉の顔が苦痛に歪んだ。
左足が痛むのかと一瞬思ったが、どうやら違うようだ。
李哉は痛みの感じる患部に触れていた。
それは左肘だった。
匍匐前進をしていた為、服と肘の間で擦れてしまい、それが痛むのだろう。
この様子だと恐らく痛みにはたった今気付いたようだ。
肘を捲ってどうして痛むのか、首を傾げている李哉に教えてあげる。
「匍匐前進をしてると床と服の間で腕が擦れるからそのせいだよ。消毒、してあげようか?」
ランドセルを持って来ていて良かったと本当に思う。
使う事はないのだが、脱脂綿と絆創膏はもしもの時の為にランドセルに入れていた。
親が医者をやっている事もあるから、幼い頃からずっと持っている脱脂綿と絆創膏。
癖と言うものは中々抜けないものだと思いながらランドセルから取り出す。
すると、李哉が首を振るのが見えた。
「いや、いいよ。気持ちだけで嬉しいから――」
「動かないで」
消毒薬の染み込んだ脱脂綿で李哉の頬を撫でると「いたっ…」と李哉が小さく声を上げた。
この様子だと恐らく頬や肘だけではなく、脇腹や膝も擦れている事だろう。
膝の方はまだ痛がっていたので大丈夫そうだが。
消毒液が乾くのを待ってから、絆創膏を李哉の頬に貼る。
肘も同じように脱脂綿で消毒をするが……。
頬に貼った絆創膏と同じものを貼れば匍匐前進をする時に動かすのが難しくなってしまう。
そう思うと翼はランドセルから肘や膝用の曲げ伸ばしが可能な絆創膏を取り出す。
李哉の為に翼が出来る事はこれくらいしかないだろう。
これで、顔や肘が擦れる心配はないだろう。
消毒液の乾いた肘に絆創膏を貼りながら李哉に尋ねる。
「李哉、脇腹とかは大丈夫? そこも擦れてると思うから手当てを――」
「いや、そこはいい!」
ただ尋ねただけなのに、何故か全力且つ即答で否定された。
恐らくは遠慮しているのだろう。
顔と肘だけではなく、脇腹まで手当てされるのはと。
だが見た所、脇腹も痛そうに見える。
今は意地を張っているだけなのだろう。
翼が帰った頃にでもナースに手当てを頼むようだ。
少し残念に思いながらも口にする。
「――そう。じゃあ肘と顔の手当てだけにする」
今度は反対側に回り、右肘の手当てを始める。
肘の擦れ具合を診て改めて驚く。
二日でここまで擦れるとは、本当に頑張ったのだろう。
ここまで擦れているのだから、少し動いただけでも痛いだろうに。
それにも関わらず、李哉は一言も痛いとは言わない。
本当に李哉は強い人だ。
李哉の事を尊敬していると、李哉が不意に口を開く。
「ねぇ、翼」
「やっぱり脇腹の方も手当てする?」
「いやっ、そうじゃなくてっ!」
照れたように、少し慌てながら李哉は否定する。
その姿が面白くて思わず笑ってしまった。
李哉が驚く顔を見る時や、からかった時の表情は本当に面白い。
手当てを続けながら李哉に尋ねる。
「それで、何?」
「え…? あ、ああ…。今日不思議な子に逢ったんだ」
「どんな子?」
「えっと、綺麗な金髪に深い青色の瞳が特徴的な外国人の男の子。カタコトで喋って…両腕に包帯を――」
「ああ、バジル君か」
金髪と言われた時点ですぐにわかった。
病院内に外国人患者は今の所、バジルくらいだからだ。
今までずっと病室で過ごして来た李哉。
病室の外に出る事の方が少なかった。
そんな李哉が今、自ら外へ出ている。
外を知り、翼の知っている人物と出逢っている。
この様子では樹姫達や拓海と逢うのも時間の問題だろう。
「バジル君は今年になってから入院して来たんだ。それにバジル君は病院内で有名だよ。いつも逃げ回ってるから」
「そうなんだ…」
「はい、終わり」
手当てを終え、翼がいつも座る椅子へ腰を下ろす。
