にゃんぞうのひみつ任務
僕はにゃんぞう。
黒くて、つやつやで、しっぽの先までりっぱな猫である。
にゃんぞうは、今日も家を守っていた。
窓の外を鳥が飛べば、にゃんぞうは目を細めた。
庭の草むらがかさりと揺れれば、にゃんぞうは耳をぴんと立てた。
戸がことりと鳴れば、にゃんぞうは低く身を伏せた。
この家には、にゃんぞうの大切な人がいる。
だから、油断してはいけない。
鳥も、草むらのかすかな音も、戸を鳴らす風も、ときどきとてもあやしい。
あの人を困らせそうなものは、全部にゃんぞうが見張らなければならなかった。
にゃんぞうは、毎日いろいろなものから、あの人を守っていた。
あの人が編み物をしている時には、にゃんぞうは毛糸玉を押さえた。
丸くて、転がって、どこへ行くか分からない。
あれは、どう考えても危ないものだった。
「あらあら。にゃんぞう、それは使うものなのよ」
あの人は困ったように笑って、毛糸玉を取り戻そうとした。
にゃんぞうは前足でしっかり押さえる。
逃がしてはいけない。
けれど最後には、あの人が両手でにゃんぞうを抱き上げた。
「ありがとう。でも、これは返してね」
「にゃあ」
にゃんぞうは少しだけ不満だった。
しかし、あの人が笑っているなら、今回は見逃してもよい。
洗濯物を畳む時も、にゃんぞうは働いた。
畳まれる前の布は、たまに風にふわりと浮く。
浮くものは危ない。
急にあの人の顔へかぶさるかもしれない。
だから、にゃんぞうは布の上に座った。
「にゃんぞう、そこに座られると畳めないのだけれど」
あの人はそう言いながらも、にゃんぞうの頭を撫でた。
にゃんぞうは目を細める。
ほめられた。
今日も任務は順調だった。
あの人が外へ出ようとした時には、にゃんぞうは戸口に座った。
外は危ない。
知らない音がする。
知らない匂いがする。
急に何かが飛んでくることだってある。
あの人は腰をかがめて、にゃんぞうと目を合わせた。
「少しだけよ。すぐ戻るから」
「にゃ」
それは信じられない。
帰ってきた時には、疲れた顔をしていることがある。
だから、にゃんぞうは通せんぼをした。
けれど、あの人はにゃんぞうを抱き上げて、戸口の横へそっと下ろした。
「お留守番をお願いね」
扉が閉まる。
にゃんぞうは扉の前に座った。
しっぽを身体に巻きつける。
家を守るのも大事な任務である。
けれど、扉の向こうへ行くあの人を守れないのは、にゃんぞうにとって大きな問題だった。
最近、その問題はどんどん大きくなっていた。
あの人は、前よりも疲れた顔をするようになった。
外から帰ると、しばらく椅子に座ったまま動かないこともある。
夜にも、ぼんやり窓の外を見ていることが増えた。
にゃんぞうがそっと近づくと、あの人はいつものように笑った。
「大丈夫よ、にゃんぞう」
大丈夫。
あの人はよくそう言う。
けれど、にゃんぞうは知っている。
大丈夫と言う時ほど、大丈夫ではないことがあるのだ。
にゃんぞうは布団の足元で丸くなった。
目は閉じない。
眠っているように見せながら、ずっと見張っていた。
悪いやつは、まだ姿を見せない。
でも、いる。
きっといる。
見つけなければならない。
そしてある朝、あの人が籠を持って外へ出た。
「少し出掛けてくるわね」
にゃんぞうは、床に座ったまま耳を動かした。
あやしい。
いつもなら戸口で止めるところだ。
けれど、今日は違う。
止めても、あの人は行ってしまう。
ならば、後をつけるしかない。
これは、誰にも知られてはいけない任務である。
にゃんぞうは、あの人が扉を閉めるのを待った。
足音が遠ざかる。
それから、開いていた小さな窓の隙間から外へ出た。
しなやかに地面へ降りる。
黒い身体を低くする。
しっぽの先まで静かにする。
ひみつ任務の始まりである。
あの人は、ゆっくり道を歩いていた。
にゃんぞうは少し離れてついていく。
石垣の陰。
樽の後ろ。
荷車の下。
干された布の影。
隠れる場所はたくさんある。
あの人が振り返った。
にゃんぞうは、すぐに樽の陰へ入った。
完璧である。
道には、いろいろな危険があった。
地面を転がる小石。
急に鳴く鳥。
知らない人の靴。
大きな音を立てて進む荷車。
魚の匂いをさせる店先。
特に魚の匂いは危なかった。
にゃんぞうの足が、そちらへ向かいそうになる。
だが、今は任務中である。
守らねばならない。
あの人を苦しめるものがいるなら、にゃんぞうが追い払わなければならない。
