青春スクエア ~綾崎翼の片思い~ 小学生編17
――とても、不思議な気持ちになった。
あれだけ嫌いだった、病室で……。
医者のような事をして。
ずっと、嫌だったはずなのに。
病院内で唯一落ち着く事の出来るこの病室で。
嫌だったはずの患者の為に本の朗読をしている自分。
けれど全然嫌ではなかった。
寧ろ逆に心地良ささえ感じていた。
今まで、本を朗読をしていてこのような気持ちになったのは初めてだ。
子供達にする朗読とは違う。
朗読するのが絵本ではなく、小説だからだろうか。
小説を朗読していると、作者の描く世界観に引き込まれる。
朗読をしていると――
まるでこの病室内だけ別世界のようにさえ錯覚しそうになる。
そして翼は一瞬でも思った。
病院が嫌になってから、初めてだ。
――もう少しだけここに居たいと思ったのは――
そんな事を思うのは初めてだった。
そんな事を思う事など、この病院内ではないと思っていた。
だが、それは違っていた。
それが柳葉李哉と出逢ってから最初の〝初めて〟だった……。
静かな自室。
ノートにシャーペンが走る音だけが響く。
この家には自分以外に物音を立てる人物は居ない。
翼はノートに物語を描く手をふと止めた。
脳裏に過ぎるのはあの少年、柳葉李哉の事。
柳葉李哉は、あの時一体何を感じていたのだろうか。
一体、何を思っていたのだろうか。
確かに朗読をする前と朗読の終わった後では宿す瞳の色が変わっていた。
今まではずっと、窓の前に置かれた人形のようだったが。
翼が朗読を終えて病室から出る時に見た少年の瞳には強い光が宿っていた。
感情を持った人形。
いや、人に戻れたように思えた。
ここ数日、考えるのはあの患者の事ばかり。
どうして、こんなにもあの患者の事が気になるのだろうか。
思い出すのは、あの白い病室で一人静かに窓を見つめる少年の姿。
その光景が目に焼き付いていた。
――あの患者は、今まで見て来た患者とは違う。
強く印象に残るあの少年。
何故、こんなにもあの少年の事が気掛かりになるのだろうか。
顔を少し上げ、窓から見える星を見つめながら考えてみる。
少年にとって、自分はどのような存在なのだろうか。
自分はあの少年の瞳にどう映っていたのだろうか。
あの少年は、自分の朗読を楽しみにしてくれるだろうか。
翼は卓上カレンダーを見つめ、明日はどう過ごすか計画を立てる。
明日は日曜日だ。
本来ならば図書館へ行こうと考えていたのだが――
思い浮かぶのは、柳葉李哉の事。
「――――」
明日は病院へ行こう。
やはり、どうしてもあの患者の事が気になる。
そう決めて、翼は日記を手にする。
そこで少しだけ動きを止めて気が付いた。
翼が嗄以外の人間に対して興味を抱いたのは初めての事だと。
藤森先生が大切な人を失った時、こんなにも気にはならなかった。
心配にはなったが、今回までではない。
少し自分でも思う。
他人に対して興味を抱く事は本当に数少ないと。
それとも、この気になるという感情は嗄に抱くものと同じものなのだろうか。
いや、違う。
ならば、何故こんなにも気になる?
――――わからない――――
ただの気紛れ?
ただの好奇心?
色々と考えるが答えは出て来ない。
深い溜め息を一つ吐き出し、日記を開く。
シャーペンを手に取り、今日あった出来事を日記に綴っていく。
〝明日になれば、この答えは出るだろうか?〟
日記にそう書いて小さく息を吐き、静かにノートを閉じた。
今日はもう眠ろう。
部屋の電気を消し、スタンドの電気だけが付いた状態になる。
ゆっくりとベットの中に潜り込み、スタンドの電気を消して目を閉じた。
そして翼はしばらくして夢へと溺れていった。
翌日の朝、目覚ましの音で目を覚ます。
流石に十二月の早朝は凍るように寒い。
ベットから起き上がり、冷たい空気に少し驚きながらカーディガンを軽く羽織る。
両腕を摩って暖めながら階段を降りて行き、リビングの扉を開け放つ。
自室よりも広い上にフローリングのリビングは自室以上に寒く感じられた。
すぐにエアコンのリモコンを手に取り、部屋の空気を温める。
それから床暖房もスイッチを入れた。
部屋が温まって来ると同時に翼は朝食の用意を始めた。
もうすっかりと慣れてしまったこの生活。
料理に関しては並みより少しは上手く出来るようになっていた。
嗄程とは言わないが。
リビングに包丁でリズム良く刻む音が響く。
そこでふと、窓の外を見つめる。
窓の外は連日降り続いた雪のせいで白く染まっていた。
空が曇っているので今日も恐らくは降るのだろう。
今日も洗濯物は部屋干しだと思い、小さく溜め息を吐く。
そうしている間にも朝食を作り、作り終えると食卓テーブルで時間に余裕を持ちながら朝食を摂る。
朝食を摂って食器を洗った後しばらくはリビングで暖まり、時間になると外へ出掛ける用意を始めた。
コートを身に纏い、マフラーを首に巻く。
必要最低限の持ち物だけを手にして靴を履き外へ出た。
外に出た瞬間、想像以上の寒さに身震いがした。
玄関の鍵を閉めて門を開け、病院へと向かって歩き出す。
雪の降り積もった真っ白な世界を。
連日ほんの少しずつだが、雪が降り続いた。
5cm程は積もっているので歩いて行けば行くほど小さな雪だるまの姿が見える。
空を仰ぎ見てみると、本当に今日も降りそうな雰囲気だ。
天気予報では降らないと言っていたが、どうやら外れそうだ。
足跡の付いていない雪の上を踏み締めて歩きながら翼は少し思う。
自分の色とは、どんな色なのだろうかと。
透明?
