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珈琲とコヒーラ効果

作者: 渦山吉凶@sc_ks

20世紀末に大学生だったぼくは、一日の何時間かを無駄に悩んでいたものだ。

風が吹き庭先の風鈴の音が鳴る。ぼくは遠くの木々を眺め、また目線を手元に移した。

「そんな夏もあったんだな」


---


哲学科の女の子たちは、学食でどんなお喋りをし、どんな本を読み、どこで何を飲み食いし、どんなことで笑うのだろう?


ぼくは、テーブルの上の茶色いコーヒーを見つめながら考えた。 沈黙の中眺めるコーヒーは、えらく寂しげで尻の座りが悪そうだった。 そうしているうちに、背中に汗がじっとりとにじみ出てきた。 駅前の喫茶店で夕立の音を聞きながら、こうして恋心を寄せる異性を目の前にしているのだから無理もない。


実家の本棚にあった父親のニーチェ集でも読んでおくべきだった。ぼくが思い出せるのはクリーム色の背表紙と紙面に並んだ古臭い活字と職人たちのタイポグラフィと、かびのにおい。


事態とは良くも悪くも予期せぬ方向に進むことがある。 当初は、今年の春ぼくとともに文学研究会に入った同級生の(おそらく19歳だろう)女の子と一緒に歩いて帰宅するだけのことだった。 途中で都合良く小雨が降りはじめ目の前に更に都合良く喫茶店があり、今こうしてふたりだけで一緒に居る。 ただ都合の悪いことに、ぼくは異常なほどに口下手だ。 話題はもう既に、ここに来る前から尽きていた。溺れる魚のごとく、ぼくは「あぁ」とか「そう」とか言いながら沈黙する空気に怯え、口をパクパク開閉するばかりだった。


彼女の白い服と長い髪の毛は、エアコンの風で高級な金魚の尾ひれみたく上品に揺れていた。 一方ぼくの散弾銃に撃たれたスズメガのようなファッションときたら、同席することすら悪事のようだった。

逃げるに逃げられない。 そろそろ、うつむき加減で、この世に絶望したかのような口調で哲学的にひねくれたジョークでも言うべきだろうか。 気の利いたコトバを視線の先に探していると、飲み干したコーヒーカップを置いて彼女が口を開いた。


「理系の人って、いまいち何を考えているか分からないんだよね。」


ぼくは彼女の顔を眺めながら、無言で頷くだけにした。ぼくは工学部という「理系の人」で、その中でも「電気工学科」という洒落た要素がひとつも見つからない学科に在籍する「よく分からないであろう人」であった。

ボロボロのスズメガであるぼくは 「そうか」や「うん」と答えようかとも思ったが、ここでは止めておいた。


19歳の彼女は無邪気だが、笑顔でもなく、ただ不思議そうな表情をしていた。

「 例えばさ、ここにあるライトに手を触れないで、どう点けるかとか、そういう機械をつくるとか…そういうことを考えてたりするの? 」 テーブルの上に放り出してあった鍵を2つ、3つ束ねたキーホルダー(彼女のアパートと、実家と、それから?)を彼女はつまみ上げた。キーホルダーの先には、5cm程度の小型ライトが下がり、小さく揺れた。


「キーホルダーに繋がれたライトを、手を触れずに点灯させよ」 ぼくには、それがえらく哲学的な質問に思えたが、純粋に「リモ・コンでも作りたいのか?」という話でしかなかった。

恐らく彼女も沈黙が嫌で仕方がなかったのだろう。 ぼくは彼女の変な気遣いの方に戸惑いつつも、どこかで救われたような気持ちになった。哲学科の彼女も、理系のぼくも、互いに沈黙を打破しようとしているからだ。仲間ではないだろうか、同志ではないだろうか、ぼくがもう少し気が利けばとも思った。


「あぁ」「そうか」「うん」とぼくはまた、魚のように口をぱくぱくしながら返事になっていない応答をした。

手探りで左右のポケットの内容物を確認し、それから、かばんの中をのぞきこみ、一寸考えてから答えた。 勿論、理系が皆そんな事を考えているとは思えない。むしろ大半の理系学生や科学者は、そんなことは考えちゃいない。 ただ偶然にも、ぼくがたまにその手のことを考えていたのは嘘じゃない。 「 …そういう機械をつくることばかりを考えているのが、ぼくらというか、まあ少なくともぼくはそうだよ」と答えた。


