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青春スクエア ~綾崎翼の片思い~ 小学生編20

人は日々、変わっていく。

日々、成長していく。

傍に居た人が変わってしまえば、周りも自然と変わっていく。

まるでその色に染まっていくように、変わっていく。

そこに新しい人を入れれば、どうなる?

変わりつつある日常の輪の中に新しい仲間が加われば。

一体、どうなる?

答えは恐らく一目瞭然。

――きっとその答えは今、翼の目の前に広がっている――

「だァからァ!! 発音が違ェつってンだろうがァァァ!!」

「Please forgive me! I'm sorry!」

「日本語喋れやァァァ!!」

病室からは国語辞典、週刊誌等が飛び出して来る。

樹姫が投げているのだ。

飛んで来た文庫本を上手い事受け止め、翼は深い溜め息を吐き出す。

先日、この病室には新しい患者が入って来た。

バジル・アシュリー。

翼と李哉とは一つ年下の十一歳。

金髪碧眼の何処からどう見ても外国人だ。

ついでに言えば日本語ではなく、英語を喋っているので完全に外人だ。

アメリカからこちらへ来た際に車での移動中に事故に遭い、この病院へと搬送された。

こちらへ来てすぐ事故に遭った為、日本語が喋れない状態だった。

バジルと会話する時はいつも英語。

それなりに英語は喋れる方だが、日本で生活するならば早目にでも日本語を喋れるようになった方が良いだろう。

翼はそう思い、バジルに日本語を教えようとして足を運んでみれば。

何故か既に樹姫がバジルにシビアな日本語教育を行っていたのだ。

いつの間に樹姫とバジルが仲良くなったのか、翼は知らなかった。

またもや翼の知らない所で知り合い、仲良くなっていたのだ。

樹姫に友達が増えるのは良い事なのだが――

問題は、バジルに日本語を教えている樹姫にあった。

その問題と言うのが――

「It is tired!! To help me someone!!」

「何がヘルプミーだゴラァ!! 助けて欲しいのはこっちの方だっつーのォ!!」

突然バジルが病室から飛び出し、病室前に立っていた翼に勢い良くぶつかった。

ぶつかった際に転んでしまい、バジルは顔を打ち付けたようで顔を顰めるが……。

バジルの背後には途轍もなく殺気を帯びた樹姫の姿が見えた。

樹姫の表情を目にした翼は思わず表情が若干引き攣った。

普段の樹姫からは想像も付かない、鬼のような形相だったからだ。

樹姫は手をボキボキと鳴らし、バジルの襟首を掴んではドスを効かせた声で告げた。

「テメェ、今逃げようとしたなァ……? ペナルティーで最初っからやり直しだコノヤロー。有り難く思え。完璧な発音でクリアするまでは絶対ェに解放してからなァ。嬉しいだろ?」

「ヘ、ヘルプミィィィ~~~~!!!」

恐ろしい笑顔を樹姫が浮かべた刹那。

バジルを引き摺って病室へと連れ戻して行った。

……あれでは注意する隙がない。

今日、翼がこの病室の前に来たのには理由がある。

他の患者達から樹姫に対して苦情が出たのだ。

苦情が出ている当の本人に直接告げようとしたのだが……。

あの中に割って入る勇気がなかった。

いつにもなく恐ろしい樹姫に声を掛ける事が出来なかった。

苦情を告げる為にも来たのだが、あの様子ではまた容態が悪くなるかもしれない。

もう少し冷静に日本語を教えても良いのではないかと告げたいのだが。

その想いも空しかった。

「ん、黒衣の医師じゃねぇか」

「井上さん……」

「なんだ? また樹姫を注意しに来たのか?」

「そうなんですけど……。あの、どうして樹姫はバジル君に日本語を教えているんですか?」

「あぁ、それはな。あいつが――バジルの方から樹姫に教えてくれって頼んだんだ」

「え゛」

「ま、頼んだ本人もここまでシビアだとは思わなかったみてぇだけどな」

小さく笑って拓海は呟き、樹姫とバジルの方へと視線を向ける。

翼も釣られて病室で日本語教育を受けるバジルへと視線を注いだ。

「そう……だったんです、か……」

自分から頼んでおいて〝やっぱりやめます〟というのは通じないだろう。

特に樹姫には。

樹姫の事だ。

やめますと言われても解放しないだろう。

本人が口にするように〝完璧な発音で喋れるようになるまで〟は。

「でもバジルの奴。日に日に日本語が喋れるようになってんの、わかるか? 最近じゃカタコトで少しは喋れるようにはなったんだ。バジルが日本語を喋れるようになるまでだ。そんなの、この調子じゃすぐだろ?」

「――――」

樹姫に対しての苦情は多い。

だが、誰一人として樹姫を咎める事はない。

恐らくその理由は心臓の悪い樹姫があんなにも必死になっているからだろう。

必死に何かを残そうと、頑張っているからだろう。

その事に気付き、翼は注意する気を削がれた。

きっと、患者達もわかっているはずだ。

だから、何も言わないのだろう。

バジルの上達を目にして、尚更何も言えないのだろう。

それに、苦情が出た時もやんわりと注意してくれと言われたくらいだった。

「――じゃあ、樹姫に伝えてください。〝無理をしない程度に〟と」

「あぁ、わかった」

拓海は小さな笑みを浮かべ、右手を軽く上げてみせた。

手を上げた拓海に対し、翼は会釈で返してその場を立ち去る。

バジルが翼達の輪に入った瞬間、周りの環境が一変した。

だが、変わったのはそれだけではない。

手術後、李哉の生活も一変した。

手術を受けて数日は以前のように食べ物を受け付けなくなったのだ。

――以前の生活に戻った――

誰もがそう思った。

しかし、それは違っていた。

手術後、目を覚ました李哉は流動食を拒んだ。

意地でも自分で食事を採る道を選んだのだ。

何度吐き出しても。

どんなに辛くても、食べ続けていた。

更には以前の生活習慣の間にダンベルを持ち上げ、上半身を鍛えているのだという。

藤森先生からその話を聞いた時、驚きよりも先に違和感を感じた。




――――李哉は、こんなにも強い人だっただろうか?――――




いや、翼の知る限りでは自分と似たような人間だったはず。

こんなにも、強くはなかったはずだ。

そんな李哉が今では――

強く、真っ直ぐ、自分の道を歩んで行っている。

翼は嬉しさよりもショックの方が大きく感じられた。

ずっと、李哉と自分は似た者同士だと思っていた。

思い込んでいた。

けれど、それは違っていた。

どうやら李哉は自分とは違い、強い人のようだ。

自分とは、正反対の人間だ。

それを知った瞬間、言い知れない激しい羞恥に駆られた。

〝一緒〟

一体何処がだと自嘲する。

酷く自分を卑下した。

だが、そんな自分を李哉の前で出す事はなかった。

なるべく、以前とは変わりない態度で李哉と接する。

李哉の病室前まで足を運ぶと、中から声が聞こえた。

聞こえる限りではどうやら、梅が李哉に漢字を教えている様子だった。

そんな二人の間に扉をノックして入っていく。

するとすぐに李哉の返事が返って来た。

李哉の返事を耳にし、病室内へと足を踏み入れる。

病室内へ入ってみるとやはり漢字を教えてもらっていたようで、李哉の横になっているベットには食台が取り付けられていた。

梅と目が合うと翼は軽く会釈し、椅子へと腰を下ろす。

それから李哉が字を書く練習をしているノートへと目を向ける。

以前目にした字と比べると大分読めるようにはなっていた。

「花とかも良いけど、一番役に立つのが星座だから星座の漢字を覚えておいた方が良いよ」

役に立つというよりも漢字で書ける方が見た目が良い。

すぐに漢字で書ける人は格好良いと思う。

翼がそう言うと李哉が少し驚きながら尋ねて来る。

「え、星座に漢字なんてあるの?」

「もちろんあるよ」

小さく笑って答え、李哉の方へと手を差し出してノートとペンを貸してもらう。

李哉には前から知っているような口ぶりで口にしたが――

実際には今年に入ってから覚えたのだ。

嗄からオリオン座のギリシャ神話を教えてもらった、あの日からずっと頭に入れていた。

ようやく覚えられるようになったのは今年だったが。

まずは基礎から覚えるべきだと思い、空の星座と生まれ月の星座との関係性を知る事から始めた。

自分の生まれた月や日付には自分の星座は空にはない事をそこで初めて知った。

夜の空には浮かばないが、陽のある間。

昼の空には自分の生まれ月である星座が見えるのだという。

そこから生まれた日付によって星座が異なるのだと知った。

基礎を知った後、星座の漢字にマーク。

英語でなんと読むのかを覚えた。

いつまでがその星座になるのかも覚えた。

ギリシャ神話と空の星座の形は今覚えている最中だ。

渡されたノートに星座の漢字とマークを書き、李哉へと返す。

そしてそれぞれの読み方を教える事にした。

「おひつじ座は牡羊座。おうし座は牡牛座。ふたご座は双子座。まぁ、双子座はわかると思うけど……。かに座は蟹座。しし座は獅子座。おとめ座は乙女座。乙女座もわかると思うけど。この辺りはまだ読めると思うけど、ここからは少し難しくなるよ。てんびん座は天秤座。さそり座は蠍座。蠍座は大抵の人が読めない漢字だよ」

自分でも最初、蠍という感じは読めなかった。

覚えるのも少し難しかった。

翼でも難しいと思った漢字だ。

李哉の目にはもっと難しく映る事だろう。

「いて座は射手座。やぎ座は山羊座。みずがめ座は水瓶座。うお座は魚座。そんな漢字」

「凄いねぇ、めぐみ君は」

梅の言葉に対して「そんな事ないですよ」と返す。

それから李哉の方へと視線を向ける。

やはり李哉は驚いた表情でノートを見つめていた。

そんな李哉に対して更に言葉を付け足す。

「英語も覚えてるよ」

「え、それ本当?」

「俺はどっちかって言うと星座は英語の読み名の方が好き」

「じゃあ教えてくれる?」

「良いよ。じゃあついでにノートにも書いておいてあげるから、貸してくれる?」

翼がそう言うと李哉は素直にノートを貸してくれた。

ノートを受け取り、先程書いた漢字とマークの横に書き足していく。

英語のスペル、読み方を。

ついでにいつまでが星座の生まれ月の期間なのかも書き足した。

最後に書き逃しがないかを確認し、李哉にノートを返す。

ノートに目を落とす李哉を目にして再び口を開いた。

「牡羊座はアリエス。牡牛座はタウロス。双子座はジェミニ。蟹座はキャンサー。獅子座はレオ。乙女座はバルゴ。天秤座はリブラ。蠍座はスコーピオン。射手座はサジタリウス。山羊座はカプリコーン。水瓶座はアクエリアス。魚座はピスケス。そんな感じ」