それとも、この世界のように白なのだろうか?
「……白、か…」
白は、やはり心の何処かでは好きな色なのだろう。
白を見ると落ち着く自分が居る。
白が好きという事は、医者の息子であるという事なのだろうか。
だから嫌った。
そうじゃないのだろうか。
病院へと向かう道でそんな事を考えていた。
自分があんなにも嫌っていた場所へと毎日足繁く通う。
あんなにも嫌っていた医者のような事をしている。
そんな自分に苛立ちを感じるが――
それ以上に柳葉李哉の事が気になっていた。
ようやく病院の敷地内に入る事が出来た。
雪が積もっているせいで足場が悪く、いつもより病院に着くのが遅くなってしまった。
家をいつもより早めに出て来て正解だったと思う。
正面玄関へと足場に気を付けながら向かっている時だった。
子供達の嬉しそうな、楽しそうな笑い声が耳に届いた。
何処から聞こえて来るのかと少し視線を巡らせていると。
小さな公園となっている広場で子供達が雪だるまを作っている姿が視界に入った。
その中には藤森先生の姿も見える。
藤森先生も嬉しそうに、楽しそうな表情で子供達を見つめていた。
そんな藤森先生に声を掛ける事にして、藤森先生の居る方へ歩み寄って声を掛けた。
「藤森先生」
「ん? あぁ、翼君」
「今日は外で遊んでいるんですか?」
「まぁね。みんながどうしても外に出て遊びたいって言うから……。それに、見張り役でもあるかな」
「見張り、ですか」
「発作が出る子も居るし、何よりも――」
藤森先生がその先を口にしようとしたその時。
藤森先生の顔に目掛けて雪玉が飛んで来た。
雪玉が見事に命中した藤森先生の姿を見た子供達が嬉しそうに笑う。
顔面に雪玉が当たった藤森先生はゆっくりと子供達の方を振り向いて言った。
「よ……くも、やってくれたな~~~~?」
そう口にした瞬間、藤森先生は雪を掴んで雪玉を作っては子供達へ向けて投げた。
それが切っ掛けとなり、雪だるまを作るはずがいつの間にか雪合戦へとすっかり変わってしまっていた。
目の前で雪合戦が行われている光景を見ながら翼は少し思う。
(もしかして、子供達が雪合戦をしないようにの見張りだったんじゃ……?)
