刺客と不穏と無力さと (2)
「――はっくしゅん!」
晴れ渡る空の下で焔の大きなくしゃみが響く、幸い鼻水が垂れ流れることはなかったが鼻をぐずらせる。
「うぅ~。誰か噂してって……母さんだな、今頃は腹を抱えて笑ってるんだろうな」
焔の予想は見事に的中しておりまさに家ではそんな状態だった。はっきり言って響にからかわれるのは分かりきっている、だからこそ早めに家を出たのだ。そのぶん冷静に考える時間を作ることが出来る、本当なら夢のことを考えたいところだが……今の自分には現在進行形で優先すべき解決困難な問題があった。
「はあああぁぁぁぁ~」
深く長いため息が焔の口から溢れる。
「どうしてこんな事になったんだ……」
レイリアという亜人の少女が学園に現れ家に住むことになり、そして色々な課程を飛ばしての結婚話。一般社会においてこんな異常な状況にいる男は自分だけだろう、他にこんな状況があるとすれば武が読んでいる小説の中の話しかない……と思っていた。
「まさか現実に起きるなんて」
昨日から今日に掛けて劇的に変わってしまった家庭事情に、焔はしゃがみ込み背中を丸めた。普段通りなら他に登校する生徒達の邪魔になるのだが家を早く出た分、今は自分しかいないため周りを気にする必要が無くてありがたい。
「俺はどうしたら良いんだろ、父さん」
仕事で家を離れている父に救いの言葉を求めるが、当然その声は届くことも帰ってくることもない。おそらく父親も自分の結婚賛成派だろう、それでも今は何でも良いから縋りたい気分だ、こんな状況に身を置くことになるなんて一生無いというか起こるとも思ってすらいなかったのだから。
「このまま、結婚することになのかな」
レイリアが嫌いなわけではない、むしろ結婚できるなんて逆にありがたいと思えるほど彼女は魅力的だ。武や他の男達が聞いたら泣いて喜びそうだが、如何せん自分はそういうことに免疫がない。この辺りがまだ子供なのだと我ながら理解している。
「レイリア……」
焔は何気なくレイリアの名前を呟き姿を思い浮かべる、不慮の事故? とはいえ彼女の生まれたままの姿を見てしまった事が焔の頬をまた朱く染め上げた。
「はっ!? な、流されるな俺! 俺もレイリアも十五歳なんだ、結婚なんてまだ早すぎるって言わなきゃ駄目だ!」
焔は火照った顔を冷やそうと手で扇ぐ。
それからやっと気を取り直して立ち上がった時、前方に一人の男が立っていることに気づく。
(……もしかして今の見られてたか? でも、いったい何時から)
自分と男との距離は五メートルも無い、さっきまで誰もいなかったはずの場所に立っている。
今朝の曖昧な夢とは違う。いくら考え事をしていたからといって、素人でも気が回らないような距離ではない。
「少年、君が神月焔だな?」
「そうだけど……」
ハッキリとした口調で声を掛けてくる男。
歳は幾つくらいだろ? 二十代にも見えるし若作りな四十代にも見える。
短めの金髪に長い手足、細身の、人当たりの良さそうな男だった。
「でも、俺はあんたを知らない、顔も見たこともないな」
そう言っておきながら焔は特に驚いた様子を見せなかった。逆に、目の敵を見るように表情を強ばらせる。
「……世界政府の関係者だろ? 今頃何のようだ」
焔はいつでも肉体強化を発動できるよう魔力を高める。
職員の一員であり保護者である響に何の連絡も無く、直接自分に会いに来る。そんな輩が友好的ではない事くらい簡単に分かる。そうでなくても子供の頃に実験動物にされそうになったのだ、警戒するに越したことは無い。
「残念だった、安心しろ……この場合どちらが正しいのか分からないが、私は政府の者ではないよ」
「じゃあ、あんたは……?」