李哉は手当てが施された肘を目にして驚いた顔をしていた。
ベテランのナースよりも翼の方が手当ては上手い事だろう。
幼い頃からずっと手当ての様子は見て来たのですっかり身に付いてしまっている。
それが李哉の役に立てば良い。
すると李哉が嬉しそうに微笑んで告げる。
「ありがとう。翼」
李哉の言葉が、李哉の役に立てたのが嬉しい。
自然と表情が優しく緩む。
李哉には無理しない程度に頑張って欲しい。
自分も頑張るから。
李哉と居れる為に頑張るから。
――――お互いに頑張ろう――――
いつも通り、李哉と話をしていた時だった。
唐突にアラームの音が病室内に響く。
アラームの音に一番驚いたのは紛れもない、翼自身だった。
少し李哉と話をして、すぐに病室を出るつもりだったのに。
つい李哉と話しているのが楽しくて時間を忘れてしまっていた。
だが、一日くらいは平気だろう。
今までずっと咎められた事はないのだから。
そう思うと父の約束を破った事は対して気にならなかった。
李哉には「また来る」と言い残して病室を後にする。
廊下を歩いて行きながら、李哉がバジルの事を話していたのを思い出す。
出逢いのきっかけが〝踏まれた〟と。
やはり、踏んでしまったかと聞いた瞬間に呆れてしまった。
昨日ぶつかりそうになって捻挫をしたばかりだと言うのに。
懲りずに病院内を駆け回っていた姿が目に浮かんだ。
今度逢った時には注意しよう。
李哉の場合は左足を踏まれてしまうと一溜まりもない。
下手をすれば退院が長引くかもしれない。
李哉と仲良くなったとすれば、そう言えばすぐにわかってくれるだろう。
ランドセルを背に背負い、待合ホールに入った時。
顔を上げた先に藤森先生の姿が見えた。
藤森先生も翼に気付き、こちらに向かいながら声を掛けてくれる。
「翼君、今帰り?」
「はい」
「李哉君って本当に頑張ってるよね。僕も見習わないと」
「匍匐前進のし過ぎで顔や肘が擦れていたので一応手当てしておきました。脇腹辺りも擦れているみたいですから、そこの手当ては先生に任せても良いですか?」
「良いけど……。李哉君、そこまで頑張ってたんだ」
「それと、李哉が廊下を通る時は患者さん達に道を譲るように言ってもらえますか? バジル君に踏まれたようですし。李哉が怪我をしない為にも、お願いします」
「うん、良いよ。後でみんなにも言っておくね」
「ありがとうございます。では、失礼します」
そう言い残し、正面玄関から外へと踏み出す。
大分、外の空気が暖かくなって来た。
暗くなっていく空を見上げ、少し思う。
もうすぐ李哉は病院を退院して外の世界へと出て行く。
この世界を見て、李哉は一体何を思うのだろうか。
病院の世界しか知らない李哉は一体……。
一歩、前へと歩み出して実感する。
李哉の退院が近付くのと同じように、翼の小学校卒業式も近付いているのだと。
早く、四月が来ないかと心を躍らせる。
今とは違う、毎日笑って過ごせるような学校生活を夢見て。
――翼の隣に李哉が居る事を夢見て――
翌日、今日もまた翼は病院へと足を運んでいた。
ランドセルをナースステーションに預け、李哉の病室へと向かう。
昨日の様子だと今日はもう病室へ戻っている事だろう。
日々、李哉は成長している。
しかし、匍匐前進がどんなに上手くなったとしてもまだ問題が一つだけ残っている。
それは、立つ事だ。
更には立つ為には右足も鍛えなくてはいけない。
三ヶ月以上も使っていないのだから。
匍匐前進も辛いだろうが、立つ練習をする時も辛い事だろう。
抜糸の日は常に付き添った方が良いだろう。
翼はそう思いながら廊下を歩いていると、視界の端に金色の髪の少年が入って来た。
目立つ金髪の持ち主はバジルしかいない。