「やっぱり翼君…物知りだね」

「いや、俺は星座が好きだから覚えただけで……」

「記憶力もかなりあるよ。全部覚えてるなんて…」

星座は、嗄のおかげで好きになれた。

クリスマス、嗄の誕生日に初めて目にしたプラネタリウム。

未だ目に焼き付いている。

――出来る事ならば嗄の隣に立てるような人になりたい――

その為には今よりも多くの知識を手に入れなければ。

そうしなくては嗄の隣に立つ事は出来ない。

嗄と同じ景色を見る事は出来ない。

そんな事を少し考えていると、不意に李哉が尋ねて来た。

「そういえば翼君って、何月生まれなの?」

「九月。九月十七日」

「じゃあ翼君は乙女座のバルゴだね」

「そう」

「これは確かに覚えていて損はしないな…ありがとう、翼君!」

李哉の笑顔を目にして静かに微笑む。

李哉が喜んでくれたのならば良かった。

すると、翼の視界の端で李哉が右足を動かすのが入った。

足の方へ視線を向けてみると自然と顔から表情が消えた。

「――足の方は、どう?」

きっと李哉は翼の想像を絶する痛みに耐えているのだろう。

酷い痛みに必死に耐え、ダンベルを持ち上げたり字を書いたり……。

その上に笑ってみせる李哉。

「前よりも痛みが酷いからビックリしたよ。もう暴れたくなるくらいに痛いから、最近じゃその力を上半身を鍛えるために使ってるんだ」

「そうか……。頑張ってるんだ」

「この次は何をするんだっけ? もう歩く練習?」

「の前にプレートを入れる手術がある」

「じゃあそれが終わったら歩けるんだ!」

「でもその手術はあと一ヶ月ぐらいだけど……」

「あぁ、早く来ないかなぁ一ヶ月。その頃にはもう柔らかいご飯が食べられるかな?」

「――どうかな」

――李哉は、強い――

自分なんかよりも、ずっと。

それが悲しくもあり、怒りさえも覚える。

しかし、怒りを抱いてもそこには何も残らない。

翼は静かに感じてしまう怒りを押し殺した。

そして小さく息を吸い、吐き出す。

心を落ち着けた後、翼は久々に朗読をする事にした。

夕方になり、夕日が真っ白な病室を朱色に染めるまでずっと。

夕日が照っている事に気付く頃、病室に翼のアラームが鳴り響いた。

李哉から貰った腕時計のアラームを止め、少しの間腕時計を見つめる。

これから帰り、嗄との時間を過ごす。

そう思い、李哉に告げる。

「じゃあまた」

「うん、また…」

椅子から立ち上がり、病室から出ようとして扉の取っ手に手を掛け――

そこで翼は動きを止めた。

脳裏に過ぎったのは明日の予定についてだ。

明日の予定は特に決まっていない。

恐らくは家で一日中話を書くか、本屋で新刊を確認しに行くか。

そうでなければ病院で子供達と遊ぶくらいだ。

――病院――

病院へ来て子供達と遊ぶくらいならば李哉の病室へ来るべきだろうか。

いや、病室へ来るだけでは今と対して変わらない。

そこで翼はある事を思い付いた。

確か李哉がこの病室から外へ出たのはクリスマスパーティーの時と大晦日だけだ。

更には待合ホールへ行くまでの道しか行っていない為、ほとんど病院内を見て回っていない。

明日、特に予定は入れていない。

ならば李哉に病院内を案内するのはどうだろうか。

明日来た時に案内すると告げようか。

それとも、今伝えた方が良いだろうか。

ほんの少しだけ迷い、翼は静かに振り返り李哉に尋ねる事にした。

「明日は学校が休みだから、この病院を案内しようか? 病室にばっかり居ても息が詰まるだろうし」

「え――」

「また車椅子を持って来てあげるから。どう?」

「め、翼君がいいならいいけど…」

「じゃあ、明日の昼頃に」

明日の約束を取り付けると翼は軽く手を上げる。

そして今度こそ病室から立ち去る。

廊下を渡りながら李哉に明日は何処を案内しようかと頭を悩ませる。

エレベーター前に設置された病院の案内地図の前を通り過ぎ――

ふと、歩みを止めた。

よく考えてみれば今まで患者に対し、病院内を案内した事など一度もない。

藤森先生を数に数えなければの話だが。

――あの頃はこの病院が大好きだった――

色んな人にもっとこの病院を知って欲しかった。

この病院をみんなに好きになってもらいたかった、

それが今では、誰よりもこの病院の事を大嫌いになってしまった。

いや、大嫌いではない。

藤森先生や樹姫達。

李哉と出逢えたこの病院には少し感謝している。

だから今ではどちらかと言うと〝好き〟な方だ。

翼は小さく笑い、病院を後にするのだった。




翌日の土曜日。

翼は病院に訪れていた。

しかし、ある場所で立ち往生を食らっていた。

翼の視線の先には子供達の姿。

このまま子供達の前を通れば確実に子供達に捕まり、李哉の元へ向かうのが遅くなってしまう。

李哉と居る時に見つかった場合は〝また今度〟と言い訳を出来るが……。

今捕まってしまえばその言い訳は難しいだろう。

こういう場合いつもならば反対方向の階段を使うのだが。

今日は李哉の為に車椅子を持って行かなければいけない。

車椅子を持ち上げて階段を使おうとも思ったが、重たい車椅子を自分一人で持ち運ぶには危険が伴う。

ならばナースか医師に車椅子を持ち運んでもらうように頼もうともしたのだが。

今日に限って誰も捕まらない。

エレベーターは子供達を通り過ぎた先にある。

やはり、子供達の前を通るしか他に方法はないようだ。

深い溜め息を吐き、どうやってこの場を切り抜けようかと考えていた時。

「あ! ふじもりせんせー!」

「せんせー! あそんでー!」

不意に子供達が藤森先生の姿を見つけ、一斉に藤森先生の元へと駆け寄って行った。

そのおかげで子供達に見つからずに通れるようになった。

通り抜ける隙を伺いつつ、藤森先生の方へと視線を向ける。

藤森先生はいつものように子供達の相手をしてくれていた。

藤森先生が子供達の気を引いている内に車椅子を押して子供達の後ろを通り過ぎる。

運良くエレベーターが降りて来ており、無事に乗り込む事が出来た。

エレベーターの中で安堵の息を漏らし、二階のボタンを押してエレベーターが止まるのを待つ。

二階でエレベーターから降り、李哉の病室へ向かって歩き出す。

李哉の病室前までやって来ると静かに扉をノックする。

病室からは人の気配がした為、翼は返事が返って来る前に扉を開けた。

病室へ車椅子を押しながら足を踏み入れると李哉が少し笑いながら告げる。

「時間が経つのって早いんだね。さっき起きて朝食を食べたのにすぐに昼食食べたから、そう感じるよ」

「それも仕方ないよ」

そう答えながら車椅子をベットの横へと停める。

車椅子に乗せる準備を整えてから李哉と向き合う。

李哉を車椅子に乗せる時、いつも気掛かりな事があった。

それは車椅子へ乗せる為に抱き上げる時。

身体が密着する為、わかってしまう。

李哉の心臓が激しく高鳴っている事が。

やはり今日もそうなのだろうか。

頭の片隅でそう思いながら李哉に声を掛ける。

「李哉君、移動するよ」

「え、あぁ…うん…」

返事を聞いてから李哉の身体に優しく触れる。

そして抱き上げて車椅子へと移動させて乗せた。

密着した時、やはり李哉の心臓の音が耳に届いた。

どうやら今日も外に出る事を楽しみにしてくれているようだ。

李哉を車椅子に乗せ、準備が整うと病室から出て行く。

車椅子に李哉を乗せて押しながら廊下を歩き、何処を案内しようかと思考を巡らせる。

ここはやはり本人の行きたい場所へ行った方が良いと思い、李哉の方へと視線を向けると。

李哉と視線が絡み合った。

しかし、李哉の様子がいつもとは違っていた。

茫然とした様子で李哉はこちらを見つめていた。

李哉の様子が気になり、声を掛けてみる。

「――李哉君?」

翼が声を掛けると、李哉は我に返ったように顔を背けてしまった。

もしかして、体調が良くないのだろうか?

そうだとしたら無理に外へ連れ出すわけにはいかない。

李哉の様子を伺いながら尋ねてみる。

「もしかして、具合悪い?」

「あ、いやっ! そうじゃなくて…! な、なんでもないから!」

少し慌てながら答える李哉に対して少々疑問を抱いたが――

とりあえずクリスマスパーティーや大晦日の時にも行った待合ホールへ向かう事にした。

そこから先は李哉が行く場所を決めれば良い。

翼はそう思い、ナースステーションの前を。

待合ホール内を李哉が見れるようにゆっくりと歩いた。

すると李哉もまた、病院内を隈なく眺めていた。

まるで幼い子供のように。

嬉しそうに病院内を見渡す李哉に尋ねる。

「李哉君、行きたい所とかある?」

「行きたい場所…じゃあ、翼君のオススメの場所で」

「わかった」

翼のお勧めの場所。

脳裏に浮かんだ場所へと翼は車椅子を向ける。

そこは正面玄関前だった。

正面玄関前は病院内で唯一四季を感じられる場所だ。

春は桜。

噴水工事のせいで桜の数が少し減ってはしまったが、それでも十分に花見を楽しめる数の桜が咲く。

夏は目を覆うような緑が広がる。

噴水公園が完成したので更に涼しくなるだろう。

病院の出入り口辺りの並木道にはイチョウ。

落ちた銀杏が臭いが、それもまた秋らしい。

そして、冬。

辺り一面が白銀の世界に染まる。

そんな四季の移り変わりが見える正面玄関前を。

翼の大好きな光景を李哉にも見せたかった。

正面玄関前へと車椅子を押して行っていると……。

前方方向に子供達に囲まれている男性の姿が見えた。

子供達の合間から微かに白衣が見える。

子供達に囲まれている時点でその人物が藤森先生だとわかりはするが。

どうやらあのままずっと子供達の相手をしているようだ。

それにしても、今日はいつにも増して凄まじい。

肩車に、胸に背中に抱き付かれ。

挙句の果てには子供達に足を前後左右に引っ張られている。

顔も見えない藤森先生の状況を目にして思わず笑いが漏れてしまった。

先程は藤森先生のおかげで李哉の病室まで行く事が出来た。

藤森先生に声を掛ける為、車椅子を藤森先生の方へと向かわせる。

藤森先生の元へと近付くと、ひよこの飾りの付いたヘアゴムを肩車していた男の子が掴み。

勢い良く引っ張るのが見えた。

「いたたっ! ちょ、龍君! ヘアゴム引っ張らないで!」

引っ張られるヘアゴムを抑えようと藤森先生は手を伸ばしたが。

手を伸ばした頃には時既に遅し。

ヘアゴムは抜き去られてしまっていた。

前髪が目元を覆い、数分前とはまるで別人のようだった。

夜中に見た時には幽霊に見えるような姿だ。

と言っても元々顔が見えなかった為、誰かは最初からわからないが。

子供達に囲まれた藤森先生の前に車椅子を止める。

子供達によって揉みくちゃにされ、もうボロボロになっていた。

少し笑いながらも藤森先生の声を掛ける。

「こんにちは、藤森先生。今日も大変そうですね」

翼が声を掛けるとゆらりと、あのテレビから出て来る幽霊のような姿で顔を少し上げた。

髪のせいで表情は伺えないが。

「ああ、その声は翼君――いたたたたっ。痛い、痛いから髪引っ張らないで龍く……ちょ、ヘアピンは抜かないで‼ それはかなり痛い――いたたたたっ‼」

ヘアピンが引き抜かれた時、髪の毛が抜ける音もハッキリと聞こえた。

右手で前髪を搔き上げ、そこでようやく藤森先生と目が合った。

それから李哉の姿を目にして「おぉ」と少し嬉しそうな表情をして見せた。

肩車している龍君を下ろしてヘアピンとヘアゴムを返してもらい、乱れた髪を整えながら藤森先生は告げた。

「李哉君も居たんだね。ごめん、気付けなくて」

「あの…なんだかすごいですね…」

李哉と藤森先生が話しているその後ろで。

静かに、男の子が藤森先生の背後に忍び寄る姿が視界に入った。

男の子が視界に入ったと思った瞬間。

不意に後ろから藤森先生に膝カックンを食らわせたのだ。

そのせいで藤森先生はバランスを崩してしまい、その場に倒れてしまう。

幸い、子供達の上に倒れてしまう事はなかったが。

藤森先生の倒れる姿を目にした子供達は楽しそうに笑っていた。

もう完全にボロボロにされた藤森先生が可哀想に見えて来る。

だが、本人はそう思っていないらしくすぐに起き上がって言い出す。

「よくもやったな~? よぉ~し、肩車の刑だ!」

子供達と同じように楽しそうに笑い、男の子を追い掛けて捕まえては肩車する藤森先生。

まるで大きな子供のようだ。

けれども、子供達と一緒に遊ぶ姿がとても微笑ましい。

藤森先生が本当に子供好きなのだと伝わって来る。

翼は優しく微笑み、車椅子を押し出して李哉に告げる。

「藤森先生は、大抵この時間帯に待合ホールの方に行ってああやって子供達の相手をしてるんだ。子供が大好きみたいで、俺がクリスマスパーティーのサンタ役を誰にしようかって相談した時も藤森先生が自分からやりたいって言って来たんだ」

ハロウィンの時同様にやりたいと言ってくれた。

ハロウィンの事を思い返してある事を思い出す。

それは藤森先生の演技力について。

藤森先生があの時に教えてくれた事を李哉に教える。

「藤森先生、子供の頃に俳優になるのが夢だったから俳優の育成所に行ってたって前に言ってた」

正直あの時、藤森先生にはあまり期待していなかった。

しかし、あの演技力を目の当たりにすれば考えは一瞬で変わった。

本当に、すごかった。

藤森先生の演技力ならばすぐにデビュー出来る事だろうに。

そう思いはするが、藤森先生はデビューしなかった。

その理由は――

「だけど藤森先生、子役デビューオーディションの前に病気になって倒れたみたいで、夢を諦めるしかなかったらしくて。その時の担当医がすごく優しくて、格好良かったから自分も医者になりたいって思って医者になったって――前にそう言ってたよ」