世界政府の関係者じゃないのなら、この男はいったい何者なのだろう。
男の言葉に戸惑いつつも、男の僅かな動きも見逃さないよう気を張り続ける。
「私は君と交渉しに来たのだよ」
「交渉?」
「そう交渉だ」
焔に警戒されている事を気にもとめず、男は着ていたコートの内ポケットから紅い球――手に収まる大きさの水晶を取り出した。
「邪魔が入ると面倒だ、場所を変えさせてもらおう」
その言葉と同時に焔の視界が多彩な色彩風景から赤黒い光景へと変わる。
「なっ!?」
焔は目の前で起きた現象に驚嘆の声をもらす。あの男から視線を外さないよう瞬きもせず見続けていたというのに、視界の変化をまったく認識できなかった。空間干渉ができる契約術師でも一瞬で空間を隔離するには下準備が必要だ……それを、この男は何の前触れもなくやってのけたのだ。
男が手に持っているのは間違いなく魔法具。目の前で起きた現象を元に考えれば特徴は違えど、焔の家の地下に置いてある魔法球と同種の物で間違いないだろう。
「これは隔離空間を作り出す第四位魔法具だ。今の手持ちはこれだけだが、特に問題ないだろう」
「その言い方……あんた、天魔人か」
「その通りだ少年。私の名はアスク・ミック、この世界の調停者と呼ばれる者達の一人だ」
――天魔人はこの世界の調停者と呼ばれる存在であり、強大な魔力を宿す種族。それ故に『創造神』が造ったと言われる魔法具を自在に扱うことができる。
魔法具には第一位から第十位までの階級があるのだが、焔相手とはいえ第四位の魔法具を呼吸をするのと同じように使って見せたその技量からかなりの実力者である事が窺える。
「まあ、私の正体など気にする必要はない。早速で悪いのだが交渉に移らせてもらう」
アスクの言葉に焔の身体が僅かに沈む、焔が臨戦態勢に入ったのではなくアスクが押えていた魔力を解放した事によるものだった。
(こいつ……化け物だ)
焔は身体にのし掛かる見えない重圧に息を呑む。アスクが解放した魔力はアスク自身が言うように上位級のもの、それも両手、両足、そして黒翼……《契約術》でアモンの力を可能な限り引き出している時の庚と同等の魔力。
いや、この場合はアモンの力を借りているとは言っても、世界の調停者と呼ばれる程の存在である天魔人に匹敵する力を持つ庚の方を褒めるべきなのだろうか。
兄と比較しても何ら劣るものを感じない、それ程にアスクから感じる威圧感は尋常では無かった。
「何を驚いている? 魔力の総量なら君の方が遙かに上だ、神位級……世界に名だたる次元体と同じだけの魔力を宿しているのだから驚くことは無いだろう」
そんな言葉とは裏腹にアスクは特に警戒することなく、今度は一枚の写真を取りだし焔に見えるよう突き出す。その写真に写っているのは、白く長い髪と特徴的な服に身を包む少女。
「レイリア!?」
「そう〈獅子王〉の娘であり白虎の亜人、レイリア・ベルディナス……君の婚約者だ」
「俺のことだけじゃなくてレイリアの事まで……あんたの目的は何なんだ?」
「私はな少年、君達の結婚を阻止しに来たのだよ」
「どういうことだ」
「今言った通りだ、私は君達が行おうとしている種族間交流など認めない。そんな事をしても結局は上っ面の友好関係でしかないのだから」
アスクの表情は変わらない。しかし、アスクの声と瞳に怒りの色が見て取れた。明らかに敵意を向けられている。
「どうして、そんな……」
焔は自分に敵意を向けるアスクに理由を問いかける。
自分の結婚の事は別にしても、互いに手を取り合い歩み寄ろうとしている種族の試みを何故この男は邪魔をするのかを確かめたかった。