溜め息を零しながらもバジルの元へと歩み寄って声を掛ける。
「――バジル君」
「ア、メグミ!」
「李哉から聞いたけど、また走ってて李哉を踏んだんだって?」
「ソ、ソレハ……セッ背中ダッタカラセーフダ‼」
「セーフじゃない。全然セーフじゃないよ。人を踏んでしまう時点で完全にアウトだよ。それに李哉は足を怪我してるんだ。怪我した足を踏んでしまうと李哉の退院も長引く。それは、わかるよね?」
「ワ、ワカタヨ……」
「――今日は踏んでないよね?」
ギクッとしたように、バジルの身体が少しだけ跳ねる。
その上、綺麗な青い瞳を泳がせて目を合わせない所図星だろう。
それがわかり、深い溜め息を吐く。
「デ、デモ背中ダヨ! セーフダヨ!」
「だから、踏んでる時点でアウトだって」
呆れるようにして額に手を当てる。
とりあえず注意したので少しは改善されるだろう。
今はそれを願うしかない。
それでも改善されなかった場合は、どうしようか。
以前ぶつかりそうになったのを注意しても改善される余地はない。
どうしたものかと頭を悩ませていると、不意に声を掛けられた。
「どうかしたのか? こんなとこでよォ」
ドスの効いていない、見た目通りの可愛らしい樹姫の声。
どうやら今日はバジルを追い掛けていたわけではないようだ。
それにも関わらず、目の前に居たバジルが少しだけ後ろに後退った。
ほんの少しだけ、表情を引き攣らせて。
「バジルが樹姫から逃げている時に患者さんを踏んだって聞いて注意していただけです」
「何ィ……?」
樹姫の目に鋭さが宿る。
鋭い、射抜くような視線でバジルを睨み付けた。
まるで蛇に睨まれた蛙のようにバジルは身を強張らせ、一瞬で固まってしまった。
元々はバジルを走らせる樹姫が悪いかと思えるが。
よく考えてみれば樹姫に日本語を教えてくれと頼んだバジルが悪い。
つまりは、自業自得だ。
「何やってンだテメェ……。踏むってどういう事だゴラァ……」
「エ、エットォ……。ア、アレダヨ!」
「どれだよ。言ってみろやァ」
「……イツキノセイ……」
小さく、蚊の鳴くような声でバジルはそう告げた。
バジルの声は微かに翼の耳に届いた。
しかし、樹姫にも聞こえたようで……。
樹姫は真っ黒な笑顔を浮かべてみせた。
おまけに手を鳴らしながら。
「おォ、そうかァ……。アタシが悪ィのかァ。上等だゴラァ、消灯時間までみっ……ちり、テメェのだァいすきな日本語を教えてやらァ!」
「エッ⁉」
「オラ、行くぞ」
「ナンデソウナルノォ⁉」
バジルの襟首を掴み、樹姫はバジルを引き摺って廊下を歩いて行く。
助けを求めるようにこちらへ手を伸ばすバジルだが。
地雷を踏んだのはバジルの方だ。
思っていても口にしてはいけない言葉もある。
しばらくバジルの姿を見つめていたが……。
バジルの姿が見えなくなった頃に翼は李哉の病室へと向かって歩き出した。
恐らくこれで改善されるはずだ。
また李哉を踏んでしまうとお説教よりも恐ろしい、樹姫の日本語講座が待っているのだから。
やがて、李哉の病室前まで訪れてある事に気付く。
病室の扉が開いたままだと言う事に。
もしかして、まだ李哉は戻って来てないのだろうか。
そう思いながらも病室へと足を踏み入れる。
病室に入って、そこで初めて気が付いた。
ベットの下で李哉が困った様子で居る事に。
「李哉? どうかした?」
李哉に声を掛けてから、瞬時に状況を把握する事が出来た。
病室には李哉一人きり。
梅の姿は何処にも見当たらなかった。
翼の推測では、時間内に病室へ戻って来れたは良いが一人ではベットに戻れないでいると言った所だろう。
ナースステーションの前を通ったとしても、李哉の姿はカウンター越しでは見えない。