そうだったのならば全く持って意味がない。
これではミイラ取りがミイラになってしまうのと同じだ。
けれど子供達が楽しそうなので多めに見る事にした。
翼が雪合戦の様子を眺めていると、一人の女の子が翼の元へ駆け寄って来て告げた。
「めぐみ兄ちゃんもあそぼ?」
「……そうだね」
そう答え、翼も雪合戦に混ざる事にした。
藤森先生とは敵同士になるように。
子供達と一緒になって藤森先生だけ集中攻撃を仕掛けるような形になった。
――このように雪合戦をしたのはどれくらいぶりだろうか――
記憶を巡り、幼稚園生だった頃にこうして雪が降り積もった時の事を思い出す。
その時も今のように雪合戦をした。
みんなと楽しく笑って遊んでいた。
そんな翼の隣には、譲二が居た。
二人でずっと雪の上を駆け回っていたのを思い出す。
今はあの頃とは違うが。
それでも十分に楽しめた。
汗が出るくらいには、子供達と一緒になって遊んでいた。
年齢のせいもあって一番にダウンしたのはやはり藤森先生だった。
翼も少し疲れ、休憩の為に雪合戦から抜け出した。
冷たい空気が今では涼しく感じられる。
雪合戦をしている場所から少し離れようと思い歩き出して気が付く。
雪合戦をしていた広場からあの噴水が見えるという事に。
もうあの噴水が完成していたのかと少し驚いた。
それから、不意に脳裏に過ぎる。
あの時の藤森先生の光景が。
藤森先生の涙が。
「――――」
「噴水、出来ちゃったね」
不意に藤森先生から声を掛けられて驚く。
藤森先生は優しく微笑み、近くにあったベンチへ腰掛けた。
翼も釣られるようにして藤森先生の隣に腰を下ろす。
「でも、いつまでも変わらないって事もないからね。ずっと変わらないである場所はないから」
「……そうですね…」
ならば、人もだろうか。
人も、数年後には今とは別人になってしまう。
自分がそうだったように。
それならばまた数年後、自分は変わっているのだろうか。
今とは、別人に。
そう思った時、ふとある事を思い出した。
そしてすぐに腕時計へと視線を落とす。
時計の針は午後十二時五十分を差していた。
今日、何の為に病院へ来たのかを思い出した。
それは柳葉李哉の病室へ行って朗読をする為だ。
本来の目的を思い出し、翼はベンチから立ち上がった。
「すみません、俺行く場所が――」
「李哉君の所だろう?」
「え……」
「確かに、あの子の事は気になるからね。行ってあげた方が良いと思うよ」
「はい」
翼は雪合戦をしていた場所に戻り、本の入った鞄を手にして正面玄関へと向かう。
少しだけ足早に。
――もしかしたら、迷惑かもしれない――
ほんの少しだけそう思うが、あの瞳を見ると。
希望を宿したあの瞳を思い出すと。
もしかしたら、自分の事を待っているかもしれないとも思える。
足早で病院内を歩いて行くが。
雪を踏み締めて来たので雪が付いた靴で歩くと少し滑る。
滑られないように気を付けながらも、翼は202号室に辿り着いた。
柳葉李哉の病室前に立ち尽くす。
病室前に立ち尽くし、鞄から一冊の本を取り出す。
それは、昨日朗読をした〝未来への道標〟だ。
――この間まで、翼がずっと入り浸っていた病室――
足の激痛のせいでまだ眠っているかもしれない。
その時はまた後日改めて来れば良い。
不安を胸に抱きながらも翼は静かに扉をノックする。
返事が返って来るかと待っていると……。
「どうぞ」
返事が返って来た。
返って来た声は、昨日この病室に来た時に聞いた声。
柳葉李哉のものだ。
今日は起きているのだとわかり、静かに扉を開けて病室内に入る。
扉を静かに閉め、柳葉李哉と向き合う。
柳葉李哉は最初、翼を見て驚いた表情をして見せた。
もしかして、朗読は昨日の一度きりだとでも思っていたのだろうか。
それとも、夢とでも思っているのだろうか。
もう来なくて良いと言われるよりは良いと思い、柳葉李哉に尋ねてみる。
「今日も朗読しますけど、良いでしょうか?」
そう聞いたのだが、柳葉李哉は驚いた表情のまま頷いた。
もしかすれば、現状把握が出来ていないのだろうか。
訳が分からず、ただとりあえず頷いただけなのだろうか。
そんな人に向かって朗読を始めても良いのだろうか。
少し迷い、椅子に腰を下ろす事さえも出来なかった。
すると、再び扉がノックされる音が病室に響いた。
誰だろうか。
藤森先生が来たのだろうか。
翼がそう思うと同時に病室の扉が開いた。
病室に入って来た人物は七十代のおばあさんだった。
その人物には見覚えがある。
良く柳葉李哉の面会に来ている、祖母の柳葉梅だ。
以前病室の前に来た時等に何度か顔を見ている。
向こうは翼の事を知らないだろうが。
梅はお手洗いに行って来たのだろうか、ハンカチで手を拭いており。
顔を上げてから初めて翼の存在に気が付いた様子だった。
「あら」
柳葉梅もまた、驚いた表情をして見せた。
恐らく、柳葉李哉に自分以外の面会者や友達が来なかった事から翼の存在が珍しいのだろう。
翼は梅に頭を下げて告げる。
「初めまして。綾崎翼です」
そう名乗ると、梅は翼の手にある本を見て小さく「あぁ」と呟く。
自分が朗読をしていた事を梅に話しているのだろうか。
すぐに翼の存在に納得してくれたようだ。
嬉しそうな表情をした梅が病室の隅にある椅子に腰を下ろした。
祖母に自分が朗読をした事を話しているという事は――
それなりに自分のする朗読を楽しみにしてくれていると言う事だろうか。
そう思うと嬉しくなって来る。
「めぐみ君は、何歳なんだい?」
不意に質問を投げ掛けられて一瞬だけ戸惑った。
しかし平穏を装い、すぐ質問に答える。
「今年で十二歳になりました」
「じゃあ、李哉と同い年なんだねぇ」
「はい」
「君が李哉に笑顔をくれた子かぁ。これからも李哉と仲良く頼むね」
梅の言葉を聞き、一瞬時間が止まったように感じられた。
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
自分が柳葉李哉に笑顔を与えた?
