9:お着替え
公爵家にメイドとして忍び込んだリュンクスは、絶体絶命のピンチに襲われていた。
「お客さん。どこか痛いとこやかゆい所は無いですかい?」
「……と、特には」
鼻歌交じりにリュンクスの背を流すのは、一糸まとわぬ姿のマルティナだった。どうも世話好きの性格らしく、仕事とは関係無く楽しげにリュンクスの身体を清めている。
「ねえ、あんたって山賊に囚われて売られそうになったんでしょ? ひどい目にあったりしてない?」
「いや、別に大したことはされてないけど」
「そっか、よかった。ちょっと打ち身になってるみたいだけど、大したことは無さそうね」
ほっとしたようにマルティナは胸を撫で下ろす。
ぼこぼこ殴られていたが、リュンクスとて単に殴られっぱなしという訳では無かった。拘束されつつも身体を捻ったりして、衝撃を最小限に弱めている。
それに体力も並外れているので、大抵の傷は食事をしてぐっすり眠れば回復する。その辺りはフィンケルの家で補充済みだ。
「もういいって。充分綺麗になっただろ?」
「ダメ! なんとこのお屋敷では使用人も香水を利用していいのでーす!」
そう言って、マルティナはうきうきしながら風呂場の端にあった香水のビンを取り出した。基本的に高級品なのだが、アドニスは部下をかなり手厚く扱っているようだ。
「いいってそんな高いの! 女のお前が付ければいいだろ!」
「あんたも女の子でしょ! せっかく見た目がいいのにもったいない! それに、身綺麗にしておくのもメイドのたしなみなの。私たちはアドニス様達のいわば所有物なんだから」
「わかったよぉ……」
しぶしぶリュンクスは香水の付与を承諾した。リュンクスとしては自分の身体は無臭のほうが目立たなくて助かるのだが。
「よろしい。あんたに任せると適当にやりそうだからあたしが塗ってあげる」
全身を洗い、湯で身を清めた後、されるがままに全身の肌に香水を擦りこまれる。後ろでマルティナが裸でせっせと作業しているというのもあり、どうにも落ち着かない。
「えいっ」
「ひゃあっ!?」
突如、胸をわし掴みにされたリュンクスが変な声を上げる。自分で揉むと邪魔くさいのだが、不意打ちを食らうと今まで存在しなかった感触に困惑する。
「なにすんだー!」
「ごめんつい……ほら、前の方も塗った方がいいし。にしてもおっきいわね……」
「こ、こら! 変な触り方すんな!」
マルティナは興味津津といった感じでリュンクスの胸をこねる。リュンクスと密着する形になるので、マルティナの胸が背中に当たり、リュンクスに柔らかい感触を伝えてくる。
「離れろー!」
「あはは、照れてる照れてる!」
後ろから冗談交じりに張り付いてくるマルティナを強引に引っぺがす。マルティナはけらけら笑い、きちんと香水を塗る作業に戻る。
やっと落ち着いたと思ったのもつかの間、今度はマルティナが人差し指で、リュンクスの背中をつーっとなぞる。すると、リュンクスはバネ細工の人形みたいにびくりと震える。
「だからやめろって言ってるだろ! その……変な感じになるんだりょ!」
「あはは! 噛んでる噛んでる。にしても本当に綺麗な肌ね。羨ましい限りだわ」
純粋な憧れの籠った口調でマルティナがそう呟く。マルティナのいう通り、今のリュンクスはまさに玉のお肌という言葉がぴったりだ。新雪のように白く染み一つ無く、水滴が何の突っかかりも無くするすると玉になって落ちていく。
「さ、じゃあ一緒に湯船に入りましょっか」
「こんな所にいられるか! あーしは出させてもらう!」
もう限界だった。というより、これ以上マルティナに密着するのは色々な意味で毒になりそうだと本能が告げている。リュンクスはそのまま立ち上がり、風呂場を後にして脱衣所へと駆ける。
「あれ!? 無い!? あーしの服が無い!?」
すっぽんぽんのまま脱衣所に来たリュンクスは、先ほどまで着ていたボロ服が影も形も無くなっていて仰天した。さすがに素っ裸のまま屋敷を歩くわけにはいかない。
「ごめんごめん。ちょっと調子に乗りすぎちゃった……って、何を裸で突っ立ってるのよ」
後から追いかけてきたらしく、マルティナはタオルで大事な部分を隠している。健康的な肌が桃色に染まっているのに若干ドキドキするが、それよりも今は服の有無の方が大事だ。
「あーしの服がねーのよ!」
「服? あー、あのボロ布なら処分したわよ。男物だし、あんなひどい物着せるなんて、ほんと山賊連中って最低だわ」
「い、いや……山賊のせいじゃないっていうか」
あれはリュンクスが元から着ていたものだ。確かにボロボロではあるが、最低限身に纏えればそれでよかったのだが。
「とりあえずあたしの服持ってきたから、今日はそれで過ごして。私服とか制服は明日見繕ってくれるみたいだから」
「そっか、それならいいや……って、いいわけあるかい!」
一瞬新しい服が手に入ってラッキーと思い掛けたが、すぐに正常な思考に戻る。マルティナが持ってきた服ということは、それすなわち女物である。