「この世界の歴史上、現存する種族は互いを奇異し幾度となく刃を交えてきた、その度に多くの犠牲だけが残った。……今回も人間と獣人が歩み寄ったところで、その意に従わない者達が必ず出てくる。そうなれば再び悲劇が繰り返されるだけだ!!」
アスクの怒りは更に強く、そしてその怒りを悲しみが包み込む。天魔人は他の種族に比べ長い時を生き、世界の移ろいを見てきた存在でもある。彼の怒りは過去に起きた種族間の争いに身を投じ、命を落とした者達へ向ける慈愛の裏返しなのかもしれない。
「ゆえに私は君に婚約の破棄を求めに来た訳だが……残念だ」
「残念?」
「昨日の少年の行動と会話を監視、盗聴させてもらった。君は少女の事を憶えていないとはいえ、どうやら旧知の間柄のようだ。しかもたった一日とはいえだいぶ心を許している……婚姻に反対の意思を見せながらもだ」
「それは……」
確かにアスクの言う通り体験したことの無いことばかり起きて大変な目にあった、それでもレイリアと一緒にいることは嫌ではない。結婚の話も戸惑ったけれどそれも最初だけ。
……自分でも驚いているが、レイリアとの結婚を心のどこかで受け入れている自分がいる。
だが、それを拒もうとしているのは護れないと分かっているからだった。今起きている様な事態になれば自分では彼女を、レイリアを護れないと。
「……なし崩しとはいえ、やはり君が少女を受け入れてしまうのは時間の問題のようだ」
自分の指摘に口籠もった焔を見て、アスクは悪い予感が的中したと言いたげなため息を吐く。
「そうとなれば別の方法を取らせて貰うしかないな」
「別の?」
「少年、君を殺すという方法だ」
アスクの魔力に殺意が混じり焔が感じていた重圧がより重くのし掛かる、焔は構えを取りアスクと対峙するものの身体は震え額から汗を流していた。
「………………っ」
庚との訓練で疲労し流すものでも、レイリアの自分に対する大胆すぎる行動に出るものでも無い。喉元に鋭利な刃を突きつけられている、そんな錯覚をしてしまえるアスクの放つ殺気に冷や汗が止まらないのだ。
「だが、君は《契約術》を使うことができない。そうだろう?」
「それが、どうした」
「私としては今後の事も考えていてな、それを考慮すると少年ではなく少女の方を始末したいのだよ」
「っ!」
レイリアを殺すというアスクの言葉に、焔の表情が一瞬で凍りつく。
「少女は亜人の中でも珍しい両有種だ、少年よりもずっと強い」
「レイリアが……」
亜人は人間と獣人の間に生まれた種族。
そのため、人間の《契約術》と獣人特有の高い身体能力のどちらかを必ず受け継ぐ。そして、亜人の中でもその両方の特性をもって生まれてきた者達を両有種と呼ぶ。その力は種族に関係なく並の実力者では歯牙にもかけない程だ。
「少女だけではない。君の兄、神月庚の伴侶となる少女も両有種だ。今の話でわかったと思うが少年以外の全員が私の障害となる実力を持っている」
〈イリス〉に所属する契約術師である響、四大悪魔の一柱と契約した庚、そして亜人の中でもより強い力をもった両有種のレイリアとミルディ。
この内の誰と闘っても只ではすまない事をアスクは分かっているようだ。
「そこで、少年に提案がある」
「提案だって?」
「なに、難しい事ではない。さっきも言ったが、私の目的はあくまで君と少女の婚約破棄だ。少年はその手伝いをしてくれるだけでいい」
「何を言って……!」
焔はアスクの提案の意味を理解し言葉を飲み込んだ。
「神月響、神月庚、ミルディ・フォーレスト……この三人が私の存在に気づけば必ず邪魔をしてくるだろう。闘う事になれば少年をこちらの戦力として考えても些か分が悪い」
アスクは恐怖と混乱に揺れている焔を追い詰めるように声を張り語尾を強める。
