8:アドニスの屋敷
なんとかアドニスの元に潜り込むことに成功したリュンクスは、今、ちょうど彼の操る馬車に揺られているところだった。
「なんか、思ってたのより小さいな。お貴族様なんだからもっと豪奢なもんだと思ってた」
「はは、一応そういうものもあるけれど、フィンケルの家とうちは近いからね。移動用にはこれで充分なんだ」
リュンクスの問いに、アドニスは気を悪くした風でも無く笑って流した。リュンクスのイメージでは貴族=道楽者というものがあるのだが、少なくともアドニスが今使っている馬車はそこまでいいとは思えない。
引いている馬も大した値打ちも無さそうだ。
(どさくさに紛れてパクろうかと思ったんだけどな……)
一応メイドとして雇われた形ではあるが、もちろんメイドなんてやる気はさらさらない。あくまで情報収集が目的なのだから、去り際には何かしら貰っていくつもりである。
「見えてきた。あれがうちの屋敷だよ」
アドニスがそう言ったので、馬車の奥で座っていたリュンクスも顔を出す。
アドニスの屋敷は長年の時を感じさせる佇まいで、武家の屋敷らしいといえばらしく見える。悪い表現をすると、大きさはかなりの物だが華が無い。
「なんか……パッとしないな」
「お貴族様らしくないかな?」
冗談めかしてアドニスが笑う。彼自身も自覚しているらしく、特に不快に思っている訳ではないようだ。だが、リュンクスははっとした表情になる。これからこいつの元で働くのに、いきなり雇い主に嫌われては困る。
「い、いや……! なんと言いますか……古典的? そう……クラシカル!」
リュンクスは少ない語彙をかき集め、訳の分からないお世辞を言った。そもそもお世辞になっていないが、焦って言い訳するリュンクスがおかしかったのか、アドニスはくすくす笑う。
「君はなかなか正直だね。君の思っている通り、この屋敷は古くから伝わるものでね、色々と修復はしているんだが、時の流れには勝てないものだね」
そう言いつつも、アドニスの口ぶりに暗い感じはしない。アドニス自身がこの屋敷を気に入っているのだろう。そのまま馬車を進め、石壁の途中にある入口の門の所を通り抜ける。
入口に門番らしき人物もおらず、中には綺麗な庭園が広がっていた。屋敷自体は古めかしいが、手入れはよく行きとどいているらしく、庭師やメイドらしき人物達が真面目に働いているのが見える。
「ふーん、悪くないな」
「そうかい。僕も気に入ってはいるんだ。君もこれから一員になるわけだけど、うちの従者達は気のいい者が多いから、君もそれほど警戒しなくていい」
「……」
リュンクスの表情が若干強張っているのに気づき、アドニスは緊張をほぐすようにそう言った。だが、リュンクスが緊張しているのは、どちらかというとメイドそのものに抵抗があるからだ。
そもそも、リュンクスは定職に就いた事が無い。山の中で荒くれ者を叩きのめしたり、狼の群れと戦ったり、警備隊と一戦交えたりなどはあるが、まともに働くのはこれが初だ。
しかもメイドである。周りの人間がどうこうというより、いきなり女になってメイドはハードルが高すぎる。
「ま、なるようになるか……」
リュンクスは溜め息を一つ吐き、運命を受け入れた。とりあえず自分を女にした連中は全員捕まったようだし、後は黒幕を見つけてボコボコにして月光薬を手に入れるだけだ。
などと考えているうちに、いつの間にか屋敷の前に辿りついていた。アドニスに促され、リュンクスは馬車から降りる。厩の管理人らしき人物が既に待機しており、アドニスから引き渡される形で馬車を収めに行った。
「さあ、遠慮なく入ってくれ」
アドニスに付き添う形でリュンクスは屋敷に足を踏み入れた。外装はお世辞にも綺麗とは言えなかったが、中は綺麗に整えられている。調度品や絵画といった装飾は少ないが、ふかふかの絨毯が敷き詰められ、清浄な空間が広がっている。
貴族というとなんとなく金に汚いイメージがあったが、少なくともこの屋敷からはその匂いは感じない。
「おかえりなさいませアドニス様!」
アドニスが入口に立っているのに気付いたのか、窓を拭いていたメイドがぱたぱたと駆け寄ってきた。他にも三名ほどのメイドが各々掃除をしていたようだが、皆、仕事を中断してアドニスの元に駆け寄ってくる。
アドニスに敬意を表しているというのもあるだろうが、単純に花に群がる蝶みたいなものを感じる。
「ああ、ただいま。アルディはどうしている?」
「まだお部屋でお召し物を整えている最中です」
「そうか。ならば構わない。ゆっくりさせてやってくれ」
「お食事はどうされますか?」
「その前に身を清め、休憩したい。さすがに一昼夜行軍した後だと疲れてね」
