第10話 わたしが『わたし』である理由
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世界が、音もなく姿を変えていく。
扉を抜けた瞬間、足元から空間そのものが反転していくような感覚に包まれた。
景色も重力も、まるでルールが書き換えられたようだった。
そこは、霧のように淡く白い空間だった。
床も壁もなく、境界が見えない。漂うような感覚のまま、俺たちはそこに立っていた。
「ここ……どこ?」
ユナの声が、距離のわりに妙に遠く感じられる。気づけば彼女の姿は視界から消えていた。
まるで世界のどこかに、ひとりずつ分断されているようだった。
「ユナ!」
呼びかけた声が反響することもなく、ただ消えていく。
代わりに目の前に光が差し込み、映像が浮かび上がった。
それは、ユナの記憶だった。
まだ幼い少女が古びた地図帳を胸に抱きながら、布団の中で眠っている。
学校で笑われても、黙って自分だけの迷宮をノートに描き続けていた。
『彼女は、居場所を地図に求めた』
『認められなくても理解されなくても、自分がここにいることを証明するために、地図を描いた』
ナレーションのように響く声が、ただ空間に染み込むように流れていた。
次の瞬間、場面が切り替わった。
今度は俺の記憶だった。何度も地図を描いては破り捨てた過去。
失敗の記録ばかりが残り、誰にも見せられないスキルだと思い込んでいた。
『あなたの描く地図は、逃げ道だったのでは?』
『誰かのためではなく、自分を守るための場所だったのでは?』
問いかける声に、胸が少し締めつけられた。
図星だった。けれど、それだけでは終わらない。
「……それでも、構わない」
自分の中から、言葉がにじみ出ていた。
「誰かのためとか、大げさなことは言えない。でも……俺は、自分で選んで進める道を描きたかった。
それが誰かと重なったなら、それは『一緒に歩ける道』になるから」
映像がゆっくりと薄れていく。霧の向こう、かすかに人の気配があった。
やがて、それは形になり――ユナの姿が見えた。
「……御崎くん?」
「ユナ……よかった、無事か」
お互いの姿を認識した瞬間、空間が震えた。
心音のような波紋が広がり、足元に光の道が浮かび上がっていく。
『存在の選別――完了』
『観測対象:御崎/ユナ 認証済み』
『次の階層の扉を生成中……』
「選別って、こういう意味だったんだね」
ユナがぽつりとつぶやいた。
「私たちが『自分の足でここに立つ理由』を、見せなきゃいけなかったってことか」
「存在を証明するって、意外と地味だな。派手なバトルでも来るのかと思ってた」
「そういうの、次かもしれないよ?」
どちらともなく、小さく笑った。
足元の光の道が、少しずつ明るさを増していく。
空間が再びゆるやかに変化をはじめ、空の色が、白から深い群青へと変わっていった。
「次は、どんな場所だと思う?」
「正直、もう予想つかない。でも……」
俺は一歩、光の先に足を出した。
「ここまで来られたのは、俺たちが誰かじゃなく、自分として歩いてきたからだ。
だからたとえ世界が変わっても、俺たちの道は俺たちで描ける」
「うん。私も、そう思う」
ユナの手が、そっと俺の手に触れる。
迷宮は、まだ終わらない。むしろここからが始まりなのだ、と肌で感じた。
自分たちが誰であるか。そして、これからどうありたいか。
その答えを持って、ふたりは、また新たな階層へと歩き出した。
光の道を歩きながら、俺たちは少しずつ現実感を取り戻していった。
さっきまでの記憶の試練が、まるで幻だったかのように思えてくる。
でも足元に残る震えが、あれが『本物だった』ことを教えてくれる。
「……ねぇ御崎くん。あたし、ちょっと言いたかったことあるんだけどさ」
ユナが横目で俺をちらっと見た。
「うん?」
「さっきのあの白い霧の空間。わたしが小さい頃に描いてた迷宮のラストステージと、めっちゃ似てた」
「ほんとに?」
「うん。通路が白くて、音が全部吸い込まれてくの。誰もいないけど、誰かがいた気がするって空間」
そう言って、少し照れくさそうに笑った。
「だからさ、あたしちょっと嬉しかったんだ。子どものころの自分によくここまで来たねって、言ってもらえた気がして」
「……それ、めっちゃいいじゃん」
素直にそう思った。
ユナは、俺とは違って前向きだ。自分の過去を受け入れる力がある。
「でも、やっぱちょっと怖かったよ? 御崎くんがいなかったら、泣いてたかも」
「逆だよ。俺はユナがいたから、今ここにいる」
「えへへ、そっか。じゃあお互い様かもね!」
その時だった。
前方に『音』が響いた。
風を切るような金属をこするような、そして――靴音のような。
「……誰か、いる?」
緊張が走る。
でもそこにいたのは、見覚えのある顔だった。
「……え、あんたらマジで来たんかい!?」
広がる霧の中から、現れたのはひとりの少女だった。
小柄でやたらと目が鋭く、けれど口調が妙に馴れ馴れしい。
「えっ、えっ!? 誰この子!?」
ユナがぽかんとした顔をする。
彼女は、俺の旧アカウント時代のフレンドだった――はずだ。
でも、確かに見覚えがある。
「まさか、ログイン履歴から来るとはなあ。運営がすっ飛ばされてる時点でおかしいとは思ってたけど、あんたら本物かい」
「待って、誰? 説明ほしいんだけど?」
「あ、ごめん。自己紹介するね。あたし、ルル。
探索支援局の見習いだったけど、今は迷宮側の『システム介入側』ってとこかな」
「……味方?」
「どっちかっていうと、成り行きで居座ってる迷子って感じかな!」
ユナが隣で呟く。
「絶対この子、まともじゃない気がする……」
「えっ、聞こえてるよ!? ひどくない?」
そんな感じで新しいキャラは唐突に現れ、空気を変えてくれた。
ルルは霧をかき分け、ふたりを促す。
「創造者に会いに行くんでしょ? だったら、ちょっと寄り道する必要があるよ。
迷宮っていきなりラスボス行くより、ちょい手前で情報部屋挟むタイプじゃん?」
「なんだその丁寧設計……」
「いいから、ついておいで!」
そう言って、彼女は振り返らずに歩き出した。その背中を追いながら、ユナが笑う。
「……ねぇ御崎くん。なんかちょっとだけ、ゲームっぽくなってきたよね」
「うん。やっと迷宮探索っぽくなってきた」
重たかった空気が、ほんの少し軽くなっていた。さっきまでの試練がなかったかのように。
でも、きっと意味はあった。本当の仲間と、本当の自分を見つけるための階層だったのだと思う。
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