こんな自分が?
それ程までに朗読を楽しみにしていた?
翼は誰かに何かを与えるような存在になった。
自分はそんな人間じゃない。
そんな、すごい人間じゃない。
けれど――
あの窓辺でただ外を見つめていただけの少年に。
そんな少年に、自分は笑顔を与えた。
その事が純粋に嬉しい。
少しだけ、表情が綻ぶ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言われたのは初めてだ。
だからどう反応して良いのかわからない。
とりあえず翼は柳葉李哉の前にある椅子に腰を下ろす。
そして、手にしていた本を開いて朗読を始める。
「『今、何かを思い出しそうだった。もう少しで何か――。その時、遠くから良く聞いた声が聞こえた』」
朗読を始めると不思議な感覚に捕らわれる。
李哉も梅も静かに翼の朗読を聞いていてくれる。
作家の作り出した世界を、翼が彩っていく。
それが楽しくも、嬉しくも感じられる。
こんな感覚は初めてだ。
以前、この病室で読んだ時とは違う。
小説とは本当に不思議だと思う。
一度読めば作家の描く世界観に引き込まれる。
自分も、こんな世界を。
そんな物語を書けるようになりたいと思った。
それからある事に気付く。
柳葉李哉と出逢ってから、多くの〝初めて〟を感じた事に。
この患者は、今までとは違う。
柳葉李哉と居れば、自分は変わる事が出来るだろうか。
今よりも、強くなれるだろうか。
医者の息子と言う立場から逃れられる程に。
――自分は、変われるのだろうか――
しばらく朗読を続けていて、翼は気付いた。
柳葉李哉が眠ってしまった事に。
何時くらいから眠っていたのだろうか。
それでも聞いてくれただけでも嬉しい。
自分の朗読で柳葉李哉が笑ってくれるなら。
そう思いながら、眠っている柳葉李哉の顔を見つめる。
とても嬉しそうに、幸せそうに微笑んで眠っている。
その表情を見て、翼も自然と微笑む。
以前見た寝顔とはまるで別人のようだ。
「あらら、寝ちゃったのね」
「そうみたいですね」
「……本当にありがとうね。この子、めぐみ君が来るまではずっと笑わなくて。私とも話をしなかったのよ。それが、嬉しそうに笑って。君の朗読の内容を話してくれてねぇ。本当に、ありがとう」
「いえ、それ程の事はしていませんから」
「それにこの子ね、他の病院からこっちに変わって来たから引っ越して来たも同然で友達が居なくてね。近々、年の近い子と話をさせようと思ってたんだけど……本当に助かったわ」
「――――」
「記憶喪失だったし、私の事所か自分の事も覚えてなかったし……。私もどうして良いかわからなくて」
「……そうですよね」
記憶のない本人も辛いだろうが、周りの人も辛い事だろう。
大切な、掛け替えのない思い出が。
自分の事さえも忘れられているのだから。
忘れられた瞳で見つめられたら、どんな気持ちになるのだろうか。
一応小説で読んでどんなものかはなんとなくわかるが。
実際はどんなものだろうかと少し考える。
「それにしても、本当に良い寝顔だねぇ」
「そうですね」
「病院に来てからこの子のこんな顔、初めて見たわ。いつも辛そうな顔だったもの……」
「……そう、ですね」
「それにめぐみ君の声は優しいから安心出来たんだよ」
「そんな事ないですよ」
「とても心地良かったよ。めぐみ君は、朗読が上手だねぇ。アナウンサーとかになりたいのかい?」
「いえ、そんな事はないです。意識はしてないんです」
「じゃあ、元々持ってる才能なんだね」
「そうみたいです」
「めぐみ君はアナウンサーとか、声優とかに向いてるんじゃないかい?」
「いえ、俺はなりたいものがあっても……なれないので」
梅にそう言われ、ふと小説家が夢だった事を思い出す。
医者の息子と言う立場では、夢を持つ事さえ許されない。
抱いた夢を貫く事も出来ない。
それは、自分が弱いから?