初めて聞いた時驚いた事を思い出す。

藤森先生は丈夫そうな人だと思っていたからだ。

恐らく、李哉も今驚いている事だろう。

それから少しだけ藤森先生の事を考えてみる。

藤森先生は〝医者に憧れて〟医者になった。

翼とは正反対な理由だ。

無理矢理医者にされるのとは大違いだ。

自分の意志で医者になるなんて。

〝その時の先生が格好良くてね。僕もこんな人になりたいって思ったんだ〟

藤森先生の言葉が脳裏に過ぎる。

――出来る事ならば自分も人が憧れるような人間になりたい――

どうせ医者になるのならば、藤森先生のような医者になりたい。

患者に対してだけではなく、誰に対しても優しく。

人の相談に乗れるような。

そんな人になりたいと思う。

「――医者になるなら俺、藤森先生みたいな医者になりたいと思ってる」

「え…?」

つい、考えが口から零れてしまった。

李哉に聞き返されて歩みを止める。




――――わかっている――――




もうそろそろ、決められた運命を受け入れなくてはいけない事は。

医者になると認めなくてはいけないという事は。

自分は医者になる。

だが、両親の求めるような医者にだけはなりたくない。

患者を〝金儲けの道具〟として扱うような医者には絶対に。

「父さんと母さんは患者の事なんて何とも思ってない。自分さえ良ければそれで良い人だから、失敗さえしなければそれで良い人だから、藤森先生とかの気持ちがわからないんだ。患者とコミュニケーションを取ろうとしない人だから。まるで、機械のように仕事を的確にする。仕事に感情を持たないで……。父さんはそんな医者になれって言うけど、俺は絶対に嫌だ。そんな医者になんかなりたくない」

きっと、いつかは医者になる日がやって来る。

その〝いつか〟は日々、確実に迫って来ている。

もしかすればその〝いつか〟は今すぐにでも来てしまうかもしれない。

それまでの間に心の準備をしなくてはいけない。

そう、その時が来るまでの間に。

毎日、日を重ねる都度医者になる為の心の準備をしなくては。

やはり医者にはなりたくないと心の何処かで喚く自分が居る。

しかし、それでも医者になる日は訪れる。

どんなに嫌だと、否定したとしても誰も聞き入れてはくれない。

翼は、医者になるしかない。

すると心配そうな李哉の視線に気付いて我に返る。

せっかく外に出られたというのに、暗い顔をしていてはいけない。

咄嗟に笑顔を顔に貼り付けて李哉に尋ねる。

「じゃあ、外に出てみようか?」

「う、うん…」

翼は再び車椅子を押して正面玄関前へと向かう。

心の準備ならばきっと出来る。

――人は日々、変わっていく――

自分では気付けない事の方が多いが、人は日々変わっていく。

李哉と初めて出逢った頃と今を比べてみたら少しは変わったと自分でも思う。

大きな違いは良くわからないが、以前と比べれば笑えるようになった。

このようにして、きっと、変われる事だろう。

李哉と居ればきっと怖くはないはず。

翼はそう思いながら正面玄関から外へと歩み出た。

病院から一歩外へ出てみれば、見渡す限り一面が真っ白に染まっていた。

もちろん、吐く息も白かった。

李哉は目の前に広がる一面の雪景色に目を輝かせていた。

足を怪我していなければ子供のように雪の駆けて行きそうな勢いだ。

李哉が喜んでくれている事が嬉しく、安堵の息を漏らす。

景色は最高に良いのだが……。

風が吹けば凍るように冷たい風が身体を撫で、一瞬で身体が冷えていく。

雪が積もっている分、更に寒く感じられた。

あまりの寒さに両腕を擦って温める。

病院内を案内すると思っていた為、上着はナースステーションに預けて来た。

流石にカーディガンだけではこの寒さは凌げない。

「――やっぱり寒いから戻ろうか?」

「いや、もうちょっと居たい…」

嬉しそうに目を輝かせてそうは言うのだが。

李哉も翼と同じように両肩を擦って温めているのが見えた。

よく考えてみれば李哉はパジャマ姿のままだと言う事に気付く。

自分よりも薄着をしていた事に気付き、我慢はせずに病院へ戻ろうと告げようとした時。

「――やっぱり戻ります」

素直に李哉はそう告げた。

李哉の言葉を聞いた瞬間、翼はすぐに病院へと引き返した。

病院内へ戻ると空調が整っている病院内は暖かかった。

ズボンのポケットにカイロが入っていたのですぐに身体は暖まったが。

李哉はまだ寒そうに両腕を擦っていた。

そんな李哉を目にし、翼は李哉に声を掛ける。

「李哉君」

「何――」

翼はポケットの中に入れていたカイロを李哉の頬に当てた。

刹那、李哉が酷く驚いて軽く飛び上ったようで車椅子が少し動く。

驚きながら李哉は翼の渡したカイロに目を向ける。

「これ、あげる。李哉君寒そうだから。俺の使い捨てで悪いけど」

カイロを目にした李哉は嬉しそうに微笑む。

そして李哉は告げる。

「あ、ありがとう…」

「礼なんて良いよ。じゃあ次は何処に行こうか?」

「何処でもいい――」

またもそう答える李哉に少しだけ困る。

今度は何処へ連れて行こうかと迷ってしまう。

良い場所は病院内にもある。

歩きながら考えようと思って車椅子のストッパーを外し、車椅子を動かそうとした時だった。

李哉が痛そうに左足を押さえている姿が視界に入ったのは。

「李哉君!」

李哉の異変に気付くとすぐに車椅子のストッパーを掛け直して李哉の方へと回る。

酷く顔を顰めて李哉は足を押さえる。

今まで翼が見た事のない苦痛に満ちた表情で。

「大丈夫……⁉」

一瞬どうしようかと戸惑っていると、そこに丁度子供達から解放されたと思われる藤森先生の姿が見えた。

藤森先生は翼と目が合うとすぐに状況を察してくれたようで、足早に李哉の元へと駆け寄って来てくれた。

藤森先生はすぐに李哉の足を診てくれ、何も言わずに李哉の病室へと車椅子を押し出した。

翼はどうする事も出来ず、藤森先生の数歩後ろから追って行く事しか出来なかった。

迂闊だった。

足を怪我しているというのに寒い外へ出たのは。

急激に足を冷やした場合、激痛が伴う事もある。

――自分のせいで李哉に痛い思いをさせてしまった――

これで退院が長引いてしまったら自分のせいだ。

翼は李哉の病室に着くまで酷く自分を責めていた。

病室前に着き、李哉の為に病室の扉を開けると藤森先生が車椅子を押して入って行く。

翼も病室へ入ろうとしたが、足を止めた。

病室に入り、どんな顔をして李哉の顔を見れば良いのだろうか。

自分のせいで更に足が悪くなってしまったとしたら。

そう思うとどうしても病室には入れなかった。

そっと、病室の外から中の様子を伺う。

藤森先生は李哉を車椅子からベットへと寝かせて優しく告げる。

「大丈夫、足は良くなっていってるから。治っていってるから足が痛くなるんだ」

「外に…出たから、痛く…なった、んじゃ…?」

痛みに耐えながら尋ねる李哉の声。

藤森先生の声を耳にし、翼は恐る恐る病室を覗き込む。

「それは、今の所ないかな。足は逆に熱を持ったら冷やさないといけないから問題はないよ。今回は波だよ。たまたま痛みの波が襲って来たんだ。だから――」

藤森先生が言葉を止めたかと思うと。

不意に振り返り、藤森先生と目が合って翼は驚く。

安心させるように優しく微笑んで藤森先生は言ってくれた。

「翼君のせいじゃないよ。ちゃんと足が治っていってる証拠だから」

まるで翼の心を見透かすように、藤森先生は告げた。

それでも翼は自分自身を責める事をやめられなかった。

藤森先生は翼の方へ来て、大きなその手を翼の頭に乗せて。

「大丈夫だから。自分を責めないで」

優しく、そう告げてくれた。

翼にだけ聞こえるように。

ぽんぽん、と軽く翼の頭を叩くと藤森先生は病室から出て行ってしまった。

病室には李哉と梅。

病室の外には翼。

李哉に謝らなくてはいけない。

わかっているのだが、中に入る勇気がない。

例え入れたとしても李哉の顔を見る事が出来ない。

翼が病室の外でどうしようかと迷っていると……。

「翼君、入って来なよ」

李哉が不意にそう声を掛けて来た。

中へ入ろうかと一瞬迷い、躊躇いながらも病室内へと足を踏み入れる。

しかし、少しだけその場に踏み留まる。

本当に入っても良いのだろうかと、李哉の方へ視線を向けてみる。

李哉はいつもと変わらない微笑みをこちらへ向けていた。

李哉の笑みを目にし、恐る恐る病室へと足を踏み入れた。

病室には入る事が出来たが、翼がいつも腰を下ろす椅子には座らずに居た。

扉の前辺りで立ち尽くしていると再び李哉の声が。

「座っていいよ」

「――――」

一瞬、座るべきかどうか迷った。

しかし、いつまでも立っているわけにはいかない。

少し躊躇いながらも静かに腰を下ろす。

椅子に腰掛け、少し自己嫌悪に陥る。

どうして先程、自分は何もしなかったのだろうかと。

李哉の足を診る事は自分でも出来たはずだ。

それにも関わらず、翼は何も出来なかった。

寒さからの痛みではないと、冷静になっていればすぐにわかったはずだ。

いや、それ以前の事だ。

何故、李哉の体調が悪いのを知っていて連れ回したのだろうか。

病室から出た時、李哉の様子が可笑しかったというのに。

なのに自分は李哉に無茶をさせた。

その事に対して謝らなければ。

翼は俯いたまま告げた。

「――ごめん」

「え――」

「俺が、無茶させたから……。だから、ごめん」

深く頭を下げて李哉に謝る。

――自分の事が酷く嫌になる――

自分自身の行動に。

自分自身に怒りが湧いて来る。

これは一体、何だろう……?

この感じに、この気持ちに名前を付けるならば何だろうか。

わからない。

翼にはわからない。

その時、不意に李哉の声が降り注ぐ。

「――どうして、翼君が謝るの?」

「え……?」

驚いて李哉の顔を見上げる。

李哉はそんな翼の顔を目にし、優しく微笑んで告げてくれる。

「翼君が謝る必要なんてないよ。すごく寒かったけど俺、すごく嬉しかったから。だって…目を覚ましてから初めて見た景色なんだよ? すごく、綺麗だった。あんな景色――見た事がなかったから。記憶を失う前の自分なら何回も見たと思うけど…今の俺は初めて見たし、すごく綺麗だった。だから――あんなに綺麗な景色を見せてくれてありがとう。翼君」

