第7話 第0層の記録
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霧が静かに揺れている。まるで生きているかのように――。
俺のスマホに転送されたファイル――『第0層 開発記録』。その中には、開いてはいけない何かがある気がした。
けれど、今の俺たちに『躊躇』という選択肢はなかった。
「ユナ、先に進む前にこれを読む。準備はいいか?」
「うん。あたしもちゃんと見ておきたい気がする」
俺たちは並んで腰を下ろし、スマホの画面を覗き込んだ。
ファイルを開くと、最初に現れたのは一行の文字だった。
『当記録は、正式運用前に破棄された第0層の構造設計と観測データを含みます。』
ページをめくるたび、図面と数値、そして膨大な実験ログが表示されていく。
人工知能によって自動生成された通路群。探索者の心理に呼応する構造変化。
そして、観測不能な『何か』が、一定条件下で『現れる』という記録。
それは、ただの迷宮ではなかった。そこにあったのは、『人の迷いを形にするシステム』だった。
「……この迷宮、探索者の精神をベースにして、構造を変えてるんだ」
「つまり……、『迷ってる』って気持ちが強いほど、道がねじれるってこと……?」
「逆に目的が明確で、思考がクリアなときは、構造はシンプルになる。
『探索者の心が、地形をつくっている』……。これ、たぶん真実だ」
そう語った瞬間、ページが自動的に切り替わった。そこには、白黒の映像記録が再生されていた。
暗い通路。重たい空気。そして――記録の中に映るのは、複数の探索者たち。
『こちら第0層観測班、侵入開始。現在、探索者コード014〜020を投入。記録開始。』
彼らは笑っていた。
どこか気楽で、ただのシミュレーションのような気分で迷宮に入っていく。
だが、映像の数分後。
音が割れ、叫び声が重なり、画面が一瞬だけ赤く染まった。
次に表示されたのは、記録の末尾。
『第0層試験は中止。すべての関係記録は削除対象。観測失敗。』
その映像に、続きはなかった。
「これって……」
「第0層の探索者たち……、帰ってこれなかったってことか」
俺は手にしたスマホを、そっと伏せた。
なぜ『記録』を残したのか。
なぜ、そのデータが今、自分の手元にあるのか。
理由は、ひとつしかなかった。
『この探索は、まだ終わっていない。』
削除されたはずの第0層は、生きていた。
形を変え、霧の奥で『誰か』を待っていた。
「御崎くん……」
ユナの声が震えていた。
彼女の目もまた、真っ直ぐに霧の先を見つめていた。
「これ、本当にただの『異変』じゃないよね? あたしたち、迷宮に呼ばれてる。そう思わない?」
「……ああ。そう思う」
地図は、迷う者のためにある。
でも今、俺たちは『地図を描く側』になっている。
ならば、この道の先に何があるのか――。確かめる責任が俺たちにはある。
そのときだった。
静寂を裂くように、空間の奥から『音』が響いた。
重い金属音。
どこかで巨大な扉が、ゆっくりと開いていくような……。不吉で、威圧的な音。
『次のフロアが、開放されました。』
スマホが、自動で通知を告げた。
これは偶然じゃない。今の『記録閲覧』が、条件だった。
誰かが見ている。
誰かが、俺たちの行動を試している。
この迷宮が、生きているのだとしたら――。それは、ただの敵じゃない。
俺たちを見定める、『選定者』かもしれない。
「ユナ、進もう」
「うん」
立ち上がると、霧が少しだけ晴れた。ほんのわずかだが、道の先が見えた気がした。
どこまで続くのか。何が待っているのか。
わからないけれど、もう引き返す理由もなかった。
開かれたフロアは、まだ見えない。けれど、その奥に待つものはもう、『ただの敵』じゃない気がした。
俺とユナは、しばし無言でその場に立ち尽くした。
霧の向こうに広がるのは、もしかしたら『迷宮の本質』だ。ここまではまだ、外周にすぎなかったのかもしれない。
「御崎くん」
ユナが口を開いた。静かに、でもはっきりと。
「たぶん次に行ったら……、もう戻れないかもしれない。
普通のゲームだったら、『中間セーブここまでです』みたいな警告出てる感じだよね」
「あるな。で、だいたいセーブせずに進んで後悔するんだ」
「ふふっ、わかる。でも今回は……、セーブできないなら全部抱えてく。だってここで戻ったら、きっと後悔するから」
その目に、迷いはなかった。
ユナはたぶん、俺よりずっと早く気づいていたのかもしれない。
この場所が、ただの異常じゃないってことに。
「ねぇ、御崎くん。あたしね、小さい頃ちょっとだけダンジョン潜ったことあるの」
「え、リアルで?」
「うん。小学生の頃に少しだけ訓練参加したことがあって。親戚が探索関係者でね。
そのとき思ったの。地図があるって、ほんとにすごいって。
何もない真っ暗な通路でも、見えるだけで怖さが薄れるんだよ」
「……ユナは、その頃から地図に救われてたんだな」
「そうかも。でも、今は逆。今度は、あたしが誰かのために地図を描きたいって思ってる。
御崎くんがいてくれるなら、きっとできる気がする」
そう言って、彼女はスマホを胸にぎゅっと抱きしめた。
「よし、覚悟決まった。行こう!」
「ああ。俺たちで、迷いを道に変える」
ふたり同時にマップの転送アイコンをタップする。
『確認:次の階層へ進行しますか?』
『新構造階層/転送後は戻れません』
『双方の承認確認済み。転送まで――10、9、8……』
カウントダウンが始まる。画面が淡い光に包まれ、空間の気圧が少しだけ変化した。
耳鳴りのような音がして、床のタイルがゆっくりと沈んでいく。
浮遊感。
体がふわりと持ち上がり、空間が上下に引き延ばされる。
まるで現実が、グラフィックとして描き直されているような――。そんな、異質な変化。
やがて、すべての感覚が止まった。光が弾け気がつくと、俺たちは別の場所に立っていた。
そこは、何もなかった。
正確に言えば、道すら存在しない。床も壁も、ただの真っ黒な虚空。
重力は正常に感じるのに、足元に踏みしめる感触がない。
そして、マップが――
『ERROR:構造情報が取得できません』
『表示領域:不明』
『再構築中――』
「……まさか、スキルが効かない……!?」
それはまるで、座標のない空間だった。俺たちは世界の真ん中に放り出された。
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