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 不意に後ろから物音がした。屋上の柵を飛び越える音。それからカンカンと鉄のはしごを上ってくる。

 こんな時間に誰だろう? 業者の人かな? それは無いか、こんな夜更けに。ならば私のような暇人か、それともここに何か思い入れのある誰か…かな。

 私はじっと梯子の方を見つめる、息を潜めながら。やがて屋上の端から頭がひょこっと現れ、髪の長い、顔立ちの綺麗な女の人と目が合った。

「おや、先客がいるとは以外だね。てっきりここは私だけの秘密基地だと思っていたのだけれど」

 長い髪を風に遊ばせながら、その女の人は言った。私はなんて返したらよいのやら解りかねて、なんとなく謝ってしまった。

「ごめんなさい」

 私は目をそらした。

「どうして謝る?」

 聞かれても困る。私は俯いて、なんとなくを寄せ集めた、屑みたいな意見を言った。

「それはその…あなたの大事な場所に、勝手に入ったから? とか」

 足音がする、女の人が私のほうに歩いてくる。私は顔を上げられず、綺麗にそろえられた靴先を見るばかりだ。

「気にする事は無い。ここは誰か一人の物ではないだろう。いや、権利云々の話をするならば、私も君も不法侵入、ということになるかな」

 そういうと、女の人は私の対面に座った。女の人の影が私の靴先に落ちる。私は返す言葉を選べなくて、ここで会話が途切れた。私と女の人の間をびゅうっと風が吹き抜けた。

 私も女の人も何も話さない。ただ風の音と、車の走る音、私たちを照らす電灯がジリジリと鳴く音だけが、ここにあった。

 どれほどの時間が流れただろうか、先に口を開いたのは女の人だった。

「君はここからの朝焼けを見たことがあるかい?」

 ある。でも昔の話。あの頃は山の向こうから太陽が顔を出して、空が焼かれ、世界をオレンジに染めた。

 あの朝焼けが見たくって、でも早起きできないから、夜通し起きて見に来たっけ。

 私は山を隠した壁のようなマンションを見ながら、小さく、短く答えた。

「あります。昔に」

「私もだ。昔はよくここに来て、朝焼けを見た。山の向こうから来る光。心を震わせるようなオレンジの情景、いつもとは違う方向に伸びる影。身を切るような朝の寒さも不思議と心地よく感じる」

 顔を上げると女の人は、あの壁の向こうを見ていた。

「今はあのマンションが壁みたいに建っているから、昔のようには見れませんけどね」

 私はポツリと、そんなひねくれたことを言った。

「そうだね。絶対に壊すことの出来ない壁がるから、昔みたいには見れないね」

 そうだ、壁は壊すことなんて出来ない。普通の人でも難しい、並み以下の私では何も出来ない。

「それでも、朝は来るんだよ。昔と同じようには絶対にならないけれど、でも昔とは違う良さを持ちながら、あの壁の向こうから朝はやってくるんだ」

 私は、女の人の言葉をとても近くに感じた。なぜだか解らないけど。通り過ぎるだけの、寂しい言葉じゃなかった気がした。

 確かに私の心に、波を起こした。会ったことも見たことも無い。声を聞いたことも無い。だけど何処かであったことがあるような、そんな親近感を覚えた。

 女の人は私のほうを向いた。また目が合う。今度は目をそらさなかった。女の人は優しく微笑んでいた。その時、私の中でせき止めていた何かが少し弾けた気がした。

「あの…少し聞いてもらっていいですか?」

「何をかな?」

 女の人は微笑んだまま、なんというか聞く体勢とでも言うのかな? そういう雰囲気を作ってくれた。

「愚痴…みたいなモノですかね…」

「うん、いいよ」

 言葉が、涙のように溢れ出した。

「私には…価値が無いんです。本気になれるものも無い。日々頑張るふりをして、誰かを好きなふりをして、自分もだまして生きているんです。誰かをうらやんだり、恨んだりもしない、固執もしない。いい加減な調子で、いい加減な…偽物の夢を抱いて、描いて。やっぱり届きそうに無くて。怖いんです。自分に価値が無いのが、確定するようで。価値が無いって分かったら、両親に顔向けできない。今まで沢山の時間を犠牲にして、お金だって沢山かけて、それで出来たものが無価値なものだったら、それは、両親の人生を壊したも同じです。お母さんにだってやりたいことはあって、お父さんにだってまだなりたいものがあったはず。そんな二人の時間を殺して、私はこんなものになってしまった。夢が叶うどうこうじゃない、こんな歪な心で、空虚な個性で、嘘ばかりつく自分が、嫌なんです」

 私の言葉は止まらなかった。この言葉は、私の本音だろうか? 分からない、でも言葉は止まらなかった。見ず知らずの女の人は、その私の言葉を、黙って聞いてくれた。

 私の言葉が夜に溶け込んで、またしばらく二人の間に沈黙が顔を出した。私はなぜだか分からないけど俯いていた。無言で堪えるように、そろえられた靴の先を見ていた。まるでそういう作業のように。

「君の夢を聞いてもいいかな?」

 心臓が六十三回鼓動を打った頃、女の人は私の夢を聞いた。

「私の夢…私の夢は童話作家になる事…です」

 そう、ポツリと言い放った。女の人は少し考えるようなそぶりを見せた。

 なんだか嬉しそうな風でもある。

「…じゃあ好きな童話なに?」

 女の人は興味と好意の混じったような目で私に尋ねた。私は答えた、一ミリも迷わずに。

「一番は〝銀河鉄道の夜〟。その次に〝明日になったら〟です…この二つの物語にはいっぱい影響を受けて、いっぱい助けられたと思います…」

 なぜだろう、さっきから少し素直に、自然に話せる気がする。それに女の人の目を見ながら話せる。女の人は私の言葉を聞いて、少し驚いたみたいだった。

「そうか…まだ早いのかもしれないな、私も」

「え?」

「いや…なんでもないよ」

 女の人はそれだけ言うと、ほぅと息を一つ吐いて、空を仰いだ。

「一人は、怖いんだなぁ」

 女の人は、零す様にポツリと呟いた。

 一人は怖い。私もそう思ったけど、でも同調するような言葉をかけたくなかった。肯定も同調も必要ない、孤高であるから価値のある、そんな言葉に思えたから。

 私も空を仰ぐ。怖いくらい黒い空はもう過ぎ去っていた。ほんのりと温かみを帯びた黒が、気持ち良さそうに空を泳いでいた。

 その夜空には明度を上げてなお、燦然と星が輝いている。泰然としていて、自分には無いものを見た気がした。


 もうじき、夜が明ける。

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