――ちゃんと、伝わっていた――

あの光景を目にして、李哉にもそう思って欲しかった。

綺麗だと。

素敵だと。

同じ事を思っていてくれたと思うと嬉しいのだが……。

まだ少し気持ちが晴れない。

けれど、李哉は礼を言ってくれた。

痛い思いをさせてしまったのに、〝ありがとう〟と言ってくれた。

翼は小さく笑い、李哉に告げた。

「本当にごめん。でも――そう言ってくれると救われる」

苦笑に近い笑みだったが、それでも李哉は微笑んでくれた。

その後はいつものように李哉と話す事が出来た。

足が痛いのならば大人しく休むようにと言ったのだが、どうしても翼と話がしたいと言われて断る事など出来るわけがない。

仕方ないので以前のように朗読をしようとして鞄から本を取り出すと、ふと李哉が思い出したように口にした。

「そういえば、この間借りた本。全部読んだよ」

「どうだった?」

「すっごく面白かったよ。だから次に借りる本を頼もうと思ってて…」

「じゃあ、次はこの本を読むと良いよ」

そう言って差し出した本は朗読をしようとして手にしていた〝四季の青春〟だった。

以前嗄からこの本を貰い、初めて〝恋〟というものを知った一冊。

嗄から貰った大切で、宝物のような本。

そんな本を翼は李哉へと渡した。

李哉ならば本の扱いを心得ている。

貸すくらいならば何の問題もないだろう。

差し出された本を李哉は嬉しそうに微笑んで受け取る。

また、〝初めて〟だと翼は気付く。

大切な、嗄から貰った本を他人に貸す事は。

嗄から貰った本を他人に貸す事など、絶対にないと思っていた。

だが、それは違った。

李哉には、自分の読んだ本を読んでもらいたい。

同じ事を考えて、同じ事を思って欲しい。

同じ事を感じて欲しいと思った。

「それは、俺の一番気に入ってる本でもあるんだ」

「そんな本…本当にいいの?」

「良いよ。寧ろ、李哉には読んでもらいたい」

微笑んで答えると李哉は嬉しそうに四季の青春を見つめる。

李哉は本の表紙を軽く撫で、満面の笑みで告げた。

「じゃあ、大切に読むね」

李哉の笑顔を目にして翼も釣られて微笑む。

本当に李哉は多くの〝初めて〟を教えてくれる。

あと何回、李哉は自分に多くの〝初めて〟を教えてくれるのだろうか。

翼は少しだけそんな事を考えていた。

 それから一週間経った日曜日の事。

本日も翼は李哉の病室へ向かう予定だった。

そう、予定だったのだが……。

ある問題が生じたのだ。

翼は待合ホールの柱に身を潜めてある一点へ視線を向ける。

翼が見つめる先には子供達の姿があった。

何故最近子供達の事を避けるのか、ようやくわかったような気がする。

子供達の相手をしていると、李哉と逢う時間が減ってしまう。

その為、最近では子供達ではなく李哉の事を優先してしまっている。

更には子供達の事を後回しばかりしてしまい、今年に入ってまだ一度も子供達の相手をしていない。

今、子供達に見つかってしまえばすぐに解放してはくれないだろう。

李哉の元へ行くのが遅くなるのを避ける為、子供達に見つからぬように階段の方へと向かって歩き出す。

幸い、子供達が翼に気付く事はなかった。

安堵の息を零し、階段を使って二階へ向かおうと振り返った時だった。

階段側の廊下に男の子の姿があった。

男の子の顔には見覚えがある。

何故ならば、その男の子は以前良く遊んでいた子供達の中に居た男の子だったからだ。

「あ……」

恐らくはこれからみんなの元へ行く所だったのだろう。

つい、油断してしまった。

待合ホールに居る子供達には言わないようにと口止めしようとした時。

「あーっ‼ めぐにぃちゃんだぁー‼」

時既に遅し。

男の子が大声を発した刹那。

待合ホールに集まっていた子供達が一斉に翼の元へと集まって来た。

子供達は翼の足や服、腕を掴むと無理矢理待合ホールの方へと連れて行こうとする。

連れて行くだけまだ良いのだが、逃がさないようにと掴んで放そうとはしない。

そんな子供達に捕まり、思わず溜め息を零す。

もうこうなってしまっては逃げられない。

しかし、今日も李哉との約束がある。

約束だけは破りたくない。

けれどこの現状ではどうしようもない。

子供達に取り囲まれ、困り果てていると丁度そこに藤森先生がやって来た。

「あれ、翼君。李哉君の所に行くんじゃなかったの?」

「行きたいのは山々なんですけど……みんなに見つかってしまって……」

「ああ、なるほど」

「みんなごめん。俺、行かなくちゃいけない所があって……」

「やだぁー! あそぶのぉー‼」

「今日はめぐ兄と遊ぶ日!」

「だってさいきんめぐにぃあそんでくれないからぁ!」

「……困ったな……」

子供達が駄々を捏ねるようにして翼の身体を左右に揺さぶる。

左右に揺さぶられながらどうやってこの場を切り抜こうかと模索する。

一体どうすれば、この場を切り抜けるだろうか。

翼が頭を悩ませる中。

藤森先生が子供達に優しく告げる。

「じゃあみんな、僕と一緒に遊ぼう?」

「や‼」

「せんせーとあそぶのあきた!」

「めぐ兄の方がいい~‼」

子供達の連続かつ否定の即答に藤森先生は若干涙目だ。

あともう少し言われれば待合ホールの隅で体育座りでもして項垂れそうな雰囲気だ。

翼の完全勝利となってしまった。

こうなってしまった以上、子供達の相手をする他に選択肢はないようだ。

翼は少し落ち込んでいる様子の藤森先生に告げる。

「すみませんが藤森先生。李哉君に伝言、良いですか? 〝今日は行けない〟と」

「うん、わかった。じゃあ子供達の子守り、頼むね」

藤森先生は少し笑ってそう言うと背中を向けて行ってしまった。

子供達の中に一人だけ残され、翼は子供達に尋ねる。

「じゃあ、何して遊ぶ?」

「えほんよんで!」

「つるのおりかたおしえてー!」

「あやとり!」

「めぐみ兄ちゃんの考えた話聞きたい!」

「わかった。じゃあ全部しよう」

「「「やったぁー!」」」

子供達の嬉しそうな表情を目にして翼は優しく微笑む。

やりたい事はたくさんある。

やらないといけない事がある。

後者の方は基本的にあまりしておらず、たまにする程度だが。

まさか、子供達の相手をする事もあまりしなくなるとは思いもしなかった。

李哉と逢う前まではずっと、子供達の相手ばかりしていたというのに。

子供達とは絶対に接してあげないといけないと思っていたのに。

いつの間にか、翼にとって優先するものの順位が変わっている。

今ではそれは、李哉だ。

その事に自分自身でも驚いていた。

人は日々、変わっていく。

頭の中でその言葉が過ぎる。

確かに、変わっている。

最近、ふとした時に気付く自分の変化に戸惑ってしまう。

一体いつの間にこんなにも変わってしまったのだろうかと。

過去の自分を基準として今の自分を考えると、まるで別人のようだと。

そう思いながら翼は子供達の相手をする事にした。

子供達の遊び相手をしてしばらく経った頃。

今度は折り鶴の折り方を教えてくれと言われたので、折り鶴の折り方を教える事になった。

わからないと言われると分かり易いようにもう一度最初から折り直す。

「ここを、こう折って――ほら。鶴の完成」

見事に綺麗で見本のような折り鶴が完成した。

翼の折った鶴を目にしてもっと作ってと子供達が言って来る。

子供達のリクエストに答える事にし、もう一枚折り紙を手に取って子供達に告げる。

「折り紙の鶴はね、平和と幸せを運ぶんだよ。そして人の祈りを運ぶんだ。だからみんな、一度は千羽鶴を誰かに貰った事があるだろう? それはみんなの怪我や病気が早く良くなるようにって、治るようにって、作ってくれた人の祈りと想いが込められてるんだよ」

翼の勝手な考えを口にする。

人々は平和と、幸せな世界の為に終戦日には千羽鶴を捧げる。

みんなの祈りが、想いが空に届くように。

同じ事を繰り返さないようにと、願いを込めて。

きっと、入院した人に贈られる千羽鶴もそれと同じだろう。

そんな事を考えながらもう一つ折り鶴を完成させる。

すると子供達が一斉に言い出し始めた。

「めぐみにぃちゃん! 今度はえほん読んで!」

「えほんよんで!」

「違うよ! 今度はあやとりだよ!」

「みんなちがうよ! めぐみお兄ちゃんの考えたお話を聞くんだよ!」

「みんな、喧嘩しないで。全部するから。今日はみんなの相手をするからね。じゃあ次はあやとりをするよ。茅君、今日は何を教えて欲しいの?」

「東京タワー!」

「良いよ。じゃあ見ててね」

折り鶴の次はあやとりを手に取って教えてあげる。

他にも色々と教えてくれと言われたので翼の知り得る限り全てのあやとりを教えた。

次は何をしようかと考えていると、横に居た女の子が翼の腕を引いて聞いて来る。

「ねぇねぇ、めぐみおにぃちゃん」

「何? 綾音ちゃん」

「あしたもあそべない?」

「明日は学校があるし、友達の所にも行きたいし」

「それって、彼女ぉ?」

「お、と、こ、友達だよ。なんで龍君、そんなにマセてるの」

「えぇ~! めぐみお兄ちゃんともっといたいよ!」

「でも……」

「毎週日曜日でいいから!」

「曜日、指定なんだ……?」

「おねがい~!」

毎週日曜日は子供達の相手をする。

どうしようかと少しだけ迷ってしまう。

こういう事は李哉に聞いた方が良いのではないだろうか。

それに少し、休憩も入れたい。

ナースか誰か居ないかと視線を彷徨わせていると――

視線がある人物と合った。

その人物は車椅子に乗った李哉だった。

李哉が一人で車椅子に乗れるはずがない。

どうやって車椅子に乗ったのかと疑問に思っていると。

李哉の近くには藤森先生がおり、微笑んでこちらに向かって手を軽く振っていた。

つまり、藤森先生が病室から連れて来たのだろう。

李哉に今日行けなかった事について謝らなければ。

李哉の姿を目にすると翼は子供達に告げる。

「みんなごめん、少し待ってて」

子供達に少しだけ待つように言い残して李哉の元へと歩み寄る。

李哉はほんの少し戸惑うような様子を見せたが。

いつもの笑顔を顔には浮かべていた。

そんな李哉の元へ行き、口を開く。

「ごめん、李哉君。今日は病室に行けなくて……」

「いいよ。僕は大丈夫だから。それより、子供達の相手してあげてよ」

李哉の自称名が〝俺〟から〝僕〟になっている事に気付く。

ここは、伝えるべきなのだろうか。

いや、本人は〝俺〟と言ったつもりなのだから下手に注意はしない方が良い。

やはりまだ言い慣れてはいないようだ。

「それもそうだけど……。李哉君、今度から日曜日は逢えないけど……良い?」

「うん、いいよ。俺よりも子供達の相手をしてあげて。みんなだって、翼君を俺が独り占めしたから寂しいと思ってるだろうし」

「ごめん……」

「謝らなくていいから。ほら、みんなの所に行ってあげて」

「――ありがとう」

翼はそう返して子供達の元へと戻って行く。

次は何をして遊ぶ、次はこれで。

そのように再び子供達の相手をする事にした。

子供達が満足するまで、最後まで付き合おうと思っていた。




 夕方になり、翼は腕時計に視線を落とす。

もう午後四時二十六分を指していた。

その事に気付き、翼は子供達に告げた。

「今日はもう終わり」

「えぇー⁉」

「なんでぇー⁉」

「もっとあそびたいよ!」

終わりの言葉を告げると子供達が一斉に反対の声を上げる。

流石に翼も疲れて来た。

ほとんど休憩を挟む事もなく、ずっと子供達の相手をしていたのだ。

いい加減に解放されたい。

「来週も来るから。ね?」

「うぅ~……ぜったいだかんな⁉」

「ぜったいだよ⁉」

「うん。絶対」

子供達と約束の指切りを交わすが。

何度も、何度も子供達は念を押すように〝絶対だからね〟と言って来る。

翼も何度も〝絶対行く〟と答えるのだが……。

二分ほど、ずっとそれが繰り返された。

ようやく子供達から解放され、翼はある場所へと向かった。

そこは李哉の病室だった。

ほんの少しでも良い。

李哉に逢いたかった。

それにしても、子供達の相手をするのはこんなにも疲れるものだっただろうか。

以前はそうではなかったはず。

子供達との相性が悪くなって来たのだろうか。

あんなに元気な子供達の相手をする藤森先生の気持ちがなんとなくわかった。

少しだけそんな事を思った。

やがて李哉の病室前まで訪れ、静かに扉をノックする。

病室から「どうぞ」と李哉の声が返って来た。

扉を開けて病室内へと足を踏み入れる。

病室内に入り、李哉の顔を見ると李哉は驚いた表情をしていた。

驚きながらも李哉が尋ねて来る。

「翼君? どうしたの。子供達はもういいの?」

いつも翼が腰掛ける椅子に腰を下ろし。

李哉と向き合い、李哉の目を見て答える。

「遊ぶ時間はもう終わり。だから、少しでも良いから李哉君に逢いに来た」

「そう、なんだ…」

正直な事を言えば子供達から逃げて来たのだが。

本当ならば時間ギリギリまで付き合うつもりだったが、あの様子では時間になっても解放してはくれなかっただろう。

なので少し早目に切り上げたのだ。

そのまま家へ帰っても良かったのだが、元々今日は李哉と逢う約束をして病院へ来ていた。

それと、少し静かな場所へ行きたかった。

家でも十分静かだが、あの家は静か過ぎる。

静かで落ち着ける場所と考えたら李哉の病室だった。

この病室に居ると安心する。

とても落ち着く事が出来る。

やはりこの病室は好きだ。

翼がそう思っていると不意に李哉が口を開いた。

「翼君、もし…間違ってたらごめん」

「何?」

どうかしたのだろうか。

自分が来なかった間に何かあったのだろうか。

不安にも思いながら李哉の顔を見つめる。

李哉は口を開きはするものの、そこから声は発せられない。

口を閉じたかと思うと再び口を開き、李哉は告げた。

「――前から、翼君が悲しそうな表情をした時や翼君の考えた話を聞いた時に感じるイメージみたいなものがあったんだ。どうしてそんなものを感じるのかわからなかったんだけど、今日それがわかったんだ。今日、翼君の所に行く時に藤森先生が教えてくれたんだ。小さい頃の翼君の事を」

〝小さい頃の翼の事〟

この病院には翼の幼い頃を知っている人は大勢居る。

翼はこの病院で育ったも同然だからだ。

それに、この病院には幼い頃良く来ていた。

藤森先生も幼い頃に出逢った人の一人だ。

幼い頃の翼を知っていて当然だ。

先日、藤森先生の事を李哉に話した。

恐らくはその反対なのだろう。

李哉は一体、藤森先生から何を聞いたのだろうか。

翼は静かに李哉を見つめる。

「小さい頃は明るくて元気で、とても楽しそうに笑ってたって聞いた。でも、小説家になりたかった夢を諦めてから今の翼君になったって…。それで、俺は思ったんだ。今まで笑ってた人が笑わなくなって、楽しそうに話していたのに話さなくなった――それって感情を押し殺してる事だって。翼君は、自分の感情を押し殺してるんじゃないかって…。誰かに自分の気持ちをわかって欲しいけど、誰も翼君の話を聞いてくれようとはしない。だから翼君はノートに自分の想いを込めた。物語にして、翼君の想いを形にした。だけど、それでも誰も見てくれなかった。だから翼君はずっと理解者が欲しかったんだと…俺は思う。自分の事を理解してくれる人が、話を聞いてくれる人が、欲しかったんだと思う」

