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青春スクエア ~綾崎翼の片思い~ 小学生編19

病院でのクリスマスパーティーを終わらせ、後片付けの後翼は帰路に着いた。

嗄が来るまでに誕生日パーティーの準備を済ませよう。

そう思い、少し早目に病院を出た。

先程、李哉から貰ったプレゼントの腕時計に目を向ける。

時計の針が示す時間は、午後八時四十分。

恐らく嗄は早くても九時三十分くらいにしか来ないだろう。

今日は稼ぎ時のクリスマスだ。

簡単に仕事が片付く訳がない。

ならば準備をする時間が十分ある。

それにしても、今年のクリスマスは今までの中で一番の一日だ。

大切な友達が出来た。

愛しい人とも共に過ごせる。

何よりも、プレゼントの腕時計が嬉しい。

嬉しさのあまり、腕時計が視界の端に入る度に表情が緩んでしまう。

微笑みながら家の前まで帰って来たのは良いのだが。

翼は前門の辺りに目を向けて、歩みを止めた。

目の前の光景に思わず自分の目を疑った。

何故ならば翼の目に飛び込んで来た光景は――

前門の横でしゃがみ込み、俯いたまま肩や頭に雪を積もらせている人物が。

その手にはケーキの箱が握られている。

まさか。

いや、そんな事はないはず。

自問自答を繰り返しながらも翼はその人物が誰なのかを確認する。

――何処からどう見ても嗄以外の何者でもない――

こんなにも早い時間に、何故か嗄が翼の家の前で待っていたのだ。

そんな光景を目の当たりにして翼は驚愕していた。

まさか、こんなにも早くに嗄が……。

いや、そんな事よりも。

「み、嗄さん!? どうしてこんなに早く……!?」

驚きながらも翼は嗄に声を掛けた。

すると、嗄が顔を上げて翼を見上げる。

顔を上げたせいで頭や肩に積もっていた雪が落ちて行った。

嗄は翼の顔を見た瞬間、柔らかく微笑んで見せた。

「ああ、もうこんな時間だったんだぁ」

今にも消え入りそうな、か細い声で嗄は口にする。

とても綺麗な笑顔で微笑んでいるのだが、今は見蕩れている場合ではない。

翼は嗄の肩に積もっている雪を払いながら尋ねる。

「嗄さん、一体何時から待っていたんですか……?」

肩や頭に積もった雪の具合からして、十分やそこらではないだろう。

かなりの時間、ずっと同じ体制で待っていたようだ。

長時間待っていた事に気付き、一つの疑問が浮かび上がる。

確か、今日は仕事で忙しいはず。

それが何故、こんな時間に嗄はここに居るのだろうか。

毎年クリスマスは仕事が忙しく、嗄はクリスマスが終わるギリギリな時間ぐらいにしか来れないはずだ。

早目に仕事を切り上げるとは言っていたが。

それにしても、早すぎる。

大忙しなはずの嗄が、何故ここに?

そんな翼の疑問は嗄の言葉で理解出来た。

「それがねぇ。いつも通りにバイト先に行ったんだよ? そうしたら、僕が前々から〝クリスマスは一緒に過ごす子が居る〟って言ってたからみんなしてぇ……。〝彼女と一緒に過ごすんだろう。なら早く切り上げて彼女の所に行ってやれ〟ってぇ……。何処に行ってもバイト仲間のみんなが気を使ってくれてぇ、六時前にはここに来てたんだぁ……」

「――――」

つまり、翼がクリスマスパーティーを始めた頃には既に嗄はここに来ていたという事になる。

翼がクリスマスパーティーを楽しんでいた間、ずっと嗄は極寒の中待っていたと。

一番したくない事をしてしまったという事になるのだ。

偶然が重なったとしても、嗄を長時間待たせる事になってしまった。

その事に気付いた瞬間、翼は直ぐ様嗄を連れて玄関前へと行く。

鍵を取り出して解錠すると全身冷え切っている嗄を自室へ連れて行き、毛布を肩に掛けてすぐに暖房を入れる。

とにかく、身体を暖めなければいけない。

暖房を入れると翼は一階に降りて行き、温かい珈琲を淹れて嗄に渡した。

これだけすれば、とりあえずは大丈夫だろう。

毛布に包まって珈琲を口にする嗄の顔色は大分良くなって来ていた。

安堵の息を漏らしながらも、翼は嗄に頭を下げた。

「……すみませんでした……。俺のせいで寒い中、二時間以上も待たせてしまって……」

「翼君が謝る必要はないよ。僕は早目にでも来れて良かったと思ってるから、結果オーライだよぉ」

珈琲を一口啜り、嗄は優しく微笑む。

しばらく嗄は温まると、買って来たケーキを差し出してくれた。

念の為、嗄には毛布に包まったままで居るように言って二人でケーキを口にする。

嗄は毛布に包まったまま、ケーキを食べながら苦笑して今日の出来事を詳しく教えてくれた。

本人も予想外の事だったと。

嗄の想像では翼が家に帰っている時間帯か、帰って来た頃には仕事を切り上げるつもりだったらしい。

だが、先程言われたように彼女とのデートだとみんなから勘違いされたようだった。

嗄は忙しい時期なので時間までは残って手伝うと言ったのだが。

店長からさっさと帰れと無理矢理にでも店から追い出されたのだと言う。

全てのバイト先から気を使われてしまったのだと。

行く場所もなく、一度家に帰るにしても翼の家まで行くのに時間が掛かってしまう。

更には雪も降っているので交通が麻痺する為、翼の家の前で待つ事にしたのだと。

大分身体が温まって来たようで、いつもの調子でそう話してくれた。

「そうだったんですか……。でも、どうしてそんなにも気を使ってくれたんですかね?」

毎年ずっと駆り出されている嗄に予定が入ったからという理由だけでそこまでもしてくれるものなのだろうか。

例えバイト仲間達が良い人達だとしても。

嗄が良くバイト仲間のペルプに入っているとしてもだ。

普通はここまでしてくれるのだろうか。

それもクリスマスという一番稼げる日に。

そんな疑問を抱いていると、嗄が珈琲を啜りながら答えてくれた。

とてもさり気なく、何気なく。

「あぁ、だって僕。年齢=彼女居ない歴だし、まだ童貞だから」

「そうなんで――えぇっ!?」

とんでもない言葉が聞こえ、翼は驚きのあまりに飲み物を吹き出した挙句に噎せてしまった。




――――今、嗄は何と?――――




年齢=彼女居ない歴?

まだ童貞?

そんな言葉が聞こえた気がした。

驚きながらも嗄の顔を凝視しても、告げた本人はまるで何事もなかったかのようにケーキを美味しそうに食べている。

……確かに、そう聞こえた。

その容姿で?

何処からどう見ても彼女の一人や二人は居そうだというのに。

今年で、今日で二十二歳になるというのに。

驚愕しながら思わず嗄を凝視してしまっていた。

「だからみんな気を使ってくれたんだぁ。だって僕、恋よりも仕事人間だからぁ」

「そ、う……なんです、か……」

どうやら、空耳ではなく本当だったらしい。

勿体無い。

本当にそう思う。

嗄なら選びたい放題だというのに。

そこで、疑問が一つ浮かび上がる。

何故嗄は、誰とも付き合わないのだろうか。

何か理由でもあるのだろうか。

少しだけ気になり、直接聞いてみる事にした。

「……どうして、誰とも付き合わないんですか?」

嗄はフォークでケーキを小さく崩し、口へと運ぶ。

小さく首を傾げながら嗄は答えてくれた。

「ん~っとねぇ。そうだなぁ。〝この人だ〟って思える人と巡り逢えないから、かなぁ……。それに僕、付き合えたとしてもどう接して良いかとかわかんないからぁ」

苦笑混じりに嗄は言う。

嗄の言葉を聞き、翼は少しだけ思ってしまった。

嗄が〝この人だ〟と思うような人になりたいと。

けれどきっと、翼はそんな人にはなれない。

恐らく、今のままでは。

「――――ッ」

今のままでは、嗄が〝この人だ〟と思うような人間にはなれない。

ならばそんな人間になれた時、自分は何をしているだろうか。

医者になっている?

それとも、小説家に?