まだ腕の力だけで身体を持ち上げる事が出来ない為、ベットを見上げる事しか出来なかったのだろう。
李哉は苦笑しながら今翼が想像していた事を口にする。
「戻って来れたのはいいんだけど…ベットに戻れなくて」
「全く。今度からはナースに声を掛けるように。ナースステーションからは李哉の姿は見えないから」
「うん、わかった」
「じゃあ、俺がベットに移動させるから」
翼がそう告げると李哉が少しだけ戸惑うように見えた。
けれど少しだけ間を開け、小さく俯いて見せた。
そんな李哉を昨日と同じように抱き上げる。
初めて李哉を抱き上げた時と比べれば、李哉の体重も重くなった。
李哉の重みを感じて、良くなっていると実感すると嬉しく思えた。
李哉をベットに寝かせて布団を掛け、いつもの椅子に腰掛ける。
すると李哉が告げて来る。
「ありがとう、翼」
「これくらいで礼なんていらないよ。それで? 今日はどんな事があった?」
「えっとね…廊下を歩く人達がみんな道を譲ってくれたんだ」
「俺が藤森先生に〝李哉が通る時はみんなに道を譲ってもらうように声を掛けて〟って言ったら藤森先生がナース達やみんなに呼び掛けてくれたからそうなったんだよ」
「え、そうだったの?」
「李哉が怪我しないようにって」
「あ――でもまだ踏まれる…かな…?」
「――――バジル君?」
「あ、やっぱりわかる?」
「バジル君はいつも逃げ回ってるから結構病院内で有名なんだ。特にナース達には。いつも走り回ってるから危ないって。それによく患者さんとぶつかりそうになったりするから」
「…前、見てないんだね…」
「逃げるのに必死だからだろう」
「イツキって人から逃げてるんだってね」
「まぁ、逃げる気持ちもわからなくないけど」
「――やっぱり怖いの?」
「前にバジル君の病室の前を通った時、本が飛んで来たな。本を投げる気が知れないけど。それと同時にバジル君が飛び出して来た」
当時の事を思い返して苦笑する。
だが、あの時と比べればバジルの日本語はかなり上達した。
確かあの頃はまだ英語で話をしていたはずだ。
流石は樹姫だと言った所だろう。
樹姫のスパルタ教育はすごいと思う。
けれど、一つだけ問題がある。
それは、他の患者が樹姫を恐れる事だ。
先日も樹姫の居る病室に新しい患者を入れようとしたが、樹姫の居る病室だけは嫌だと拒否したらしい。
その事を思い出して李哉に告げる。
「基本的にあの病室に他の患者を入れられないんだ。樹姫は普段は優しいけどバジル君に日本語を教える時は鬼になるから他の患者が怖がるんだ」
樹姫の事を告げると、李哉が納得したように頷いた。
怒った時以外は良い人なのだが……。
樹姫の事を理解しているのは翼を数えなければ同じ病室の拓海とバジルくらいだろう。
それと藤森先生だ。
バジルも嫌だとは言っているが、本当に嫌ならば日本語を教えてくれ等とは言わないはず。
なんだかんだと言いつつも、樹姫の事を大切に想っている事がわかる。
樹姫の容態が悪くなった時、一番心配しているのはバジルだ。
心配するバジルの姿を目にして、樹姫は本当に良い人と出逢えたのだと思えた。
樹姫はバジルの為に日本語を厳しく教えては。
容態が急変すれば、バジルや拓海から心配してもらえる。
樹姫にとってバジルと拓海は大切な存在なのだろう。
樹姫達の絆のようなものを見て、少し羨ましく思ったくらいだ。
樹姫の事を考え、ふと気付く。
李哉が何か物言いたげな視線でこちらを見つめている事に。
時折口を開きはするが、そこから声は発せられないまま閉じてしまう。
何か聞きたいのだろうが、李哉は切り出そうとはしない。
いつもならばすぐに聞きたい事は聞いて来ると言うのに。
違和感と李哉の挙動不審な様子に耐えられずに告げる。
