第10話 幼馴染の提案
「澪……?」
とっくに帰ったとばかり思っていた涼は、心底驚いてしまった。
「どうしたんだ? こんなところで」
「涼を待ってたの」
「え、なにか約束してたか?」
「そういうわけじゃないけど……」
いつも明るい澪にしては珍しく表情が曇っている。なにかあったのだろうか。
「とにかく! 一緒に帰ろ!」
「ああ、うん、いいけど……」
涼は自転車を押して歩き出す。その横に澪が並んだ。
「歩いて帰るのか?」
「うん」
「まさかずっとあそこで俺を待ってたわけじゃないよな?」
「まさか! 教室でお喋りしたり、スマホ版のアニ森したりして待ってたよ」
「そうか」
「で! 今日! どうだったの?」
「え?」
澪がずいっと涼の方へと距離を詰めてくる。しかしもちろん不用意に触れてくるようなことはしない。それにしても近いには近いのだが。
(ああ、なんだそういうことか。澪は俺を心配して待っていてくれていたのか)
椿姫との勉強会。涼がなにか困ったことがなかったか、嫌なことはなかったかと気に掛けてくれていたのだろう。
(それでわざわざ残って待っているなんて、澪も過保護だな……)
皐月も大概過保護だが、澪もそれに負けず劣らずのようだ。涼の幼馴染二人は揃って過剰なまでに涼のことを大事にしてくれている。涼はそれをひしひしと感じた。
澪を安心させるように、涼はゆっくりと話しはじめる。
「大丈夫だったよ。俺が困ることはなにもなかった」
「ほんと?」
澪はじとっと涼の顔を見てくる。その顔がなんだか可愛らしくて、涼は少し笑ってしまった。
「本当だよ」
「それならよかった!」
澪の表情がいつものように明るいものへと変わる。それを見た涼はさらに安心させるつもりで言葉を付け足した。
「それに北白河さん、俺が潔癖症だって知らないわりには、結構準備してくれてたんだよ」
「え?」
「わざわざ俺のために除菌ボトルまで買ってきてくれたみたいでさ、俺が不快な気持ちにならないよう皐月に俺のことを訊いたみたいなんだ。ただ一緒に勉強するだけで、そんなに気を遣うか? 普通」
椿姫が真面目で優しいからこそなのだろうが、それにしても律儀すぎる。涼としてはとても有難いことではあるのだが。
「俺は、潔癖症のせいで他人と関わるのが少し面倒になってた。どうせ誰も理解してくれないだろうなって、勝手に決めつけていたのかもしれない」
どうせ誰も潔癖症なんて理解してくれない。涼が苦手なことを話しても、不思議そうに首を傾げられてばかりきた。だからそのうち、潔癖症であることを打ち明けるのをやめた。仲良くもない人にそんな話をしたって、結局わかってもらえないから。
でももしかしたら、それは決めつけだったのかもしれない。
椿姫と接していて、そんなふうに思った。
「北白河さんと一緒に勉強してみて、潔癖症に対して少し前向きになれそうな気がしたよ」
涼は今の気持ちを素直に澪に伝えた。澪のことだ、きっと「それはよかったよ! 涼が前向きになれるなんて珍しい~! 偉大な一歩だよ!」なんて、明るく返してくれるものと、勝手に思い込んでいた。
それ故に澪の反応は、涼の予想だにしないものだった。
「なにそれ…………」
「え……?」
澪の表情から先程の笑顔は消え、低く固い声が返ってくる。
「涼、忘れたの? 涼が潔癖症になった理由」
「……わ、忘れるわけ、ないだろ……」
忘れたくても、決して忘れることなんてできない。自身が潔癖症となってしまったあの日の出来事は。
澪は何故だか苦しそうに言葉を吐き出した。
「涼がまた傷付かないようにって、ずっと我慢してた私が、馬鹿みたい……」
「え……?」
「涼、提案があるの」
そう言った澪はくるっと短いスカートを翻して、涼の前に立ち塞がる。そうして大きく胸を張り、両手を腰に当てて宣言する。
「私、涼の潔癖症を治してみせる!」
「…………は?」
澪の言葉に涼は間抜けにもぽかんと口を開けてしまう。
「治す? 潔癖症を……?」
「そう!」
涼の疑問に、澪は力強く肯定してみせた。
「潔癖症が、治るのか……?」
「潔癖症は治せるんだよ!」
澪の言葉に、涼の思考がしばし停止する。
(潔癖症が治る……? いちいち除菌を気にしたり、人に触れることを恐れなくてよくなるのか……?)
涼の思考が鈍っている間にも、澪は涼に距離を詰めてくる。
「ねえ、涼? 私とやってみようよ。潔癖症の克服」
もし本当に潔癖症が良くなるのなら、それにこしたことはない。きっと精神的にも今より楽になるだろう。しかしそんな方法があるのなら、どうして澪は今まで教えてくれなかったのだろうか。
その疑問に答えるように、澪は続ける。
「涼が除菌することによって心が楽になるのなら、私はそのままでもいいかなって思ってたんだ。きっと皐月くんだってそう。でも、涼が少しでも潔癖症に対して前向きになったのなら、克服を目指してみてもいいんじゃないかな?」
「ねえ、どう?」と澪は至近距離で涼を見上げる。その上目遣いは、なんだか可愛いというよりも少し妖艶だった。
どう返答すべきなのだろうか……。潔癖症が治るのならば、それにこしたことはないと思う。しかし本当にそんなことが自分にできるのだろうか。
潔癖症と付き合い始めてもう五年になる。そう、涼だってなにも生まれたときから潔癖症だったわけではない。あるきっかけがあって潔癖症になってしまったのだ。
涼が言葉に詰まっていると、澪はいつものように明るい笑みを浮かべる。
「涼、考えてみてよ。私はいつだって涼に協力するからねっ」
澪は可愛らしくウインクしてみせる。見慣れた、いつもの明るい澪の表情だった。
「……わかった、考えてみるよ」
「うんっ!」
それからは他愛もないお喋りをしながら帰った。
それでも涼は、澪の言ったことばかりを考えていた。
『潔癖症は、治せるんだよ!』
「潔癖症は、治せる……か……」
自室の天井を見上げ、涼は考えていた。
自分はこれから、潔癖症とどう向き合うべきなのかを。




