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6日目(土曜日)

 朝食を済ませ、学習室に向かう途中、聡志は詰所の前に大江と2人の大人を見つけた。

 穏やかそうな女性と、笑みを浮かべる男性。両親と思われる2人と病棟を出て行く大江の姿に、聡志は後日の自分を重ね合わせた。

 聡志は昨日と同じく英文を書いた。ただ昨日と違って、鉛筆は時に止まった。

 2日続くと退屈な感じは否めなかった。母が今日の午後2時に来ると聞いたので、参考書が来るまでの我慢と思い学習を続けた。

 聡志が休息のために椅子にもたれていると、扉の開く音がした。慌てて鉛筆を握った聡志が振り向くと、そこには翔龍がいた。

「マジメだなあ。やっぱりK高は違う」

 教科書を手にする翔龍は、聡志の対面に椅子を向けて座った。翔龍は教科書を開き、暫くすると聡志に尋ねた。

「これ、何て読むの?」

 差し出されたのは英語の教科書だった。聡志は指差された部分を発音した。

「ボブ」

「何て意味?」

「人の名前」

「ああ、ボブね。外人の名前」

 翔龍の続く質問は、間を置かなかった。

「これは全部で、どういう意味?」

「ボブはサリーに好意を持たれていた」

「こういって何?」

「好きって事」

「ああ。ボブがサリーの、好きな物を持っているってコトか」

 聞き流せば嘘を教えたと非難されると思い、聡志は訂正した。

「ボブはサリーに好かれているって意味だよ」

 ああ、と言って頷いた翔龍だったが、目は丸く、理解出来ている様子はなかった。翔龍は中学2年生と言ったが、学力は聡志の物差しで測れなかった。

 翔龍が静かになったので、聡志は英文を再開した。翔龍が覗き込んでいると気づいていたが、聡志は書き続けた。

「何て書いてんの?」

 翔龍が聞き、聡志に返答の義務が生じた。

「私にとって魅力を感じるものでも、あなたがそう感じるとは限らない」

 やはり書き損じた。聡志は話しながら書く等の、同時作業が苦手だった。聡志は書き損じを鉛筆で塗り潰した。

 すると聡志の前に、消しゴムが差し出された。

「ほら、貸すよ」

 翔龍は誇らしげに見えた。翔龍が話し掛けたから間違ったのだと、聡志は思った。

「いいよ」

 聡志が遠慮の風で答えたためか、翔龍は意に介さなかった。

「俺、もう使わんから」

 翔龍は消しゴムを置いて、教科書を畳み立ち上がった。聡志は仕方なく翔龍に言った。

「ありがとう」

 翔龍は聡志に背を向けたまま手を振り、学習室を出て行った。

 使わないと何か言われそうな気がして、聡志は消しゴムで間違いを消した。再び英文を書き始めたが、落ち着かなかった。

 消しゴムが翔龍との縁を切らさずにあり、早く返却したいと聡志は思った。すぐに返すのは露骨と考えた聡志は、15分ほど経ってから自室に戻った。

 カーテンを開けたままベッドで漫画を読んでいた翔龍に、聡志は消しゴムを返した。

「もう使わんの?」

 理由が必要になった聡志は言った。

「きりの良いところまで、終わったから」

 後に聡志は失敗したと思った。聡志は翔龍の長話に、つき合う羽目となった。

 午後2時丁度、聡志の母が病棟に現れた。

 面会室を利用した2人は、まず洗濯物を交換した。新しい下着類は3組で、土日月の入院期間終了までと考えるのは短絡かと聡志は思った。続いて数学と英語の参考書を1冊ずつ受け取った。多過ぎない事は前向きに捉えて構わないと誠人は考えた。

「どう、気分は。悪くない?」

 母は尋ねた。聡志は用意していた言葉を口にした。

「うん、調子は良いよ。昨日も今日も、ずっと勉強をして過ごせたから」

 聡志は続けた。

「ゆっくりしたら落ち着いたよ。元気な頃に戻れたと思う」

 聡志の前向きな言葉に、母はきっと笑顔を見せて、「良かった」と答えると聡志は思っていた。聡志は月曜日の退院に向けた、布石を打ちたかった。

 しかし母は一言だった。

「そう」

 母の表情に笑みはなく、反応は想定外だった。伝え足りないと考えた聡志は重ねた。

「前みたいに、勉強に打ち込めるようになったんだ。確かに悩んでいたけど、もう大丈夫」

 母の表情は、まだ変わらなかった。

「いや、きっと前以上だよ。とても勉強をしたいし、やっていると楽しいんだ」

 母は笑みを見せた。懸命に言う聡志への作り笑いだったが、聡志は伝わったと思った。

 30分ほどの面会で、話したのは殆ど聡志だった。勉強にどれだけ意欲があり、今後は方法を変えて励む等々、内容もその繰り返しだった。

 面会を終えた母は、聡志に背を向けたまま病棟を出て行った。聡志は笑みを浮かべて見送った。

「今の母ちゃん?」

 背後から声を掛けて来たのは翔龍だった。頷いた聡志は、翔龍が少しばかりの質問を浴びせた後、武勇伝等を語り始めると予測した。面倒だったが、今の聡志には聞く余裕があった。

 しかし翔龍は、「そうか」と言っただけで立ち去った。聡志は予測を外したが、今日は色々と良い日なのだと解釈した。

 聡志は新しい参考書を開き、勉強に打ち込んだ。

 学習室には誰も来なかった。夕食時に周囲から声を掛けられる事もなかった。

 自分の段取りで事は進んだ。

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