「李哉。言いたい事があるなら言えば良いよ。その方が李哉らしいから」
翼がそう告げると、李哉は驚いたような表情をして見せた。
「李哉が何か言いたそうな顔してるのに言わないと、なんか調子狂う。俺に答えられる事なら何でも言ってくれれば良いから」
本当に、調子が狂ってしまう。
何も言われずにじっと見つめられるくらいならば、尋ねられた方が良い。
自分に答えられる事ならばすぐに言って欲しい。
と言っても李哉の投げ掛ける質問には全て答えられるのだが。
若干嬉しそうな表情をした李哉はようやく口を開いた。
「俺って後どのくらいで退院出来る…?」
李哉の質問に少しだけ驚いた。
まぁ、ここまで頑張っているのだからそろそろ知りたい頃だろう。
しかし、本当は翼にも正確な数字は出せない。
以前の三ヶ月と二十日は推測で言っただけだ。
退院の日は李哉次第で変わって来る。
三月に退院なのか、四月に退院なのかは。
とりあえず、退院までの流れを教える事にした。
「退院するにまず、匍匐前進を始めたのが十九日だからそれから一週間後――二十六日に抜糸する」
「ばっし…?」
「抜糸って言うのは、傷口を糸で縫っただろう? その時に縫った糸を抜く事を言うんだ。もう傷口が塞がってるから糸が無くても平気だから。抜糸したくらいからもう捕まり立ちしても良いだろう。そこから先は李哉の努力次第で早く退院出来たりもするから、頑張って」
退院が遅くなる事は恐らくないだろう。
李哉の様子では三月中には退院出来ると思った。
心配なのは、このままでは匍匐前進よりも立つ練習の方が無茶をしそうだ。
もうすぐ退院だと思えば無茶をするのは目に見える。
ここで無理をしないようにと言えば、李哉は本当に無理をする。
なので代わりに〝頑張って〟と言う。
すると李哉は嬉しそうに微笑んでみせた。
そして今日もアラームが鳴るまでずっと李哉と過ごしていた。
少しの間だけ、李哉と居ても良いだろうと自分に甘えて……。
それから数日経ったある日の事だった。
病院へと向かう為、放課後のチャイムが鳴ると同時に教室を出る。
卒業が近いからか、翼への虐めはなくなっていた。
みんな、卒業が楽しみなのだろう。
それか、卒業前に問題を起こしたくないのだろう。
まだ人の少ない下駄箱にやって来て、上履きから履き替えようとした時だった。
蓋もない、ただ靴を入れるだけの下駄箱。
下駄箱に入れていた翼の靴の上に手紙が置かれていた。
忘れた頃の虐めかと思い、警戒しつつも手紙を手に取る。
下手をしたら、手紙の中に虫の死骸が入っているかもしれない。
見た所、差出人の名前は書かれていない。
手紙を開けて中身を見ようとするが、やはり一瞬躊躇った。
以前にもこのような手紙があり、〝死ね〟や〝学校来るな〟等と隙間もない程に書かれていた手紙や。
学校で撮られた翼の映っている写真を黒塗りにされた手紙等があったのを思い出す。
ベタな手を使う所、今回は虫の死骸辺りだろう。
危険かどうか、中身を確認する為にも夕日に手紙を照らして中身を伺う。
夕日に照らされて手紙の中身が透けて見えた。
どうやら、至って普通の手紙のようだ。
安全だと確認すると改めて手紙の中身を確認してみる。
手紙には〝伝えたい事があるので放課後、図書室で待っています〟とだけ書かれていた。
まさか、図書室に呼び付けての虐めだろうか。
何回か手紙を読み返し、図書室へ行くべきか行かないべきかと少し迷う。
このまま、病院へと直行してしまおうか。
けれど、本当に誰かが待っているとしたら……。
それ以前に翼には待っているという手紙を書く人物の見当が付かない。
これは罠かもしれない。
そう思いはするが、手紙に書かれた〝伝えたい事〟が気になる。
「――――」
