第4話 学園一の美少女との邂逅
「さて、どうしたもんかな……」
数学教務室にやってきた涼は、困り果てていた。
ノートを抱えて手が塞がっているというのに、数学教務室はがっちり扉が閉まっている。
誰もいないならば脚で開けてもいいのだが、室内に教師がいようものなら注意されてしまうだろう。それに少し行儀が悪いとも思う。
「他に手はなさそうだな」
涼はノートの山を抱え直すと、諦めたように「失礼します」と言って数学教務室の扉を脚で開けようと右脚を伸ばした。
するとその涼の脚は空を切り、ドアが自動扉のようにスライドした。
「おお……」
驚く涼の目の前に、一人の女子生徒がいた。
どうやらこの女子生徒が教務室の扉を開けてくれたらしい。
涼はひとまず「ありがとう」と軽くお礼を口にして、教務室へと入った。
室内に教員はおらず、適当な机にノートを置いた。そのうち帰ってきた教員の誰かが気が付くだろう。
涼はさっさと教務室を出ると、静かに扉を閉めた。
すると廊下にはまだ、先程扉を開けてくれた女子生徒が立っていた。
涼は不思議に思いながらも、もう一度お礼を口にする。
「さっきはありがとう。手が塞がっていたから助かったよ」
涼の言葉に女子生徒は、ほっとしたような表情を見せる。
「よかったです」
微笑む女子生徒を、涼はこのとき初めてまじまじと見つめた。
「えっと……同じクラス? だったか……?」
澪と皐月以外友人のいない涼は、当然クラスメイトの顔を憶えていなかった。
疑問符混じりの質問はしかし、彼女の笑みによって肯定される。
「はい、同じクラスの北白河 椿姫です」
新学期が始まって少し経つというのに名前を憶えていない涼に対して、椿姫は気を悪くする様子もなく上品に微笑んでいた。
(こんな子がクラスにいたのか)
長く艶やかな黒髪は胸の辺りで毛先がくるんと巻かれていて、高校生とは思えない落ち着いた雰囲気。どこかのお嬢様を思わせる品のある所作。椿姫はどこからどう見ても美人だった。
スカートから覗く脚は真っ黒なタイツに覆われているがすらっとしていて、ブレザーを着ていてもわかる胸の膨らみにスタイルの良さを思わせる。
(男なら誰しも好きになりそうな女の子だ)
涼の感想はそんなものだった。
涼の与り知らぬところで騒がれていたりしたのかもしれない。
椿姫も涼と一緒に教室に戻るものと思われたが、何故か彼女はその場を動こうとしなかった。
「えっと、北白河さんは教室に戻らないのか? それじゃあ、俺はお先に……」
涼が踵を返そうとしていると、椿姫がその言葉を遮った。
「あ、あの……!」
「え?」
椿姫は自分の手を胸元でぎゅっと握りしめながら、涼に声を掛けた。
「あの、藤沢くん……!」
椿姫の口から飛び出した自分の名前に、涼は変に感心してしまった。
(俺の名前、知ってたのか)
もしかしたら大抵の生徒はもうクラスメイトの名前を憶えているのかもしれないが、クラスで地味な自分なんかが憶えられているとは思わなかった。
「藤沢くん……あの、あの……!」
なにやら言い淀んでいた椿姫は、ようやく決心がついたのか、涼に距離を詰めてこう言った。
「ふ、藤沢くんの、連絡先を教えていただけないでしょうかっ……!」
「え……? 連絡先……?」
「あの、もしメッセージアプリとかやっていましたら、IDを教えてもらいたくて……!」
連絡先を訊かれるなんて思ってもいなかった涼は、きょとんと目を丸くして椿姫を見つめてしまう。
(ID……? 俺の……?)
涼は椿姫の顔をまじまじと見つめる。
その表情は緊張しているかのように強張っていて、涼をからかうために言っているようには見えなかった。
(俺の連絡先なんて訊いてどうするんだ? まさか俺と仲良くなりたいわけでもあるまいし……)
椿姫は尚もその綺麗な顔を曇らせ、涼の返答を待っている。
(こんなお嬢様みたいな子が、俺をからかうために連絡先を訊いてきたりするだろうか? クラスでいじめられているわけもないだろうしなぁ……)
涼の所属する二年D組は常に騒がしく、和気藹々としている。みな仲が良いように思う。それに今時そんな古いからかい方があるだろうか。一応進学校でもあるし、そんなレベルの低い事を考えるような生徒はいないだろう。
(なら、どうして俺の連絡先なんか……? まさか本当に俺に好意がある、とか……?)