――きっと答えは小説家になった時だろう――

翼が小説家になれる事はないのだから。

俯き、暗い思考回路に陥っていると嗄の柔らかい声が降って来る。

「翼君、どうかしたぁ?」

「あ、いえ……なんでもないです」

「そう? あ、そうだぁ! はい、翼君。メリークリスマス!」

思い出したかのように嗄はそう言うとある物を鞄から取り出した。

それは手の平サイズの小さな箱だった。

小さな箱を差し出され、それがクリスマスプレゼントだと気付くのに少し遅れた。

「あ……ありがとう、ございます。あの、開けてみても良いですか……?」

「もちろん。良いよぉ」

嗄の返事を聞き、翼は綺麗にラッピングの施された箱を開けてみる。

箱を開いてみると、中には小さなスノードームが入っていた。

箱に入っていたスノードームを手に取って眺めて見る。

翼にとっては見慣れないスノードーム。

少し揺らしてみると中の白い粉が舞い上がる。

まるで雪が降っているようで、とても綺麗に思えた。

ずっと、見つめていたいと思った。

そんな翼の姿を見て嗄が嬉しそうに微笑んで告げた。

「そのスノードームねぇ、僕が作ったんだよぉ」

「えっ!? そうなんですか!?」

「うん、そうだよぉ」

嗄の手作りだと知り、改めて手の平に乗せたスノードームを眺める。

店で売り出されているような出来栄えだ。

とても手作りには見えない。

箱から取り出した瞬間、ラッピングからして店で買ったものかと思ったくらいだ。

流石は嗄だ。

スノードームを見つめていると、まるで時間がゆっくりと流れているような気がする。

少しの間、渡されたスノードームを眺めてふと我に返った。

もう少しで忘れてしまう所だった。

嗄の為に用意したクリスマスプレゼントを。

貰ったスノードームを箱の中へと丁寧に戻し、翼は部屋の隅へと足を向けた。

そこには布を覆い被せて嗄には気付かれないようにしていた、嗄へのプレゼントが置かれている。

「じゃあ、俺からも嗄さんにプレゼントです。嗄さん、誕生日おめでとうございます」

そう言い、翼は覆い被せていた布を取り払った。

嗄は布の下に隠されていたプレゼントを目にして驚いた。

布の下にあったプレゼントとは――

小型のプラネタリウム機だったからだ。

「え……こんなに良い物貰っても良いのぉ?」

「はい、プレゼントですから」

「えぇ~、なんか悪いなぁ……。あ、じゃあ一緒にプラネタリウム見る?」

「良いんですか?」

「プレゼントのお礼って言う事で」

嗄は翼の方を見てウィンクしてみせた。

そのせいか、心臓がいつもよりも煩い。

嗄は翼から貰ったプラネタリウムを部屋の真ん中に設置する。

取扱説明書を一度見ただけだというのに、まるで使い慣れているかのように扱う。

設定等を済ませた後、嗄は翼に部屋の電気を消すように言った。

言われた通りに翼は部屋の電気を落とす。

次の瞬間、真っ暗な空間に一瞬にして美しい星々が散りばめられた。

それがまるで、宝石のようにも見えた。

いつも翼が過ごしている自室だというのに、別世界のようにも感じられた。

天井がなくなってしまい、そのまま空を見上げているような感覚。

あまりの美しさに翼は天井を見上げて声を上げた。

「わぁ……」

「翼君、プラネタリウムは初めて?」

「はい」

「そっかぁ。僕は久々だなぁ……」

そう嗄は呟き、天井を見つめていた。

懐かしそうに目を細めて。

しばらくの間、翼と嗄は天井を見上げていた。

時折り流れていく流れ星を見つけて会話をする程度だった。

初めてのプラネタリウムはとても綺麗で、神秘的なものに感じられた。

嗄と並ぶようにして、ベットに背を預けて天井を見上げる。

ずっとこのままで居られれば良いなと少しだけ思っていた。

星を眺めていると不意に隣に居る嗄が尋ねて来た。

「翼君、星座のギリシャ神話って知ってる?」

「いえ……」

「星座ってねぇ、実は実際に存在した英雄達なんだよぉ。大伸、ゼウスに認められた者だけが星座になれる……。僕、星座だとオリオン座が好きなんだぁ」

「――オリオン座って、どれですか?」

星座に疎い翼にはどれがオリオン座かはわからない。

星はたまに見上げる程度で、翼の知っている星座は生まれ月の星座くらいだ。

空の星に関しては完全に無知だ。

それでも星を見る事は好きだが。

すると嗄が天井を指差して教えてくれる。

「星が三つ並んでて、その星を囲むようにして星が四つあるやつ。ほら、あそこ」

「ああ、わかりました」

翼はオリオン座を見つけ、砂時計のような形をしているなと少し思う。

嗄はオリオン座を教えると優しく微笑んで再び天井を見上げる。

それから、嗄は口を開いた。

「――オリオンは、とても悲しい人なんだよ。彼には愛する人が居た。何よりも大切で、誰よりも心の底から愛している人が。その相手は月の女神アルテミス。二人は深く愛し合っていた。この愛は永遠のものだと二人は信じていた。けれどアルテミスの双子の兄、アポロンは二人の事を認めなかった。アポロンは密かに二人を引き離そうと考えていたんだ。そんなある日、オリオンは海の中を歩いていた。愛しのアルテミスの為に美しく輝く貝殻を探していたんだ。それを渡したらアルテミスはどんな反応をするか、楽しみにしながら。そこに、アポロンが弓の上手いアルテミスに言ったんだ。海から突き出ている岩をアルテミスに射抜くように。アルテミスは自分の狙う岩が愛するオリオンの頭だとは知らず、弓を放った。アルテミスの放った弓は見事岩に突き刺さり、オリオンは死んでしまった」

「……そんな……」

「その後、自分がオリオンを殺めてしまった事を知ったアルテミスは悲しみ嘆いた。それを見た大伸、ゼウスがオリオンを空へ上げて星座にしたんだ。だから冬の夜にはオリオン座の近くを月が通り過ぎるんだよ。アルテミスは月の女神だから。僕ね、オリオンの神話を知った時。今まで以上にオリオンを好きになったなぁ……。愛しい人に殺されたオリオンは一体、どんな想いだったんだろうねぇ……」

天井に映し出されたオリオン座を見つめ、嗄は呟く。

今、嗄がどんな表情をしているのかが気になり隣を盗み見る。

嗄は悲しげな表情で、オリオン座を見つめていた。

翼もオリオン座を見つめ、オリオンの心境を考えてみる。

愛する人に。

愛しい人に、誤って殺されてしまった。

――その時のオリオンの心境は?――

「――――」

オリオンではなく、翼の場合は。

翼ならば、こう思う。

「――幸せだったんじゃないでしょうか」

「え……?」

驚いてこちらを見る嗄。

少しだけ嗄の顔を見て答える事が出来ず、天井のオリオン座を見つめる。

オリオンの心境はわからないが、翼ならそう思う。

愛しい人に殺されるならば、幸せだと。

「全く知らない人に殺されるよりも、愛する人に――愛しい人に殺されるなら本望でしょう。例え誤って殺されたとしても、彼は彼女の事を許しているんじゃないでしょうか。アルテミスはオリオンだと知らずに弓を放った。アルテミスに悪意はないんですから」

思った事をそのまま口にする。

少なくとも、翼が死ぬ時はそうだったら嬉しいと思った。

嗄に殺されるならば本望だ。

そんな事を頭の片隅で考えていると、嗄の声が隣から聞こえた。

「――僕は、アポロンを酷く憎んでいると思ってた。アポロンさえ居なければ幸せだったし、愛しい人の手を汚す事もなかった。アポロンさえ居なければって。アポロンは卑怯者だと思っているって。自分では決して手を下さず、他人に……。それもオリオンが愛する人に殺させるなんて……。でも、答えなんて十人十色だよねぇ」

最後の言葉はいつものように優しく言ってくれたが……。

少し、意外に思えた。

嗄はそのような考えをするような人ではないと思っていたからだ。

人を憎んだり、恨んだりするような考えはしないと思っていた。

なので嗄が口にしたオリオンの心境には驚いた。

しばらくの間、先程と同じようにプラネタリウムを楽しんでいたのだが。

再び、嗄が口を開いた。

「今思い出したんだけどねぇ。僕がオリオン座を好きになった時の事なんだけどぉ」

「はい」

「それって、丁度十年前の今日だ」

「え……」

少しだけ驚いて嗄の顔を見つめる。

嗄も同じようにして翼を見つめており、視線が絡み合うと優しく微笑む。

それから再び天井を見上げ、懐かしむように目を細めて告げる。

「十年前だから、丁度僕が翼君と同じ年の頃。お父さんとお母さんは僕の誕生日だって言うのに、帰って来てくれない。まぁ、帰って来ないのはいつもの事なんだけどね。兄さん達も、仕事で忙しくて誰も祝ってくれなくて……。だから誕生日が、クリスマスが大嫌いになってた頃だったんだ。でも、その年だけは違ったんだ。忙しいはずの兄さん達がその日だけ、僕の誕生日を祝う為に帰って来てくれたんだ。それも、三人とも。それで兄さん達は僕の誕生日を祝ってくれた。昔みたいに……。それがすごく、すごく嬉しくて。兄さん達の想いが嬉しくて。僕、泣いちゃったんだ」

優しい表情を嗄はしているはずなのに、何処か寂しげに翼の目には映って見えた。

「仕事を始めてから三人が一度に集まって誕生日を祝ってくれたのはそれが最初で最後だったけど、兄さん達のおかげでクリスマスを嫌いにならずに済んだんだ。クリスマスパーティーが終わって三人が帰る時にね、椿兄さんが言ってくれたんだ。〝俺達はいつもお前の事を見守っているからな〟って。夜空に浮かぶオリオン座を指差して……。〝お前は一人じゃない〟って……。三つ並んで輝いてる星はまるで兄さん達のように見えたんだぁ。僕にとって憧れの存在で、手の届かないような所に居て……。それからだと思う。よく空を見上げて星を見るようになったのは……」

「――嗄さんのお兄さんって、優しいんですね」

「うん。すっごく優しいよぉ。それでいて、僕の自慢のお兄ちゃん」

そう言う嗄は優しく、懐かしむような微笑みを浮かべていた。

微笑む嗄を目にして翼も自然と微笑む。

もっと、嗄と近付きたい。

もっともっと、嗄と近付けれたら良いのに。

そうすれば、今よりももっと嗄について知れるのに。




――――もっと、嗄さんと近付けられれば良いのに――――




距離は近付けられなかったが、それでも充実とした素敵なクリスマスを過ごせた。

新しい友達も出来た。

好きな人の過去を少しでも知れた。

今はそれだけでも十分だった。

 それから三日後の十二月二十八日。

その日も翼は病院へと来ていた。

李哉の事が気になったのもあるが、樹姫の事も気掛かりだったからだ。

病院内へ足を踏み入れると、すぐに待合ホールで藤森先生に車椅子を押してもらっている樹姫の姿が見えた。

翼は二人の元へと歩み寄って声を掛ける。

「藤森先生、樹姫」

「翼君、こんにちは」

「おゥ翼ィ! この間のクリパのビデオ、見たぜ。大成功だったじゃねェか!」

「樹姫の方は具合、どう?」

「あ~……イマイチだな。でもま、年越しまでには回復すンだろ」

「樹姫ちゃんがこのまま安静で居たらの話だけどね」

「だからわァってるってのォ」

「あ、翼君。これから李哉君の所に行くの?」

「はい。何か伝言でもありますか? なら伝えておきますけど」

「いや、そうじゃなくて……。最近翼君、楽しそうにしてるから李哉君のおかげかなって思って」

「……楽しそうですか?」

「あ~、確かに。なンか最近生き生きとしてるよなァ」

「――――」

そんなにも以前はつまらなそうな顔をしていたのだろうか。

周りに居る人々がそう言うのだから恐らくはそうなのだろう。

――確かに以前と比べると楽しいと思えるようになった――

翼は李哉から貰った腕時計に視線を落とす。

以前とは変わった。

それはきっと、李哉と出逢ったから。

李哉との出逢いが自分を変えた。

そう思うと自然と顔に笑みが浮かぶ。

「すみません。それではそろそろ行きます」

「うん、わかった」

「またなァ」

藤森先生と樹姫に別れを告げ、翼は李哉の病室へと足を向ける。

李哉が入る前は翼がずっと入り浸っていたあの病室へと。

冬休みに入ってから今日までずっと、翼は病院へと通っている。

休みに入ってすぐに李哉の事が気掛かりになったからだ。

翼が病室へ行かなければ李哉はいつも一人。

一人の寂しさを誰よりも知っている為、翼は毎日李哉の病室へ通っていた。

寂しさもそうだろうが、何よりも一人ではつまらないだろうと思ったからだ。

やがて李哉の病室前までやって来て、いつものように病室の扉をノックする。

「どうぞ」

すぐに梅の返事が返って来た。

李哉ではなく、梅の返事。

もしかして、李哉はまだ眠っているのだろうか?

そんな不安を胸に病室の引き戸に手を掛ける。

病室に入り、李哉の方へ視線を向けた時だった。

「翼君! 今日おもゆが食べられるようになったよ!」

満面の笑みで食べ終えた器を見せ付ける李哉の姿。

そんな無邪気な李哉の笑顔を見てほんの少しだけ安堵の息を漏らす。

それからいつも自分の座る椅子へと腰掛けた。

この様子だと恐らく足の回復も早いだろう。

そう思い、ポツリと呟く。

「じゃあ一週間後くらいには雑炊かな」

「え、わかるの?」

「医者の勉強をしてるからわかるよ。大抵は」

「じゃあ雑炊の次は何?」

「お粥。その次は普通のご飯よりかなり柔らかいご飯と温野菜。それが食べられるようになったら最終的に普通食」

「へぇ、最初から噛む物は食べられないんだ」

「いきなり固形物を食べたら胃が驚くから、まず最初はおもゆのような物から少しずつ慣れさせないといけないんだ」

李哉の投げ掛ける質問に対して全て正確に答える。

淡々と答える翼を目にして少し李哉は驚いた表情を見せた。

すると李哉が再び口を開いて尋ねて来る。

「じゃあ、この足――腫れが引いて傷口を縫う手術をした後、どうするの?」

「縫った後、三週間程してから足にプレートを入れる手術とアキレス腱、神経を繋げる手術をする。上手くいけば一週間後には歩くための練習を始められる」

「え、もう歩けるの?」

〝歩ける〟

――李哉はまだ知らない――

いや、何も知らない。

二度目の手術が失敗すれば歩く事は愚か、一生車椅子の生活になるかもしれない。

その事を李哉は知らない。

必ずしも手術が成功するとは限らない。

特に李哉の受ける手術は名医でも難しいもので、上手くいくとは限らない。

なので過度な期待をさせてはいけない。

希望が打ち砕かれた時の為に。

〝歩ける〟という希望を抱かせてはいけない。

一生歩けないという現実を叩き付けられた時の為に。

しかし、希望に満ち溢れた李哉の顔を目にするとそんな事は出来なかった。

「上手くいけば、ね。俺からはこれぐらいしか言えない。ちゃんとした医者じゃないから。でも、上手くいったら中学校の入学式には間に合うよ。今の所、全治三ヶ月と二十日だから」

「…どうして翼君、そんなに詳しいの?」

――どうして――

どうして自分は、医者の勉強をしている?

どうして自分は、病院になんて居る?

