美女スパイの出現
連載第4回 <美女スパイの出現>
1972年の3月のある日の夕方、「伽藍工房」に一人の美人が訪ねてきた。品の良い濃紺のミニ丈のワンピースを着ていて、肩までの長さの髪とそれほど濃くない化粧で、魅力的な女性だった。
「こんにちは」
康一と、岩井、石川は、地下室で洋楽を流しながら音楽談議に花を咲かせていたところだった。康一が石段をあがって、玄関に応対に出た。
「はい、どちら様ですか?」
「ちょっと、嶋田さんにお会いしたくて来ました。こちらでお会いできるかも知れないと思って……」
「ああ、嶋田はいませんが、そのうちにやってくるかもしれません」
康一は、きりっとしたかなりの美貌のこの女性に、一瞬で心を奪われた。
「よかったら、地下の部屋で待ってみますか?」
「ああ、どうしようかな、そうさせてもらってもいいですか?」
「いいですよ。ちょっとむさくるしいリビングですが、皆でだべっていたところですが」
地下室に案内すると、岩井、石川はそろって、華やかな雰囲気の彼女を凝視した。
「まあ、素敵なお部屋ですね。こんなところがあるんですね」
「嶋田の知り合いですか?」と康一。
「いえ、そうではないんですが、ちょっとお話ししたいことがありまして」
「えーと、あなたのお名前は?」とそつなく聞く岩井。
「はい、南条真奈美といいます」
「真奈美さんか、おきれいですね」と石川
「俺たち、今、音楽の話をしていたところですが、真奈美さんは、その辺の興味ありますか?」
「はい、ポップスが大好きです」
康一は仲間ができたと喜んだ。
「この二人は、フォークファンで『吉田拓郎』や、『ビリーバンバン』が良いって言うんですが、確かに悪くはないけど、この地下室で聞くには、T・レックスの『メタル・グルゥー』やスティーヴィー・ワンダーの『迷信』とか、レッド・ツェッペリン の『ロックン・ロール』が最高なんだ」
「わあ、それ、私もみんな好きです。いいですよね」
康一は、うれしくて、一気に親近感をもった。真奈美も康一の話に乗ってきた。康一は、レッドツェッペリンのアルバムを取り出してプレーヤで流した。岩井と石川は、そんな二人のポップス談議にやや白けて部屋に戻っていった。
しばらく、二人きりで盛り上がっていたが、勝則は、なかなか戻ってこなかったので、真奈美は
「また、来ます。今日は北原さんと洋楽の話ができて、とてもうれしかったです」
といって帰っていったが、康一はこの楽しい夜を忘れなかった。
真奈美は、中野駅の近くのサンモール商店街のバー「シークレット」でアルバイトしている大学生の22歳の女性。頭の回転が良く、人当たりもよい。大学生らしさは感じさせない大人の雰囲気を持ち、その美貌からこのバーの一番人気で、彼女を目当てに来る客も多い。その中に常連の不動産業者の砂川がいた。砂川は真奈美にある話を持ち掛けた。
それは、将来の山手通りの拡張を見据えて、嶋田家の土地の地上げをもくろんでいた砂川が、嶋田氏が面会を了解しないので、勝則に接触したいと考えた。「伽藍工房」が嶋田家の敷地であることを把握し、多くの若者が出入りし、そこに勝則も顔を出すという情報をつかみ、「伽藍工房」にスパイとして潜り込ませることとしたのだった。砂川は場合により本宅の敷地が無理なら、離れの部分だけでも手に入れたいので、「伽藍」の住人たちがいつまで暮らし続けるのかの情報も得たいと考えた。
砂川は、真奈美にバイト代出すのでこの役目をひきうけないかともちかけた。地上げ成功した暁には相当の報酬を約束するといった。真奈美は、何度か一晩付き合ってほしいと口説いていた砂川のことはあまり好きなタイプではなかったし、あまりまっとうな仕事をしている男ではないと見ていたが、面白そうだし地上げは相当先のことでうまくいくかどうかあてにはならないが、良いお小遣いかせぎになると引き受けたのだった。
「おい、真奈美、離れ(伽藍工房)に行ってどうだった?」と砂川。
「息子さんはいなくて、あえなかった。何時もいるとは限らないみたい。でも「伽藍工房」の住人の何人かとはとりあえず顔なじみにはなったよ。とくに北原という人は、結構私の魅力に参ったという顔をして、仲良くしてくれたよ。なにか、卒業するまでは住んでいいと言われたみたいよ」
「よし、引き続き、離れに顔を出してみてくれ。息子に会えなくても、離れの住人たちを取り込んでおくことは、無駄ではないからな。その北原っていうやつをもっと懐柔しろ。息子に会えたら、俺が会いたいということを伝えてくれ」
真奈美は、数日後にまた顔を出した。この日も勝則は不在だったので、康一にあうことにした。康一は帰宅していた。
「きょうも、嶋田さんはおられないのですか。すこし待たせてもらってもいいですか?」
康一は、真奈美にまた会えてうれしかった、
「待つのは構わないですが、地下室でいいですか?いまだれもいないけど」
「ちょっと、寂しいですね。康一さんの部屋ではだめですか?」
「もちろんいいですよ。でもかなり散らかってますが」
不意のことで慌てたが、今更片付けようにも間に合わないし、そのままを見てもらってもよいと思い、真奈美を部屋に案内した。真奈美は、部屋のあちこちの壁に掛けてある写真パネルを見て、こういった。
「素敵ね。これ、康一さんの撮影なの?かなりの感性だわね」
「ありがとう」
「ヌードもあるのね。いいじゃあない。ねえ、私のヌードも撮ってみたい?
「そ、そりゃあ撮ってみたいさ」
「嶋田さんの話がうまく言ったら、撮らしてあげちゃおうかな」
「ほんと?ぜひお願いします。真奈美さんは、単なる美人というだけじゃあなく、サムシングを感じさせる雰囲気があり、絶対に絵になる人ですよ」
30分ほど写真や音楽の話をした。
真奈美は、そろそろ帰ると言い出した。
「今日は、帰ります。また来ますね。きょうも楽しかったぁ」
そういって店の名刺を康一に渡した。「中野サンモール シークレット」とかいてあった。
「今度、お店にきませんか?」と言って。
康一は、勝則に面識ないのに何の話があるんだろうかと不思議だった。その疑問より、康一好みの美女が自分の部屋に来てくれたこと、場合によりヌードも撮らしてあげると言ってくれたことがうれしかった。2回目の出会いだが、すっかりとりこになっていった。
真奈美の魔力で、この時は由紀子のことは頭から離れてしまっていた。
彼女が帰ろうとした頃に雨が降ってきたので、康一は傘をだして駅まで送るといった。「伽藍」の玄関から道路までは狭い通路を通っていく。狭いので傘は一つだけしかさせない。その通路を通るときに足元が悪いので、真奈美は康一の腕にしがみついた。真奈美の甘い匂いがした。道路に出て、もうしがみつく必要はないのに、しばらくずっとしがみついていた。真奈美が康一に好意を持っているのではないかと思わせるには十分な態度だった。康一の心臓はかなり高鳴り、その高鳴りは真奈美にも伝わった。しかし、康一はこの状況の暗い通路ならキスできるかもしれないと思ったが、相変わらず勇気がでないのであった。
大通りに出ると、真奈美は雨だからタクシーで帰ると言って、タクシーを拾った。ドアが開き、乗り込む寸前に真奈美は「ありがと」と言って康一の頬に軽くキスした。
康一は不意の予期せぬ出来事に、声も出ないでタクシーが遠ざかっているのを見つめていた。
つづく