「かしこまりました。あの……ところでアドニス様、そちらの女性は?」
メイドの一人がアドニスの後ろにいる、ボロ布を着た女――リュンクスの方を注視する。アドニスが連れてきたのだからそれほど警戒はしていないが、それでもやはり異様な存在である。
「ああ、彼女の名はリュンクス。山賊達に囚われていた所を救出してね。とりあえずうちで働かせることになった。そうだ、マルティナ」
「は、はい!」
メイド達の中でも一番歳若い……といっても、リュンクスと同程度だろうが、短い黒髪で、くりっとした瞳の小柄な女性が返事をした。
「彼女の世話をしてやってくれないか。君とは同じくらいの年頃だし、男の僕があれこれ言うより色々と気を使わなくていいだろう」
「わ、分かりました! このマルティナ、精一杯この子の面倒を見させていただきます!」
マルティナと呼ばれたメイドは、両手をぐっと握って力強い返事をした。そして、リュンクスの方に向き直り、そのまま手を取る。
「じゃ、早速行きましょ」
「行くってどこへ?」
「決まってるでしょ。お風呂よお風呂」
「お、お風呂?」
引きずられるように廊下を歩いているが、リュンクスは驚いたように返事をする。すると、マルティナはなぜか得意げな表情になる。
「驚いた? この屋敷は確かに古いけど、ちゃーんと湯あみが出来る設備があるのよ。生活に関する事は、アドニス様やアルディ様が気を遣ってくれてるの。もちろんお二方とは場所が別だけどね」
「ふーん」
「何よ。反応薄いわね」
魔力によって熱を加え、湯水を沸かせる設備はなかなか高額だ。いつでも湯あみが出来ると言うだけで女性には魅力的なのだが、リュンクスはあいにくそういう感情があまりない。
何せリュンクスは冬でも川で行水をする奴なのだ、汚れを落とせればなんでもいい。
マルティナに先導され、リュンクスは屋敷の奥まった場所にある、石造りの部屋に案内された。数人で入れるくらいの湯船には、既にお湯が張られて湯気を立てている。
「おー、ほんとに湯船だ」
「ふふん。ようやく実感が湧いたみたいね。仕事が終わるとみんな入りたがるから順番待ちなのよ。今は途中で抜けだしてきちゃったから、さっさと入ってちょうだい」
「分かった」
「あ、その服は適当に洗い場に出しておいて。ていうか、ボロボロだから処分した方がいいわね」
「そんな事言っても、あーし、これしか持ってないんだけど」
リュンクスの服は元からボロっちかったが、山賊連中に殴られたせいで泥まみれのボロボロになっている。
「しょーがないわね。あたしの服貸してあげるから、先に入って待ってて。あ、湯船に入る前にちゃんと泥を洗い落として入るのよ」
「分かったよ」
そう言い残し、マルティナは着替えを取りに自室へと戻っていった。どうやら住みこみで働いているらしく、それほど遠くは無いらしい。
「おー、ほんとにお湯だ」
一方、生まれたまんまの姿になったリュンクスは、興味深げにお湯に手を入れていた。今まで温泉などにも入った事が無かったし、こうした風呂に入るのは結構なカルチャーショックだ。
「にしても、これ引っ張ったら取れないかな……」
現実逃避をしていたが、リュンクスは裸になった自分の姿を見て、溜め息を吐いた。昨日まで無かったたわわな果実が二つ付いており、はっきり言って邪魔だった。
「むぅ、人に付いてるぶんにはいいけど、邪魔だなこれ」
もっちもっちと胸元をまさぐりつつ、作り物では無い事を確認する。こうしてみると結構な重量がある。体格を考えるとかなり豊満な部類だろう。
「あー! まだ身体洗ってない! ちゃんと洗っておけって言ったでしょ!」
「今からやるって……おわっ!?」
戻ってきたらしいマルティナに生返事をしたが、リュンクスは振り向いて驚いた。それもそのはず、マルティナも一糸まとわない姿で後ろにいたからだ。
「ちょっ、あーしの前でなんて格好してんの!?」
「なんて格好って言われても……今日はあんたの世話で早上がりになったから、ついでに一緒に入っちゃおうかなーって」
「一緒に入っちゃおうかなーって……正気か!?」
「すこぶる正気だけど。ていうか、なんでそんな慌ててんの? 女同士でしょ」
「あ、そうだった……」
自分の身体は今完全に女になっている。リュンクスは言われてようやく気が付いたらしい。
「あーもう、そんな事より泥まみれのまんまじゃない。しょーがないわね。洗ってあげるわ」
「え!? い、いいよ! 自分でやるから!」
「ダメ! あんたなんかガサツそうだし、あたしはアドニス様からあんたの面倒見るようにって頼まれたの。きちんと身支度しないとあたしが怒られるのよ」
「う、ううっ……!」
リュンクスの最初の試練が始まった。