行くべきかどうか迷った挙句。
翼は図書室へ行く事に決めた。
どうせすぐに済むだろうと思ったのだ。
だが、図書室へ行っても待ち人の姿はなかった。
やはり、罠だっただろうか。
警戒しつつ、図書室内を回ってみるが自分に声を掛けて来る人物は居ない。
いつまでも立っているわけにもいかず、せっかくなので待ち人が来るまで本を読む事にした。
例え待ち人が来なかったとしても、今日は図書室で本を読もう。
偶には図書室で本を読むのも良い。
病院には一日くらい行かなくても平気だろう。
李哉には明日謝れば良い。
いつも翼が座っていた特等席にランドセルを置いて本を選びに行く。
新しく入って来た本を読もうか。
それとも、以前読んだ本をもう一度読み返そうか。
ふと脳裏に以前読んで良いと思った一冊が浮かび上がる。
今回はその本を読もうとして本の置かれている本棚へと足を向けた。
誰かに借り出されてなければ良いのだが。
翼の借りたい本はカウンターやテーブルが並べられた場所からは見えないような。
本当に本棚に囲まれているような場所で、人の姿は全くなかった。
読みたい本の置かれている本棚に辿り着き、読みたい本を探す。
本の背表紙を人差し指でなぞって行き、翼の読みたかった本の背表紙があった。
その本を取り出そうとした時だった。
「綾崎先輩」
――聞き慣れない呼び方をされた――
一瞬、それが自分を示す言葉だと気付くのに少しだけ時間が掛かった。
声の聞こえた方へと振り向き、自分を〝先輩〟と呼んだ人物を見つめる。
視線の先には、随分と小柄な女の子の姿があった。
胸に付いている名札に目を向けると四年生だとわかるが、それにしては背が低い。
146cmある翼でも小さいと思うのだから120cmくらいだろうか。
目の前に居る女の子には見覚えがなかった。
一体何処で逢ったのかを思い出そうとしていると。
「先輩の事が好きです」
「え――」
少しの間何を言われたのか理解出来ず、目の前の少女を見つめる。
女の子は恥ずかしそうに俯いており。
その顔は赤く染まっていた。
そこでようやく理解出来た。
どうやらたった今、自分は〝告白〟というものをされたのだと。
「前に高い所の本を取ってくれて……その時から、先輩の事を……」
本を取った。
女の子の言葉でようやく思い出す。
以前、図書室に来た時に本棚の前で飛び跳ねている女の子が居た。
取りたい本が高い所にあり、何度も飛び跳ねては本を取れずにいた。
それを見兼ねて翼が取ってあげたのだ。
女の子の事を思い出して少し驚いたが……。
申し訳ないと思いつつも告げる。
「――気持ちはありがたいけど俺、好きな人が居るんだ」
翼がそう告げた瞬間。
女の子の表情が徐々に暗くなっていく。
更には目尻に涙を浮かべて告げた。
「そう、だったんですか……。聞いてくれて、ありがとうございました!」
それだけ言い残すと女の子は行ってしまった。
その場に一人だけ取り残され、翼は途方に暮れる。
普通ならばこの場合、告白されたと喜ぶ所なのだろうが。
喜ぶ所か、翼は女の子の事を尊敬していた。
良く勇気を振り絞って好意を抱いている相手に告白出来たと。
しかしそれは、〝異性〟だから出来るのだろう。
翼の場合、同性に好意を抱いているとそう簡単には想いを告げられない。
大きな一歩を踏み出す事が出来ない。
行ってしまった女の子の後ろ姿を目にして少し思った。
自分があの子のように〝女の子〟ならば、嗄に告白出来るのにと。
堂々と、嗄の隣を歩けるのにと。
けれど、同性である翼にはそれが出来ない。
そう思い、少し大きめな溜め息を零す。
もしも自分が女だったら、今とは違った日々が待っていた事だろう。
そんな事を考えてしまう。