「何か問題ある?」
「なんかって……これ、スカートじゃん!」
上着はまあ許すとして、問題は下半身だ。マルティナが用意してくれたのは紺のスカートだ。色がダメとかそういう問題では無く、当たり前だがスカートなんてリュンクスは履いた事が無い。
「スカートくらい履くでしょ」
「あーしは一度も履いた事ないわ!」
「えっ」
「あっ」
マルティナの目が点になる。そこでリュンクスは、地雷を踏んだ事に気が付いた。まずい。確かに女なら一度くらいはスカートを履くくらいはするだろう。
「え、えーっと、これまでスカート履かなかったのはぁ……」
なんとかして誤魔化すため理由を捻りだそうとするが、うまい言い訳が思いつかない。その直後、マルティナが何故か涙目になったので、今度はリュンクスの方が目が点になる番だった。
「ご、ごめんなさい! 確かに生まれによってはスカート履く余裕が無い家だってあるものね! それなのにあたし、あんたに普通の子みたいに接しちゃって……!」
「違うって!」
マルティナがぼろぼろと涙をこぼして手の甲で涙を拭い始めたので、リュンクスは慌ててフォローを入れる。
「あーしは確かに育ちは悪いけど、なんていうか、その……山暮らしが長かったからスカート派じゃないっていうか……」
「そうなんだ……じゃあ、今度からちゃんと女の子らしい格好しないとね!」
「えっ、いや、それはちょっと……」
「いいのよ! こうしてアドニス様に拾ってもらえたのもきっと神様のおぼし召しよ。実はね、あたしも田舎から口減らしで街に売られてきたの。その時にアドニス様に助けてもらったのよ」
同じような境遇だと勘違いしたのか、マルティナはリュンクスに親近感を持って語り始めた。リュンクスとはそもそも性別すら違うのだが、口に出す訳にもいかない。
「だから実はね、私もおしゃれとか意識し始めたのつい最近なの。大丈夫。リュンクスは可愛いから、きっとどんな服でも似合うわよ。あれ? あんまり嬉しくない?」
「そ、そんなことない! わ、わーいうれしーなー!」
これ以上マルティナと会話していると色々とボロが出そうだったので同意しておく事にした。マルティナもすっかり笑顔になったので、色々と問題を棚上げしつつ、とりあえずよしという事にした。
「こんな格好で居たら湯ざめしちゃうわ。湯船に入りたかったけど、それは明日以降でいいわね」
どうやら無事タイムアップを迎えたらしい、マルティナからタオルを借り、リュンクスも身体を拭う。そして、仕方なく女物の服とスカートに袖を通す。
「どう? 大丈夫?」
「ちょっと胸が窮屈で、腰が余ってる感じがあるけど、まあ大丈夫かな」
「ムカつく」
「何でだよ……」
急に不機嫌になったマルティナにリュンクスは首を傾げる。ころころとよく表情の変わる女だなと思いつつも、とりあえず新しい服が手に入ったのはまあまあ嬉しい。これで男物の動きやすいズボンとかだったらなお良かったのだが。
「まあ色々助かった。制服とかは明日だっけ? てことは、今日は仕事しなくていいって事か?」
「うん。リュンクスも来たばかりだし、今日はあたしと一緒に休んでいいって。体調がよくなったらで構わないって言ってたけど、明日大丈夫そう?」
「全然オッケー」
体力的にはあり余っているし、リュンクスとしては一秒でも早く元の姿に戻りたい。アドニスの好感度を稼いでおくためにも、少なくとも表向きは勤勉なメイドを演じなければならない。
「そう。じゃあ明日にメイド服を貰いに行きましょ。倉庫の方に何個か在庫があるはずだから、そこから好きなサイズを選べばいいわ」
「分かった。じゃ、また明日」
そう言って、リュンクスはメイド服に身を包んだマルティナに背を向けた。今はもう夕刻だ。完全に日が暮れる前に寝床を確保しなくてはならない。
「ちょっと!? どこに行く気よ!」
「どこって……どっか寝る場所探さないと。その辺の樹の上とか」
リュンクスとしては山の中で寝床を毎日変えるのは日常茶飯事なのだが、マルティナは呆れたように溜め息を吐く。
「あのね、ここは公爵家のお屋敷なのよ? それであたし達は住みこみの下働き。ちゃんと部屋は用意して貰ってるの」
「ホント!? それはありがたい!」
別に樹の上でもいいのだが、人間らしい寝床があるならそれに越した事は無い。せっかくなので利用させてもらうとしよう。そう考え、リュンクスはマルティナに先を促す。
「それで、場所はどこを使えばいい?」
「あたしの部屋」
「は?」
マルティナがしれっと言ってのけたが、リュンクスは間抜けな返事をした。
「だから、あたしと同室。二人部屋が基本なのよ。あたしだけちょっと狭いから一人部屋だったんだけど、まあ二人住むのにも問題は無いから。よろしくね、リュンクス」
「お、おう……」
マルティナが笑顔で握手してきたので、リュンクスもとりあえず握り返した。
寝床が保証されるのはありがたいが、何だかそれ以上にトラブルが起きそうな気がしてならなかった。