純朴な天使 由紀子と出会う
連載第2回 <純朴な天使 由紀子と出会う>
「伽藍」を訪れるいろいろな訪問者の中で誰の関係だったか定かではないが、美人ではないが福島弁がやけに心地よい、気立てのよさそうな中島由紀子が「伽藍」に出入りするようになった。
1971年の初秋の頃この出会いは、康一にとって、非常に大きな出来事になる。
由紀子は九段のインド料理店でバイトしているという。そのバイトが終わったころにほぼ毎日「伽藍」にくるようになっていた。もっぱら石川の部屋にたむろすることがあったがそのうちに康一の部屋にも訪ねてきた。
康一は、美人ではないが笑顔となまりのある話し声に惹かれた。いつもは女性の容姿に心を奪われていた康一にとって、珍しい現象だった。
無邪気にふるまう彼女の気を引こうと、由紀子の他ちょうど「伽藍」に居た岩井の部屋の居候のトミーや間島等を乗せてちょっとしたドライブに誘った。
「由紀子さん、あまり東京を知らないみたいだから、銀座などにドライブに行かない?」
「ああ、行きたい」
「中古の変わった車だけどね」
「そんなの構わない。連れてってください」
おそい時間だったが、ドライブを楽しんだ。銀座四丁目の交差点で600ccのキャロルに取り付けていたプレミアムのクラクション鳴らすと、いい音が交差点に響いた。由紀子は楽しんでくれた。小一時間都内を走り回って、「伽藍」に戻った。
「今日は、ありがとうございました」
由紀子は無邪気に素直にうれしそうであった。
「いいよ、楽しんでくれたらうれしいよ」
彼女の飾らない笑顔にすっかり参ってしまう康一。
まるで住人のように結構頻繁に来るので、会話を交わすことが多くなった。由紀子にはあまり性的な魅力を感じないので、その対象としては考えることはなかった。
由紀子は福島県の高校を卒業後、友人を頼って上京していた。東京にあまり知り合いがいないので、その友人が教えてくれた「伽藍」に出入りするようになっていた。福島の高校時代は仲間外れになっていた経験があり、「伽藍」の住人やその友人たちが毎日のように楽しく過ごしているこの空間に仲間入りしたいと思った。自分の居場所を見つけたのであった。
康一にはこの時期、由紀子の他に気になる女性はいた。高校の同級生の東田美恵が、同じ高校の仲間とともに時々遊びに来ていた。彼女はその高校同期の友人梶本の彼女で時々二人してやってきた。彼女は高校のマドンナでかなりの美形であったので、梶本の彼女になる前に写真のモデルになってもらったことがあり、好意を強く持ってはいた。しかし、今は友人の彼女であり、あきらめたものの未練がある。康一の部屋ではしゃいで麻雀に興じる姿を複雑な思いで眺めていた。
しかし、由紀子の登場で、実ることのない思いは薄れていった。
康一は徐々に由紀子のとりこになっていった。
由紀子は決して頭の悪い女ではなかったが、その発言はいつも無邪気なものだった。とてつもなく優しく、他人への思いやりは深く、人を傷付けるような言葉は言わない。何よりいつも笑顔をたやさずに、その笑顔で人は癒される。
康一は、渋谷ジャンジャンの契約カメラマンを行うような写真マニアで、もっぱらなにがしかの美しさを持っている女性をモデルにすることが多く、いわゆる美人タイプではなく、化粧っ気もない素朴な容姿の由紀子をモデルにしようとは思わなかった。由紀子との会話、何気ない日々の交じわりが楽しく、写真を撮ろうという発想に至らなかった。
ある意味、毎週、毎晩のように好意を寄せている女性が自分の住まいに訪ねてくれるのは恵まれていることで、彼女の屈託のない笑顔を見ることは大いに楽しみであった。
時には康一と二人で台所で何かの料理を一緒に作ったりし付き合いが良い。康一へ接するときの態度はいつも素直であけっぴろげで、無防備であった。康一が話す話題にも良くついてきた。新宿にも仲間と一緒に時々出かけ、二人だけで行くこともあった。
そういった彼女のふるまいは、康一には天使のような存在になった。
3ヶ月ほどそのような楽しい付き合いから、由紀子への思いを相当に募らせた康一は、いままでの女性に体する消極性を反省して、今度は意を決してしっかり気持ちを打ちあけることにした。
「由紀子、あのう、俺は君のことが好きなんだよ」
由紀子は、康一の告白に対して
「あまり好きだのどうのって、言わないでほしいな」
と言ってきた。
「なぜ?」
「どうしてといわれても…。そういうの、あまり好きじゃあない。言わないでくれたら、今まで通り仲良くしましょう」
由紀子は、康一の求愛に対してはっきりした答えはしなかった。いやですとか嬉しいですとかの返事は無かった。それでも、康一のことを遠ざけることは無く、世間話ならいつも通りに相手をしてくれた。
確かに由紀子は困惑していた。康一を嫌いというわけではないのだ。この時は。
康一は混乱した。
そこにややこしい展開が訪れた。岩井の部屋の居候のトミーに康一がどれだけ恋しているかコンコンと話したのに、しばらくして実はトミーも由紀子を好きだと宣言し、康一のことは大好きだけど、それとこれとは話が違って自分も由紀子を諦めないと言い放った。
それを聞いた石川は、
「どちらが先に由紀子と寝ることになるんだろうかね」
と茶化して笑っていた。康一は、別に由紀子と寝たいなんて考えてない。由紀子の気持ちが欲しいだけなんだと心で叫んだ。
こんな康一でも思いを寄せてくれた女がいた。
「あなたは変なことしない男だから」
と言って時々康一の部屋に泊まっていく少し年上の女性「登美子」がいた。泊まっていくと言っても部屋の隅に布団を曳いて、下着になってただ寝るだけであった。
登美子は2、3回泊まっていったが、彼女の言うように康一は「変なこと」はしなかった。正直、変な気が起きるような魅力は登美子にはなかった。まして康一の心は由紀子のことでいっぱいだったからである。山梨出身の登美子は水晶製の印章用素材のプレゼントを持ってきたりしたが、康一は一向に登美子の方に振り向かなかった。
彼女は康一の好みのタイプではなかったが、康一を好きだという気持ちはよくわかり悪い気はしなかった。しかし、好きな女への求愛はなかなか報われず、好きではない女からの求愛は何らの充足感ももたらさない。
登美子も康一の由紀子に対する気持ちを知り、康一の脈のなさにあきらめて来なくなった。
相変わらず普通に接してくれるものの、「愛してる」という言葉を拒否し続ける由紀子の態度に、苦しい日々を過ごす康一であった。
つづく