答えは、定められた運命からは逃れられないから。

翼には、医者になるしか他に道はないから。

進む道は、一つに限られている。

小説家ではなく、医者になるのだと。

「――前にも言ったけど、俺はこの病院の院長と総師長の一人息子。いずれはこの病院を継がなくちゃいけない存在。だから医者の勉強をさせられて……嫌でも、俺は医者にならないといけないんだ」

翼が言葉を放つと、病室が静かな空気に包まれる。

李哉も梅も、口を開こうとはしない。

恐らく、どう声を掛けて良いのかわからないのだろう。

翼が本音を少しでも口にすれば静寂が訪れる。

こういう時にこそ、声を掛けて欲しいと思うのだが。

心の何処かで期待はしないようにしていた。

すると、静寂を破るようにして李哉が口を開いた。

「医者になる以外の道は…無いって事?」

医者にはなりたくない。

どんなにそう訴えても全く聞き入れてくれなかった、あの日の事を思い出す。

父に殴られた頬よりも胸の方が酷く痛んだ、あの日の事を。

医者になるようにと強要されたあの日の事を。

「――ない。俺がこの病院を継がないと、この病院は潰れる」

「どうして…?」

どうして。

それは翼が綾崎家の長男として産まれたから。

翼は病院を継ぐ為だけの存在だから。

あの日、翼が何度も繰り返した言葉を李哉も口にする。

――どうして、俺なのだろう――

そんなの、俺じゃなくても良いじゃないか。

あの日、翼は父にそう訴えた。

けれど返って来た答えは、翼が産まれたから。

翼が産まれなければ、養子を取って翼以外の人物が跡取りになるはずだった。

全ては、自分が産まれたから。

自分の人生を嘆いたあの日。

全てが嫌になったあの日。

翼は李哉の〝どうして〟には答えられなかった。

〝答え〟はわかっている。

あの日、両親に叩き付けられた言葉達が〝答え〟だ。

翼には、その〝答え〟を口にする事は出来なかった。

口にしてしまえば、自分の存在を自分で否定する事になるからだ。

そんな翼を知ってか知らずか、梅が代わりに答えてくれた。

「李哉、医者の家系に産まれた子供は仕方ないんだよ。特に一人息子は。産まれた時から、病院を継がないといけない使命を与えられるんだ」

「じゃあ、翼君は――医者になるためだけに産まれたって言うの…?」

「――――」

李哉の言う通りだ。

自分は父の跡を継ぐ、その為だけに産まれた存在。

医者になる事しかしてはいけない。

医者になる以外の事をすれば誰からも必要とされなくなる。

簡単に、まるでゴミのように捨てられる。

翼の存在する理由が無くなる。

両親にとって翼は都合の良い存在。

両親によって操られる操り人形だ。

操り人形は勝手に動いてはいけない。

人形は感情を持ってはいけない。

「――両親は、俺の事なんて道具ぐらいにしか思ってない。俺が感情を持ってるなんて思ってない。あれは……家族じゃない」

目に浮かぶのは、夢を否定されたあの日の事。

応援する所か、夢を壊されたあの日。

翼の静かな声が病室内に響く。

病室の空気は翼の放った一言のせいで重くなってしまった。

息苦しい空気を打ち消さなければ。

そう思いはするのだが、何かを口にする気分にはなれなかった。

そんな空気の中、携帯の着信音が病室内に響き渡る。

翼は携帯電話を持たされていない。

それは李哉も同じで、つまり梅の携帯という事だ。

梅が慌てて携帯を鞄から取り出し「ちょっと出て来るね」とだけ言い残して病室から出て行く。

病室から梅が出て行くと残されたのは翼と李哉だけ。

流石に二人きりでこの空気は辛い。

これ以上李哉に迷惑を掛けてはいけない。

翼は小さく息を吐き出し、口を開いた。

「ごめん。今のは忘れて」

いつものようにそう言うと病室の空気は元に戻った。

空気が元に戻ったので朗読を始めようと思い、本を開く。

前回はどこまで聞いていたのかを確認しながら、もう少しで翼の好きなシーンになると思いページを捲る。

すると李哉の声が耳に届く。

「翼君」

「何?」

本から顔を上げる事はしない。

今はどんな顔をして李哉を見れば良いのかわからない。

本に視線を落としたまま、李哉の返事を待つ。

しかし、李哉は思いもしないような事を口にした。

「僕、翼君の事――もっと知りたい」

「え……?」

李哉の言葉に驚き、思わず顔を上げた。

李哉の顔を見てみると李哉は翼とは目を合わせようとはせず、少し俯いて告げた。

「いや、だって…僕は翼君の事、あんまり知らないし…。でも、言いたくない事は言わなくていいから!」

そんな事を言い、李哉は恐る恐る翼の顔を見る。

まるで叱られた後の子供のように。

その時、雲から太陽が顔を出し病室を照らし出す。

真っ白な病室が光を浴びて白さを増す中。

不安そうにこちらを見つめる李哉の姿が。




――――初めてだ――――




〝知りたい〟だなんて言われたのは。

自分が知りたいと思った事は何度もある。

だが、自分に興味を抱く人間とは出逢わなかった。

だからだろうか。

こんなにも嬉しいのは。

――知らなかった――

自分に興味を抱かれる事がこんなにも嬉しい事だとは。

翼は静かに開いていた本を閉じた。

知りたいのならば、何でも教えよう。

答えられる限り、全てを。

「何から知りたい?」

「え…?」

李哉は何を言われたのかまるで理解出来ないようにキョトンとした顔をしていた。

そんな李哉の顔を見て少しだけ笑う。

それからもう一度、李哉に分かりやすく言い直す。

「何でも教えてあげるから。何から知りたい?」

言い直すとようやく意味を理解してくれたようで、李哉はまるで花が咲いたかのように嬉しそうな表情をして見せた。

けれどすぐに困ったような表情をした。

恐らく、聞きたい事が山ほどあるのだろう。

李哉は頭を悩ませて何を尋ねようかと必死に考える。

――そんなにも聞きたい事があるのだろうか――

少しだけそう思っていると、やがて李哉が口を開いた。

「な、なんでもいいよ。色んな事を教えて」

悩んだ挙句の答えがそれだった。

確かに自分でも悩んだ結果、何も思い付かなければそう言うだろうなと少しだけ思った。

――何か、話す事があるだろうか。

不意に思い付いたのは本の事だったが、それではいつもと大して変わらない。

自分の事でもあり、本の話題……。

二つのワードで記憶を辿っていると、ある事を思い出した。

「じゃあ、学校の図書室の話」

「図書室?」

「そう、図書室。俺、三年で学校の図書室の本――全部読み終えた」

「三年で!?」

「そう、三年で。先生達も過去最高記録だって言って賞状くれた」

三年間で図書室の本を読破したのは聞いた事がない。

先生にそう言われたのを思い出す。

翼にはそれがすごい事なのかどうかがわからない。

周りがすごいと言うのだからそうなのだろう。

特に目の前の李哉の反応を見れば、普通ではないのだろう。

普通じゃない家庭に育った為、どうやら自分も普通ではないようだ。

記憶喪失である李哉が驚愕しているのだから異常なのだろう。

「――翼君、すごい本を読むんだ…」

「本は好き。家にもかなりの量の本があるよ。最近新しい本を大量に買って来たから本の置き場に困ってるけど」

「翼君って、一日に本を何冊くらい読めるの?」

「平均十七冊」

平然と答えると李哉が口を開けて驚く。

自分が人よりも多くの本を読んでいる事に気付いたのは低学年の時。

誰一人として、翼と同じ量の本を借りている人物が居なかった事を思い出す。

そこでふと、ある事に気が付いた。

今まで学校ではロクな思い出がないという事を。

確かに学校生活は楽しいと思った事の方が少なかった。

恐らくはそのせいだろう。

「読むペース、速いんだね…」

「速読で読んでるから」

「え、どれくらいのスピードで?」

李哉にそう尋ねられ、翼は手にしていた本の一番最初のページを開く。

本を開くとまるでページを速く捲るだけのようにして読んでいく。

あまりに速くページを捲るせいでパララララとページを捲る音が耳に届く。

「こんな速度」

小さくそう呟き、本を閉じる。

李哉の反応はやはり驚いていたが。

そんな李哉に速読について説明する。

「でもこれは、普通の人にはお勧め出来ない。速読は目で読むんじゃなくて、脳で読むから」

「そうなの?」

「そう。人は目で見た本はストーリーでしか覚えてなくて文章までは全部覚えられない。だけど、脳で見た本は文章や台詞まで正確に覚えておけるんだ。目で記憶した物は似たような記憶と混ざって曖昧になるけど、脳で覚えた記憶はハッキリと鮮明に覚えておけるんだ。だから、速読は脳に直接書いてある文を一瞬で記憶させるから普段よりも脳を使うんだ。あまり慣れていない人が速読をするとすぐに疲れるし、体調も崩すから勧められない」

