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彼方から染み渡るように、紫の空が夜を追い出していく。そうやって夜は流れてどこかの誰かの上を通過して、また明日になれば戻ってくる。
もうどれくらい時間が過ぎたのだろう。朝がすぐそこに来ている。
私の体はすっかり冷え切ってしまっていた。体が勝手に震えて、私は自分の体を抱え込んだ。
「寒いね」
女の人は私に一言そういった。そして自分の暖かそうなマフラーを外して私の隣に座った。
「これを使うといい」
女の人は私にマフラーをかけてくれた。とても暖かいと思った。
「ありがとうございます」
私は恥ずかしかったのか、申し訳なかったのか知れないけど、なんだかまた俯いてしまった。可愛げの無いやつだ、自分でそう思う。
「君はさ、もっと自分のことを好きになったほうが良いよ」
女の人は私の隣で、すぐ近くで、私の事を見てそういった。昔見た朝焼けみたいに暖かで、やさしい顔をしていた。
「好きになんてなれませんよ、なれる要素がないですから」
その明るさは、見ていて苦しいと思った。私の事を照らさないでほしいって思ってしまった。
「君はこういったよね。本気になれるものがないと、何かに固執したりしないと。でもね、君はこんなにも悩んでいる。心を振るわして真剣に未来を思っている。君は君が思う以上にがんばっているよ」
私が頑張っている? そんな事はない。私の頑張りなど、本気で目指す人には敵わない些細なものだ。
「がんばってなんていません、私は。もっと本気で、もっと頑張っている人と比べたら、私なんて遊んでいるようなものです」
私には価値なんて無いんだ。そう思いながら心の中には、罪悪感にも似た申し訳なさが沸いてきた。
こんな見ず知らずの私に、優しくしてくれて、暖かな言葉をかけてくれるこの人に、私は否定的な言葉ばかりぶつけている。
本当に駄目だなぁ。なんだか泣けそうだ。
「君は本当にかわいいな」
そう言うと女の人は私の事を横から抱きしめた。そしてお母さんが昔よくしてくれたように、優しく頭をなでてくれた。
「君は真面目で、優しいね。君のような年齢で、自分の夢が叶わなければ両親の人生を犠牲にしてしまうなんて考えが出来るなんて。余程両親を大切に思っているんだね」
女の人の言葉が痛い。冷たい。私に入ってくる、一気に。あまりに速度が速いから、拒絶したい。
でも心の奥底ではもっと私の事を分かって欲しい、考えて欲しいと思っている。
「そして君は、直向な姿勢で夢を追い求めている。本当に真剣でなければ何も考えず、立ち止まってしまえばいいんだ。なのに君は、考えずにはいられない。それは君が真剣になっている証拠なんだ」
目の前がぼやけていく、私は今泣いている。
「頑張りは人と比べるものではないよ。君自身の持つ力に対してどれだけ出し切れたか。比べるものは常に君自身のはずなんだ。君が自分の頑張りが足りないと思うのは、君が理想の高い向上心の塊みたいな人だからだよ」
私は言葉を返せなかった。ただ、女の人の言葉に無言で頷き続けた。涙は止まらない。
私自身の涙のわけは、もう分からなかった。悲しいのか、嬉しいのか、悔しいのか。
兎に角涙は流れ続ける、とめどなく。
「君は自分自身を好きになれないと言うけれど、私は君の事を愛おしいと思う。こんな真っ直ぐな子を誰が放っておけるのかと、そう思うほどにね」
絵の具のように私の心はぐちゃぐちゃだ。でもいつもと違うのは、いろんな絵の具を足しても、最後に真っ黒にならないところだ。
朝焼けのように私の心は明るい、そんな気がする。枷がかけられたように重かった私の心は、いつもより軽い。
「自分の価値なんてものは誰にも分からない。私も自分自身に価値がどれほどあるかなんて分からない。何に対しての価値か、誰に対しての価値か。人の考え方一つで価値なんていくらでも変わるよ。ただ一つ言えるのは君のお母さんとお父さんにとって、君はかけがえの無いものだ、これは断言できる」
こんなに泣いたのはいつぶりだろう。嬉しくて涙した事も、悲しくて涙したことも、悔しくて泣いたことも、もう思い出せないほどに昔のように感じる。
どうすれば涙が流れるのか、泣き方を忘れていたのかもしれない。
「私はっ…弱くて…怖くって…! 夢に手が届かなかったらと思うと、ほんとに不安で! 自分が本気じゃなかったら…諦めがつくっておもってぇ…! でも…」
もうわけが分からなかった。ただ一つ言えるのは、自分の事も私は理解していなかった。
心が澄み渡るようだ。自分でも見えなかった心が、人の手を借りて見えるようになっていく。
なんだ、私の夢は偽物じゃなかったのか。
遠いマンションの向こうから朝日が昇る。昔とは全然違うけど、また別のよさを持って空を焼いていく。
私は泣きつかれて、女の人に寄りかかって朝焼けを眺めている。
暖かさがここには二つある。朝焼けの始まりを告げる暖かさと、女の人の優しい温もりが。この人に出会えてよかった。
私は少し名残惜しさを感じながらも、勢い良く立ち上がった。
「私、もういきます。朝起きて私がいなかったら、お母さん達心配しますから」
私は女の人にありがとうを言ってマフラーを返した。
「本当になんか…その、ありがとうございました。見ず知らずの私の話を聞いてくれて。励ましてくれて。とっても嬉しかったです」
そういうと女の人は嬉しそうに、朝焼けの太陽のように優しく微笑んだ。
「それは良かった。これからはもっと色んな人に打ち明けるといい。両親でも、友達でも。人に話すと、自分でも見えない自分の事が見えてくるから」
はい、力強く一言、私は答えた。
「また、どこかで」
「ああ、またどこかで」
私は朝焼けの指す、古びたアパートの屋上のさらに上。ただ、ポツリと一つ貯水タンクがあるだけの、柵も無いこの場所を後にした。
自分の夢にたどり着くために。