「だが、三人に気づかれる前に君が婚約者である少女を私の元へ誘い出してくれれば……〈獅子王〉の娘であり両有種と言えど確実に仕留める事ができる。さあ、選んでもらおうか」
「………………」
「私に協力してくれるなら少年の命は保証してやろう、もちろんその事に関する記憶は魔法具を使って忘れてもらう事になるが悪い話ではないはずだ」
断れば自分が死に、受ければレイリアが殺される。生死の選択は提示されてはいるがどちらを選んでも種族間交流は白紙、関係緩和どころか互いに歩み寄ることも無くなってしまう。アスクの目的が達成されることに違いはない。
「分かっていると思うが断れ――」
「断る!!」
焔の明確な拒絶の意志が声となって辺りに響き渡る、周囲に人がいたなら一体何があったのかと様子を見に来るほどの声が。
「即答とは、予想外だな少年。そんなに死にたいのか?」
アスクは自身が提示した条件を蹴られるとは思っていなかったのか、焔の答えを確認するように問答を繰り返した。
「死にたくなんかない」
そんなアスクに焔は淀みなく答えを返す。
「少女にそこまで想いを寄せているのか?」
「そんなの自分でも分からない」
「ならば何故、彼女を護ろうとする?」
「俺じゃ護れないさ、でもな……」
自分が標的されたのは、五人の中で一番弱いからだ。そんなことは確認するまでも無く分かっている事だ。護るどころか護られる側にいる事も嫌というほど知っている。
そんな自分が、ここでアスクとの取引に応じて逃げ出したとしても誰も責めないだろう。むしろ、提示された条件を受け入れた振りをしてこの場をおさめ、その後アスクに気づかれないよう対策を練り庚達に対処してもらう事が今考えられる最良の選択。
「それでも」
しかし、焔はその最良の選択を捨て息を整える。先ほどまで恐怖で固まっていた身体が動きを取り戻す、額から流れていた汗もすでに止まっていた。
「それでも俺は……」
死の恐怖に打ち勝ったわけでも、実力差が分からないほど気が動転している訳でも無い。
ただ、思い出したのだ。脆弱な自分でも出来る事を。
――誰かの為に、誰かの助けになれるよう闘うと望んだ事を!
「レイリアの命と引き替えに助かろうなんて、そんな巫山戯た選択肢は持ってないんだよ!
」
焔は身体への負担を顧みず一気に魔力を解放する、赤黒く染まった世界で焔が纏う蒼い光はこの世界の色とは反対、アスクに対する焔の意志を表しているかのようだった。
「行くぞ!」
自分が出来るは魔力の全力展開、響に叩き込まれた基本魔術に庚との実戦訓練で培った経験……その持てる全ての力で、この男と闘う。
焔は躊躇無くアスクへと飛びかかり、全身全霊で拳を振り下ろす。
「愚かだな」
アスクは後方へ飛び退き、難なく焔の攻撃を躱した。標的を失った焔の拳は空をきり舗装された地面へ接触。
その瞬間、爆発したような音を立てて優に人一人が入れる穴を穿ってみせた。
「……これは驚いたぞ、少年」
アスクは自分の頬に汗が流れた事に気づく。
焔が使える基礎魔術とその術式練度は、監視の最中に庚との模擬戦で見ることが出来た。焔は手加減をしていた庚に、一度も決定的な攻撃を加えること無く敗北した。《契約術》が使えないことを考えれば善戦した方だろう。
しかし、それは庚が相手をしていたからこそ焔が非力に見えたというだけの話だったのだ。
見誤った焔の力に、アスクは戦慄する。
「こちも少し手を加えなければないらしいな」
「させるか!」
焔は再びアスクとの距離を詰めもう一度剛拳を繰り出す。しかし、アスクは避けるそぶりも見せず焔の拳が迫っているのをただ待ちかまえていた。
ガキィィン!