自分で口にして、少しだけ思った。

翼の知識は完全に偏っている。

好きなもの、または興味のあるものの知識は豊富だが。

嗄のように全てのジャンルの知識はない。

クリスマスの時、星座について詳しくない自分がとても歯痒かった。

今度ギリシャ神話を読んで覚えようと頭の片隅で考える。

すると、驚いていた李哉が静かに尋ねて来た。

「――翼君、頭良いの?」

「――――」

一応は学年一位の成績を持っている。

と言っても最近では一位にはならないように手を抜いている為、全教科満点を取る事はない。

その為、最近は一位や二位を行ったり来たりしている。

嗄曰く、現在の翼の学力は高校三年生までいっているという事。

頭が良いか悪いかで答えるならば翼の場合、明らかに〝良い〟だ。

しかし、自分で自分の事を頭が良いと言うのもどうかと思う。

「……多分……?」

そう答えるのが妥当だろう。

曖昧に答えるのが一番良い。

けれど李哉は追求してくる。

「テストの平均点って、何点なの?」

どうやら李哉はハッキリとした答えが聞きたいようだ。

少しだけ答えようかどうかを迷うが――

答えを言うまで解放してくれなさそうな李哉の目に負けた。

それに答えられる限り何でも答えようと思っていたので、答えようと思ったのだ。

「……九十五点」

「――うそ」

「本当」

李哉の想像する〝翼〟と自分とでは随分と掛け離れているようで、李哉は何度も驚いていた。

そんなにも李哉の目には自分が〝普通〟に映っていたのだろうか。

全く普通ではなかった自分を李哉は一体どう思っているのだろうか。

顔を見た限りでは呆れた様子でも軽蔑する様子でもない。

ただただ、驚いていた。

「頭、良いんだね…」

「――他に、何が聞きたい?」

今一度、李哉にそう尋ねる。

すると李哉は再び頭を悩ませ始めた。

今度は翼の顔を見つめながら考えたりもして。

やがて李哉は思い付いたように少し顔を上げて口にした。

「じゃあ、学校ではどう過ごしてるの?」

「学校……?」

学校と聞いて思い出すのは、クラスメイト達からの虐め。

図書室にしか居場所のない学校を。

翼にとって、学校には良い思い出が一つもない。

しかし、学校へ通っていない李哉は気になるのだろう。

学校とはどのような場所で、どんな事をするのかと。

何も知らない李哉は知りたいのだろう。

ほんの少しだけ躊躇ったが、翼は口を開く。

「ずっと本を読んでる。昼休みは図書室で。李哉君と逢う前は放課後に図書室で本を五冊読んでから病院に来てたけど」

翼はそう答えた。

学校で虐めを受けているという冷たい現実はとてもじゃないが言えなかった。

例えいつか、それを李哉が知るとしても。

この時は言えなかった。

ずっと本ばかりを読んでいると聞いた李哉は更に聞いて来る。

「友達と話したりしないの?」




――――〝友達〟――――




友達は以前居た。

親友が。

だが、普通ではない翼に向かって言い放った。

〝おまえみたいなやつと友達だなんて思いたくもない〟

大切な親友だった人物に言われた一言。

あの一言を思い出すだけで胸が痛む。

あの一言で翼は親友を――

友達を失う事となった。

学校から全ての友達という人物が消え去った。

それ以来、学校では友達を作る事はなかった。

作ろうと思っても、誰一人として翼に近寄ろうとはしなかった。

関わったら自分も虐めに巻き込まれる。

恐らくみんな、そう思って近付かないのだろう。

翼もまた、誰にも近寄ろうとはしなかった。

みんなみんな、同じだと思っていたからだ。

みんな、いつかは手の平を返したように態度を変えるに決まっている。

みんな、あの時のように冷たい言葉を浴びせるに決まっている。

どうしても心の何処かでそう思ってしまっていた。

「――友達は、居ないから」

「え?」

「俺、学校に友達は居ない」

「一人も…?」

「一人も。だから本を読んでる」

「そうなんだ…」

学校に友達は居ない。

しかし、病院には居る。

藤森先生。

樹姫と、いつの間にか友達が出来ていた。

学校には居なくとも、病院には居る。

家に帰っても一人。

だが、嗄が待って居てくれる。

それに今は李哉も居てくれる。

その時、翼は初めて気付けたような気がした。




――――自分は一人ではないのだと――――




ずっと前ばかりを見ていた為、気付けなかった。

いつだって振り返れば、誰かが居たと言う事に。

遠くのものばかりを見つめていた為、見えなかった。

前を向き直せば、優しく手を差し伸べてくれる人の姿が。

その事にたった今、気付たような気がした。

ようやく気付けて翼は小さく笑みを浮かべる。

「だから、李哉君が友達になってくれて嬉しいんだ」

自分は一人じゃないから。

大切な人が近くに居てくれるから。

それを李哉は気付かせてくれた。

だから、李哉には何度も伝えたい。

〝ありがとう〟を何度も。

何度も……。

けれどそんな短い言葉も翼の口からは出て来ない。

伝えたいのに、どう伝えて良いのかわからない。

言葉に出来ない代わりに翼は優しく、優しく微笑む。

この想いが伝われば良いと思いながら、李哉を見つめていた。

李哉にその想いが伝わったのかどうかはわからないが、李哉も笑ってくれた。

李哉の笑顔を目にして想いが伝わったような気がした。

笑みを浮かべて李哉は少し身を乗り出して翼に聞いて来る。

「じゃあ翼君、本を読んで得た豆知識か何かを教えてくれる?」

「いいよ。でもこれは豆知識じゃないんだけど……。前に辞書を引いてた時に見つけて――自分を差す言葉で〝僕〟ってあるだろう。〝僕〟の意味は召し使い、下僕の意味もあるんだって」

「嘘っ!? そうなの!?」

「本当。俺もそれを知った時はショックだった。まさか自分の事を自分で下僕って呼んでたって事に。だから知ってからすぐに自分の事を〝俺〟って呼ぶようにしたんだ」

驚きながらも楽しげに笑う李哉。

そんな李哉を目にして翼も笑うが。

もしかしたら笑っている翼を見て李哉は笑っているのかもしれない。

けれど、そんな事は大して気にはならなかった。

ただ思う事は、良い友達と出逢えたという事だ。

きっと、こんな人と出逢えるのは人生の中でたったの一回きりだろう。

そうならば李哉の事を大切にしたいと思う。

――今までとは全く異なる友達を大切にしたかった――

しばらくの間、二人は笑い合って話をしていた。

本当に下らないような事ばかりを。

普段はしないような話までしていた。

すると不意に李哉が聞いて来た。

「そういえばさ、クリスマスの時に聞いてなかったけど…あの時の感想って何?」

「ああ、あれね。あのクリスマスパーティーでのサンタの設定考えたの、俺だから」

「え、あのサンタの設定考えたのって…翼君!?」

またもや李哉は驚愕した。

李哉の反応が面白くてもう少し驚かせてみたいなと思ってしまう。

驚いている李哉に追い討ちを掛けるようにして言葉を付け足す。

「そう、俺が考えた。というか、基本的に全部俺が考えた。藤森先生の台詞も、プレゼント交換も、あの袋の穴を直したのも。話を書くのが好きだから」

「そうだったんだ…。え、じゃあ教えて! あの袋の穴――どうやって直したの?」

「直したって言うより、ただ交換しただけ。穴の開いていない袋とね。みんなが俺の方に視線を向けた時に素早く藤森先生が摩り替えただけ。だからみんなにはマジックみたいに見えたって事」

クリスマスパーティーの参加者に種明かしをするのは李哉が最初だ。

未だに樹姫にもクリスマスパーティーの種明かしはしていないのだから。

種明かしをすると李哉はクリスマスパーティーの事を思い返している様子だった。

それから李哉は思い出したように口を開いた。

「でもあれって確か――小さな子が言い出して…」

「それも、俺のシナリオ通り」

嗄の真似をして右手の人差し指を唇の前で立てて告げた。

嗄程の破壊力は無くとも、少しでも様になれば良い。

すると、心なしか李哉の顔が赤くなったような気がした。

恐らくは気のせいだろうが。

少し李哉は視線を逸らし、何故かお互いに無言となってしまった。

まだ李哉は翼の放った言葉達に驚いているのだろう。

今まで人に自分の事を話した事が無かった為、李哉の反応が新鮮に感じられた。

ふと、李哉が思い付いたように顔を上げて聞いて来た。

「翼君って、どんな話を書くの?」

「どんな……。どんな話だろう」

李哉にそう言われるまで考えもしなかった。

自分の書く物語のジャンル等。

李哉に指摘され、どんなジャンルのものかを考えてみる。

悲しい物語をベースにして様々な物語を書いた。

ファンタジーにSF、現実的な話や多くのものを。

人の心の闇を主にして。

そのようなジャンルを一体、何と例えるのだろうか。

シリアス?

いや、何かが違うような気がする。

自分の物語に当て嵌るジャンルを脳裏に思い浮かべるが、どれも何処か翼のイメージとは違う。

どのジャンルも当て嵌らないような気がする。

そこで翼はある事に気が付いた。

自分の書いた物語を人に見せてジャンル分けをされた事がないと。

幼い頃は藤森先生や森さん等にも見せた事はあるが――

両親から夢を奪われ、嗄によって再び書けるようになってからは一度も人に見せてはいない。

その為、今の自分がどのようなジャンルの物語を描いているのかわからないのだ。

「――今の俺には上手く説明出来ないジャンル」

一体どんな話を書くのだろうかと。

李哉の顔にはそう書かれているように見えた。

そんな李哉に先程気付いた事を口にした。

「それ以前に人に見せた事が無いから、自分の書く話がどんなジャンルかわからない」

「そうなの?」

「――趣味で、時間が空いた時に書いてるから」

「じゃあ、完結した話ってある?」

「ない。全部未完結」

「それって、終わりがないって事?」

「……その方が、いいかもしれない」

――終わり――

翼は何となく完結が嫌だった。

一度終わってしまえば、もうその先はない。

描きたくても終わってしまえばもう書けない。

それが何となく嫌だった。

それに終わりが無ければずっと描いていられる。

夢をずっと見ていられる。




――――〝終わりなど無ければ良いのに〟――――




いつか、そのような一文を物語に書いたような気がする。

翼がそんな事を考えていると李哉が声を掛けて来る。

「今、何か言った?」

「なんでもない。じゃあそろそろ、朗読を始めようか」

そう呟き、翼は本を開く。

かなり話し込んでしまい、もう話す事も無くなったので朗読へと走った。

朗読を始めると言うと李哉は静かに翼の朗読を待ってくれた。

朗読を始め、翼は少し思った。

李哉と今までよりも距離が近付けたと。

前よりも互いの事を知れたような気がした。

 それからしばらく経ち、十二月三十一日。

大晦日、その日翼は朝の十時頃から病院へ来ていた。

そして李哉とずっと過ごしていた。

前々から大晦日は李哉と過ごそうと思っていた。

以前ならばずっと家で過ごしていたのだが。

あの大きな家にずっと一人で居るのも退屈だった。

それは恐らく李哉も同じだろう。

そう思い、大晦日は病院へ来ていたのだ。

もちろん、年を越しても家に帰るつもりはない。

元日になり、李哉が眠るまでは李哉とずっと居るつもりだった。

その為には病院内で両親と逢わない事を祈っていた。

李哉の病室で先日のように下らない事を話していると不意に聞かれた。

「いいの?」

「何が?」

「だって、もう六時前だから帰らないといけないだろうし…」

「別に帰らなくてもいいよ。家に帰っても、誰も居ないから」

「でも、お母さんかお父さんが帰って来る時間には――」

「帰って来ない」

両親の話題が出た瞬間、翼は冷たく言い放った。

恐らくではなく、絶対だ。

絶対に両親は帰っては来ない。

元旦だろうが、正月だろうが、夏休みだろうが、誕生日だろうが、クリスマスだろうが、大晦日だろうが。

今まで一度も帰っては来なかったのだ。

今回だって帰って来るわけがない。

きっと両親にとって翼は〝翼〟として必要としていない。

〝医者〟としての翼が必要なのだから。

医者でもない翼に両親が興味を抱くわけがない。

そうに決まっている。

「え…?」

張り詰められた空気の中、病室内に李哉の声が妙に響く。

李哉の顔を見やれば、やはり驚いた表情をしていた。

翼は小さく息を吐き出し、李哉に告げた。

「――二人とも、仕事が忙しいから帰って来ないよ。それに今日は嗄さんも来ないし。家に一人で居ても、つまらないから」

家に一人で居るくらいならば人の居る病院に来た方が良い。

友達と話をしていて年を越す方が良いに決まってる。

そこで、また重い空気にしてしまった事に気付く。

せっかくの大晦日だと言うのに重い空気をいつまでも漂わせるわけにはいかない。

そう思い、重い空気を打ち消す為に翼はいつものように振舞う。

それからこの後は李哉とどう過ごそうかと考える。

だが、良い案が全く浮かばない。

ここは李哉に聞いた方が良いと思い、李哉に尋ねる。

「そういえば李哉君。年越しカウントダウンまでの間――どうする?」

李哉にそう尋ねるとほんの少しだけ困ったような表情をして見せた。

それでも李哉は頭を悩ませ、口を開いた。

「うーん、朗読を聞くのもいいけど…」

「いいけど?」

「翼君の書いた話を聞きたいな」

「え――?」

一瞬、自分の耳を疑った。

自分の考えた話を聞きたい?

何故?

どうして翼の考えた話なんかを聞きたいのだろうか。

その答えは李哉自身が口にしてくれた。

「この間、話を書くのが趣味だって言ってたから。翼君はどんな話を書くのかって僕――じゃなくて…お、俺が…見極めてあげるよ」

自称名を〝僕〟から〝俺〟へと変えて言われた一言。

とても嬉しい事を言ってくれているのだが――

辿々しい言い方のせいで完全に不自然だ。

それに、少し思い出してしまった。

自分が自称名を〝僕〟から〝俺〟へと変えた時の事を。

もしかして、自分もこのような感じだったのだろうか。

ならば傍から見れば嘸かし面白い光景だった事だろう。

流石に李哉の前で笑う事は出来ず、必死に笑いを堪える。

これでも言っている本人は〝僕〟と言わないように必死なのだから。

「そんな、無理しなくてもいいのに。別に僕でもいいと思うけど……」

「いや、あんなの聞いたら嫌でも俺って言うよ。絶対に」

「その気持ちもわからなくは……あはははっ」

つい、吹き出してしまった。

こんなにも不自然だとは思わなかった。

過去の自分と李哉を重ねると、どうしても笑いのツボを刺激された。

今ではすっかりと慣れて普通に〝俺〟と言えているが。

当時はそう上手くはいかなかった事だろう。

下手をすれば〝ぼれ〟と言っていたかもしれない。

そう思うと思わず笑いが零れてしまった。

しばらくの間笑い続け、何とか笑いが収まった。

李哉は少し困ったような表情をしていたが、何処か楽しそうにも見えた。

嗚呼、一体どれくらいぶりだろうか。

――こんなにも笑ったのは――

物凄く久々なような気がする。

少しだけ笑い疲れながらも翼は口を開く。

「ごめん…。自分も俺って呼ぶ時、こんな感じだったのかなって思って……。で、何の話をしてんだっけ?」

「えーと、翼君の書いてる話を聞きたいって所かな」

「いいよ、別に。どんな話が聞きたい?」

「え、選べるくらい書いてるの?」

「まぁ、思い付いた話を書き始めては完結してないけど」

「じゃあ、今気に入ってる話を」

「わかった。じゃあ『暗闇の水面』って話」

物語のタイトルを口にしてどんな物語だったかを脳裏に思い浮かべる。

暗闇の水面は、パラレルワールドの物語だ。

嗄のおかげで書けるようになった物語で二作品目の物語でもある。

それを思い出しながら翼は口を開いた。

「暗闇の水面って話は、主人公の少年は毎日同じ夢を見るんだ。そこは何も見えない暗闇で、少年は水の上に立ってる。しばらくすると自分の立っている水に映ったもう一人の自分が動き出して、自分の目の前に現れる。もう一人の自分は口を開いて何かを言うけれど、何を言っているのか全く聴き取れない。そして夢が覚めてしまう。そんな夢を毎日見る。そんな夢を見るようになって一年が過ぎた頃。その日の夢はいつもと違っていた。いつもなら水の中からもう一人の自分が出て来るけど――その日だけは、違っていた。水に自分の姿が映らなかった。まるで自分の立っている水の下は、別世界のようにさえ感じられた。その時、少年はその水の中へと落ちてしまう。落ちて少年が目を覚ました世界は――荒れ果てた世界。そこは、パラレルワールドだった」