感情を押し殺す。

その言葉で思い出したのは幼い頃、〝寂しい〟という感情を必死に押し殺した時の事。

父親から患者と接するように強要され、自分で自分を殺した時の事。

誰も、誰一人として翼の言葉に耳を貸そう等とはしなかった。

どんなに訴えても、誰も翼の気持ちを分かろうとはしなかった。

確かに、誰かにずっとこの気持ちや心を分かって欲しかった。

全て、李哉の言う通りだ。

翼にとって物語を描くという事は唯一自己表現の出来るもの。

物語の中でしか〝本当の自分〟が出せない。

しかし、李哉の言う〝理解者〟が少しだけわからない。

理解者ならば翼の周りに居てくれる。

藤森先生に、嗄が。

そこに違和感を感じて表情を変えずに李哉に尋ねる。

「――どうして、そう思ったの?」

その感情は、自分だけが知っているはずのもの。

自分以外の他人が知る由もない感情。

胸の内に秘めた感情は誰にも打ち明けてはいない。

それにも関わらず、李哉は気付いてくれた。

――それは何故?――

「さっきのイメージの話に戻るけど、そのイメージが…翼君の姿なんだよ。すごく寂しそうで、悲しそうな…翼君の姿。悲しそうな、翼君の後ろ姿。藤森先生の話を聞いて、翼君の考えた話を思い出したら――そのイメージがハッキリとわかったから。翼君は、誰かに助けを求めてるって。翼君は、理解者を求めてるんだって」

「――――」




――――違う――――




李哉は、藤森先生とは。

ましてや、嗄とも。

似ても似つかないような違いがある。

その違いとは何だろうか。

藤森先生は、ここまで踏み込んでは来ない。

ただ、話を聞いてくれるだけ。

つまりはただの〝相談者〟だ。

では、嗄と李哉の違いは何だろう。

嗄は時折、翼の心を見透かしたような事を口にする。。

翼の事を親身になって聞いてくれる。

翼の想いに、気持ちに共感してくれる。

けれど、そこまでだ。

今の李哉のようにここまで踏み込んでは――

いや、違う。

〝嗄の方が〟踏み込もうとはしなかったのだ。

つまり、嗄は〝共感者〟

藤森先生と嗄は翼の事を理解している〝理解者〟ではなかった。

二人とも、翼の求める〝理解者〟とは何かが違っていた。

だから、時折感じてしまっていた。

〝孤独〟というものを。

しかし、李哉は……。

李哉こそ、理想的な〝理解者〟だ。

翼の事をよく知っており、翼の事をわかってくれる。

李哉に言われて気が付く。

ずっと、一人は嫌だったと。

ずっと、誰かと一緒に居たかった。

だが、翼の傍には誰も居ない。

ずっと、独りだった。

「だから、翼君に伝えたかったんだ」

まさか、伝わったとでも言うのだろうか。

ノートへひたすら綴っていた想いが。

翼の心の叫びが。

大晦日に語って聞かせたあの物語から。

李哉は感じ取ったと言うのだろうか。

驚愕しながら李哉を見つめる。

李哉は静かに翼を見据えて告げた。

「翼君は、一人じゃないよ。俺が居るから、一人じゃない。今度から、俺が居るよ。翼君の傍に居る。俺が――翼君の理解者になる。俺、翼君の考えた話を聞いて感じたんだ。翼君の心の叫びを。翼君の悲しみや、寂しさを。だから――俺には、わかるよ。翼君の想いや気持ちが」

一人じゃない。

李哉にそう言われて初めてわかった。

自分はきっと、その言葉が一番に欲しかったのだと。

――李哉だけだ――

翼が抱えていた苦しみと悲しみに気付いてくれたのは。

ずっと心の奥底へと秘めて隠していた想いを全て見つけてくれた。

全部、わかってくれた。

きっと、心の何処かでずっと求めていた。

封じ込めてしまった自分を見つけ出してくれる人を待っていた。

李哉はそんな自分を見つけ出してくれた。

膝を抱えて蹲って泣いている、幼かった翼を。

両親に夢を壊された、あの日の翼を。

李哉は、見つけ出してくれた。

その時、小さな雫が床へと落ちて行った。

一つ、二つと雫が落ちて行く。

それが涙で、頬を濡らしている事に気付くのに少し時間が掛かった。

掛けていた眼鏡を外し、服の袖で涙を拭う。

――初めて知った――

悲しい感情以外で涙が出るという事を。

嬉しくても、涙が出るのだと。

「――李哉君の言う通り。俺、本当はまだ小説家になりたい…。医者なんかになりたくない…。今でも、そう思う…。でも……俺がそんな我が儘言っても、今更どうにもならないから。俺がこの病院の院長と総師長の息子である事は変わらないから…。俺、ずっと思ってた。産まれて来なければ良かったって……。産まれてすぐに、自由を奪われたんだから…。俺は、めぐまれてなんかない。自由にも、親の愛情にも……。ましてや、逃げる為の翼だって、俺は持ってないんだから。だから……誰も、わかってくれないと、ずっと思ってた……」

涙が止まらない。

拭っても、拭っても。

次々と涙が溢れ出る。

どうして、こんなにも涙が出るのだろうか。

涙なんて当の昔に枯れ果てたと思っていたのに。

翼は鼻を啜り、言葉を続ける。

「でも……でも! クリスマスの日、李哉君が言った言葉――すごく嬉しかった。〝俺は翼君と逢う為に生きてるんだ〟って…。俺も、そうかもしれないって、思えたから…。俺も、李哉君と逢う為に今まで生きてたんだって、そう…思えたから……」

ずっと、胸の内に秘めていた感情を全て李哉に打ち明けた。

今まで誰にも打ち明けなかった事を。

どうして、ここまで言ってしまうのだろうか。

翼が涙を流していると、李哉がハンカチを差し出してくれた。

翼はそのハンカチを受け取り、涙を拭う。

そこで気が付いた。

初めて人前で涙を流すと。

泣きながら思ってしまう。

嗚呼、自分は弱いなと。

人前で泣いてしまうような、弱い人間だと。

そんな自分と比べて李哉が泣く姿など見た事がないと。

それが当然なのだろうが。

ふと、李哉の優しい声が降り注ぐ。

「よく、我慢したね…」

李哉の優しい声が、耳を擽る。

優しい声に思わず涙が溢れ出てしまう。

この言葉も、ずっと求めていたものだ。

しかし、翼よりもずっと李哉の方が我慢をしている。

辛いはずなのに、痛いはずなのに。

一言も弱音を吐かない。

「俺……李哉君みたいに強くないから。本当はすごく弱くて、何も出来ない奴だから……」

「そんな事無いよ。今の俺が居るのは、翼君のおかげだから」

「え――」

予想外の言葉に驚き、顔を上げて李哉の顔を見つめる。

李哉の言葉のおかげで自然と涙が止まっていた。

静かに李哉は深呼吸をし――

翼の目を見て告げる。

「俺、翼君のおかげでこうやって強く生きていけるんだ。だって俺、目が覚めて最初はもう絶望してたから。希望なんて、持てなかったから。でも、翼君がこの病室に来て、本の朗読をしてくれたから――俺は救われたんだ。翼君が朗読してくれた本の主人公みたいになりたいって、思えたんだ。それに――」

