同僚さくらの誘惑
連載第1回 <同僚さくらの誘惑>
「何か可笑しな家に居るんでしょう?康一さんの部屋も見てみたいな。」
設計部の同僚のさくらに言われて夜遅くだったが「伽藍工房」に案内した。防空壕跡の大谷石地下室などをいたく感心して喜んだ。その後康一の部屋にやってきた。部屋にある雑多な美術関係資料や作りかけのコラージュ作品、康一撮影の大判パネルのヌード写真を興味深く見まわして
「ふーん、こういうおうちなのね。面白いわね」
「そうかい」
等とたわいのない会話を交わしていたが、康一が今日は疲れたというと
「マッサージしてあげようか」
と思いがけない発言。
「うつぶせに寝てみて」
康一は、うれしい気持ち。
「どう、かげんはいかが?」
「ああ、気持ちいい。マッサージしてもらうの大好きなんだ」
さくらは康一に馬乗りになって何分間か優しいマッサージ。さくらからはかぐわしい匂いが漂い、康一は背中でさくらの尻の暖かさを感じたが余計なことは考えないようにした。
深夜で二人だけの部屋で女性がベッドの上で馬乗りになってマッサージしてくれたら、それは更にもっと親密な関係を持ってもよいという合図と取るのが普通であろう。ところが、奥手で女性体験のない康一には、抱きしめてもよいものか、どうしてよいかわからない。もし、そういう行為に出たら、「何するの!」と怒らせるかもしれない。
葛城さくらは康一の勤める建設会社の設計部の先輩で、インテリアデザイナー志望のやや勝気でインテリ女性。いつもはやりの短いミニスカートを身につけたぽっちゃりした少し色気のある女性で、自分の作業はなくても康一が夜間残業している際にも付き合ってくれた。
設計部は社長の自宅の2階にあり、密室で夜間に二人だけで過ごす様子を心配して、社長はさくらに早く帰るように注意したことが度々あった。康一も、もしかして自分に興味があるのではないかと戸惑わされた。
「葛城さん、もう遅いから帰りなさい」
と帰宅を促した。
「はあい、わかりました」
同じ事務所での仕事が続いているうちに、数回彼女の知り合いの六本木の店に一緒に飲みに行ったこともある。ところが、ある晩さくらの行きつけの店に入ろうとしたときに、店内に知り合いがいたようで、気まぐれなさくらは康一に
「ごめんなさい、今晩はここでお別れ」
と、突き放されてしまった。
翻弄された康一は、それでも怒ることなく、だまって帰っていった。そこで、さくらに対して強く出ることができないところが、康一の弱点であった。
東中野駅近くの大谷石づくりの半地下の防空壕の上に木造の建屋を乗せた古い民家を改修した「伽藍工房」は、今で言うシェアハウス。日大建築科の学生北原康一は1971年から同級生の岩井、石川と土木科の平と暮らしていた。シェアハウスといっても男ばかりのむさくるしい住まいだ。日大紛争のロックアウト中に知り合い、この家に住むきっかけとなった土木課の嶋田が暮らす実家の隣接する離れになり、嶋田の父親の温情に恵まれて環境が与えられた。
東中野駅から徒歩5分というアクセスの良さのせいか、この「伽藍工房」には4人それぞれの知人など、1971年から閉鎖する1974年までの間にざっと延べで200名くらいの若者が出入りしていた。新宿駅あたりで飲んでいて電車が無くても歩いてこれる。そのためにいろいろな交流が生まれた。
康一の友人も何人も来たが、他の住人の友達の友達が毎晩訪ねてくる。当然、女子も多くて、康一は恋人が作れるチャンスと大いに期待した。早く女性との性体験を積んで童貞を卒業したかった。彼の歳でまだ童貞というのは、この住人では康一だけでかなり遅い。
さくらは、そういった「伽藍」の魅力に引き寄せられて訪れていた女性ではなく、職場での康一との関係で康一の話から「伽藍」に興味を持ったのであった。
ある時、取引先の新宿でのイベントのパーティでさくらと二人で一緒に出席した帰りに、遅い時間になったのでやましい気持ちは無く親切心で
「さくらさんのアパートまで車で送ろうか?」
というと
「ああ、そうしてくれるとたすかるーー」
とさくら。
自宅に送ってもらう前に「伽藍」を見てみたいというので寄り道したのであった。
康一がさくらを連れて「伽藍」にもどると、石川の部屋から台所に向かう由紀子とすれ違った。
「あら、女の子もいるのね?」
「ああ、多分石川の知り合いだろう。俺はあまりよく知らないんだ。いろんな人がやってくるんだよ」
この時、のちのち康一の運命の女性となる由紀子や夜に突然部屋に飛び込んでキスしてきたミー子は、まだ「伽藍」の新参者でこの時点で康一はよく知らなかったのである。
「そんなに女の子が来るんだったら、康一さんにも彼女がいるんじゃあないの?」
「いやあ、いないんだよ」
康一の部屋で、心を込めたマッサージを終えたさくらは、
「どう、気持ちよかった?」
「ああ、うれしかった。ありがとう」
さくらは、以前から康一のことを気に入っていた。割とハンサムだし、性格も悪くない。今晩は成り行き次第では康一に体を許しても良いという気持ちがあった。
康一は、どうするか迷っているうちにマッサージは終了してしまった。さくらは康一が自分に抱きついてきたら受けてあげようと思っていたが、康一の優柔不断な態度に多少はがっかりしたものの、康一がそういううぶな男であることをも知っていたので、こういうこともあるだろうと予想していた。かといって、自分から進んで康一との行為に至るように誘うことまでは躊躇があった。
康一の顔をちらっと見ただけで、特に感情を表すことのなかったさくらは、何を考えていたのであろうか、康一にはわからなかった。
「じゃあ、送るよ」
康一は、さくらを車に乗せて彼女のアパートまで送っていった。康一は、自分のはっきりしない態度についてさくらが不満を持ったのかどうかわからないままに車を走らせた。途中麻布十番で二人で仲良くラーメンを食べてから、送り届けた。しかし、何もしなかったこと。できなかったことを、あとあと後悔している康一であった。
その後、由紀子への思いが募り、退職して帰郷したことにより疎遠となったさくらのことは、いつの間にか記憶から消えていったのである。
康一の異性に関する興味の深さは昔からだ。女性へのあこがれは相当強く美人に目ざといが、度胸が無くて好きな子への告白はなかなかできない。康一は長髪でスリムでなかなかの男前であったが、自分の容姿の客観的評価ができず自信が持てない。よって、今一歩女性へのアプローチができない。そんな康一に、恋人ができる日はくるのであろうか。
つづく