自分の考えた物語を淡々と語っていく。

李哉はいつも朗読を聞いているように、静かに耳を傾けてくれていた。

物語を語っていて、懐かしいと思った。

以前、こうして藤森先生に自分の考えた物語を語っていた事を思い出した。

けれどいつしか、しなくなってしまった。

それは一体いつからだっただろうか。

ああ、そうだ。

確か、夢を壊されたあの日からしなくなったのだ。

あの日から、物語を描けなくなってしまったからだ。

苦しみ、藻掻いて。

必死に足掻いて。

嗄のおかげで書けるようになった物語。

その物語をこうして李哉に語って聞かせる。

物語を語りながら、どういう想いで描いたのかも思い出す。

この物語には自分というものを多く入れた。

自分の感じた悲しみ。

苦しみ。

切なさ。

そして寂しさを。

翼の感情を。

翼の想いを。

翼の全てを詰め込んだ物語だ。

翼の心の叫びを綴っていった物語だ。

翼の感情の塊とも言える物語。

そんな物語を李哉は真剣に聞いてくれている。

その事がすごく嬉しかった。




――――今まで誰にも打ち明けた事のない想いを全て聞いてくれるのだから――――




一通り翼は今まで書いて来たストーリーを語ると。

「――今はそこまでしか考えてない」

そう告げて翼は口を閉じた。

ずっと喋り続けていた為、病室に久しく静寂が訪れる。

翼は静かに李哉を見つめて感想を待つ。

少しの間李哉は驚いた表情で翼を見つめ――

やがて口を開いた。

「――――凄過ぎて、どう説明していいのかわからない」

「全然面白くない話だよ」

「そんな事ない! すっごく面白かったよ! どうやったらそんな話が書けるの!?」

「――その時の思い付きで」

「翼君! これだったら小説家になれるよ! 翼君の書く話、ぼく――じゃなくて俺好きだよ!」

「でも……」

今まで翼の書いた小説を読んだ人はみんな口を揃えてそう言ってくれた。

だが、小説家になりたくてもなれない。

どんなに翼が小説家になりたいと叫んだとしても、誰一人として聞き入れてはくれない。

小説家を目指す自分など、誰からも必要とされていないのだから。

そんな事を考えていると李哉の声が耳に届く。

「わかってる。翼君が小説家になれないって事は。でも、俺は翼君の書く話のファンだよ」

李哉は優しく笑ってそう言ってくれた。

――李哉の言葉は真っ直ぐだ――

とても強く、それでいて芯があって。

少しも曲がっていない想い。

本当にそう思ってくれていると思える、素直な言葉。

「李哉君……」

初めて〝翼〟という人物を認められたような気がした。

〝医者の息子〟としての翼ではなく。

〝一人の人間〟として、初めて認められた。

翼には李哉の言葉がそう感じられた。

物語を書く自分を認められた事が嬉しかった。

すると、自然と表情が緩んでいた。

「――ありがとう」

嬉しい気持ちと認めてくれた事に対して礼を告げた。

李哉は少し照れながらも「他にはどんな話を書いたの?」と聞いて来る。

自分の考えた物語に興味を抱いてくれる事が嬉しい。

翼にとって自分の描く物語達は謂わば自分の分身のようなもの。

そんな物語を好きと言ってくれると、自分の事を好きと言われたような気持ちになる。

李哉はもっと翼の考えた物語を聞きたいと言ってくれ、翼は夢中になって語っていた。

時間を忘れる程に夢中になって。

また、李哉の方も翼の考えた物語を夢中になって聞いてくれていた。

昼食が運ばれても、夕食が運ばれても。

李哉は食事を摂りながら翼の物語にずっと耳を傾けてくれていた。

最後までずっと。

翼の話を聞いてくれたのだ。

話している途中で〝もう時間だ〟と行ってしまう事もなく。

翼を一人を残して行ってしまうような事はなく。

李哉はずっと、聞いてくれた。

長い間ずっと翼は自分の考えた物語を語り続けた。

大体全ての物語を語り終えた頃の事だった。

不意に病室の扉がノックされたのは。

一瞬、誰だろうかと思ったが――

窓の外が完全に暗くなっている事にそこでようやく気が付いた。

李哉がノックに対して不思議そうに返事を返す。

そこで翼は思い出した。

年越しカウントダウンが近付く頃にはナースステーションへと向かい、車椅子を持って来る予定だったのを。

自分の考えた物語を語っているあまりにすっかりと忘れてしまっていた。

「ああ、もうそんな時間か」

「え?」

翼の呟きに李哉が聞き返した時。

丁度ナースが車椅子を押して病室へと入って来た。

車椅子を目にした李哉はそこでようやく時計を確認していた。

ナースは車椅子を翼の横に停めて口を開いた。

「はい、翼君。いつもは言った時間に絶対に来るのに今日は来なかったから車椅子、持って来てあげたよ」

「――ありがとうございます」

「私が乗せてあげようか?」

「大丈夫です。俺が乗せますから」

「そう? じゃあ、気を付けてね」

「ありがとうございます」

翼の返事を聞くとナースは笑顔を残して病室から出て行った。

ナースが病室から出て行くと翼は椅子から立ち上がり、腰を下ろしていた椅子を壁へと寄せる。

それから持って来てもらった車椅子をベットの横に停めて李哉を車椅子へ乗せる準備をする。

以前、車椅子に李哉を乗せた時のようにして李哉の身体を車椅子の方へと向けて向き合う体制を取ると。

緊張したように身を強ばらせる李哉に優しく声を掛けた。

「じゃあ、乗せるからね」

「う、うん…」

そう答える李哉に優しく触れる。

その後、李哉を抱き締めるようにして密着するのだが……。

密着した時に以前と同じように。

いや、それ以上にだろうか。

李哉の心臓が大きく高鳴っている事に気付いた。

やはり病室から外へ出るのが楽しみなのだろう。

そんなにも楽しみにしてもらうと、少しだけ嬉しくなる。

李哉を抱き上げ、そのまま車椅子へと移動させて乗せる。

李哉を車椅子へ乗せると足乗せを下ろし、車椅子の後ろへと回った。

足で車椅子のストッパーを外すと、病室の隅に居た梅が告げた。

「じゃあ、行ってらっしゃい」

「え、おばあちゃんは行かないの?」

「もうちょっとしたら行くよ。先に行っておいで」

梅にそう言われ、李哉は少しだけ残念そうな表情をして見せた。

しかしすぐに「じゃあ後で」と返した。

李哉の言葉に対して梅は微笑みで返していた。

翼は忘れ物等がないかを確認し、確認が済むと梅に頭を下げた。

それから車椅子を押して病室から出て行く。

病室から出ると外は静寂に包まれていた。

人の姿も見えない。

この時間だと多くの患者達は待合ホールで年越しカウントダウンを行っている。

やはり、静かな病院は少しだけ気味が悪いと思う。

誰も居ない、静かな廊下を翼は少し足早で歩いて行く。

エレベーターへと向かいながら翼は先程語っていた物語の事を思い出した。

そういえば、自分の書く物語のジャンルが何だったのか結局聞いていない。

自分の描く物語は一体、どのようなジャンルのものなのだろうか。

それが少し気になり、車椅子を押しながら李哉に尋ねる。

「――それで、俺の書く話のジャンルって、何?」

翼の声は静かな廊下に響いた。

李哉は少しの間小さく唸って答えを探している様子だった。

すぐには返事が返って来ない。

記憶喪失の相手にする質問ではなかっただろうか。

少しだけそう後悔していた。

エレベーターの前まで来て、翼がエレベーターのボタンを押した時。

李哉から返事が返って来た。

「んー、主に悲しい話だったよ。悲しい話をベースに色んなジャンルを書いてたね。ファンタジー系とか、学園ものとか。だから多分翼君の書く話はね。悲しい話」

「そうなんだ……」

確かにそうかもしれない。

再び書けるようになっても、そういう話しか書けなくなってしまった。

自分でも悲しい話ばかりだとは思っていた。

翼が小さく呟いた時、丁度エレベーターがやって来た。

注意を払いながら李哉を乗せた車椅子を押してエレベーターへと乗せる。

車椅子の車輪が溝に嵌ってしまう事はないが。

なるべく車椅子をぶつけないように注意してエレベーターへと乗り込んだ。

無事にエレベーターへ乗ると一階のボタンを押す。

すると李哉が尋ねて来た。

「自分でどんなジャンルにしようとか考えないで書いてたの?」

「そう。自分の感じた事や、こんな世界があったら、疑問に思った事とかを形にしてるだけだから」

「――やっぱり翼君、凄いね」

「俺は凄くなんかない。だけど――普通じゃないけどね」

小さくそう呟いた時、エレベーターが一階に着いて扉が開いた。

翼の呟きは待合ホールに集まった患者達の声によって掻き消されてしまった。

――自分は普通ではない――

普通ならば周りに馴染んで溶け込めるはずだ。

翼の場合、溶け込む所か逆に浮いてしまっている。

周りとは違う生活環境のせいか、翼はどうしても周りからは浮いてしまう。

それは自分でもわかっていた。

しかし、翼にはどうすれば周りと馴染めるのか皆目見当も付かなかった。

少しだけそんな事を考えながら車椅子を押していると――

前方方向にプレゼントの箱や袋を持ちきれない程両手に抱えた藤森先生の姿が。

多くのプレゼントの箱を積み上げ、箱が藤森先生の顔を覆っている為こちらからでは表情が伺えない。

藤森先生は前方不注意のまま、不安定な足取りで歩いている。

そんな藤森先生の姿を目にした患者達はみんな、藤森先生の為に道を譲っていた。

そして誰にもぶつかる事はなく、藤森先生は真っ直ぐにこちらへと向かって来ていた。

翼と李哉の姿が見えているのか見えていないのかは定かではないが。

藤森先生はこちらへと向かって来ていた。

車椅子の前まで来ても止まろうとしない様子からして、見えてはいないのだろう。

李哉の乗っている車椅子にぶつかる前に声を掛ける。

そうしなければ藤森先生も怪我をしてしまう恐れがある。

「藤森先生。李哉君にぶつかってしまうので止まってください」

「えぇ?」

翼が声を掛けるとようやく藤森先生は歩みを止めた。

そのおかげで藤森先生が車椅子にぶつかる事は免れた。

だが、急に歩みを止めたせいで藤森先生の手から手の平サイズの小さな箱が一つ、李哉の膝の上へと落ちるのが見えた。

膝に落ちたプレゼントを手に取って李哉が尋ねる。

「先生、どうしたんですか? それ…」

「えっと……李哉君、悪いけど膝の上に置かせてもらってもいい? 重くないから」

「いい、ですけど…」

藤森先生の言葉を聞き、翼はすぐに車椅子のストッパーを足で掛けた。

そして藤森先生からプレゼントの箱や袋を半分受け持つ。

そこでようやく藤森先生の顔を拝む事が出来た。

大量な子供達からのプレゼントを目の当たりにして、プレゼントを渡そうかと少し迷う。

渡しても迷惑にならないだろうか。

また荷物が増えると思うだろうか。

少しだけプレゼントを渡すタイミングを見計る。

「ふぅ、やっぱり紙袋もらっておけば良かったかなぁ」

「これ、どうしたんですか?」

「ああ、これ? これはね」

「あの、すみません。荷物増えちゃいますけど……」

話に割って入ってしまうような形になってしまったが――

渡すならば早目に渡しておきたかった。

本来ならば車椅子を取りに行く時に渡す予定だったのだが、すっかり忘れてしまっていたので今となってしまった。

それに早く渡さなければ年を越してしまうと思ったからだ。

翼は藤森先生の前に手の平サイズの小さな箱を差し出す。

ラッピングは自分で施した。

嗄程上手くは出来なかったが、それなりには出来ている。

そんなプレゼントを差し出し、藤森先生に告げた。

「誕生日、おめでとうございます。藤森先生」

「いいよ、嬉しい。ありがとうね」

嬉しそうに笑って藤森先生は翼の手からプレゼントを受け取ってくれた。

どうやら藤森先生は誰からのプレゼントでも同じように喜んで受け取っているようだ。

プレゼントの中にはナースから貰ったと思われるプレゼントも紛れていた。

中には高級ブランドのロゴの入った箱もある。

すると李哉が申し訳なさそうに告げる。

「あの、すみません…。誕生日だって知らなくて…」

「いいよ。それに教えてないからね」

李哉の言葉を聞いてそこで気付いた。

李哉は藤森先生の誕生日を知らなかったのだと。

思い返せば確かに藤森先生の誕生日に関しては何も言っていなかった。

ちゃんと伝えておけば良かったと少し後悔する。

その時、藤森先生の前髪が顔へと垂れ下がって来た。

垂れて来た前髪を掻き上げながら藤森先生が聞いて来る。

「翼君。さっそくだけど貰ったプレゼント、開けてもいい?」

「良いですよ。いつもの物で悪いですけど」

「それが逆にいいんだよ。でも、レパートリー増えちゃうなぁ」

小さく笑ってそう言うと藤森先生は翼の渡したプレゼントの箱を開ける。

プレゼントの中身はシンプルなシルバーのヘアピンと少しラメの掛かった黒のヘアゴム。

一応は男性へのプレゼントなので派手なものは選ばなかった。

最初はカチューシャにしようとしたのだが……。

可愛い女の子ものしか無かった為、ヘアピンとヘアゴムにしたのだ。

翼からのプレゼントを目にした藤森先生は嬉しそうに微笑み、「ありがとう」と言ってくれた。

藤森先生はすぐに垂れて来る前髪をヘアゴムで結い、それでも目に掛かる短い髪にはヘアピンを使う。

やはり、シルバーのヘアピンを選んで正解だった。

藤森先生に良く似合っている。

「どう?」

「はい、やっぱり似合ってます」

翼がそう言うと藤森先生はまるで子供のように無邪気に笑ってみせた。

無邪気な笑顔を見て翼は安堵の息を漏らす。

良かった。喜んでもらえて……。

そんな中、李哉の声が耳に届く。

「あの…もしかしてこのプレゼントって、全部――」

「うん。大抵がヘアピンとヘアゴムだよ。みんな僕がヘアピンとヘアゴムを付けてるからプレゼントでくれるんだ。それに子供達のお小遣いだったら100円ショップで買えるからね。僕のプレゼントは。これでまたレパートリーが増えるや。毎日みんなのくれた物を使おう」

