8日目(月曜日)
朝食も気負いなく終えた。
聡志は病棟の景色が、どこか遠くにある様な感覚を得ていた。
同じ感覚は以前にも体験した。今年の3月、中学の卒業を迎えた日だった。
離れ離れになる同級生達。もう会わなくなる、関わらなくて済む。式が終わり、校門をくぐった聡志の気持ちは晴れやかだった。
午前10時過ぎ。外泊から戻って来た大江と、彼女の両親、患者達と看護師達が詰所の前に集まっていた。
「元気でね」
笛田の言葉に、大江と両親は頭を下げた。大江は皆から次々と声を掛けられていた。
聡志が目にした様子と、自分の退院は異なるだろうと聡志は思った。今後出会わない人々との惜別は、儀礼に過ぎないと思った。
無言で昼食を終えた聡志は、学習室に足を運んだ。昼寝をしたい心地もあったが、万一両親が来た時に寝ていれば、具合が悪いと思われて退院が延びてしまうのではと恐れた。
聡志は英語の参考書を開いたが、捗る感じはなかった。聡志は机に伏したかったが、両親が早く来た場合との思考は小憩を妨げた。
午後2時前、話し声が聞こえた。聡志は書字を再開して、扉のノックに返事をした。
「はい」
扉は開かれ、両親が顔を見せた。
母は小声で言った。
「ごめんね、勉強中に」
聡志は首を横に振った。
「先に私達が、先生とお話しをするみたいだから。待っていてね」
両親は部屋の中に足を踏み入れずに立ち去った。遠慮がちな両親の様子は、聡志の気に留まらなかった。
それより聡明な受け答えをしたかった聡志は、扉がノックされた後の「はい」が、裏返ってしまった事を気にした。妙に構えた様子が伝わり、普段との違いを感じた両親が、退院に慎重にならないか不安になった。
聡志は40分待った。10分程度と予測していた聡志にとって、途方もなく長かった。
しかし不安を平静とさせるには、良い時間になった。楠から出番を告げられた時、聡志の「はい」は、理想の声色だった。
診察室には両親と改寄、楠。4名は想定内だった。その他に2名、院長の江津と心理士の新地もいた。
聡志は皆の視線を一斉に浴びた。しかし聡志は動じなかった。高校入試に向けた面接の練習で、聡志はクラスの手本だった。適切な手順で聡志は席に着き、改寄と対面した。
「昨日は、よく眠れたかな?」
「はい」
「調子はどうかな?」
想定通りの質問に、聡志は答えた。
「はい、だいぶ良くなりました。疲れも取れて、勉強にも集中出来るようになりました」
父は頷いた。父も理解してくれたと感じ、聡志は良い展開を期待した。
「飛田君はどうして入院になったか、答えられるかな?」
改寄は聞いた。聡志は早速山場が来たと思い、気を引き締めた。
「成績が振るわない事で自信をなくして。自暴自棄になっていました」
聡志は一呼吸置いた。聡志は内容と口調、間にさえも注意を払った。
「今回入院して、ゆっくり出来て。今あの時を振り返ると、本当に馬鹿な事をしてしまったと思います。父と母、弟にも迷惑をかけて、とても反省しています」
聡志は両親に向けて、深々と頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい」
最良と思える内容を、完璧な口調で伝えた。聡志は両親の許しを得るまで、頭を上げるつもりはなかった。
しかし聡志の耳に届いたのは、院長と目配せをした後の、改寄が発した言葉だった。
「自信をなくした事は分かるよ。でもあの様な行動をしたのは、なぜだろう?」
聡志は頭を上げざるを得なかった。話題を元に戻されたと思った。その点に固執する意図が、聡志には理解出来なかった。執拗としか思えなかった。
聡志は冷静を意識して、返答を絞り出した。
「家族に迷惑をかけるという、周りへの配慮を欠いていたからだと思います。本当に反省しています」
謝罪を強調する意味でも、良い答えだと聡志は思った。聡志は再び頭を下げた。
低頭した聡志に、母の言葉が届いた。
「私達の迷惑とか、考えなくて良いのよ」
聡志は気づいた、母は泣いていた。聡志が入室する前から泣いていたが、気づいたのは今だった。
なぜ泣いているのか。聡志が理解出来ない内に、改寄は口を開いた。