「くそっ!」
繰り出された焔の拳がアスクの眼前で止まる。焔の視界には何もなかったが彼の手に伝わって来たのは、まるで金属で出来た壁を殴りつけたような感触だった。
「魔法具を使うばかりが、天魔人の戦法ではないよ」
「《拒絶の盾》か!」
《拒絶の盾》とは人間にとっての《契約術》と同じ天魔人だけがもつ固有技能である、対物対魔力付与攻撃に関して比類無き防御能力を持っている不可視障壁。使用者にダメージを与えるなら障壁を突破できるほどの威力が必要になる。
「これなら、どうだ!」
地を蹴りアスクの背後へと回り込み拳を繰り出すが、やはり見えない壁に防がれる。
「もう、手も足も出ないな」
「まだだっ!」
今の一撃から間を置かずに上段、中段と蹴りを放ち更に拳打の連撃を撃ち込む焔。
右の正拳を繰り出し、すかさず左の一撃。そこから駒のように反時計回りに回転しながら右肘を叩き付け、そのまま遠心力を生かした左の裏拳で追撃。息をつく間もなく攻め立てる。
庚との手合わせよりも速く、激しく――あとの事を一切考えずに攻撃を続ける焔。
(俺がアスクに勝てるのは魔力の量だけだ。なら!)
焔がこの闘いで勝機を見いだしたのは魔力総量の差だった。
いくら魔法具の扱いに長けている天魔人といえど、多種族と同じく魔力には限りがある事に違いは無い。焔の攻撃は全て《虚説の盾》に阻まれているが、その一撃一撃に岩を砕く程の威力がある。
その攻撃を防御する度にアスクは魔力を消耗せざる追えない。理屈で考えればアスクの方が速く魔力切れを起こすだろう。
(このままいけるか?)
だが、それは焔が自身の魔力負荷に耐えることが出来ればの話である。
打撃技による弾幕でアスクの魔力を削っている今も、焔の身体には確実にダメージが蓄積している。まだ眼に見える傷は負っていない、制限時間にも余裕はある……しかし、これは命を懸けた実戦だ。
不測の事態が起きて、いつ限界が来るかも分からない。
(……保ってくれよ!)
有利な要素があると言っても、自分が不利である事に変わりが無い事は焔も理解していた。
「っ!」
それでも頭に過ぎった弱音を振り払うように左足でしっかりとした軸を作った脱ぎ回し蹴りを放つ焔。この攻撃も障壁によって防がれる――そう思ってくりっ出した蹴りは何の抵抗もなくアスクへと迫り、右腕だけで簡単に受け止められてしまう。
「私の魔力切れを狙っての接近戦、実に正しい判断だ……」
「しまっ――」
アスクに受け止められた右足を掴まれ、軽々と持ち上げられる焔。
「しかし、それだけでは勝てないぞ」
そして、ぬいぐるみでも振り回すかの様にアスクは焔を路上沿いの外壁へと投げつける。
ぶつかった壁を砕き、その後ろに建てられていた家々をも次々となぎ倒しながら吹き飛んでいく焔。
「さあ、次はどう出る少年!」
アスクは声を張り上げ焔の反撃に備えたが土煙が上がる先にいるはずの焔から反応はない。
「……ふむ?」
アスクは何の動きも見せない焔の魔力を探った、焔の魔力が少しずつ小さくなっていくのを感じ取る。
「今ので終わりか、もう少し骨があると……」
アスクが魔力探知を終えようとした時、焔の魔力が爆発に膨れあがる。その直後、土煙を貫いて飛び出す影が視界に入った。
「ちぃっ!」
その影は《拒絶の盾》の前に砕け散りアスクは顔を歪め困惑した。飛び出してきたものが焔ではなく引き抜かれた電柱だった事に。すでに焔が自分のすぐ横にいるという事に……そして、自分の脇腹に焔が拳をめり込ませていることに。
「おおおおっ!!」
「ぐっあ!?」