とても嬉しそうに微笑んで藤森先生は言う。

本当に心から嬉しいのだろう。

物の価値ではなく、プレゼントをしてくれるという想いが。

少しだけ、藤森先生のような人になりたいと思った。

その時、こちらに向かって来る足音と共に藤森先生を呼ぶ声が。

声の聞こえた方へ視線を向けると、先程車椅子を持って来てくれたナースの姿があった。

紙袋を手にして。

ナースの手にある紙袋を見て藤森先生は嬉しそうな表情をして見せた。

「ありがとう。やっぱり紙袋はいるな。みんなを甘く見てたよ」

苦笑気味でそう言い、受け取ったプレゼントを紙袋へと入れていく。

翼も紙袋にプレゼントを入れていくのを手伝った。

プレゼントを全て紙袋へ入れ終えると藤森先生は紙袋を手にして告げた。

「ごめんね、じゃあもう僕は行くよ」

「はい、先生。また後で」

ナースが翼と李哉の代わりに答えると藤森先生は優しい笑顔を向けてくれた。

藤森先生が背を向けて数歩前へと進むと――

藤森先生の姿を見つけた子供達が一斉に集まって来て、一瞬にして囲まれてしまっていた。

更にはプレゼントも受け取っているようだ。

ナースからもらった紙袋へプレゼントを入れていくが、あの様子では紙袋の追加が必要だろう。

そう思ったのはナースも同じだったようで、紙袋を取りにナースステーションへ行ってしまった。

そこで翼は腕時計に視線を落とす。

もうそろそろカウントダウンが始まる。

テレビの前へ行こうとして車椅子のストッパーを外し、顔を上げた時。

人の行き交う中、少し離れた所に居る樹姫と不意に目が合った。

先日逢った時とは違い、車椅子に乗っている事はなくいつも通りに元気な様子だった。

樹姫も翼の姿に気付き、軽く右手を上げている。

どうやら体調が良くなったようだ。

樹姫の元気な姿を見て翼は安堵の息を漏らす。

それから樹姫には笑って返した。

翼の笑みを見て樹姫は微笑み、人混みへと紛れて行った。

樹姫の姿を見失い、翼は李哉に声を掛ける。

「もうそろそろだね」

再び腕時計に視線を落として告げた。

腕時計から李哉の方へと視線を向けると、李哉は嬉しそうに笑っていた。

笑っている李哉を目にして翼も自然と表情が緩む。

翼は車椅子をゆっくりと押し出し、人集の出来ているテレビの前まで来た。

テレビ画面の見える場所まで来ると車椅子を停め、足でストッパーを掛ける。

正にその時だった。

『カウントダウンまで一分を切りました!』

テレビからそんな声が聞こえて来た。

ストッパーを掛けた後、翼は静かにテレビを見つめる。

――もうすぐ一年が終わる――

終わると同時に、新しい一年が始まる。

小学校を卒業する年がやって来る。

中学生になる年が。

それに来年は李哉にとっても辛い一年となるだろう。

傷口を縫う手術後に酷い激痛が伴う。

もしもプレートを入れる手術で失敗すれば――

歩く事は愚か、一生立つ事の出来ない車椅子の生活か寝たきりの生活が待っている。

来年は李哉が思っている程、輝いている一年ではない。

恐らく、辛く苦しい日々が待っている事だろう。

……いつまで李哉は今のように笑っていられるのだろうか。

「――李哉君」

「何?」

新しい一年を迎える事が楽しみのようで、李哉は明るい声音で聞き返す。

そんな李哉とは対照的に、翼は静かに告げた。

「来年は、今よりもずっと辛いと思うよ」

「え…?」

李哉の声が耳に届いた瞬間。

周りの騒がしい声が遠くに感じられた。

李哉が驚いた表情をしてこちらを見る。

そうすればまるで、世界に自分達だけが取り残されたような錯覚さえ覚える。

「来年は、足を治すための手術が本格的に始まるから。李哉君、その痛みに耐えられる?」

きっと、耐えられるようなものではないと思う。

それは恐らく、翼も同じだと思った。

小学生生活とは何一つ変わらない中学生生活を送る。

もしかすれば小学生の時よりも酷い虐めに遭うかもしれない。

両親によって決められた、学力の高い中学校へ通い。

親の決めた、学力の高い高校へと進み。

やがては医大へ行き、医者へと――

嗚呼、考えただけで吐き気がする。

来年は恐らく、互いにとって辛い年となる事だろう。

それを知って李哉は一体、何と言うだろうか。

すると、李哉は翼から顔を背けた。

顔を背けた李哉を見て、翼はしまったと思った。

――やはり、年越し前に現実を叩き付けるべきではなかった。

浮かれている時に、そんな事を言うべきではなかった。

せめて今だけは、夢を見ているべきだった。

そう思い、翼が謝ろうとして口を開いた時。

李哉は背けていた顔をこちらへ向けて告げたのだ。

「耐えるよ。だって、足を治して翼君といっぱい遊びたいから」

「――――」

〝遊びたい〟

そんな希望を持たせてしまったのは紛れもない、自分だ。

それに李哉はわかっていない。

翼が口にした〝辛い〟が想像を絶するものだとは。

李哉の無邪気な笑顔を目にして、胸が酷く締め付けられる。

――この笑顔が失われる日がやがて訪れる――

いつかは、自分のように笑えなくなる日がやって来る。

李哉が自分と同じならば、いつかはそんな日が訪れる。

翼はそう思いながら李哉を見つめていた。

丁度その時、患者達が一斉にカウントダウンを始めた。

三十秒から声を大きくして。

カウントダウンの声が耳に届いた瞬間、翼は顔から表情を消し去った。

もうすぐ、年が明ける。

普通ならばここは喜ばなければいけないのだろうが……。

どうしても翼は喜べなかった。

出来る事ならば、このままずっと時がしまってしまえば良いのにとさえ思っていた。

そうすれば――

辛い日々など、ずっと訪れないのに。

大人になる事だってない。

医者になる事も、ないのに。

しかし、そんな翼の思いとは裏腹にカウントダウンが止まる事はない。

止まる所か進み続け、もう十秒にまで迫っていた。

十秒に入った瞬間、待合ホールに居た全員がカウントダウンを数える。

恐らくその中でカウントダウンをしなかったのは、翼ただ一人だけだろう。

きっと、翼だけだろう。

〝来年なんて来るな〟と思っていたのは。

「3、2、1――」

ハッピーニューイヤー、明けましておめでとう。

カウントダウンが終わった瞬間、全く統一性のない声が周りから上がった。

翼の願いも虚しく、年は明けてしまった。

その事に対し翼は小さく諦めの溜め息を吐く。

すると李哉が翼の方を見て嬉しそうに言う。

「翼君、明けましておめでとう! 今年もよろしくね!」

「――こちらこそ、よろしく。李哉君」

せめて、今だけでも。

笑える時に。

笑える間に笑っておこう。

そうすればまだ、笑っていられる。




――――まだ幸せだと思える――――




 年を越し、一月に入ってからしばらく経った。

一月に入り、李哉の生活は以前とは打って変わった。

字を書く練習を始めたのだ。

更には本も読むようになった。

最近では朗読ではなく、翼の気に入っている本を李哉に貸している状態だ。

――李哉は新しい自分の道を歩んでいる――

その先には辛い現実が待っているだけだけいうのに。

そんな李哉の姿を見てここ数日、翼はある事を考えていた。

それは、今年通う中学校の事だった。

李哉は自分の道を歩み始めた。

ならば翼も自分の道を歩みたい。

中学校三年間、自由に、普通に過ごしたい。

成績を気にする事も、気にされる事もなく。

毎日病院へ通う事もなく。

周りと同じように生活したい。

そう思う事は、いけない事なのだろうか。

それを両親に言えば、どうなるのだろうか。

やはり、怒られるだろうか。

それでも翼は自由が欲しかった。

このままずっと、両親に決められたレールの上を走るのは嫌だった。

せめて一度だけでも。

ほんの少しの間だけでも、自分で決めた道を歩んで行きたかった。

どうせ駄目だと言われるだろうが、それでも近々両親と話をしようとは思っていた。

あの親と逢うのは嫌だが、自分の事だから仕方ない。

深い溜め息を吐き出し、翼はある人物の病室前に立ち尽くす。

いつものよう、静かに扉をノックする。

――だが、どれだけ待っても返事は返って来ない。

「――失礼します」

声を掛けてから扉に手を掛けて開けてみるが……。

案の定、病室には誰も居なかった。

翼はもう一度溜め息を吐き出す。

この病室の患者は良く外に出ている。

翼が病室を巡回している時に限っていつも病室には居ない。

いや、ナースから聞いた話だと常に病室には居ないようだったが。

昼食と夕食の時はちゃんと戻って来ているというらしい。

翼は誰も居ない病室の扉を閉めてある場所へと向かって歩き出す。

この病室の患者が何処に居るかはわかっている。

それにしても、足を骨折しているというのに病室を出て出歩くとは……。

少し呆れながら翼はある場所へ足を踏み入れた。

病室に居ない時、いつもここに居るのを知っている。

翼は扉のドアノブに手を掛け、少し強く押して扉を開ける。