「入院した時と比べれば、聡志さんの気持ちは落ち着いて来たと思います。ですので今週からは、聡志さんの考え方や行動の傾向について、検査を行おうと思います。検査は新地さんが担当します」
新地は聡志に頭を下げた。聡志も低頭を返した。
検査とは、どの様なものか。それは聡志にとって、不都合なものではないのか。
それ以上に検査をいつどこで、入退院いずれの状況で行うのか。聡志は大いに気になった。
「今週はどの辺りが空いてるかな?」
改寄は新地に問い、新地は質問を返した。
「検査は何をとりましょうか?」
「あ、ごめん。WAISとかのセットで」
江津が付け加えた。
「バウムもだろうね」
飛び交う単語を聡志は理解出来なかったが、新地が気になっていた事に触れた。
「検査は外来のカウンセリング室を使いますか?」
改寄は答えた。
「病棟が良いかな」
聡志は察した。少なくとも改寄は、聡志が入院を続ける前提で話しをしていた。
彼等の会話に割って入るには勇気を要したが、口を出さない訳にはいかなかった。聡志は声色の準備をせずに、改寄へ言った。
「あの。検査は。通って受けるのは、どうですか」
会話は止まり、各々に聡志を見た。江津が改寄と目を合わせ、改寄は新地に確認をした。
「検査は外来、通いでも出来るかな?」
新地は答えた。
「はい、出来ます」
勇気を出して良かった。改寄は両親の返事を待った。あと一押しを聡志は期待した。いつも母は、聡志を助けてくれた。
聡志の願い通り、口を開いたのは母だった。
「ごめんなさい。今、私には自信がないの。私のせいなの。ごめんなさい」
母が告げた意味を、聡志はすぐに理解出来なかった。ただ顔を覆って嗚咽する母を見て、いくらかの想像を浮かべた。
聡志の虚ろを、改寄は明確にして父へ尋ねた。
「お父様も、入院を続けた方が良いと思われますか?」
腕組みをしていた父は、手を膝に置いて答えた。
「私も、続けた方が良いと思います」
聡志の目論見は崩れ去った。
しかし最後の手段が残っていた。
聡志は意を決した。聡志は改寄に言った。
「あの、すみません。自分は、飛び降りていないです。車が、パトカーが来たから。隠れようとして、落ちてしまったんです」
衝撃の告白。聡志はそのつもりだった。
しかし皆は、表情を変えなかった。
改寄は言った。
「確認が取れて良かったよ」
聡志は開いた口を、閉じる事が出来なかった。
父は聡志に言った。
「消防の方も、恐らく事故だと言っていたんだ」
後を継いだのは改寄だった。改寄は聡志に言った。
「家を飛び出して。警察に捜索を要請するほどの長時間、夜道を歩き回って。パトカーが来たら身を隠そうとする。衝動的でもあるし、衝動だけではない行動もある。だから心理検査は必須だと考えているんだよ。そして飛田君の安全を考えるなら、入院を続ける方が良いと、医師として判断するんだ」
聡志は、人々のやりとりを傍観した。
「次回の面談は、検査が終わった後にと思うのですが。検査はどのくらいで終わるかな、新地さん?」
「急げば来週の火曜には、所見を含めて終わると思います」
「来週はすみません、仕事を抜けられなくて。土日か、午後6時以降なら大丈夫ですが」
江津が父に答えた。
「土日とその時間帯は難しいです。再来週はいかがですか?」
「再来週なら月曜日でも可能です」
改寄達スタッフは手帳を開き、互いに頷きで確認をした。
改寄は両親に言った。
「それでは2週間後。再来週の月曜午後2時に、お越し頂いてよろしいですか?」
父は承諾した。
「それでは今後とも、よろしくお願いします」
改寄達は頭を下げ、父、遅れて母も頭を下げた。
楠と共に聡志は退室した。両親は診察室に残った。
自室の扉を閉める前、楠は聡志に言った。
「お疲れ様。ゆっくり休んでね」
室内は聡志だけだった。
聡志はベッド周りのカーテンを閉め切った。壁を背にして寝転がり、身を縮めた聡志は、頭から布団を被った。
これほどまでに打ちひしがれた経験は、聡志の覚えになかった。
退院が延びた。更に大人達の都合で再来週まで延びた。
怒りはあった。しかし聡志の心を埋めたのは恐怖だった。