そこで李哉は言葉を止めた。

〝それに〟何だろう。

李哉は翼の事をまるで救世主のように言ってくれる。

その言葉の続きは一体何だろうか。

気になり、李哉の顔を見つめるが李哉は中々口を開こうとはしない。

少しだけ、李哉が再び口を開くのを待つ。

だが、李哉は一向に口を開こうとはしない。

言葉の続きを催促するように翼は尋ねる。

「それに……?」

静かな病室に翼の声だけが響く。

静寂の中、李哉は少しだけ躊躇うような様子を見せた。

それから……。

嬉しそうに、照れくさそうに笑って李哉は告げたのだ。

「足が治ったら、翼君と色んな所で遊びたいって思ってるから」

李哉の言葉を耳にした瞬間、知らず涙が頬を伝っていた。

――そんな事を言われたのは初めてだ――

一緒に居たいと言われたのは。

一緒に遊びたいなんて、言われたのは。

こんなにも自分の事を大切に想ってくれる人は恐らく居ないだろう。

一生に一度、逢えるかどうかの人間だ。

多くの初めてを教えてくれた友達を大切にしたい。

大切な友達の傍に居たい。

李哉もそう思っているのならば尚更、心の底から思えた。

李哉と出逢えて良かったと。

そんな人物にいつの間にか出逢えていた事に対しての嬉しさからも涙が零れた。

翼は涙を流しながらある事を心に決める。

唯一の友に出来る事。

それは一つしかない。

ようやく翼はその事に気が付けた。

それからしばらくの間、翼は泣き続けた。

涙が収まった頃には李哉から貰ったハンカチはすっかり涙で濡れてしまっていた。

その事に気付いた瞬間、激しい羞恥に駆られる。

今まで、こんなにも泣いた事はない。

人前でこんなにも泣いてしまうとは……。

けれど、嬉しくもあった。

「ありがとう、李哉君……」

「いいよ、お礼なんて。友達なんだから」

「――親友、でも良い?」

「え――」

李哉との関係はきっと、友達と言うような小さな枠ではないはず。

お互いがお互いを信じ合えるような。

お互いの事を理解し合えるような親友になれるはずだ。

少なくとも、李哉は今までの友達とは違う。

そんな李哉には親友になって欲しい。

〝初めて〟の親友に。

李哉は翼の言葉に目を丸くしながら聞き返す。

「俺が…親友?」

「そう。李哉君が親友になってくれると、嬉しい」

きっと、李哉にしかなれない。

今李哉が親友になってくれなければこの先、翼に親友は出来ないだろう。

それ程までに翼は思っていた。

翼の親友になれるのは李哉だけだ。

李哉は驚きながらも少しだけ戸惑っているように見えた。

やはり、迷惑だっただろうか。

ほんの少し翼が不安を感じ始めた時。

李哉は優しく答えてくれた。

「――――じゃあ、よろしく。翼君」

李哉の返事を耳にし、翼は表情を緩めた。

今日、初めての親友が出来た。

その事がすごく嬉しい。

親友ならば、もう以前のように遠慮しなくても良いだろう。

ありのままの自分で居れば良い。

何一つ、心も言葉も偽らずに。

本当の自分を李哉には見せれば良い。

翼は李哉へと左手を差し出して告げる。

「親友なんだから、もう呼び捨てで良いよ。李哉」

初めて、李哉の名前を呼ぶ。

――本当はずっとこうして名前で呼びたかったのかもしれない――

李哉が友達になった、あの日からずっと。

少しだけそう思えてしまった。

李哉は翼の差し出した手を握り返して告げた。

「じゃあ、よろしく。…翼」

照れくさそうな表情をして。

李哉は優しく微笑む。

そんな李哉に連られて自然と翼も笑みを浮かべていた。

李哉と友達以上の関係になれた事が嬉しい。

その日、翼と李哉は親友となった。

お互いにとって初めての親友に。

そして、これが全ての始まりでもあった。

辛くも悲しく、切ない本当の片思いの始まり。

お互いを苦しめるような親友になった事を。




――――この時の二人は知る由もない――――




月日は二月に入り、翼は両親と話をしようと必死になっていた。

しかし、未だ両親と逢う事は出来ず仕舞いだった。

李哉と親友になった日に決めた事を両親に伝えたいのだが……。

以前よりも多くのナースや医師達にしつこくも声を掛けるも。

一向に効果は表れていない。

三月までには話を付けたいと思うのだが。

このままではそれも危うい。

近々、翼の方から両親に――

せめて父親にだけでも逢いに行こうかと考えていた。

そんな頃の事だった。

〝その日〟は唐突に訪れる。

いつものように李哉と話していた時の事だった。

不意に病室の扉がノックされた。

一体、誰だろうか。

そう思ったのは李哉と梅も同じだったようで、不思議そうな表情をしつつも答える。

翼も誰が来たのだろうかと思いながら病室の方へと視線を向けた。

李哉と梅の返事を聞き、扉が開く。

そこに立っていたのは、藤森先生だった。

藤森先生の姿を目にした瞬間、翼はすぐに察した。

藤森先生が何を話しに来たのかを。

察すると同時に翼は驚いていた。

もうそんな時期なのかと。

翼の感覚ではもう少し先の事だと思っていたのだ。

「藤森先生。どうしたんですか?」

「今日は、李哉君と柳葉さんに話がありまして――」

藤森先生がそう切り出した瞬間、翼は椅子から立ち上がる。

部外者である自分が聞いて良い話ではない。

この場合、外へ出ているのが賢明だ。

それに、李哉に現実を叩き付ける姿は見たくない。

現実を叩き付けられて絶望する李哉の姿を、見たくはない。

李哉に希望を与えたのは紛れもない、翼だからだ。

「それなら俺は、外で待っています」

「いや、翼君も居てくれて良いよ。翼君は、知っている事だから」

病室から出ようとした翼を藤森先生が声で制する。

外へ出るのを止められてしまい、仕方なく翼は先程まで腰を下ろしていた椅子に座り直す。

李哉の顔を見る事はなく。

どうしても、李哉の顔を見る事が出来ない。

――翼には出来なかった――

李哉に真実を。

現実を叩き付ける事が。

自分で与えた希望を奪う事は出来なかった。

その結果、最悪な状況で知る事となってしまった。

一体どんな表情で李哉を見れば良いのかわからなかった。

「李哉君、今度のプレートを入れる手術の事なんだけど……」

「その手術が終わったら、歩けるようになるんですよね?」

李哉の嬉しそうな声に思わず身を強張らせる。

李哉にそう思わせるように言ったのは翼だ。

藤森先生の視線を感じ、翼は小さな声で「すみません」と謝った。

顔を上げて李哉と藤森先生の顔を見る事が出来なかった。

翼が俯いたままでいると、藤森先生の小さな溜め息が耳に届く。

それから少し間を置いて藤森先生が告げる。

「そのプレートを入れる手術なんだけど……。李哉君。李哉君は自分の骨折した病名を言える?」

「えっと…確か、複雑解放骨折だったと…」

二人の会話を静かに聞く。

やはり自分はここに居るべきではない。

今すぐにでも病室から出て行くべきだと思う。

だが、藤森先生が病室から出してくれないのだ。

なので二人の会話を聞くしかない。

「そう。複雑解放骨折は、普通の骨折とは違う。普通の骨折の場合、骨が二つに折れてしまう事。その場合はすぐにくっつくけど……。でも、李哉君の場合は違う。複雑解放骨折は、骨が完全に砕けてるんだ。だから普通の骨折のように簡単には治らない。その上に神経、アキレス腱まで切ってる。次の手術は、簡単なものじゃないんだ」

「え――」

李哉の視線を感じる。

どういう事なのかと、自分を問い質したいのだろう。

けれどそんな李哉の顔を見る事が出来ない。

李哉に掛ける言葉も見つからない。

翼は自分の拳を固く握り締めて己に言い聞かす。

下手に自分が手術について言うよりも、医者である藤森先生の口から聞くのが一番良いのだと。

「次の手術では左足にプレートを入れるだけじゃない。切れた神経とアキレス腱を繋げる手術もする。その手術は難しくて、成功率も低いんだ。100%中、20%の成功率だ。失敗する可能性の方が高い」

残酷な言葉が耳に届く。

翼と李哉とではこの言葉の感じ取り方も違うだろう。

きっと、李哉の方がもっと残酷に聞こえたであろう。

思わず翼の方が耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。

これ以上、聞きたくはない。

ようやく掴んだ希望を打ち消されるような。

ようやく手にした光を失うような言葉は。

もう、聞きたくない。

「もしも手術で失敗した場合は、左膝から下は切断し、一生寝たきりか車椅子の生活になる。自分の足では立てなくなるだろう。でも、擬足と言う手もある」

だが、藤森先生は更に残酷な言葉を吐き捨てる。

もう言わないでくれと、そう言いたかった。

翼は顔を上げる事は出来ないまま、横に座る藤森先生へと視線を向ける。

そこで、気付いてしまった。

藤森先生が翼と同じように拳を握り締めている事に。

白衣を強く握り締め、〝医者〟として淡々と説明する〝演技〟をしているという事を。

それを知り、気持ちはみんな同じなのだと思えた。

恐らくこの中で一番辛いのは藤森先生だ。

ずっと残酷な言葉を吐いている、藤森先生だ。

表情や声には一切出さないが。

思っている事は翼と同じなのだろう。

「かなり危険な手術だけど――李哉君。手術を受けるかい?」

藤森先生が口を閉じた瞬間、病室内が静寂に包まれる。

ここで顔を上げれば李哉と目が合うだろう。

きっと、絶望に満ちた表情をしているのだろう。

そんな李哉の顔を見たくない。

翼は俯いたまま、誰かが口を開くのを静かに待っていた。

しばらくの間無言が続き、沈黙が訪れた。

やがて、藤森先生の優しい声が静かな病室に響く。

「考える時間をあげるから、一週間でこの手術を受けるか受けないか、答えを出して」

それだけ言い残すと藤森先生は静かに立ち上がり、病室から出て行ってしまった。

梅はそんな藤森先生の後を追うようにして病室から出て行く。

恐らく、今の話は本当なのかと確かめに行ったのだろう。

病室には翼と李哉だけが残され、再び静寂が二人を襲う。

二人きりになっても、翼はまだ李哉の顔を見る事が出来なかった。

静かな時間が流れる中。

李哉がようやく口を開いた。

「――知って、たんだ」

「……ごめん。嬉しそうな李哉――の顔を見たら、手術の成功率が低いなんて……とてもじゃないけど言えなかった」

失敗した場合、車椅子か一生寝たきりの生活になるなんて。

とてもじゃないが、翼の口からは言えなかった。

言えるわけがない。

李哉から責められても良かった。

寧ろ、怒鳴ってくれた方が良かった。

何も言わずに俯いているくらいならば。

そこでようやく、翼は顔を上げる。

今度は李哉が俯いていたので目が合う事はなかった。

「――本当にごめん。でも俺、ちゃんとした医者じゃないからハッキリとは言えなかったんだ。本当に……ごめん」

掛ける言葉がなかったので何度も李哉に謝る。

いつも李哉ならば「翼は悪くないよ。だから、そんなに謝らないで」と言ってくれるのだが――

今日はそう言ってはくれなかった。

李哉の言葉にいつも救われていたのだが。

今では先程までの楽しそうに笑っていた李哉は見る影もない。

まるで初めて李哉と顔を合わせた時のようで。

李哉の顔を見た瞬間、翼は掛ける言葉を失ってしまった。

それでも翼は李哉の傍に居た。

一人で居るより二人で居た方が良いと思ったからだ。

下手な言葉を掛けるよりも、寄り添っていた方が良いと思ったから。

だが、しばらくして李哉は告げた。

「――ごめん、翼。今日はもう…帰ってくれないかな…?」

悲しげに俯き、李哉はそう呟いた。

今にも泣き出しそうな表情をして。

李哉の表情を目にした瞬間、翼は静かに椅子から立ち上がる。

そのまま、何も言わずに病室から立ち去った。




――――李哉は優しいから翼の事を責めたりはしないだろう――――




その代わりに涙を流す。

翼は病室から出たは良いものの、扉の前から動けずにいた。

何故ならば病室から李哉が嗚咽を零しながら泣く声が耳に届いたからだ。

声を殺して、鼻を啜る音が聞こえる。

そんな李哉の声を聞きながら扉に背を凭れ、静かに目を閉じる。

きっと李哉ならば、李哉らしい答えを出す事だろう。

どうしてか、李哉ならば手術が成功するような気がする。

李哉が望んでいる未来がこの先に待っているような気がする。

強い李哉ならば、自分の歩む道は自分で切り開けるはず。

「――自分で、切り開く……」

不意に思い浮かぶのは嗄の言葉。

〝無限の可能性〟

翼は静かに目を開く。

その瞳には強い決意が宿っていた。

決意に満ちた眼差しで翼は李哉の病室前から立ち去った。

そして、翌日の日曜日。

翼は病院へ足を運んでいた。

それは子供達と遊ぶ為ではない。

ましてや李哉と逢う為でもなかった。

翼はある部屋の扉の前で立ち尽くす。

それから、大きく深呼吸。

深呼吸をし、扉を静かに見つめる。

この部屋に来るのは一体、どれくらいぶりだろうか。

幼い頃は良く来ていたのだが。

目を閉じてもう一度、深く深呼吸をする。

気合を入れて目を開き、扉を見据える。

恐る恐る右手を出して扉をノックした。

ノックした瞬間、息をするのを忘れてしまう程に緊張していた。

「どうぞ」

部屋の中から返事が返って来て、翼はもう一度だけ深呼吸をして思い切って扉を開け放つ。

扉の先へと足を踏み入れ、静かに部屋の中に居る人物を見据える。

翼の視線の先に居た人物とは――

「ん、お前がここに来るなんて珍しいじゃないか」

翼の父であり病院の院長でもある人物。

綾崎吾郎だった。

そう、翼が訪れたのは院長室だったのだ。

圧倒的な威圧感を放つ吾郎と机越しに向き合う。

吾郎と向き合い、翼は父親である吾郎の顔を見つめて告げる。

決して、目は反らさずに。

「――今日は父さんに話があって来ました」

「なんだ? 早く言え。俺は忙しいんだ」

父と話して思い出すのは夢を奪われたあの日の事。

父の固い拳を浴びた、あの日の事。

あの時のようにまた殴られるかもしれない。

それでも翼は自分の意思を貫き通すつもりで吾郎の前へ立った。

吾郎が翼を目にしたのは部屋に入った時だけ。

ずっとカルテと資料に視線を落としている。

そんな吾郎に翼は話を切り出した。

「四月から通う中学校の事ですが。父さんの決めた中学校ではなく、家の近くにある東中学校へ通わせてはもらえないでしょうか」

「――なんだって?」

そこでようやく吾郎は翼の顔を見た。

吾郎の冷たい眼差しが翼に突き刺さる。

吾郎からのプレッシャーに負けないようにと言葉を続ける。

「出来る事ならば、病院へ通う事もやめてもよろしいでしょうか。中学校三年間は自由に過ごさせてはもらえないでしょうか。成績も、上位でなくとも良いのではないでしょうか」

「何故、そうしなくてはならない? 成績の為に病院へ来ないのはわかるが。成績の為ではないとすれば、何故だ? それに東中学校は学力も高くない、至って平凡な学校じゃないか。どうしてそんなレベルの低い所へ行きたがる?」

――恐い――

全身が、震える。

殴られるかもしれない。

許されないかもしれない。

それでも翼は固く拳を握り締めて告げる。

「東中学校へ通いたい理由は、去年入院して来た柳葉李哉君の為です。次の手術が成功すれば、彼は東中学校へ入学します。松葉杖では学校生活が困難ですし、記憶のない彼一人では学校へ通うのは難しいと判断したからです。彼の学校生活をサポートする為、東中学校へ通いたいと思いました」

「――成績に関しては?」

「成績の方は、今の俺の学力では問題ないと思ったからです」

「駄目だ」

一言だけ吐き捨て、吾郎は再びカルテに視線を落とす。

院長室には静寂が訪れた。

恐らくこのままでは院長室から追い出されるのが落ちだろう。

しかし、翼は全くもって引く気などなかった。

この話が解決するまでは院長室から出るつもりはなかった。

翼はその場で跪き、土下座して再び父親に。

吾郎に頼み込む。

「お願いです。東中学校へ通わせてください! 成績の事が気になるのでしたら上位を保つように努力します。高校は父さんの言う高校へ通います。何でもしますから、東中学校へ通わせてください! お願いします‼」

静かな院長室に翼の声だけが響く。

院長室に再び静寂が訪れる。

今まで、こんなにも父に対して頼み事をした事はない。

こんなにも必死になって叫んだのも。

全て、〝初めて〟の事だ。

翼がこんなにも必死になる理由。

それは李哉と一緒に居たいと強く思ったからだ。

吾郎に告げた言葉達には嘘、偽り等は存在しない。

全ては李哉の為だ。

それと三年間の自由の為。

翼は土下座したまま、吾郎の反応を待つ。

すると、吾郎の呆れたような溜め息が耳に届いた。

吾郎の溜め息に身を強張らせていると、吾郎の声が降り注ぐ。

「どうしてお前はそこまでして柳葉李哉に固執するんだ」

「それは――」

翼は顔を上げる。

吾郎は机から翼を見下ろしていた。

そんな父親の目を見て、翼はハッキリと自分の意思をぶつける。

夢を奪われた、あの日と同じように。

「李哉が、俺の初めての友人だからです。初めて一緒に居たいと思えた友人だからです。大切にしたいと、初めてそう思った友人だからです。初めての親友なんです。俺は、李哉の為に出来る事があるのなら何でもしたい。父さん。そう思う事は間違っていますか? 医者になるとしても、患者に対して何も感じられない医者には誰一人として救えません」

翼はそこで目を閉じて大きく深呼吸を一つ。

息を吐き出し、真っ直ぐと父親を見据えて告げた。

「父さん。俺は、父さん達の道具じゃないんだ‼」

――殴られても良い――

伝えたい事は全て伝えた。

悔いは何一つ残っていない。

自分の強い意思を宿して吾郎に告げた。

吾郎は驚いたような表情で翼を見つめ――

やがて、諦めたように溜め息を零した。

「わかった。そこまで言うならばお前の言う東中学校へ通えば良い」

一瞬、吾郎の放った言葉の意味が理解出来なかった。

吾郎の言葉が信じられず、驚愕とした表情で吾郎の顔を見つめる。

これ程までに自分の耳を疑った事はなかった。

「ただし、条件がある。成績は三年間、学年一位の成績を保つ事。一度でも二位になった時点で本来行く予定だった中学校へ転校させるからな。中学校三年間病院へ来ない代わり、四月までは年の近い患者と接する事。柳葉李哉の事ばかり構わずに。これを破ったら東中学校へは通わせないからな。良いな?」