扉が開いた瞬間に冷たくはあるが新鮮が風が翼の身体を包む。

何処に居るだろうかと視線を彷徨わせる必要もなかった。

ある人物の声が風に乗って翼の耳まで届いたからだ。

「あァ!? テメェ、アタシの事馬鹿にしてンのかァ? してンだろ絶対によォ!!」

「してねぇつったら嘘になるな」

「やっぱ馬鹿にしてンじゃねぇかァ!! 表出ろやゴラァ!!」

「ここ、屋上。外に出てるだろ」

「ごちゃごちゃうるせェ!!」

屋上への階段を上がり、扉を開けたその先にある手摺りに。

樹姫と話――

というよりも一方的に喧嘩を売られている人物の姿が。

その人物こそ、翼が探していた人物だ。

翼はそんな二人の元へ歩み寄って声を掛ける。

「井上さん。また屋上に来ていたんですか?」

「あぁ、お前か」

「聞いてくれよ翼ィ! 拓海のヤローがアタシは女じゃねェって言いやがってよォ!!」

「俺は今までお前みたいな女は見た事がねぇって言っただけだっつーの」

「ンだとテメェ!!」

「樹姫も落ち着いて。また発作が出たらどうするんですか」

「でもよォ……!」

「男兄弟で育ったんならしょうがねぇなって言おうとしただけなのに。そう怒るなよ」

「だったらそれを先に言えや!」

樹姫と話をしているのは年を明けてすぐに入院して来た患者。

井上拓海だ。

カルテには階段から落ちて足を骨折したと書かれていた。

しかし、拓海の骨折に関しては少しだけ不可解な所があった。

階段から落ちただけでの骨折にはどう考えても思えないのだ。

普通の骨折ならば全治一ヶ月程で済むのだが。

拓海の場合は、以前にも足の骨を折った事があるようなのだが病院に通わずに治したようで変形して治っていた。

変形した足を治す為にも、拓海の入院は長引いていた。

拓海のカルテには虐待の疑い有りとも書かれていた。

それとなく拓海に確認したが「足を踏み外して落っこちた」としか答えなかった。

医師にもそう答えているようで、虐待ではないと一応は判断されているが。

本当の所はわからない。

入院したばかりの頃、拓海は人と関わろうとはしなかった。

そんな拓海が樹姫と話している姿を見て、最初は驚いた。

特に、初めてその姿を見た時も今のように喧嘩腰で樹姫が話していたからだ。

樹姫の怒声を浴びても尚、その場を立ち去らない拓海に驚いたのを覚えている。

樹姫はあのような性格な為、病院内で話し掛けて来る人物は居なかった。

みんな、何処か樹姫の事を恐れていた。

なので樹姫の話し相手と言えば自分以外には居なかった。

それが、拓海といつの間にか仲良くなっていた。

たまに樹姫が喧嘩腰になる事はあるが、普通に話をしている時もある。

拓海は樹姫を恐れる事もなく。

毎日のように樹姫の元へと行っていた。

そうでなければ樹姫の方からこの屋上へ来るようになっていた。

拓海と話すようになってから、樹姫は楽しそうに見えた。

以前と比べると、とても楽しそうに。

「とりあえず樹姫は安静に。じゃないと退院が長引きますよ」

「へいへい。わァったよ。大人しくしてりゃあ良いンだろ。ったくよォ」

樹姫の返事を聞き、翼は腕時計を見てその場から立ち去った。

せっかく二人で話しているのを邪魔してはいけないと思ったのだ。

それにもう李哉の病室へ向かう時間だ。

先程上がって来た階段を使って降りて行く。

エレベーターも屋上にはあるのだが、それは患者用だ。

ナース達は基本的にエレベーターではなく、階段の方を利用している。

翼の場合はエレベーターも使って良いのだが、いつも階段の方を使っていた。

階段を足早に降りて行き、李哉の病室のある階まで降りて廊下に出る。

李哉の病室へ向かって歩こうとした時。

「翼君」

不意に声を掛けられた。

声の聞こえた方へ振り返り、自分を呼び止めた人物を見つめる。

それは藤森先生だった。

藤森先生は翼に手を振りながら歩み寄っていた。

「藤森先生、どうしたんですか?」

「これから李哉君の病室に行くの?」

「はい」

「そっか。あ、それと。今度の十二日に李哉君の手術をする事になったから」

「十二日、ですか?」

「うん。これから僕も李哉君の病室に行くから一緒に行く?」

「そうですね――」

翼がそう答えた時だった。

廊下にアラームが鳴り響いたのは。

翼は驚いて腕時計を見つめる。

腕時計が示す時間は午後五時五十分だった。

先程腕時計を確認した時は四時頃だと思っていたが――

どうやら見間違えたようだ。

拓海の前の患者と話し過ぎたと後悔する。

李哉の病室へ行きたいが、帰らなければ嗄が待っている。

藤森先生もそれに察してくれたようで優しく言ってくれた。

「李哉君には僕の方から言っておくから。今日はもう帰っても良いよ」

「ありがとうございます、藤森先生」

藤森先生の言葉に甘える事にし、その日は帰る事にした。

李哉には後日、穴埋めしようと思い。

翼はランドセルを受け取って病院から出て行った。

だが、一つだけ気になった事がある。

十二日に、傷口を縫う手術が行われる。

つまり、李哉にとって辛い日々が始まると言う事だ。

「――――」

翼は少し足を止めて病院を振り返る。

李哉の病室を静かに見上げる。

――そんな李哉の為に自分は何が出来る?――

考えてみるが、何も思い付かない。

翼は李哉の為には何も出来ないと言う事だ。

自分に出来る事と言えば、ずっと李哉に付き添う事だ。

十二日は土曜日の為、ずっと付いていられる。

嗄には友達の手術の日だと伝えておこう。

嗄の事だ。

傍に居てあげた方が良いと言ってくれるはずだ。

少し後ろ髪が引かれるような気持ちだったが、翼は家に向かって歩き始めた。

 そして、一月十一日。

李哉が傷口を縫う手術の前日。

翼は李哉の病室前に来ていた。

扉をノックしようとした時、中から李哉の元気そうな声が聞こえて来た。

元気そうな李哉に少し安心し、扉をノックする。

最近では他の患者の病室へ入る時のように返事を待つ事はなく、返事を聞く前に扉を開ける事が多くなった。

李哉が返事を聞かずに入って来て良いと言ってくれたのだ。

そう言われ、李哉と仲が近付いた気がして嬉しかった。

翼は病室に足を踏み入れ、梅に会釈してからいつもの椅子に腰を下ろした。

どうやら李哉は字を書く練習をしていたようだった。

まだ読めるような字ではなかったが。

「字、書けるようになったんだ」

「一応ね。まだ読めるようなものじゃないけど」

「でも結構書けてる。かなり上達してるよ」

「そう言ってくれると嬉しいよ。あ、翼君! 今日ね、雑炊が出て来たんだ!」

「食べれた?」

「もちろん! 間食したよ! 次はお粥かって思うと嬉しくなって…」

嬉しそうに笑ってそう言う李哉。

そんな李哉の姿を目にして少し思う。

次の手術で失敗して立てなくなってしまった場合。

李哉は翼を恨むだろうか。

足は絶対に治るという希望を持たせた自分を憎むだろうか。

そうなると知っていて希望を持たせた自分から、離れて行ってしまうだろうか。

「――傷口を縫う手術、明日だよね」

「うん、明日だよ。すっごく楽しみなんだ!」

「だけど李哉君――」

〝次の手術の成功率が低いとしたら?〟

〝失敗する可能性の方が高いとすれば?〟

――そんな事、口が裂けても言えるはずがない――

しかし、早目に言っておいた方が良いだろう。

そう思いはするのだが、翼の口からその言葉が出て来る事はなかった。

絶望を与えるような言葉を李哉に言えるわけがない。

翼が不自然に口を閉ざした事に気付いた李哉が聞いて来る。

「何?」

「――早く、良くなると良いね」

これ以上、李哉を不安にさせまいと少し微笑んでみせる。

すると翼の放った言葉に対して李哉も微笑み、告げた。

「うん。ありがとう翼君」

李哉の微笑みを見て思う。

明日は学校が休みなので、ずっと李哉と付き添える。

手術後も、ずっと傍に居られる。

けれど、手術後は麻酔が効いている為意識はないだろうが。

それでも翼は時間ギリギリまで李哉と居るつもりだった。

その事を告げようとした時だった。

「ああ、そういえば」

「ん?」

「歩くための練習って、基本的に何をするの?」

「――――」

一番、聞かれたくはない質問だった。

歩く為の練習法等を教えてしまえば、李哉は絶対に歩けるようになると思い込んでしまう。

これ以上、希望を与えたくない。

立つ事の出来ない現実を叩き付けられた時の為に。

だが、李哉は少し不安気に翼を見つめて来る。

李哉の視線に気付き、翼は必死に言葉を探す。

的確に答えるべきか、それとも少し隠しながら答えるべきかと。

告げる言葉を探しながらも口を開いた。

「李哉君の場合は、いきなり立つ事は出来ないからまず最初は匍匐前進から。だからまず、上半身を鍛える所から始めないといけない。匍匐前進は考えている以上に辛いから、これからは時間が空いた時にダンベルとかを持ち上げておいた方が良いよ……」