それとも、運命には逆らえないのだろうか。
翼もいつかは大人になり、医者になり、父と同じような人生を歩み。
医療関係者の女性と結婚し、子供を産み――
自分と同じ人生を送らせる。
(……そんなの、嫌だ)
けれど、これは切っても切れぬ輪廻。
決して途絶えぬ鎖。
それから逃れる術はない。
逃れる事は出来ない。
自分でもそう思い、心の何処かで納得している自分が居る。
いつかは全てを受け入れなくてはいけない日が来る。
今は否定し続けていても、高校生ぐらいになると嫌でも現実を叩き付けられる。
そんな日が、いつか来るに決まっている。
そんな事を考えているといつの間にか柳葉李哉が起きており、自分を見つめていた事に気付く。
「あ、気分はどう?」
翼はそう聞いたのだが。
柳葉李哉は何か言いたげな表情をしている。
そんな顔を見て、確かに様々な疑問が浮かぶだろうと思う。
柳葉李哉には自分の名前しか教えていない。
それ以外の事は何も知らないのだから。
外へ出られない現状ならば尚更だ。
何故、翼は病院に居るのだとか。
どうして自分の事を構うのかとか。
「――――」
そう考えて、翼は心の中で小さく笑った。
――――それは自分が聞きたい――――
昨日の答えは未だ出ないまま。
この答えは何時になったら出るのやら。
すると、柳葉李哉が口を開こうとした瞬間。
顔が苦痛に歪んだ。
恐らく、足の痛みが酷いのだろう。
慣れるまでは痛みに耐える事は難しいだろう。
そう思い、柳葉李哉に優しく声を掛ける。
「大丈夫。無理はしなくていいから。辛いなら無理しないで寝てていいから。時間になったら行くけど、それまではずっといるから」
安心出来るような言葉が掛けられたら良いと思う。
少しでも、足の痛みが和らげば良いと願う。
そう思うのは、自分の中に医者の血が流れているからか?
そんな考えを必死に打ち消す。
やがて柳葉李哉は安心したように目を閉じた。
それを見て、翼はある事を思い出した。
〝おやすみ。
深い深い夢を見よう。
現世の事など忘れて、夢に溺れよう。
そこには幸せがある。
現実には存在しない、至高の幸せが。
さぁ、夢を見よう――〟
この文は、嗄のおかげで書けるようになった物語での一文。
自分の書いた文を思い出したのだ。
夢の中では、辛い事も何もない。
その足の痛みも消えてしまう。
いつかは覚めてしまう夢だけれども。
今だけは、その夢に溺れる事が許される。
さぁ、お眠り。
「……おやすみ。良い夢を」
小さくそう呟く。
眠りに付いた柳葉李哉の顔を見て、心の中でだけ問う。
(君は、起きている時と眠っている時……どっちが好き?)
答えは二つに一つ。
けれどその質問を本人にはしない。
いつまでも、夢を見て居れば良いと思うからだ。
現実を知らない、子供のままで居れば良い。
――現実を叩き付けられたらどう思う?――
もう自分の足では立てないかもしれないと知った時。
走る事は出来ないと知った時。
少年は絶望の淵へと落とされる事だろう。
それならば、夢を見ている方が良いに決まっている。
現実から目を背けて居れば良い。
いつか覚める夢だとしても。
今だけは、夢の中で。
現実を叩き付けられるまで見る夢。
(夢……)
柳葉李哉がそうならば、自分もそうなのではないだろうか。
医者になるという現実を叩き付けられるまでの夢。
いつかは覚める夢を、翼も見ている。
ならば柳葉李哉と自分は同じなのではないだろうか。
「……同じ……?」
「ん? 何か言ったかい?」
「いえ、何でもないです」
――同じなのだろうか?――
柳葉李哉と自分は。
しかし、まだそれはわからない。
もう少し柳葉李哉と話していたら、わかるだろうか。
自分が柳葉李哉に構う理由が……。
翌日、翼は学校へ来ていた。
平日なので学校へ通わなければいけないのは仕方ない事だ。
しかし、虐めも一緒なのかと思うと嫌だ。
休み時間の教室に自分の居場所などない。
その為、図書室へと逃げ込んでいた。
いつもの特等席で本を読んでいると、ある一文を目にしてページを捲る手を止める。
その一文とは〝なんてこの世界は美しいのだろう〟だった。
翼はその一文を見つめ、一文の書かれている行を指でなぞる。
世界は美しい?
それは間違っている。
この世界の何処が美しい?
争いばかりで、醜い人の業で塗れているこの世界が?
人を蔑むようなこの世界が?
世界の何処かで人の命が必ず消えているような。
こんな世界の何処が?
そんな事を思う自分もどうかと思うが。
この世界が綺麗?