吾郎の言葉が信じられなかった。

夢なのではないかと思う程に、信じられなかった。

殴ってでも止められると思っていたからだ。

翼はすぐさま立ち上がり、深く頭を下げて吾郎に告げる。

「ありがとうございます、父さん!」

「わかったらもう出て行け。仕事の邪魔だ」

冷たく言い放たれたが、翼はもう一度だけ深く頭を下げた。

院長室から出る前に「失礼しました」と言い残して静かに扉を閉め……。

扉が完全に閉まった数十秒後。

小さくガッツポーズをして見せる。

まさかこんなにも早く〝良い〟と言われるとは思いもしなかった。

本来の用事が済んだので子供達の元へ向かおうとして歩き出す。

早く李哉と同じ中学校に通えると李哉に伝えたい。

いつ伝えようかと考える。

やはり、次の手術前に話すべきだろうか。

手術前に嬉しい事を伝えられると安心するだろう。

それに、李哉の手術が成功するという確信があった。

根拠は全くもってなかったが。

どうしてだか、そう思えた。

待合ホールに足を踏み入れ、翼はある事に気付く。

車椅子に乗った李哉が女性と話している事に。

随分と楽しそうに。

以前の李哉のように笑って話をしていたので、少しだけ目を疑ってしまった。

何を話しているのか少し気になり、李哉の元へ行こうとしたのだが。

「あ、めぐ兄!」

「めぐにぃだ!」

子供達に見つかってしまい、囲まれてしまった。

子供達に囲まれ、少しだけ戸惑う。

今、李哉と話をしておくべきだと思う。

あのままでは、李哉との仲が悪くなってしまう。

先程父親と話して来た事が無駄になってしまうと思った。

「みんな、後で遊んであげるからちょっとだけ待っててくれる?」

「そういってにげるつもりなんでしょ?」

「それはないから。ね?」

「……ほんと?」

「本当だよ」

子供達にそう言い聞かせるのだが……。

李哉の元へと歩き出すと子供達が付いて来るのが見えた。

子供達に待っているようにと告げようとしたが、子供達は翼の服を掴んで放そうとはしない。

溜め息を零し、仕方なく子供達も一緒に連れて行く事にした。

別に子供達に聞かれても問題ないはずだ。

子供達と共に李哉の元へと向かい、そこである事に気付いた。

李哉が話をしている女性。

あの女性は確か、五年前に李哉と同じ症状で入院していた患者だ。

李哉と同じ手術を受けて成功した人だった。

恐らく彼女から手術の事を聞き、手術を受けるかどうか考えているのだろう。

翼が想像していたよりも李哉の様子は明るかった。

あの様子ならばきっと、既に答えが決まっているのだろう。

李哉の傍に近寄り、子供達を連れたまま李哉に声を掛ける。

「李哉。……珍しいな。李哉が病室から外に出てるなんて」

声を掛けると李哉は振り返り、視線が絡み合う。

李哉がこちらを振り返ると女性が小さく手を振るのが見えた。

それに対して翼は会釈で返す。

この女性の事は良く覚えている。

余程痛く、辛かったのだろう。

手術後はよく暴れて騒いでは麻酔を打たれていた女性だ。

それ程までに酷い激痛が駆け巡るにも関わらず。

李哉は一度も暴れ出す事はなかった。

そんな李哉を目にして物凄く我慢強いと思ったのを思い出す。

すると李哉と話していた女性が時計を目にして告げた。

「もうこんな時間ね。じゃあ、頑張ってね。諦めちゃダメよ」

女性は立ち上がり、そのまま正面玄関へと向かって歩き出した。

至って普通に歩くその姿からは複雑解放骨折をしたとは思えない。

しかし、若干左足を庇って歩いているのがその証拠だろう。

松葉杖を付いていた時の癖が未だに残っていた。

彼女の後ろ姿を見つめていると不意に李哉が尋ねて来る。

「翼、さっきの人と知り合い?」

「あの人は五年前にこの病院に入院してた人。李哉と同じ複雑解放骨折で」

「うん。今までその話を聞いてたんだ」

李哉の様子は以前のように明るい。

つまりは手術の事について知っていたのに希望を与えた翼の事を怒っていない事になる。

今までと全く変わらない態度。

あまりに変わらない李哉の態度に少しだけ戸惑う。

李哉の出す答えを知りたい。

自分の決心が無駄にならない答えを。

李哉が導き出した答えを尋ねようと思うのだが、少しだけ躊躇ってしまう。

翼が躊躇っていると、傍に居た子供達が不安そうにこちらを見つめていた。

子供達と目が合い、安心させるように笑みを向けて思い切って口を開いた。

「――李哉。次の手術の事だけど……」

翼がそう切り出すと李哉はこちらに目を向ける。

それから、静かに目を閉じて見せた。

恐らく、ハッキリとした答えは李哉の中でも出ていないのだろう。

少しの間李哉は目を閉じ、やがて目を開いた。

その瞳には一切、迷いはなかった。

「俺、手術受けるよ。まだ不安があるけど、受けてみるよ」

李哉らしい答えを告げると、いつものように笑って見せた。

瞳には真剣な色を宿して。

李哉の答えを聞き、安堵から表情が緩む。

良かった。

今日の行動は無駄にはならなかった。

李哉の為に選んだ道は正しかった。

そう思うと自然と顔には笑みが浮かぶ。

「手術をする先生達も、最善を尽くして手術してくれるよ」

翼の言葉に李哉は力強く頷く。

その日、翼は自らで決めた道を歩み始めた。

前に進む為の勇気をくれたのは李哉だ。

李哉もまた、自らの歩む道を決めた。

自分の足で前へ進み出す事を決めた日だった。




 そして、二月十二日がやって来る。

李哉の足にプレートを入れる手術の日が。

前回は土曜日だったのでずっと李哉の傍に付き添って居られたが……。

今回は平日なのでずっと傍には居られない。

手術の終わった夕方にしか病院には行けない。

本当ならば学校を休んで李哉の傍に付き添って居たいのだが、それをしてしまえば中学校の話はなかった事になるだろう。

目を覚まして翼は諦めるように学校の支度を始めた。

やはり今回も以前のように早く目が覚め、目覚ましが鳴る遥か前に目を覚ました。

早々に朝食を済ませ、改めてカレンダーに目を向ける。

――今日は李哉にとって運命の分かれ道だ――

きっと翼以上に李哉の方が不安だろう。

緊張している事だろう。

緊張している李哉の事を考えると自然と足は病院へと向かっていた。

気が付いた時には李哉の病室前まで来ていた。

どれだけ李哉の事が心配なんだと自らに突っ込みを入れる。

心配で、心配で堪らない。

学校へ行っても今日の授業は頭に入らない事だろう。

目を覚ましてから考えている事はずっと李哉の事だ。

病室の前まで来たのは良いが、病室に入るのを躊躇っていた。

以前のようにまだ眠っているかもしれない。

もしかしたら李哉の方も手術の事が気になって既に目を覚ましているかもしれない。

自問自答を繰り返し、やがて起きている可能性の事も考えて控えめにノックをしてみた。

当然、返事はないだろうと思っていると――

「どうぞ」

まさかの返事が返って来た。

その事に驚きながらも扉を開けて病室内へと足を踏み入れる。

病室に入ると緊張した趣きの李哉が居た。

翼の顔を目にした瞬間、李哉は驚いた表情をして見せた。

李哉の方もこんなにも早く病室へ訪れるとは思っていなかったようだ。

それもその通り、病室へ訪れた翼本人も驚いているのだから。

いつものように椅子へ腰を下ろそうとし、そこでランドセルの存在に気付く。

無意識に病室前まで来ていた為、ランドセルを預けずに来てしまっていた。

自分でもその事に驚きながらもランドセルを背から降ろし、椅子の横に置く。

椅子に腰掛けて李哉と向かい合って告げる。

「学校に行く前に、李哉に逢いたかったから。不安になってると思って……。どう?」

翼がそう告げると李哉は途端に嬉しそうな表情をして見せた。

しかし、何処か戸惑うようにも見えた。

「あ、あの…その…。き、来てくれてありがとう…」

「来るに決まってる。親友だから」

李哉のように思った事をそのまま告げた。

すると李哉は嬉しそうな表情をして少し俯いた。

静かな時間が流れ、ふと思う。

李哉の通う中学校は東中学校で合っているのだろうかと。

退院後、李哉は梅の家に住む事を想定として考えて。

梅の家から近い東中学校に通うだろうと思ったのだ。

もしも、違っていた場合どうしようか。

あれ程父に〝東中学校へ通いたい〟と頼んでおきながら〝違う中学校でした〟なんて言えるわけがない。

だが、足を怪我している李哉が遠くの学校へ通うとは到底思えない。

一応確認の為にも聞いておく事にした。

「李哉が今年から通う中学校って、何処?」

唐突な問い掛けに李哉は理解出来ないという表情をして見せた。

そこで、しまったと思う。

自分でも一応、自覚はある。

突然、脈絡のない話を振ってしまう事があると。

話下手な翼では仕方のない事なのだ。

翼の問い掛けに戸惑いながらも李哉は答えてくれた。

「ええと…。確かおばあちゃんが言ってたけど。家から近くの東中学校だって言ってたよ」

「やっぱり。じゃあ、言っておいて良かった」

「え? 何?」

「前に傷口を縫う手術の時に、早く病室に来ただろう? その時に父さんと母さんに話があったけど話せなかったって言った事、覚えてる?」

「うん。覚えてる」

「その時に話したかった事って、李哉と同じ中学校に通わせてくれないかって頼む内容だったんだ」

「え――」

翼の言葉に李哉は驚く。

驚いて表情で翼の顔を見つめていた。

まるで信じられないとでも言うように。

「足が治って退院したとしても李哉の事が気になるし、学校生活で支えないと駄目な所もあると思うから。きっと手術が成功したら松葉杖の生活だから」

李哉は驚いていたが、徐々に嬉しそうな表情になっていった。

翼の告げた言葉の意味を理解してくれたのだろう。

だが、すぐに不安そうな表情で尋ねて来る。

「でも翼、学力の高い中学校に行くって…」

「だから父さんに言ったんだ。高校は学力の高い学校に行くから中学は李哉と同じ学校に行きたいって。条件付きだけど」

「条件…?」

「中学三年間ずっと学年一位の成績を保つって条件。一度でも二位になったら即転校だって」

「えぇっ⁉」

「大丈夫。特に問題はないから」

翼がそう言うと、李哉は少し複雑そうな表情をして見せる。

嬉しそうなのだが、恐らくは不安なのだろう。

〝学年一位の成績を保ち続ける〟と言う事に。

普通の人ならば難しい事だろうが、翼なら出来る。

今まではずっと手を抜いていただけだ。

本気を出せば問題はない。

それを李哉は知らないからだろう。

その事に気付き、翼は優しく告げる。

「俺が本気を出せば問題ないって。今まで本気出さなかっただけだから。俺、李哉と一緒に居たいから。でも、高校は同じ学校には通えないけど」

「翼――」

李哉は嬉しそうに笑ってくれた。

この先、中学生としての生活。

一体何が待っているのだろうか。

少なくとも、小学生の時とは違う生活だろう。

李哉と居れば楽しい学生生活を送れる事だろう。

楽しい生活にさせてくれたのは李哉のおかげだ。

李哉のおかげで勇気を出せた。

だから李哉に何度も伝えたい。

「ありがとう」

伝えたいと思っていた言葉を先に李哉に告げられて少し驚く。

やはり考える事は同じかと嬉しくなって微笑む。

自分も李哉のように何度も伝えていこう。

多くの〝ありがとう〟を。

「――こちらこそ」

今日の手術は必ず成功する。

そう、強く信じる。

信じればその通りになるかもしれない。

李哉の望む未来が待っているかもしれない。

翼もそんな未来が来る事を祈っていた。

それから後は李哉の緊張を解す為、いつものように話をする事にした。

「そういえば、昨日記憶についての本を読んだ」

「どんな本なの?」

「記憶は、謂わば本みたいなものなんだって」

「本?」

「そう。例えばジャンル分けされている本。料理の記憶なら料理の本、人の名前や顔の記憶なら人の名前や顔の本。そんな風にジャンル分けされていて、記憶は脳の中にたくさんあるから本として収納して、必要な時にその記憶――つまり、本を取り出して思い出すって原理だと思えば簡単だよ。でもやっぱり脳が老化すると記憶しておく事が難しくなっていくから、必要ないと判断した記憶はそのページだけ切り取って捨てるって感じで、記憶は維持されているんだ」