今まで自分がモテると思った事は一度もない。
顔は母親に似ているので美形らしいが。
翼は自分の容姿についてはどうとも思わない。
他人と比べて美形だとも思わない。
少なくとも、周りとは違うとは思っているが。
それは普通ではないと言う意味でだ。
嗄のような容姿ではない事は百も承知している。
ただ、〝美男〟と言う自覚が翼にはないのだ。
翼はしばらくその場に立ち尽くしていた。
土曜日、翼は一日中病院に居た。
年の近い子供達と話をしていても、先日された告白の事を気にしていた。
自分もあのようにして嗄に想いを告げた場合、どうなるのだろうかと。
ずっと、そんな事ばかり考えていた。
出て来た答えは〝絶対に引かれる〟というものだったが。
今まで普通に接していた人物が突然好意を向けて来る。
その上、同性だ。
一般論ではそれが当たり前だ。
それ以前に同性相手に恋心を抱いている自分が異常なのだ。
何故自分は同性である嗄に恋心を抱いてしまったのだろうか。
――それは一番傍に居て欲しい時に居てくれたから――
優しくしてくれたからだ。
確か、心理学であったような気がする。
気が弱っている時等に優しくされたら恋心に似たような感情を抱き、人間はそれを〝恋〟だと錯覚すると。
一日中、その人の事ばかり考えてしまうと自然と〝これは恋じゃないか?〟と思い始めると。
そして、ある事を思い出す。
以前、読んだ本に書かれていたような気がする。
同性愛者の人は両親から愛情を受けられなかった人がなる場合が多いと。
女性なら母親を。
男性なら父親を。
それぞれの愛情と似たものを求め、いつしか同性に好意を抱いてしまうと。
それを思い出してふと、父親の事を思い出す。
手もロクに握ってはくれなかった。
抱き上げてくれる事なんか、到底なかった。
それでも、幼心にあの大きな背中には憧れていた。
真っ白な白衣を身に纏い、白衣を翻して廊下を歩いて行く姿。
大きな背中を見て、翼は〝父親〟を感じていた。
確かに、それはあるかもしれないなと思う。
心の何処かで嗄に〝父親のような愛情〟を求めているのかもしれない。
一緒に嗄と映画を観に行った。
翼の為に本棚を作ってくれた嗄。
初めて自分以外の他人と共に眠った。
本来そういう事は父親とするような事だ。
「――――」
小さく溜め息を吐き出し、考える事をやめた。
今更そんな事を考えてもどうしようもない。
今やるべき事をするべきだ。
気持ちを切り替えて翼は李哉の病室前に訪れる。
今日は病室の扉が閉まっていた。
先日翼が忠告したした通りにしたのだろう。
本当に李哉は努力家であり、頑張り屋であると思いながら扉をノックする。
すぐに病室からは「はい、どうぞ」と李哉の返事が返って来た。
李哉の返事を聞き、扉を開けて病室内へ足を踏み入れる。
先日とは違い、李哉はベットの上で本を読んでいた。
本を読む余裕がある程早く帰って来たのかと驚く。
病室の扉を閉めて、李哉の読んでいる本に目を向ける。
自分の渡した本をちゃんと読んでいてくれて嬉しい。
椅子に腰を下ろして李哉に尋ねる。
「その本、読み終わった?」
「あ、まだ…なんだけど…」
「なら、その本李哉にあげるよ」
「え、いいの⁉」
「また新しいの買うから大丈夫。それ、あげるから。良かったらまたあげるよ。今俺の家、本の置き場がなくて少し困ってるから」
「そうなんだ」
「売りたくもないし、かと言って捨てるなんて行為は必死に寝る間も惜しんで書いて本を作った作家や編集者達を侮辱する行為だから出来るわけないし――」
売るくらいならば李哉にあげた方が良い。
李哉も前に翼の読んだ本なら読みたいと言ってくれた。
それにまたも本棚が足りなくなって来ている。
本の置き場に困るくらいならば李哉に渡したい。
