第25話 秘伝の黄金油
食前酒で胃をひらき、黄金のコンソメで温めたあと、重厚な『本日の魔獣肉のロースト』へ繋ぐためには、もう一つ欠かせないピースがあった。
コースの過渡期を彩る『魚料理』だ。
「……とはいえ、海の魚は大通りの高級店が競り落としてスラムには流れてこないからな」
仕込みの手を止め、裏道の水場に立つバルトが苦笑いを浮かべた。
スラムで手に入る水産物といえば、街を流れる濁った川の底に棲む、泥臭い水棲魔獣『泥髭ナマズ』くらいのものだった。小骨が多く、粘液と泥の匂いが強いため、貧民すら好んで食わない最下層の食材だ。
「食材の身分で料理を判断するな。要は臭みの原因を取り除き、適切な火入れを施せばいい」
レオンは仕入れた泥髭ナマズを素早く目打ちし、背開きにした。
塩を振って臭みを含んだ余分な水分を浮かせると、【微風】で表面の粘液ごと微細に乾燥させていく。さらに、野生の香草と果実酒に浸して臭みを完全に遮断した。
「次はソースだ。バルト、買い出しに頼んでいた例の『樽』を出してくれ」
「おう、大通りの商人から仕入れてきたぞ。……だがなぁ、レオン。うちの屋台を始めてからずっと疑問だったんだが、なんでお前はこんな泥ドロの塩漬けバターをわざわざ買い込ませるんだ?」
バルトが木樽から取り出したのは、黄色く濁り、油分と塩分が不均一に分離した粗悪な固まりだった。
冷蔵設備のないこの世界では、バターの腐敗を防ぐために大量の塩が叩き込まれており、家畜特有のエグい獣臭さも残っている。そのまま使えば塩辛すぎて料理が破綻する代物だ。
「そういえば……屋台の肉を焼く時やアロゼ(油回しかけ)の時も、シェフはいつも自家製の『澄んだ黄金の油』を使っていましたよね? あの油って、まさか……」
仕込みの手を休め、リゼが目を見開く。
「ああ。俺が仕込みの段階で、この粗悪なバターをすべて精製し直していたんだ」
レオンは粗悪な塩漬けバターを平鍋に投入し、【微火】でじっくりと加熱を始めた。
フレンチの基本技法『澄ましバター(ブール・クラリフィエ)』の精製工程だ。
急激に温度を上げず、一定の弱火を保つことで水分をゆっくりと蒸発させていく。やがて鍋底にはドロリとした不純物や強烈な塩分、タンパク質の澱が沈殿し、上澄みには透き通った綺麗な黄金色の油脂だけが浮かんできた。
「な……塩分と不純物が底に全部溜まって、上の油だけが透き通ってきたぞ……!?」
覗き込んだバルトとルカが声を揃えて驚愕する。
「この世界のバターは塩分と不純物が多すぎる。だから【微火】で純粋な油脂だけを分離抽出し、沈殿物を捨てる。これがあの『黄金の油』だ。屋台の肉が冷めても不快なくどさが残らなかったのは、雑味を全部取り除いていたからさ」
種明かしをしながら、レオンは上澄みの純粋な油脂だけを別鍋へ慎重に移すと、再び火にかけた。余分な水分が飛んだ純粋な油脂は、加熱によってヘーゼルナッツのような甘く香ばしいアロマを立ち上らせる。
焦がしバター(ブール・ノワゼット)の完成だ。
「よし。皮目はパリッと、身はふっくら仕上げるぞ」
熱した平鍋に自家製のラードを少量引き、ナマズの皮目から投入する。
【微火】で皮の下の脂を溶かし出しながら押さえつけて焼き上げ(ポワレ)、香ばしい狐色になったところで身を裏返す。そこに先ほど精製した焦がしバターと野生柑橘の果汁を投入し、鍋を素早く揺すって乳化させた。
* * *
「へい、お待ち。本日の魚料理……『泥髭ナマズのポワレ 〜澄まし焦がしバターと野生柑橘のソース〜』だ」
試食用に切り分けられた一皿が、バルトとマルニの前に出された。
「げっ……あのドブ臭いナマズじゃない! あたし、あんなの絶対に食べな……んんっ!?」
口を挟もうとしたマルニの口へ、レオンが容赦なくナイフの上の身を放り込む。嫌がりそうになったマルニの表情が、一瞬で固まった。
「ふ、ふにゃ……っ!? 皮が……皮がサックサクで、香ばしい……っ! 中の身はふわっふわで、噛むとナッツみたいな香ばしさと爽やかな柑橘の酸味が溢れてくるわ……っ! 泥臭さも、変な塩辛さもどこにもないじゃないの……っ!」
「なるほどな……あのドロドロの塩漬けバターから不純物を除いて『澄ましバター』にしてたから、今までのお前の料理はどれも一味違ってたわけだ……!」
バルトも感心したように頷き、フォークで残りの身を争うように口へ運んだ。
「魚の繊細な旨味を楽しんだあと、口の中に残るバターのコク……。これを一回さっぱりと洗い流さなければ、次の重厚な『魔獣のロースト』の旨味を100%受け止められない」
満足そうに食べる二人を見つめながら、レオンは思考を巡らせた。
(西麻布なら、ここで冷たいグラニテ(シャーベット)を出して口の中をリセットさせる場所だ。だが……この世界には氷も冷却魔法もない)
氷を使わずに、どうやって魚の脂を洗い流し、舌の感覚をリセット(お口直し)させるか。
(……温度(冷たさ)でリセットできないなら、ハーブの『清涼感』と強烈な『酸味』、そして微発酵による『弾ける刺激』で代用するまでだ)
レオンはハーブの抽出液に果実の酸を合わせ、微弱な発酵で小さな気泡を帯びさせた『特製ハーブ清涼ショット』の試作に着手した。
口に含むと、シュワリとした微発酵の泡と強烈なハーブの爽快感が広がり、先ほどのバターの余韻を綺麗に消し去っていく。
「ふぅ……これで食前酒から前菜、スープ、魚、お口直し、そしてメインの肉料理までの『完璧な一本の線』がつながったな」
レオンは羊皮紙のノートを見つめ、静かに息を吐いた。
だが、ノートの最後のページ、コースの総決算である『デセール(デザート)』の枠だけが、ぽっかりと白いまま残されていた。
(粗悪な塩漬けバターすら『澄ましバター』に変えて使いこなしてきた。……なら、砂糖も生クリームもないこの世界で、果実の糖度と自然の恵みをどう昇華させるか)
10歳の三つ星シェフの挑戦は、ついにフルコース最後の、そして最大の難関へと向かおうとしていた。