そんな都合のいい解釈をしてしまう涼は、やはり歳相応な高校生男子であった。
潔癖症で人付き合いを避けてはいるが、別に人を拒絶したいわけではない。
本当はもっとクラスに打ち解けたいし、澪と皐月以外の友人がいたっていい。
それに、恋愛だって、歳相応に興味はあるのだ。
(まあ、北白河さんなら、悪いようにはしないだろ)
椿姫のことはよく知らないが、涼はなんとなくそう思った。
「いいぞ」
「え?」
涼の返答に、椿姫はぱっと顔を上げる。
「俺のID、教えるよ」
涼の言葉に、椿姫の表情がぱあっと花が咲いたように明るくなる。
「ありがとうございますっ! 藤沢くん!」
美しく微笑む椿姫に、涼は一瞬見惚れてしまった。
はっとして、涼は椿姫から視線を外す。
(変わった子だな……俺なんかの連絡先を知ってなにがそんなに嬉しいんだ)
しかし椿姫の笑顔に、つられて涼も自分が微笑んでいたことに気が付く。
「んん」と謎に喉の調子を整えた涼は、ブレザーのポケットからスマホを取り出そうとして、動きを止める。
そうしてズボンのポケットに入れていた持ち歩き用の小さな除菌ジェルを取り出した。
例に漏れずそれを掌に少量出すと、涼は指先から手の甲まで、綺麗にすべて除菌した。
それからやっとブレザーのポケットからスマホを取り出す。
涼の一連の流れを見ていた椿姫は、目をぱちくりとさせていた。
(ま、普通そういう反応だよな……)
椿姫はおずおずと涼を窺うように口を開く。
「あの、それはなんでしょうか?」
涼は除菌ジェルのボトルを軽く振って見せる。
「除菌ジェルだよ。手指の殺菌に使ってるんだ」
「除菌ジェル……。藤沢くんって、やっぱり綺麗好きなんですね」
椿姫の言葉に、今度は涼が目をぱちくりさせた。
「やっぱり……?」
すると椿姫は何故か慌てたように顔の前で大きく手を振った。
「あ、いえ! やっぱりっていうのは、えっと……、そう! よく教室で見ていたから!」
「教室?」
「ほら、いつも机を拭いたり、身の回りのものを拭いていたりしますよね? それを見ていたので!」
椿姫の言葉に、涼はまた目を丸くする。
「見てた……? 俺のことを……?」
自分のことなど誰も気にも留めていないだろうと思っていた涼にとって、椿姫の発言は驚くものだった。
椿姫は顔を真っ赤にして、余計に慌てはじめる。
「あ、その、違うのです! 見ていたっていうのは、そのずっと声を掛けたいと思っていたからで……あ! いえ!? そうじゃなくて、えっとえっと……!!」
椿姫の慌てようがおかしくて、涼はついに吹き出して笑ってしまった。
「ふ、北白河さん、落ち着けよ。別に怪しんだりしてないからさ」
「あ……はい……すみません……」
椿姫はお嬢様のような雰囲気であるのに、話してみると案外親しみやすかった。どことなく人と話すのが苦手そうな感じも、涼としては自分と似ていて好感が持てた。
「で、IDだよな」
「あ、はい……」
椿姫は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして自身のスマホを涼の前に差し出した。その画面に表示されているQRコードを読み取ると、ポコンと可愛らしい音がして、椿姫のメッセージアプリのプロフィールが表示される。
【tsubaki】という名前と、椿の真っ赤な花のアイコンが表示される。
涼は友達追加のボタンを押した。そしてすぐにトーク画面を開くと、白ねこの「よろしくにゃ」という文字付きのスタンプを押した。
因みに涼のメッセージアプリのアイコンは、いつぞやに食べた抹茶のロールケーキの写真である。涼の大好物は抹茶味のスイーツだ。
「わあ……あ、ありがとうございますっ!」
椿姫はなにがそんなに嬉しいのか、涼とのトーク画面を眺めて上品な笑顔を浮かべる。
本当に綺麗なひとだな……とまた見惚れそうになって、涼ははっと意識を戻す。
「早く戻らないと昼飯食いっぱぐれるぞ」
尚もトーク画面をにこにこと見ていた椿姫は、弾かれたように顔を上げる。
「そうでしたっ! お時間取らせてしまってすみません!」
「大丈夫だよ、戻ろう」
「はいっ!」
椿姫が何故急に涼の連絡先を訊いてきたのかは相変わらず不明ではあったものの、涼としてはまんざらでもなかった。
(こういう優しい子なら、潔癖症のこともわかってくれるんだろうか……)
などと少し前向きなことを考えてしまったくらいには。