「そうなんだ…」

「でもやっぱり酒はダメなんだ。人は寝ている時に一日あった事を整理して記憶の本に収納するけど、アルコールがその収納を邪魔するから忘れてしまう事があるんだ」

「へぇ…。やっぱり翼って物知りだね。きっと翼の記憶の本って、すごい事になってると思う」

昨日得た知識を李哉に教える。

得た知識と自分なりの解釈を交えて。

李哉が知らない事を教えるのは楽しい。

翼が教えれば李哉は驚きながらも嬉しそうに聞いてくれる。

「じゃあ、夢を見る原理ってわかる?」

「――わかんない」

「記憶は眠っている時に整理されるんだ。特に夢を見るレム睡眠の時に。夢を見ている時に知っている人や、場所が夢の中に出て来る事があるだろう。それは記憶の整理をしている証拠なんだ」

「そうなんだ。へぇ、そうやって人は夢を見るんだ…」

「知らない場所の場合は、テレビで見た場所が曖昧で覚えられていないから自分の覚えている場所と融合して見るんだって。まぁ、ほとんどが予知夢の場合が多いけど」

「じゃあ予知夢って、どうやって見るの?」

「そこが、謎なんだよ。自分の記憶を夢で見るのだから予知するなんて本当はあり得ないんだ。だから予知夢の原理はわからないんだ。ただわかるのはノンレム睡眠の時に見る夢だから起きた時には忘れてしまうって事だけ。ノンレム睡眠の時は夢はそんなに見ないんだけど、稀に見る時もあるんだ。多分、その時に見る夢が予知夢だと俺は思うんだ」

翼がどう思うかと尋ねれば李哉は自分なりに考えて答えを出してくれる。

疑問に思った事は尋ねて来る。

まるで子供のように。

子供がまだ見ぬ未知の世界を知る時のように、目を輝かせて。

好奇心に満ち溢れた表情で。

子供のような李哉に自分の知っている事を教えるのは本当に楽しい。

「やっぱり翼、賢いね。だって今まで見た本を全部覚えてるんでしょ?」

「一応。元々一度見た物はすぐに記憶する事が出来るから」

「じゃあ、記憶喪失になる原理ってわかる?」

「今説明したから大体はわかると思うけど、記憶喪失になる場合は頭に強い衝撃を受けた時なんだ。強い衝撃を受けた時に、頭の中にある記憶の本が本棚から落ちてページが全部散らばってしまう――そう考えれば良いと思う。散らばった記憶は一時的にゴミ箱に捨てられた状態になる。でも衝撃から回復すると捨ててはいけない記憶だと脳が判断した記憶は拾い集めてまた本にして収納する。だから少しずつ記憶を思い出して来て、最終的には全部思い出す。その頃には脳のダメージが完全に治ったって事にもなる。脳が一番ダメージが回復するのに時間が掛かるんだ」

「そうなんだ…。やっぱりこの世界にあるものって全部奥深いんだね。翼から聞くとそう思える」

「でも知らない方が幸せな事もある。無理に知ろうとしても良い事無いよ」

翼がそう告げた時、病室にノック音が響く。

李哉が返事する前に扉が開き、梅が病室に入って来る。

翼の姿を目にした梅は少し驚いていたが、優しい微笑みを浮かべてくれた。

梅と目が合うと翼は会釈して挨拶する。

「めぐみ君、朝早くから来てくれてありがとうね」

「いえ。大切な友達が手術するんですから逢いに来ます。俺の場合は特例で面会させてもらってるんで」

院長と総師長の息子である翼は病院内では顔パス状態だ。

いつ病院へ来ても病院内へ入る事が出来る。

かと言って、翼が夜に病院へ来る事はないのだが。

それはさておき。

梅が病室に訪れてからは下らない話ばかりしていた。

楽しい話や、先程のように翼が得た知識について等。

なるべく今まで通り会話をするように意識して。

梅の場合はわざと面白い事を言って李哉を笑わせていた。

そこがいつもとは少しだけ違っていたが……。

梅なりに李哉の緊張を解こうとしているのだろう。

翼も李哉と話すのが楽しくてつい時間を忘れて話していた。

そう、時間を忘れて。

その為、梅に指摘されなければ気付く事はなかった。

「そういえばめぐみ君、もう学校に行く時間じゃないのかい?」

梅にそう言われ、そこでようやく学校の事を思い出す。

李哉と話していると思わず時間を忘れてしまう。

それ以前に学校へ行く前に李哉と話す事がなかった為、完全に忘れていた。

学校の存在を。

梅に指摘された瞬間に腕時計へ視線を落とし、示されていた時間を目にした時は目を疑った。

針が指し示す時間は午前七時五十分だったからだ。

――完全に遅刻だ――

全力で走ればまだ間に合うかもしれないが。

何故今日に限ってアラームをセットしていなかったのだろうかと過去の自分を悔やむ。

慌てながらも椅子から立ち上がり、ランドセルへと手を伸ばす。

ランドセルをナースステーションへ預けなかったのが不幸中の幸いだ。

「学校が終わったらすぐに来るから!」

それだけ言い残し、翼は病室から出て行く。

またもや病院内を走らなくてはいけない。

走らなければ間に合わないが、もしも走っている姿を父に見られたら中学校の件はなくなってしまうかもしれない。

そう思った瞬間、足早に病院内を歩く。

階段は駆け足が降りて行くが、廊下に出ると歩幅を早くして歩いて行く。

廊下の途中で藤森先生の姿が見えたが、声を掛ける事が出来なかった。

正面玄関から一歩外へ出た刹那。

地を蹴る足に力を込めて走り出した。

だが、ふと足を止める。

そして李哉の病室のある方を見上げる。

どうか、李哉の手術が成功するようにと神に祈りを捧げた。

それからすぐに全力疾走で学校へと向かった。

この時ばかりは自分の足の速さに感謝した。

何とか遅刻は免れる事が出来た。

しかし案の定、李哉の事ばかりが気になって授業の内容が全く頭に入らない。

成績に問題はないので何ともないが。

終始、時間ばかりを気にしていた。

今頃は手術室に入った時間だと。

無事に手術が成功するようにとずっと祈っていた。

休み時間になれば落ち着きなく校内を歩き回ったり等。

全然落ち着く事が出来なかった。

帰りのホームルームでは早く終わらないかと気持ちが焦ってしまっていた。

下校のチャイムが鳴り響いた瞬間。

翼は誰よりも先に教室から出て行き、誰よりも先に校門を通り過ぎた。

早く李哉に逢いたい。

早く手術の結果を知りたい。

気付けば翼は走って病院へと向かっていた。

病院に着くや否や、真っ直ぐ李哉の病室へと足を向けて。

朝、李哉に言った通り本当に病室へとやって来たのだ。

病室には藤森先生と泣いている梅の姿があった。

ランドセルを背から下ろす事も忘れ、翼は藤森先生に尋ねる。

「藤森先生、手術は……⁉」

翼がそう尋ねると藤森先生は静かに翼から李哉へと視線を向ける。

連られて翼も眠っている李哉へと視線を向けた。

静かに、表情もなく眠る李哉。

しばらくの間、病室には静寂が訪れる。

やがて、藤森先生が口を開く。

「――手術は無事に成功。後は李哉君の努力次第だよ」

いつものように優しい笑みを浮かべて告げてくれた。

成功と言う言葉を聞き、全身から力が抜けていくような気がした。

その場に座り込むような事はしなかったが。

そこで梅は感謝からの涙を流していたのだと気付く。

安堵の息を漏らし、ランドセルを背から降ろす。

藤森先生は椅子から立ち上がり、翼に座るように促して告げる。

「もう少ししたら麻酔の効果が切れるから目を覚ますかもしれないよ。その時は李哉君の傍に居てあげて。僕はもう行かないといけないから」

「藤森先生」

病室から出て行こうとした藤森先生を翼は呼び止める。

藤森先生は歩みを止め、翼の方を振り返る。

そんな藤森先生に翼は告げた。

「李哉を助けてくれて、ありがとうございます……」

涙を堪えながら翼は頭を下げて告げた。

――本当に、良かった――

手術が無事に成功して。

本当に……。

言い表せようのない感謝の想いを藤森先生に告げると。

藤森先生は優しく微笑んで言ってくれた。

「医者として当然の事をしただけだよ。僕はもう、大切な人を失いたくはないから。最善を尽くしただけだよ。それでも、救えない命もあるけどね」

それだけ言い残すと藤森先生は病室から出て行ってしまった。

病室に梅と二人だけになり、先程まで藤森先生の座っていた椅子に腰を下ろす。

手にしていたランドセルを椅子の横へ置いて、眠っている李哉を見つめる。

本当に、良かった。

希望がまだ残っていて。

再び、絶望がやって来なくて。

翼の行動が、無駄にはならなくて。

眠っている李哉の左手を握り締めて、ある事に気付く。

李哉の左手には何かが握られていた。

何を握っているのかと思い、李哉の拳を開いてみる。

李哉が握っていたもの、それはお守りだった。

お守りと言ってもただ布と布を糸で縫い合わせただけのようなもので。

刺繍をしようとしたのか、刺繍の跡があるのだが出来なかったようで。

マジックペンで〝李哉〟と書かれている。

何ともお守りとは呼び難いものだった。

翼はそんなお守りを目にして一瞬、失礼ながらもゴミかと思ってしまった。

「それねぇ。事故に遭った時、唯一李哉が持っていたものなんだよ。そんなものでも李哉を守ってくれたお守りだから、今回の手術前に持たせたんだよ」

鼻を啜りながら梅がそう告げる。

梅の顔を見つめ、再びお守りへと視線を向ける。

大型トラックに轢かれても助かった。

今回の手術も無事、成功した。

こんなお守りとも言い難いお守りはすごいものなのだと思えた。

見た目はゴミに等しいが。

恐らくこのお守りを作った人物が李哉の為、想いを込めて作ったのだろう。

こんなものでも。

作った人物の強い想いが李哉の事を守っているのだろう。

少しだけ、その人物に逢ってみたいと思った。

そんなにも李哉の事を想える人物に。

その時だった。

李哉が薄っすらと目を開いた。

李哉が目を覚ました事に気付き、翼は李哉に声を掛ける。

「李哉!」

翼の声に梅が反応し、身を乗り出す。

李哉は虚ろな目で翼を見つめ返している。

梅が李哉の名前を呼ぶが、いつものように返事がない。

まだ麻酔が残っているのだろうか。

翼がそう思っていると、李哉が口を開く。

「――――」

しかし、それは声にはならない。

反射的に李哉の口元へ耳を寄せる。

何を言っているのか聞きたい。

自分に答えられることならば答えたい。

李哉の口元へと耳を寄せると、その声はハッキリと聞こえた。

「――足、繋がってる…?」

静かな空間に、李哉の声だけが響く。

李哉の言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなった。

思い出すのは足を治して翼と遊びたいと言った李哉の言葉。

ずっと夢見ていた未来が待っている。

李哉の望む未来が見えた気がした。

普通の学生のように、学校帰りに寄り道して。

ゲームセンターで遊んだり。

一緒に本屋へ行ったり。

毎日笑って過ごせる日々が。

そんな光景が一瞬、目に浮かんだ。

「ちゃんと、繋がってる……」

繋がっている。

李哉の足は。

ちゃんと、繋がっている。

過去から未来へ、ちゃんと繋がっている。

李哉の努力は。

李哉の想いは。

李哉の願いは。

全て〝今〟へと繋がっている。

「繋がってる、よ……」

思わず、涙が頬を伝っていく。

何度も、何度も李哉に繋がっていると伝える。

けれど李哉は実感がないようで、一向に嬉しそうな表情をしない。

本当に繋がっているのか確かめたいようで、李哉は身体を起こす。

だが、一人では起き上がる事が出来ずに確認する事が出来ない様子だった。

その事に気付き、翼は手を貸して李哉の身体を起こす。

固くギブスで巻かれた自らの足を目にし、そこで初めて実感したようだ。

李哉は恐る恐る左足に触れていた。

信じられないようで。

まるで、夢のようだと言うように。

そんな李哉に翼は優しく伝えてあげる。

「手術は無事に成功。良かったな、李哉」

翼はそう告げ、李哉が安心するように笑って見せた。

自分の足を目にし、翼の言葉を耳にした李哉は安心したように笑みを浮かべると静かに目を閉じた。

そして安らかな表情で眠ってしまった。

先程とは違い、安心し切った……。

嬉しそうに微笑むような寝顔だ。

そんな李哉の寝顔を目にして翼も微笑む。

――これが、俺たちの本当の始まりだった――

互いに歩む道を見つけ、歩み始めた。

四月の中学校入学式に向けて。

この時の俺はまだ知らなかったんだ。




――――親友と言う関係を自分の手で壊すというのを――――









                                              ~To be continued~


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