退院する日、退院祝いとして本を数冊渡そうか。
そう思っていると李哉が嬉しそうに告げて来る。
「ありがとう、翼」
「良いって。今度またあげるから」
今度、どんな本が欲しいのか聞いてみる事にした。
本のレパートリーだけはある。
李哉の欲しいと言った本をプレゼントしよう。
すると李哉は「翼のお勧めの本でいいよ」とやはり言って来た。
李哉の返答にどんな本を渡そうかと頭を悩ませる。
とりあえず思い付いた本はどうかと尋ねると、李哉も気になるようだった。
今聞いた本を退院祝いに持って来よう。
李哉も本の事を楽しみにしていたようなのでそう決めた。
それから李哉に今日あった出来事について聞いてみた。
「それで、李哉。今日はどんな事があった?」
「ああ、俺は今日ね。バジルに日本語教えてあげてたんだ」
「そうか。李哉もバジル君に……」
「って事は、翼も?」
「樹姫の体調が悪い時とか、よく教えてたんだ。今でもたまに教えてる。バジル君は俺から難しい言葉とか覚えてるんだよ」
「ああ~、なるほど…」
バジルの話題になり、バジルについて二人で話す。
どうやら李哉もバジルの日本語が上達していると気付いていた。
あんなにも早く日本語が喋れるようになるのだから樹姫の教え方が良いのだと。
どちらかと言うと教え方が良いと言うよりも厳しいと言った方が良いだろうが。
李哉とバジルについて話し合っていた。
そしてまたもや、李哉の病室に入り浸る事となった。
帰る時間を知らせるアラームでようやく我に返ったくらいだ。
やはり、李哉と一緒に居るのは楽しい。
流れる時間がまるで一瞬のように過ぎてしまう。
また来ると言い残して、病室を後にする。
本来なら明日は子供達と遊ぶ約束だが、年の近い子供達の元へ行こうと思う。
李哉と居れる為に。
そう思いながら廊下を歩いて行く。
それに李哉から聞いた話ではもうバジルに踏まれる事はないのだと。
随分と樹姫の日本語講座が身に染みたようだ。
今回だけは樹姫に感謝しなくては。
いや、藤森先生や様々な人達にだ。
今こうして李哉と楽しく話が出来るのは李哉の手術を成功させた先生達のおかげだ。
本当に心から感謝している。
早く李哉が立てるようになり、退院出来れば良いのに。
早く四月が来て李哉と共に中学校へ通いたい。
四月への期待を胸に廊下を歩いて行く。
その時だった。
「翼」
鋭く、厳しい声が耳に届く。
その声に思わず歩みを止めてしまった。
まさか、こんなにも早く逢うとは思いもしなかった。
つい二週間ほど前に逢ったばかりだと言うのに。
あと一年か二年――
いや、中学校三年間くらいは逢わないと思っていたのに。
どうしてこんなにも早く逢ってしまうのだろうか。
ゆっくりと振り返り、声を掛けた人物を見つめる。
翼の視線の先にはやはり、父でもあり病院の院長でもある吾郎の姿があった。
鋭くも冷たい視線で翼を見下ろす吾郎。
圧倒的な威圧感を放つ吾郎に尋ねる。
「どうかしましたか? 父さん」
「――お前が東中学校に通う条件を、覚えているか?」
「え、ええ……」
「俺は言ったはずだ。柳葉李哉の事ばかり構うなと。お前はその条件を破った。お前の言っている東中学校へは通わせないからな」
「え――」
唐突に告げられた残酷な言葉。
吾郎の言葉に驚き、翼は声すら出せなかった。
確かに翼は李哉の病室に入り浸っていた。
少しくらいは大丈夫だろうと高を括って。
だが、吾郎は全て見ていたようだ。
つまりは自分で壊してしまったのだ。
李哉と同じ中学校へ通うと言う未来を。
〝今〟を我慢すれば毎日逢えると言うのに。
――――それを自分の手で壊してしまったのだ――――
~To be continued~