焔は気合いと共に叩き込んだ拳を突きだし、アスクを殴り飛ばす。
その拳に骨を砕く感触が生々しく伝わってくる、確実にダメージを与えることが出来た事を確信する焔。だが、その表情は変わらず険しい。
「つぅっ……こんな簡単に人の家を壊すなんて、普通出来ないぞ。弁償とか、どうするんだよ」
全身を包み込む鈍い痛みに焔は路上に膝を着きそうになったが、何とか踏みとどまり構えをとり続ける。今の一撃で終わるとは思っていない、現に隔離空間は消えること無くそのままの状態を維持している。
と言うことは、アスクはまだ健在だ。
「なに、心配はいらない。舗装された地面に穴を作ろうと、家を壊そうと現実空間には何の影響もない。ここは完全に隔離した疑似空間だからな」
焔の予想通り、アスクはコートについていた汚れを払いながら、しっかりとした足取りで煙の中から姿を現す。
「さすがに効いた、痛覚遮断をしていなければこうして話をするのも難しかっただろうな」
「そんなことも、できるのか。ずるいぞ」
「ここは場数を踏んでるんだなと尊敬すべきところだぞ、少年。……油断が無かったとは言わないが、まさか一撃をもらうとも思ってもいなかった」
「褒めてるのか?」
「そうだな……しかし、今ので私に油断はない。次はないぞ、少年」
「それは、どうかな?」
焔は額から流れ右眼に入りかけた血を拭う。
(まだ、隙は突ける……か)
これだけ実力差がある相手を前にして、血を拭うなんて事をすれば、その間に攻撃を受け殺されてもおかしくない。けれど、こうして血を拭ける事が出来るなら、アスクもさっきの攻撃で動揺した心を落ち着かせることが出来ていないのかもしれない。
この隙にに攻め込みたいが……今は出来ない。
「あんた、って言うか天魔人の固有技能は、相手の攻撃を認識してないと使えないんじゃないか?」
「ほう、どうしてそう思う?」
アスクは焔の指摘に眉を僅かにあげ質問を返す。
「電柱を防いだ時、俺の攻撃に反応できてなかった。障壁を展開するには結構集中力が必要なんじゃないのか? しかも、防ぐ攻撃を正確に見極める必要もある。だから電柱を囮にして、煙に紛れて仕掛けた俺の攻撃に反応できずに殴られた」
「確かに、少年の言う通りだ」
たった数分にも満たない攻防。アスクと焔の実力差を考えればいくら響と庚という二人の優秀な指導者の教えを受けているとは言え、持ちこたえて見せただけでも充分すぎる戦果である。しかし、それ以外にも僅かな時間の中で《拒絶の盾》の弱点を見抜く洞察力を持っていたことにもアスクは苦笑いを浮かべた。
「要するに、俺の速度があんたの認識を追い越す事が出来たら殴れるってことだよな」
そうこう話している内に焔の息が整う。
このお喋りも体力を回復するための時間稼ぎ、その事に気づいたアスクは見た目のわりに抜け目がないと感心する。
「だが、それは少年にも言える事だぞ」
苦笑を浮かべていたアスクだったが、その表情が消えると同時に一瞬で焔の眼前につめより無防備な腹部へ速射砲のように握りしめた拳を撃ち込む。
「がっは!?」
咄嗟に両腕で受け止めたものの、その重さと威力に留まりきれず弾き飛ばされてしまう焔。
二転、三転と地面に身体をうちつけるも急いで受け身を取り体勢を整える。
「遅いな」
が、アスクの動きに追いつけずがら空きの背中に空気の層を打ち貫く轟音を響かせる拳打を何度もくらってしまう焔。
しかし、肉をえぐり取られたような激痛に耐え、焔は振り向き様に右蹴りをみまう。
「力だけで無く耐久力も中々のもだな、良く耐える」