風が強くなる。
道の端に置かれた荷車の布が、ばたばたと鳴った。
あの人はそのまま道を進む。
その少し先に、荷車が止まっていた。
荷台には木箱がいくつか積まれている。
そのうち一つが、風で揺れた布に押されるように、少しずつ端へずれていた。
木箱が、かたりと鳴った。
また少し動く。
あの人は気づいていない。
あの人は、荷車の横を通ろうとしていた。
にゃんぞうは、考えるより先に走った。
石畳を蹴る。
人の足の間を抜ける。
「にゃっ!」
にゃんぞうは、あの人の前に飛び出した。
「きゃっ!」
にゃんぞうの身体は、落ちてきた木箱にぶつかった。
世界がぐるりと回る。
あの人の声が、遠くで聞こえた気がした。
それから、何も分からなくなった。
◇
にゃんぞうが目を覚ました時、最初に感じたのは、布の匂いだった。
やわらかい布。
あの人の家の匂い。
身体が少し痛い。
頭も重い。
にゃんぞうは目を開けた。
いつもの部屋ではなかった。
でも、家の中だった。
にゃんぞうは籠の中に寝かされていた。
身体のまわりには、布が重ねられている。
起き上がろうとすると、前足に力が入りにくかった。
「にゃ……」
小さく鳴く。
誰も来ない。
家の中は、ひどく慌ただしかった。
ぱたぱたと人が歩く音。
扉が開いて、すぐに閉まる音。
小さく言葉を交わす声。
にゃんぞうは耳を動かした。
あの人はどこだろう。
木箱から守ったはずだ。
それなのに、家は騒がしい。
あの人の声がしない。
にゃんぞうは籠から出ようとした。
けれど、身体がふらついて、また布の上に座り込んでしまう。
その時、奥の部屋から声が聞こえた。
あの人の声だった。
苦しそうな声。
息を詰めるような声。
何かに耐えているような声。
にゃんぞうの胸が、ぎゅっと小さくなった。
守れなかった。
にゃんぞうは、籠の中で小さく丸まった。
しっぽを身体に巻きつける。
耳が下がる。
奥の部屋で、またあの人の声がした。
行かなければならない。
にゃんぞうは、ゆっくり立ち上がった。
足元はふらつく。
でも、歩ける。
その時だった。
あの人の苦しそうな声が、ふっと途切れた。
家の中が、一瞬だけ静かになる。
にゃんぞうは息を止めた。
次に聞こえたのは、知らない声だった。
小さな声。
でも、部屋いっぱいに広がる声。
泣き声だった。
にゃんぞうは目を丸くした。
なんだ、これは。
小さいのに、強い。
弱そうなのに、大きい。
聞いたことのない、不思議な声だった。
にゃんぞうは、そっと部屋へ入った。
部屋の中で、誰かがほっと息を吐いた。
近くで、嬉しそうな笑い声がした。
あの人は、寝台の上にいた。
とても疲れた顔をしている。
けれど、その顔は、にゃんぞうが見たことのないくらいやわらかかった。
腕の中には、小さなものがいた。
赤い顔。
小さな手。
ぎゅっと握られた指。
布に包まれて、ふにゃふにゃと動いている。
にゃんぞうは近づいた。
一歩。
もう一歩。
あの人が、にゃんぞうに気づく。
「にゃんぞう」
声はかすれていた。
でも、優しかった。
あの人は片手を伸ばし、にゃんぞうの頭をそっと撫でた。
「守ってくれて、ありがとう」
にゃんぞうは、瞬きをした。
守れたのだろうか。
あの人はまだ疲れていて、少し苦しそうでもあった。
けれど、笑っている。
とても、とても大事なものを抱いているように笑っている。
あの人の手が、もう一度にゃんぞうの頭を撫でる。
「今度は、この子も守ってね」
にゃんぞうは、赤ん坊を見た。
赤ん坊は、目を閉じたまま口を開けた。
小さな声で泣く。
手が少し動く。
その手は、にゃんぞうの前足よりも小さくて頼りなかった。
小さい。
弱そう。
すぐ泣く。
ひとりでは、どこへも行けそうにない。
これは、大変だ。
「にゃ」
あの人は、疲れた顔で笑った。
赤ん坊はまた小さく泣いた。
にゃんぞうは目を細める。
油断ならないものは、この世にたくさんある。
けれど、大丈夫だ。
にゃんぞうには、新しい任務ができた。
大切な人を守ること。
そして、大切な人の大切な子を守ること。
今日から、ひみつ任務は二つになった。
僕はにゃんぞう。
黒くて、つやつやで、大切な人たちを守る、りっぱな猫である。
この作品は、連載中の
『ずれた四男の異世界暮らし ~僕の当たり前は、魔力社会の盲点でした~』
にも作中絵本として登場しています。