彼女は目を円くした。


「…こういうことなんだ。ちょっと見ててね」ぼくは身を護るようにしていた、腕組みを解き放った。


<用意するもの>

ぼくはジーンズのポケットにつっこんでおいた小銭から、1円玉を3枚ほど抜き出し、机の上に置いた。 かばんの中に午前の授業の実験で使用したケーブル付きミノムシ・クリップが5本ほど入っていたのは幸運だった。 彼女が注文したプリンについてきた、プラスチック製のスプーン と、それからガラス製灰皿の上に置いてある、店名の入った電子ライターを確認した。 電子ライターのガスは安全のため完全に抜く必要があるが、幸いヘビースモーカーの先客がガスを使い切ってくれていたようだ。


彼女のライトは分解する必要があるが、元に戻せなくなったら、もっと良いものをプレゼントしよう。 こうしてテーブルの上には、以下のものが並んだ。


1円玉 [3枚]

ケーブル付きミノムシ・クリップ [数十センチのもの。以下を読み必要なだけ用意]

プラスチック製のスプーン [1本]

電子ライター [1個]

乾電池で光る懐中電灯 or 豆電球+電池 など [1セット] ※壊しても良いものを!


<作り方>

ぼくはただ、もくもくと以下のような作業を進めた。


(1) 100円ライターの圧電素子にみのむしクリップをはさみアンテナとすることで、電波送信機をつくった


(2) プラスチック・スプーンの上に1円玉を2枚おき、以下の図のようにケーブル付きミノムシクリップでとめた (1円玉同士が接触しないこと)


(3) ケーブル付きミノムシクリップを下図のように一方の1円玉に接続した (アンテナ線となる)


(4) ケーブル付きミノムシクリップを利用し下図のような回路を組む 豆電球、電球ホルダー、乾電池ボックス、乾電池が揃えられれば、図のままに配線すれば良いので一番楽。 小さなライトからこの回路を組むには、分解した上で配線にちょっとした工夫が必要だった。


(5) スプーン上の1円玉2枚の間に、さらに1円玉をのせる。豆電球が点灯した場合は、消灯するまでスプーンの柄を指先で軽く叩く。


「実験してみよう」ぼくが100円ライターで火花を散らすと、15cmほど離れた彼女のライトは点灯をした。

「え、面白い。」 彼女は一言だけうなり、子どものように笑った。笑顔を見たのは初めてだった。


「科学」は地下室で日々孤独に進歩する、例えるならアリの子育てのような、地上の人間とは無縁のものとぼくは思っていた。 こうして人を笑顔にさせることができたことは、自分自身でも驚く体験だった。 ただ心から残念なことは、それが彼女の笑顔を見た初めてであり、最後だったということだ。


彼女は、夏が終わると学校に来なくなった。噂では学校を辞め、どこかの国へ留学したとも旅に出たともきいた。 確実なことは、とにかく居なくなったことだ。


こうしていつのまにか、20世紀の最後はブラウン管の中だけで大いに盛り上がって終わりを告げた。ぼくはそのお祭り騒ぎをレポートを書きながら眺めていた。

そうしているうちに、留年することもなく学校を卒業していった。

あの喫茶店は卒業して2,3年で閉店したと聞いた。


圧縮された思い出が膨らみ、ついに破裂したガスを浴びれば、中年と呼ばれる歳のぼくがそこにいる。


<最後に>

夕方から降り始めた小雨は、激しい雷雨に変わっていた。 息子の呼ぶ声で、深い眠りから目が覚めた。夏休みの自由研究について、相談を受ける約束をしていたのだった。 書斎で本を読みながら、眠ってしまったようだ。 遠い昔の思い出は美化されるものだが、ドキュメンタリー映画のような冷たい現実感を伴う夢だった。 もう何十年も前の出来事なのに、背中はあの日と同じく緊張からわき出た汗で濡れていた。 読みかけの本を手に書斎を出る。表紙に大きく書かれた文字は『珈琲とコヒーラ効果』。 哲学者の女性による科学と哲学について書かれたエッセイ集だ。 「ぼく」は息子にプラスチックのスプーンと、1円玉を探してくるよう命じた。 息子の階段を駆け下りる足音と、夕立の雨音は家の中で心地よいリズムを刻んだ。

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