「っ!」
焔の反撃を苦も無く躱し距離を取るアスク、反対に焔は間合いを開けさせまいと猛追していく。
《契約術》を使えない欠点を、庚達との訓練で教えられた基礎魔術よ鍛えられた洞察力で何とか補ってはいても闘いは焔が押されている。
(このままじゃ……)
今の焔がすべき事は、アスクの見せる微かな動きから次の一手を先読みし如何に対応できるかなのだが……それすら満足に出来ない。
その事実を認識してしまえる洞察力が今は徒となってしまった。
今の攻防でアスクとの決定的な実力差を理解してしまった、その思考は一秒にも満たない。それでも焔の動きが僅かに鈍くなる。
つまり、作ってはならない隙ができてしまったのだ――この一瞬の隙を見逃すアスクではない。
「ここまでだな、少年」
一瞬の迷いの中で繰り出した焔の攻撃を難なくいなし体勢を崩す事に成功したアスクは、まるで焔に引き寄せられたかのように間合いを詰め、右腕を振りかぶり殺意を込めた一撃を放つ。
「ぐぅっ!」
その一撃は人体の急所である鳩尾、どれだけ鍛えても庇いきれない箇所へと突き進む。
しかし、焔は当たる寸前で身体をずらし、直撃を避けた。
「ほぉ」
アスクはこれで決着がつくと思っていただけに、焔の動きに感嘆の声を漏らす。
一方の焔は、直撃を避けたとはいえ、鳩尾から全身に響く痛みに耐えかね膝をつく。
「少年には本当に驚かされる。私の殺気を感じ取り咄嗟に急所を外した今の動き……その若さやってのけるとは」
当たり前のことだがスポーツ化された格闘技でも急所攻撃を想定しての構えや受けの動作を作っている。しかし、頭では理解できていても実際すぐにそれが出来る訳では無い。
焔の見せた動きは反射行動と思えるほどの速さだった、手加減のない急所攻撃を何度も受けるような命がけの戦いを前提にしていなければ身につくものではなかった。
焔は苦痛に顔を歪めながらも自分を褒めるアスクに気づかれないよう、右手を握りしめ跳ね上がるように立ち上がりアスクの顔面へと拳をくりだす。
「まだ動けるのか? 大したものだ」
「ぐっ!」
だが、アスクはくりだされた拳を左手一本であっさりと受け止める。
一度は闘いを有利な流れに持ち込めたが《拒絶の盾》が無くとも動きに対応され、虚を突いて繰り出した攻撃さえ苦もなく受け止められる。これではもう焔が勝てる可能性はもう無い、身体を包み込んでいた魔力の蒼光も消えかけていた。
「終わりにしようか、少年」
アスクは焔に止めの一撃を放とうと右腕を静かに振り上げ手刀を形作った――その時、焔が小さな声で呟く。
「…………ただ」
囁くような声と共に今度は、握り込んだ左手をアスクの腹部にそっと押しつける焔。
(俺の予想が正しかったら……)
自分がアスクにダメージを与える事ができたのは一度だけ。
アスクの反応速度を超えての一撃、だからこそ警戒しているのは速さに秀でた攻撃だけのはず。
「何のつもりだ?」
「終わ……、……ただ」
もう一度自分の攻撃を完璧な形でアスクに叩き込む事ができるとすれば今しかない。
障壁を使って自分の攻撃を防ぐ状況を見た限り、アスクは自分自身を中心とした周囲十数センチの空間にそれを形成している。
おそらく《拒絶の盾》はアスクの身体そのものを保護しているわけではない。魔力切れを阻止する為の選択だったとしても、わざわざ肉体強化をして自分の攻撃を受け止めているのだ。
アスクの身体に押しつけている左手に、障壁の感触は感じない。
(盾の効果が働いてない……この密着状態からの一撃なら!)