そう疑問を胸に抱きながら空を見上げてみる。
空からは白い雪が舞っている。
こういう景色を見て綺麗など、美しいと思うのだろうが……。
白が嫌いだからだろうか。
翼の目にはそう映らない。
そう思う理由は、こんな人生だからだろうか。
人生というものを楽しんでいないからだろうか。
空から降って来る雪を見つめながらそんな事を考える。
普通の子供と比べると実につまらない人間だと自分でも思う。
そんな人間が、人に笑顔を与えた。
そう告げられた時は素直に嬉しかった。
けれど、今はそれが本当なのかと少しだけ疑問に思ってしまう。
それから、もう一度先程の一文に目を落とす。
……世界を美しいと思えないのは、自分が汚れているから?
「――――」
翼は静かに本を閉じた。
少し、考え過ぎかもしれない。
そう思い、深い溜め息を吐き出す。
それから再び窓の外を見つめる。
今日も柳葉李哉の病室へ向かおう。
やはりあの病室へ行くと落ち着く。
それに朗読をしたいとも思っている自分が居る。
あの朗読をしている感覚に酔って居たいとも思っている。
放課後になり、すぐに翼は病院へと向かった。
病院内へ入るとランドセルをナースステーションに預けてからあの病室へ向かう。
今日も雪の中を歩いて来たので若干足元が滑る。
早く雪が溶けてくれないだろうかと少し思う。
病院の廊下を歩きながら柳葉李哉の事を考える。
今日も、起きているだろうか。
昨日は何処まで朗読を聞いていたのだろうか。
そんな事を考えながら病室へ足を向ける。
病室の前まで来ると、翼はナースステーションで預かってもらっていた未来への道標を見つめる。
しばらく未来への道標の表紙を見つめ、静かに病室の扉をノックした。
「どうぞ」
返って来た声は梅のものだった。
という事は、柳葉李哉は起きていないのだろうか。
それを確かめる為にも翼は病室へと足を踏み入れた。
そこで目にしたものは――
嬉しそうに笑って翼の方を見る柳葉李哉の顔だった。
柳葉李哉の表情を見て一瞬驚いた。
第一印象と今とでは全くの別人にさえ感じられる。
恐らく今の姿が本来の柳葉李哉なのだろう。
とても笑顔の似合う、まるで向日葵のような人。
そんな柳葉李哉の姿を見て少し安心した。
「いらっしゃい、めぐみ君」
「どうも」
「ランドセルは、どうしたんだい?」
梅に頭を下げて挨拶すると、不意にランドセルの話をされた。
確かに翼は黒衣の医師と呼ばれる程、学生服姿で病院内を歩き回っている。
今までランドセルの行方を聞く人が居なかったのでわからなかったが……。
やはり気になるものなのだろう。
李哉の前に置かれた椅子に腰を下ろし、梅を見つめて答えた。
「少し、預かってもらってます。病院に」
「預かってもらえるのかい?」
「ええ、まぁ……」
そんな事が出来るのは翼だけだ。
将来この病院を継ぐ者としてみんなから見られ、特別扱いをされている翼。
病院内の出入りも自由に許されている。
時に、大人達の期待の眼差しが嫌になる時がある。
けれど、逃げられない事も自分でわかっている。
自分は、普通じゃないと。
他の人とは違うのだと。
そんな事を考えていると、柳葉李哉が口を開くのが見えた。
「毎日来てくれて、ありがとう…。僕、そんなに起きていられないけど」
「いえ、良いんです。俺がしたくてやってる事なので」
そう答えて本を開こうとする。
昨日、何処まで聞いていたのだろうか。
朗読をするのに夢中になっていたが、覚えている範囲で記憶を手繰り寄せる。
そしてどの辺りまで聞いていたかを思い出し、確認しようとして口を開こうとすると――
「あの…えっと、綾崎…君?」
やけに疑問形で名前を呼ばれた。
何かあったのだろうか?
それとも、何か聞きたい事でもあるのだろうか?