歩けると信じてダンベルを持ち上げて上半身を鍛えたとしても。

歩けないと知れば。

立てないと知れば――

言葉を放った瞬間に襲われる罪悪感。

どうしてもこの罪悪感は拭えない。

罪悪感に苛まれていると、李哉が優しく言ってくれた。

「僕なら大丈夫だよ」

恐らく、翼を安心させる為に言ってくれたのだろうが……。

その気持ちは嬉しいが、やはり罪悪感は拭えない。

拭える所か、更に深まる一方だ。

その為、笑う事が出来なかった。

そんな翼を見て李哉が不安そうな表情をしてみせる。

それに気付き、翼は口を開く。

「――明日、絶対に病室に来るから。手術前からずっと、終わるまで。ずっと……居るから」

李哉の為に自分が出来る事など何もない。

出来るならば、たった一つだけ。

李哉の手術が成功する事を祈る事だ。

恐らく、それぐらいしか出来ないだろう。

――自分は何の力も持っていない、小さな子供なのだから――

例え成功率が低いとしても。

少しの可能性に賭ける。

それに、最終的には李哉自身が決める事になる。

ここで翼が悩んでいてもどうしようもない。

全ては李哉が決める事なのだから。

 翌日の一月十二日、土曜日。

翼は静かに目を覚ました。

もちろん、セットしていた目覚まし時計が鳴る前に。

六時ぐらいかと思いながら眼鏡を掛けて目覚まし時計を確認し――

思わず目を見張った。

目覚まし時計の示す時間は午前五時二分だったからだ。

それを見て翼は深い溜め息を零す。

窓の外はようやく日が昇り始め、明るくなって来たくらいだった。

どうしてこうも、早く起きてしまうのだろうか。

嗄とのデートの時も、今日も……。

六時頃に起きて丁度良いと言うのに、早過ぎる。

病院へは七時頃へ向かえば十分だと言うのに。

翼はベットから起き上がり、カーディガンを軽く羽織って一階へ降りる。

とりあえず、朝食を作って食べよう。

さて、余った時間をどうしようか。

二度寝はする気にはなれない。

寝過ごしてしまった時の事を考えると気が気でなく、逆に眠れない。

ならば起きていた方が良い。

本も――

李哉の事が気になって内容が全く頭に入らない。

どのように空いた時間を過ごそうかと考えながらリビングに足を踏み入れる。

暖房のスイッチと床暖房を入れて、ガーディガンに腕を通す。

朝食の準備をする為、キッチンへと立つ。

そこで、ある事を思い出した。

それは中学校生活の事。

両親と話し合おうと思っていた事を思い出したのだ。

思い出した瞬間、翼は時計を確認した。

――今までこんな早朝に病院へ行った事はない――

もしかすれば両親に逢えるかもしれない。

早目に病院へ行く事を決め、翼は簡単で早く出来る朝食を作ってすぐに食した。

そしてすぐに身支度をして病院へと向かった。

両親と逢えるかもしれない。

逢えないとしてもコンタクトを取れば三月までには逢えるだろう。

そうして早目に病院へ向かい、ナースに両親と逢えないかと話してみたのだが。

返って来た答えはやはり〝忙しいから無理〟

その一点張りだった。

またもや翼は深い溜め息を吐き出す。

どうやら両親と逢う為にはしつこい程、ナースや医師に声を掛ける必要があるようだ。

前回、そうして逢えた事を思い出す。

あの時は夢について話をして、両親によって奪われた。

今回も、またそうなるのだろうか?




――――中学校三年間、俺を自由にしてください――――




そんな事を言えば、また拳を浴びる事になるだろうか。

それでも今回は折れるわけにはいかない。

このまま、何年も同じような日々が待っているのは絶対に嫌だ。

例えどんなに殴られようと、今回は自分の考えを貫き通すつもりだった。

そこで翼は我に返る。

不意識の内に翼の足は李哉の病室前まで来ていた。

翼は腕時計へと視線を落とす。

まだ六時四十分だ。

流石にまだ眠っている時間だろう。

「――失礼します」

小さくそう呟き、翼は病室へ足を踏み入れる。

ノックをしなかったのは、眠っている李哉を起こしてはいけないと思ったからだ。

病室に入るとやはり李哉はまだ眠っていた。

翼は李哉を起こさないように注意を払って静かに椅子を移動させて腰を下ろした。

椅子に腰を下ろし、眠っている李哉を見つめる。

李哉は幸せそうに微笑んで眠っていた。

そんな李哉を見つめ、翼はそっと右手を伸ばす。

伸ばした手は李哉の頭に触れ、小さく撫でる。

柔らかく、触り心地の良い李哉の髪。

「――――」

自分も李哉も、残酷な世界の元に産まれた。

辛く、苦しい運命を背負わされた。

この悪夢から逃れる事は出来ない。

そういう意味では翼と李哉は同じレールの上に居るのではないだろうか。

ならば似た者同士の二人が互いを支え合わなくては。

李哉の頭を撫でながらそう考える。

そこで翼はある事に気付き、李哉を撫でる手を止めた。

――このように自分から人に触れるのは初めてではないだろうか――

その事に気付き、手を止めたのだ。

よく考えてみればそうだ。

自分から人に触れた記憶がない。

触れるチャンスは嗄の時などにあったが。

実際に触れる事はしなかった。

つまり、また〝初めて〟だ。

本当に李哉は多くの〝初めて〟を教えてくれる。

そう思っていた時だった。

「…翼」

不意に李哉が翼の名を呼んだ。

少し驚いて李哉の顔を覗いてみると……。

李哉は嬉しそうに笑っていた。

李哉の表情を見て翼も表情を綻ばせた。

それからしばらくして七時になった頃。

李哉が静かに目を覚ました。

どうやらまだ意識が覚醒していないようで、眠そうな目で壁に掛けてある時計を見つめる。

李哉が少し起き上がったので、翼はそこで声を掛ける事にした。

「おはよう、李哉君」

翼が声を掛けた瞬間、李哉が驚いた。

少し、髪の毛が逆立ったように見えたのは気のせいだろうか。

だが、すぐに嬉しそうに表情を緩めて口を開いた。

「おはよう。でも、翼君。どうしてこんなに早い時間に…?」

「ちょっと、父さんと母さんに話したい事があって早く来たんだ。家で待ってても会えないから。これくらいの時間なら話せると思ったけど――やっぱり忙しいから話せなかった」

「そう、なんだ」

「それにそのまま家に帰る気にもなれなかったから、李哉君の病室に来たんだ」

帰る所か、最初から李哉の病室へ行くつもりで来たのだが。

翼がそう言うと李哉が嬉しそうに、照れくさそうに「ありがとう」と告げると病室に静寂が訪れた。

朝の病院は夜の時よりも静かだ。

まるで別世界のように。

静か過ぎて翼と李哉だけが世界に取り残されたような錯覚さえ覚える。

静かな病室に、二人きり。

こういう時は何を話せば良いのだろうか。

少し何を話そうかと考え、翼は口を開いた。

「――手術、怖い?」

唐突に投げ掛けられた質問に李哉は少し戸惑いを見せた。

それでも李哉は空に視線を少し泳がせて答えた。

「え、えっと…。少しは…」

「少しだけ?」

「うん…。だって、この手術が終わったら足が治っていくんだよね? だから楽しみでもあるんだ」

眩しいくらいに明るい笑顔を李哉は向けて来る。

李哉の笑顔を目にし、またもや酷い罪悪感に襲われた。

希望に満ち溢れた李哉の顔を見る事が出来ず、思わず俯いてしまう。




――――君は、この先に待ち受けている現実を知ったら……どうする?――――




――――僕から、離れてしまうの?――――




――――全て、なかった事にするの?――――




以前、物語に書いた一文を思い出す。

そして思ってしまう。

嗚呼、自分は弱いと。

不安で、不安で堪らなくて、怖い。

自分はなんて弱虫なんだ。

友達を失う事が、こんなにも怖い。

でも、友達だからこそ教えたい。

隠し事はしたくない。

そう思い、小さく口を開く。

「――――もし」

発した声はか細く、静寂の中に消えてしまう。

もちろん、李哉の耳に届く事もない。

その為、李哉が聞き返して来る。

「え?」

翼は握り締めた拳を固くし、俯いていた顔を上げた。

そして李哉を静かに見据えた。

意を決して、友の為に真実を告げようとして口を開いた。

「もしも、手術が――」

その時だった。

二人の間を割って入るようにして病室の扉が勢い良く開いた。

扉の開く音によってまたもや翼の声は届かず――

病室の扉には梅の姿があった。

梅は病室に入るなり、普段よりも明るく振舞っていた。

「李哉、体調はどうだい? 大丈夫かい? 手術が怖くないかい?」

恐らく李哉を不安にさせない為にそうしているのだろう。

だが、その態度とは裏腹に梅の表情はすごく心配そうだった。

更には梅によって言葉攻めされた李哉は聞き返すタイミングを失っていた。

その為、手術について触れられる事はなかった。

梅も李哉を気遣って手術については触れないようにしている様子だった。

話す事はいつものように他愛もない事ばかり。

いつも通りに話してると李哉の表情が柔らかくなっていったように感じられた。

どうやら緊張が解れたようだ。

更にはいつものように笑顔まで見せるようになった。

李哉と楽しく話していると、やがて藤森先生が病室に訪れた。

腕時計に視線を落としてみるともう麻酔を打つ時間になっていた。

病室に入って来た藤森先生の後にはナースが二人続いて病室へ足を踏み入れた。

李哉のベットの横に来るとナース達は麻酔の準備を始める。

麻酔の準備が整うとナースから全身麻酔の入った注射器を藤森先生は受け取り――

優しく李哉に告げる。

「じゃあ、麻酔を打つよ」

「あ、ちょっと待ってください」

麻酔を打とうとした藤森先生に李哉が制止の声を掛けた。

どうしたのかと翼が聞こうとした時だった。

李哉が優しく微笑んで言ったのだ。

「大丈夫だから。ありがとう、翼君。おばあちゃん」

李哉にそう言われ、初めて気が付いた。

決して、不安そうな顔はしないと決めていたと言うのに。

翼は十分、悲しそうな表情をしていたと言う事に。

窓の方へ視線を向けてみると、窓には自分の不安そうな。

悲しげな表情が映っていた。

それは梅も同様で、李哉の言葉に二人とも戸惑ってしまった。

けれど翼はそっと李哉の手を取って、ほんの少しだけ握る手に力を込めて告げた。

「李哉君、頑張って」

翼がそう言うと李哉は安心したように微笑み、藤森先生に「お願いします」と告げる。

そして静かに目を閉じた。

目を閉じた李哉に藤森先生は麻酔の入った注射を李哉に打ち込んだ。

麻酔を打った後、しばらく藤森先生とナース達は病室に留まった。

ちゃんと麻酔が効いているかの確認の為だ。

麻酔が効いたか、藤森先生が李哉の右足の壺を強く抑えた。

反応がない事から麻酔が効いたと判断し、ナース達に合図を出す。

するとナース達は廊下の端に寄せていたストレッチャーを病室へと運び、李哉のベットの横に付けた。

ストレッチャーを寄せると藤森先生とナースで李哉の身体を持ち上げ、ベットからストレッチャーへと乗せる。

ストレッチャーに李哉を乗せると移動中にストレッチャーから落ちてしまわないようにとベルトで身体を固定し――

李哉を病室から連れ出した。

ストレッチャーに乗せられて病室を出て行った李哉の後を梅と共に追って行く。

藤森先生達と共にエレベーターに乗り込み、手術室のある四階で降りる。

手術室の階に降りると藤森先生とナース達はそのまま手術室へと入って行ってしまった。

藤森先生が手術室に入った瞬間、手術中の赤いランプが照らされた。

流石に手術室まで入る事は出来ない為、翼と梅は手術室の前で待つしかない。

ただ、手術が成功する事を祈るしかない。

手術室の前で時間だけがただ過ぎていき、翼は時間が流れるのを李哉から貰った腕時計で見つめる。

今回の手術、成功するとはわかっていても翼は不安だった。

こんなにも患者に対して不安感を感じた事はない。

翼は手術室の赤いランプが消えるのを静かに待っていた。




 夕日が窓から射し始めた頃。

唐突に手術中のランプが消えた。

それに気付いた瞬間、翼と梅は長椅子のソファーから立ち上がる。

閉ざされていた手術室の扉が開き、中から手術室に入った時の白衣姿ではなく。

手術用の緑色の手術着を身に纏い、手術用の手袋を脱ぎながら藤森先生が出て来た。

手袋を脱ぎ、藤森先生は安心したような笑顔で口を開いた。

「手術は無事、終わりましたよ。これから李哉君を病室に戻すので安心してください」

藤森先生の言葉と優しい表情を目にし、肩の力が抜けていくような気がした。

梅も同じだったようで、横で大きな安堵の息を漏らしていた。

安心した頃、手術室から李哉がストレッチャーに乗せられて出て来た。

出て来た李哉の元に近寄ってみると、李哉は嬉しそうに微笑んで眠っていた。

その笑顔は手術室に入る前よりも嬉しそうに見えた。

そんな李哉の表情を見て少しだけ胸が痛んだ。

この表情が、苦痛に歪む様を想像してしまったのだ。

これからが、本当の悪夢の始まり。

決して逃げる事の出来ない、生き地獄。

次に李哉が目を覚ました時は一体、何が待っているだろうか。

それはきっと、翼と同じような苦しみだ。

――この時の俺はまだ思っていた――




――――俺と李哉は同じような人間だと――――









                                              ~To be continued~


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