これが自分にとって最後の一撃になると感じならも、はっきりとした口調でアスクに告げる。
「終わるのは、あんただ!」
その声に呼応するかのように焔の魔力が一気に跳ね上がり左手へと集中していく。
「これは!」
「零距離全開! オーバーエンド!!」
左手から解放された超高密度に圧縮された魔力の奔流は瞬く間にアスクを飲み込み、その直線上にあった建造物さえも粉々に破壊し、地面を深くえぐり取り放たれた軌道を描く。
爆音と共に放たれた蒼い光は、次第にその輝きを弱めていき瓦礫と煙だけを残し消えていった。
「ハアハア……ハア……ゴホッ!」
焔は荒い息を溢しながら立ち上る噴煙に鋭い視線を向けるも、乱れた呼吸に席が混じり途端に大量の血を吐いてしまう。
それは身体に多大な負担を肉体強化を維持したまま更に魔力を引き出してしまったからだ。焔の切り札たる今の一撃は―― オーバーエンドは右手、または左手に魔力を一点集中させ一気に解き放つ荒技。
(――頼む)
これが唯一自分が庚にダメージを与える事が出来る方法、今まで庚以外に対して零距離で撃ったことはなかったが確かな手応えはあった。
(倒すことはできなくてもせめて――)
「これが少年の全力、という事か……」
――動けなくなっていてほしい、という焔の願いを斬り捨てるようにその声は響く。
立ち昇る煙を背にアスクは蹌踉めきながらも焔へ近づいていく、服はボロボロになりむき出しになった上半身はひどい火傷を負っている。焔の左手が触れていた腹部にいったては焼けただれ大量の出血が確認できた、出血量からしてダメージは内臓まで達していてもおかしくない。
それほどの重傷でありながらアスクは悠然と歩く姿を見せていた。
たった一度しか通用しない奇襲戦法、これで駄目だとなると焔にはもう反撃の手段は無い。
それでも闘うべく焔は構えを取ろうとするが全身から力が抜けていく感覚に再び膝をつく、魔力開放時間の限界で焔の意志とは関係なく動けなくなってきているのだ。それに加えてアスクから受けた攻撃による全身打撲と内出血に頭部の裂傷、肋骨も数本折れ自身の魔力による内臓器官への過剰負荷。
そして、オーバーエンドを放ったことでアスクの腹部と同じように焼けただれ握りしめる事もままならない左手。
焔もアスク同様、瀕死に近い状態である。
そんな身体ではもう一度立ち上がるだけの力が残っているはずもない。
(やばい……眼が、霞んできた)
「ここまで傷を負わされるとはな、やはり、どこかで慢心していたようだ」
アスクは更に焔との距離をつめる、動くこともままならない焔は歯を食いしばり睨み返す事しかできなかった。
(くそ、ここまでやっても……届かないのか。 俺は、俺は何でこんなに――)
「少年、ここは退かせてもらうぞ」
「何!?」
自分にもう抵抗する力が残っていないことを知っていながら、止め刺すどころか撤退を選んだアスクに焔は驚きを隠せなかった。
「君は限界を迎えているようだが、もう一度今の技を喰らえば私も目的を達成できなくなる可能性が大きい。目的の為に危険をおかさなけらばならない場合もあるが……今はその時ではないだろう」
アスクの目的は種族間交流の妨害、ここで焔に破れるような事になれば身柄を世界政府に拘束され当初の目的は達成できなくなる、その事を危惧したのだろう。
「だが、すぐにでもこの傷を癒し、もう一度君の前に現れよう……次は何の油断も慢心もない、少年を確実に殺す為にもう一度。その時少女と悔いが残らないよう過ごすと良い」
「…………っ」
アスクの足下に魔法陣が現れた途端、焔の視界にアスクの姿は無く代わりに青空が広がっていた。辺りを見回しても戦闘で壊れたはずの家や建物が何の損傷もなく普段通りの姿を見せる平穏な風景がそこにはあった。
「戻って、これたのか?」
圧倒的な重圧から解放された焔は、闘いの痕跡が何一つない通学路に倒れ込んだ。咳き込む度に口から血が溢れ身体中に激痛が走り険しい表情を浮かべる。
「傷、何とか……しないと」
口を動かす僅かな振動でも痛みが走る、だが同時に意識が朧気になっていく。
(このまま……じゃ、まず……)
「――! ――――!?」
薄れゆく意識を必死に保とうとする焔だったが、徐々に瞼が閉じていく。そんな中、焔は誰かが自分の名前を呼んでいる気がした。
「――! ――――!?」
その人物は自分の身体を揺らし何かを喋っている。だが、その声に返事を返すどころか聞き取ることもできない。
(く……そ……)
最後まで誰が傍にいるのか理解出来ないまま、焔の意識は黒い世界に沈む。