翼は静かに柳葉李哉を見つめる。
柳葉李哉は少し戸惑った様子で口を開いた。
「どうして、敬語を使うの…? 僕達って、同い年だよね…?」
その質問を聞き、内心で「またそれか」と思った。
そんなに、敬語を使われるのは違和感があるのだろうか。
年の近い患者は必ず言って来る台詞だ。
翼は幼い頃からこの病院に出入りしており、大人の会話ばかりを聞いていたので対して気にはならないのだが。
普通はやはり年下からの敬語の方が慣れているのだろう。
記憶はないにしても、恐らく潜在意識がそう思わせるのだろう。
「これは……。父に患者には例え同い年でも、年下でも敬語を使えと言われたので……」
そう口にして、自分で気が付いた。
年下にも敬語。
子供達に対しては敬語を使っていないという事に。
それは恐らく、父から患者と接しろと言われたあの時からの癖だろう。
敬語で話したら子供達とは打ち解けれないと思ったあの時からの。
しかし、広場に来れない子供に対しては敬語を使っている。
それでも相談されたりするから良いのだろうが。
その事に対しては父から何も言われないのだから良いのだろう。
一度、考える事を全てやめて本を開く。
さぁ、お楽しみの時間だ。
腕時計のアラームが鳴るまでの、短い時間。
柳葉李哉と同じように、翼も小説の世界へと酔っていった。
静かな部屋の中。
シャーペンでノートにコツコツと叩く音だけが聞こえる。
やがて翼はシャーペンを置き、壁に掛けられた時計を見つめる。
時計が示す時間は午後八時四十六分だった。
この部屋には翼ただ一人だけ。
クリスマスシーズンになってしまうと、嗄は家に来なくなってしまう。
師走は忙しいものだと自分に言い聞かせながらも、やはりショックだった。
嗄の為に用意した誕生日プレゼントの箱を見つめながら嗄を想う。
クリスマスも、誕生日の時のように一人で過ごす事になるのだろうか。
そう思うだけで酷く胸が痛む。
話を書こうとして再びシャーペンを手に取るが――
何も思い付かない。
いや、アイディアは幾らでも思い浮かぶのだがそれを纏めて形にするのが難しい。
少しシャーペンを置いて、以前話を書いていたノートを手に取って読み返す。
懐かしいと思いながらも、読み耽ってしまう。
こんな事も書いたなと思いながら読んでいき。
ある一文を見て、翼は目を奪われた。
〝一人、窓から空を見上げ考える。
自分は一人なのだと。
他人とは違うのだと〟
この主人公は、翼自身にしていた。
その一文を読んだ瞬間、脳裏に過ぎったのは柳葉李哉の姿。
まるで窓辺に置かれた人形のように窓の外を見つめていた柳葉李哉。
その姿は、今まで翼が見た事のないような患者。
他の患者とは違って見えた。
世界に、ただ一人だけ残されたような。
周りとは違った存在に見えた。
手にしているノートに書かれた主人公もそうだった。
一人だけ、違う存在。
一人だけ、周りから浮いている存在。
柳葉李哉も、翼も。
同じだった。
だからだろうか?
最初はあんなにも冷たかった翼が、今ではこんなにも柳葉李哉の事が気になっているのは。
その理由は、柳葉李哉が自分と同じだからだろうか。
少なくとも、今の翼の目には柳葉李哉と翼は同じように見える。
それに、今日図書室で翼は柳葉李哉と同じように空を見上げていた。
――初めてだ――
初めて、父に言われたからではなく自分の意思で。
翼の意思で患者と向き合うのは。
翼が気になると思った患者は。
自分と同じだから――
似ているから気になる。
柳葉李哉には自分のようになって欲しくない。
今、答えが出た。
「――――」
自分と似た存在。
それも、同い年。
今よりももっと、お互いの仲を近付けたい。
今よりももっと仲良くなりたい。
柳葉李哉と友達になりたい。
そう思うのも初めてだ。
多くの〝初めて〟をくれる柳葉李哉と友達になりたい。
(……なれるだろうか…?)
今のように毎日病院へ通っていると仲は近付くだろう。
そう思うと、また朗読が楽しみになった。
次の日、翼は放課後になるとすぐに病院へと足を向けた。
病院に着き、ランドセルを預けて代わりに未来への道標を受け取って李哉の病室へと向かう。
病室の前に来て、少しだけ不安になる。
ここ数日、柳葉李哉は起きている。
けれど、以前のようにまだ眠っている事もあるかもしれない。
その為、扉をノックする前が凄く不安になる。
眠っていた場合は日を改めれば良い事なのだろうが。
出来れば起きていて欲しい。
起きている事を願いながら扉を静かにノックする。
するとすぐに李哉の声が返って来た。
李哉の声を聞いて起きている事がわかり、安心する。
扉を開けて病室内へ足を踏み入れると、嬉しそうに笑う柳葉李哉の姿が飛び込んで来る。
しかし、病室の何処にも梅の姿が見当たらない。
またお手洗いにでも行っているのだろうか。
少しだけ気になり、李哉に聞いてみた。
「おばあさんがいませんけど……」