退院出来ると思い、関わらなかった周囲の患者達。彼等からいじめの対象にされないだろうか。避けていた事は確かで、弁解の余地はなかった。
食事に細工をされないだろうか。聡志が使った後のトイレは臭うと、からかわれないだろうか。学習室に逃げても、皆で邪魔をしに来たり。果てはトイレに呼び出されて、妙な事を人前で強要される等々。聡志は想像を膨らませた。
扉が開いた。声で母と分かったが、聡志は怯えたままだった。
「ジュースを飲みたかったら、看護婦さんに頼んでね」
聡志は布団を被ったままでいた。
「何かあったら、電話をしてね」
何かあるとしたら今だった。聡志の活力は、帰りたいと言えるだけは残っていた。
しかし聡志は言えなかった。いじめられるのが怖いと言えなかった。惨めな自分を見せるのも、惨めな子に育ててしまったと親を悲しませるのも嫌だった。
聡志は親を気遣い、しかし親は聡志の味方をしなかった。怒りは再燃したが、怒ったところで帰れる訳ではないと思う聡志もいた。
次々と思考は移り変わり、聡志はいずれも言葉に出来ず、母は部屋を後にした。
聡志は以後の時間を布団の中で過ごした。翔龍が入室してきた後は、息を潜め、物音を立てない様に努めた。
聡志は何も起こらない状況を、維持したかった。しかし人前に出ざるを得ない時があると、分かっていた。
聡志は夕食時に、どう振る舞えば良いかを考えた。声を掛けられたら、どう返事をするか。周りが聡志を見て小声で話し、笑い始めたらどう対応すべきか。
適切な振る舞いは思いつかなかった。結局聡志は午後6時を超過し、看護師から食事に行くよう促された。
食堂に続く廊下を小幅で歩んでも、辿り着くまでに時間は要さなかった。
曲がり角を1歩踏み出すと、翔龍、秋津、笑う女性、笛田。遠くに置くつもりだった人々が揃っていた。
聡志は翔龍の隣の席に抵抗を感じた。しかし席を変えれば非難の材料になると思い、聡志はトレイを手にして、いつもの席に着いた。
視線がトレイの外へ出ない様にして、聡志は食事を摂り始めた。
自分の殻を保ちたかったが、間もなく殻は破られた。
翔龍が聡志に、声を掛けて来た。
「お前、退院にならなかったんだな」
曖昧な言い回しは微塵もなく、布団の中で想像していた通りだった。聡志の想定では、この後蔑まれる方向に進む可能性が高かった。
ただ無反応は最悪の結果を生むと予測されたので、聡志は頷きだけで返事をした。
「そうか」
翔龍は呟いた。「期待したお前はバカだ」等の暴言に備え、聡志は身構えた。
翔龍は言った。
「お前はマジメだから、退院できるって思ってたけど。残念だったな」
聡志は視線を翔龍に向けた。少なくとも翔龍の表情は、馬鹿にしているものではないと見えた。
想定外に聡志は、「うん」と、女々しさを消し忘れた返事をした。
次に口を開いたのは笛田だった。笛田は翔龍に言った。
「気遣いの言葉を掛けられるなんて。アンタも成長したね」
翔龍は歯を見せて、笛田に答えた。
「ダテに2か月、怖い姉さんに揉まれてないし」
笛田も同じく歯を見せた。
「優しいお姉さんの、あたたかい空気に包まれたからでしょ?」
翔龍は周囲の空気を振り払う仕草をした。笛田は声にして笑い、聡志は口を開いた。
「2か月?」
聡志は、そこが気になった。翔龍は聡志に言った。
「この妖気を出している姉ちゃんも、一緒くらい」
誰が妖気だと言って、笛田は隣に聞いた。
「打越さんは入院して、どのくらい?」
打越と呼ばれた笑う女性は、右手の指を2本立てた後、左手の指を1本足した。
「3か月?」
打越は笛田に頷いた。
「分かりにくいなあ」
翔龍が言って、打越は声を殺して笑った。
周囲の笑顔の隣で聡志は唖然とした。聡志の様子に気づいた笛田は言った。
「まあ私達は長い方だから。人それぞれで、2週間の人もいるよ」
「大江の姉ちゃんは2週間、3週間だっけ?」
翔龍も続いた。聡志は言葉を発せなかったが、気遣いは感じて、彼等に頷きを返した。
聡志は夕食後、学習室に籠った。良い雰囲気で終えたからこそ、無駄に他者と関わり続けて、話をからかいに移行させたくなかった。
聡志が自室に戻ると、物音は既になかった。午後9時、看護師によって照明は消された。