「ああ、僕もさっきナースさんから聞いたんだけど。用事があるから日が沈んだ頃にしか戻れないって」
「そうなんですか」
そう呟き、いつも翼が座る椅子へと腰掛ける。
柳葉李哉が目覚めるまではずっと付きっ切りだった梅。
今の柳葉李哉は明るく笑うようになった為、安心したのだろう。
梅が来なくなるのならば、ここへ来る時間も増やした方が良いかもしれない。
いくらこの病室の居心地が良いとしても。
一人は寂しいだろうから。
それに柳葉李哉は、この病室の世界しか知らない。
外の世界を全く知らない。
外の世界の汚れを、何も知らない。
本当に、無邪気な子供のようだ。
(……今度、クリスマスパーティーに誘おう)
そんな事を思いながら、翼は本を開く。
昨日は何処まで聞いていたのかが翼でも曖昧で、柳葉李哉に直接聞いてみる。
「昨日は、どこまで聞いていましたか?」
「あの…」
翼の求めていた返答ではない声が返って来た。
どうしたのだろうか。
そう思いながらも静かに柳葉李哉を見つめる。
――少しだけ柳葉李哉に対して怯えている自分が居る――
〝もう朗読はしなくて良い〟
〝もう病室に来なくて良い〟
そう言われるのではないかと、心の何処かで怯えている。
そうでなければ良いと願いながら尋ねる。
「何ですか?」
心の内を表情に出さないように。
不安そうな、寂しそうな顔をしないように。
感情を押し殺す。
表情を〝無〟にする。
嗄とは正反対のポーカーフェイスを顔に張り付ける。
「僕には敬語、使わなくていいよ」
「え……?」
思いもよらない言葉が聞こえて驚いた。
そんな言葉がその口から飛び出すとは思いもしなかった。
それに――
そう言われたのは初めてだった。
今まではずっと〝敬語は良い〟などだったが。
〝僕には〟と言ってくれたのは柳葉李哉が初めてだ。
「その…やっぱり同い年の子に敬語を使われるっていうのは…違和感、がすごくて」
――良いのだろうか――
本当はずっと息苦しかった。
この敬語が。
普通に、みんなと接したかった。
それでも、ここに居る子供達はみんな〝患者〟であり。
友達としての対象ではなかった。
その為、患者達との距離を置いていたのだ。
何処かで、これ以上は近付くなと線を引いていた。
そうやって、自分で自分の居場所を奪っていた。
だから、良いのだろうか?
ずっと、ずっと、みんな同じだと思っていた。
みんな、結局は自分から離れて行ってしまうのだと。
信じても、裏切られるだけだと。
だから、心を閉ざした。
敬語で本当を自分を隠していた。
敬語で本当の自分を押し殺していた。
敬語という鎧で己の身を守っていた。
だから、本当に良いのだろうか?
――――人に心を開いても――――
「いいん、ですか……?」
自然と、声に出ていた。
人を、信じても。
心を、開いても。
敬語ではなく、自分の本当の言葉で話しても。
良いのだろうか?
そんな想いの篭った声が口から零れ出た。
「うん」
柳葉李哉の言葉が耳に届いた瞬間、思わず柳葉李哉の顔を見た。
少し照れくさそうな表情だったが、何処か真っ直ぐな瞳をしている。
そんな柳葉李哉を見ていると伝わって来るような気がした。
〝そんなに固くならないで〟
〝心を偽らないで〟
〝素直な君を見せて〟
〝君ともっと、近付きたい〟
――子供のように何も知らないからだろうか――
無垢だからだろうか。
素直な想いが伝わって来るような気がする。
「その方が話し易いし。僕、なんか堅苦しいのは苦手なんだってわかったから」
何と言えば良いのか、柳葉李哉はまるで言葉を探しながらそう言う。
そんな姿が面白く、思わず笑ってしまう。
この人は、今までの人とは違う。
恐らく、純粋なのだろう。
この世界の醜い所を見ていないから。
汚れた世界を見ていないから。
そんな柳葉李哉にこそ〝白〟という色が似合う。
けれども、翼は嬉しかった。
気が楽になったような気がした。
重い鎖から、解き放たれたような。
そんな感じだった。
しかし、医者の息子と言う立場は変わらない。
その事が少し憎くも思う。
それでも、以前に比べれば少しは気持ちが楽になれた。
今なら思える。
――柳葉李哉と出逢えて良かったと――
こうやって、話せて良かったと。
もっと、仲良くなりたいと。
翼は感謝の気持ちを込めて告げる。
「ありがとう」
少しでも、伝われば良い。
この想いが届いてくれれば良い。
そう思いながら告げた言葉だった。
すると、心なしか柳葉李哉の頬が赤く染まったような気がした。
恐らく、礼を言われた事がないからだろう。
その為、照れたのだろう。
クスリと笑い、翼は本を開く。
なんとなく思った。
これから先、柳葉李哉と居れば楽しく生きれるのだろうかと。
つまらない日々を過ごさずに済むのかと。
笑える日が増えるのだろうかと。
そう少しだけ、期待している自分がいた。
~To be continued~




