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5日目(金曜日)

 目覚めは良く、久しぶりの心地良さを聡志は感じた。

 しかしベッドのカーテンを開けた瞬間、聡志の気分は害された。

「お前、K市内に住んでるの?」

 翔龍の第一声だった。お前口調は(はなは)だ不快だった。

 しかし話し掛けて来た翔龍は、聡志を嫌っていなかったと思え、正直安心もした。聡志は淡々を意識した口調で答えた。

「いや、K町」

「K町って、でかい店があるトコだっけ?」

 ショッピングモール。聡志は頷いた。

「いいなあ。俺G町だもん。ちょー田舎」

 朝食時間も翔龍は聡志に話し続けた。話すと言っても、G町の田舎自慢と言うべきか、聡志には興味のない話題ばかりだった。

 頷くだけでやり過ごせた事を良しとしようと聡志は考えた。しかし時折発せられた人前での「お前」は、自室へ戻った聡志に腕立てと腹筋を強いた。

 午前11時前、自室の扉がノックされた。看護師の楠だった。

「コミュニティ・ミーティングの時間だよ」

 詰所前の広間に、3脚ずつ3列に椅子が並べられていた。最前列は笛田と黒髪の女性が既に座っていた。

 正面にはホワイトボードが置かれ、ボードのそばには年配の女性看護師と、薄手のジャケットを羽織った若い女性が立っていた。

 後から来た翔龍が、聡志と楠を抜き去って最後尾に座った。楠は笑みを見せながら翔龍の隣に座り、聡志には楠の前にある席を勧めた。

 座った聡志に、楠は言った。

「初めて参加する人は、簡単な自己紹介があるの。良いかな?」

「あ、はい」

 楠は聡志に、コミュニティ・ミーティングを「学校のクラス会みたいなもの」と説明した。聡志は頷きつつも内心違うと思った。病院、しかも精神科でのそれは異質と考えた。

 愛想のない小柄な女性が現れ、聡志と同じ並びに席を1つ空けて座った。空いた席には聡志側から分け入った、眼鏡を掛けた女性看護師が座った。最後に昨日聡志を笑った女性が来て、先頭の空いた席に着いた。

「それではコミュニティ・ミーティングを始めます」

 年配の女性看護師が開始を告げた。

「司会は私、病棟師長の帯山(おびやま)。書記は心理士の新地(しんち)さんが行います」

 新地は頭を下げた。帯山は続けた。

「コミュニティ・ミーティングのコミュニティとは、共同体の意味です。この病棟を1つの共同体と捉えて、病棟で起きている出来事を皆さんと共有していきたいと思います」

 ホワイトボードには、以下が書かれていた。「1、コミュニティ・ミーティングとは、2、退院者あいさつ、3、初参加者あいさつ、4、その他」。

 4が大雑把と思ったが、ボードの上部にも書かれていた「11時から11時30分」までで、「どんなに長引きそうでも、どんなに早まっても、会は30分で終わる」との説明に、聡志の気持ちは多少楽になった。終わりの見えない曖昧さを聡志は嫌い、早く終わると期待し続けるのも苦痛だった。

 帯山はボードの2番を指差した。

「続いて退院する方の挨拶です。大江(おおえ)さん」

 立ち上がったのは笛田の隣にいた、黒髪の女性だった。帯山と新地に会釈をしてから、皆の方に向いた。

「明日からの外泊が上手くいけば、月曜に退院します。まだ決まった訳ではないですが、お世話になりました」

 着席する大江に、まばらの拍手が送られた。

「次に初参加の方、飛田さん」

 思いの外急だったと思いつつ、聡志は大江に倣った。席を立ち帯山達に一礼。列の先頭でないため、前を向いたまま聡志は言った。

「飛田です。月曜日に入院しました。よろしくお願いします」

 拍手はまばらだったが、翔龍の叩く音は無駄に大きく、聡志は失礼な感じを受けた。

 もう1人、大きめの拍手をする女性がいた。聡志を笑った女性が俯いたまま手を叩いていた。女性の意図を理解出来ず、やはりクラス会とは違うと思いながら聡志は着席した。

「それでは、その他に移ります。皆さんから何かありますか?」

 帯山の呼び掛けに、聡志の同列、愛想のない女性が手を挙げた。肘の折れた挙手だった。

「乾燥機、使ったらホコリがついてくるんだけど。あれ掃除してるの?」

 脱力した口調と、礼を欠く内容。拍手した女性の奇妙さとは異なるが、変わり者である事は確かだと聡志は思った。

「スタッフから、意見はありますか?」

 帯山に答えたのは聡志の隣、話題を出した女性の隣に座る看護師だった。

「1日1回、担当のスタッフが掃除をしています」

「でもホコリついてるし」

 質問した女性は、看護師の言葉へ不機嫌な声を向けた。彼女達と同じ列に座る不幸を聡志は感じた。

「外にある、お店のコインランドリーよりは良いかな、とは思います。みんなが使うので、しょうがないかなと」

 挙手して言ったのは笛田だった。聡志は横目で同列の女性を見た。女性の苛立っている表情が見て取れた。

 聡志の背後で手が挙がった。楠だった。

「確かに外のランドリーよりはマシだと、私も思います。でも秋津(あきつ)さんは黒系の服が好きだから、気になるのも分かります。服のホコリ取りなら手伝うよ、一緒にやろう」

 笑みを向けた楠に対し、秋津と呼ばれた女性は反応を見せなかった。

「この話題について、他に意見はありますか?」

 帯山の呼び掛けに、挙手はなかった。

「秋津さんは?」

 多少の間を置いて、秋津は帯山に答えた。

「別に」

「それでは他に、話題はありますか?」

 帯山は求めたが、挙手はなかった。帯山は皆に言った。

「今から3分ほど、近くの人達で話題になる事はないか話し合ってください」

 横列ごとの会話が始まった。

「飛田さんは、何かありますか?」

 隣の看護師が聡志に尋ねた。聡志は思いつかないと言うより、どの様な話題が適しているかを掴めていなかった。先程の秋津が出した話題は、違うと聡志は思っていた。

「秋津さんは?」

 看護師は秋津に聞いた。

「もう終わったし」

 盛り上がらない聡志達と比べて、最前列の女性達は笛田を中心に話し込んでいた。

 ただ聡志は、内容を理解出来なかった。話題の要点となる単語の意味を理解出来なかった。確かオーティーと言っていた。

 それより聡志の気を引いたのは、後ろの翔龍だった。翔龍は楠に言った。

「やっぱり男が少ないと、つまんないよね」

 翔龍は聡志の背中を、軽く叩いた。

「ねえ、そう思わん?」

「確かに、寂しいね」

 聡志は答えたが、本音は男性が少ない事は有難かった。ただ翔龍の「つまらない」が聡志への不満と思え、聡志は同意を選んだ。

 周囲との意見交換が終わり、全体での話し合いが始まった。しかし内容は聡志の耳に留まらなかった。

 先程のオーティーに関するものだった事より、気を張っていた聡志に、更なる話題を受け入れる余裕は残っていなかった。時間となり、ミーティングは終了となった。

 聡志がこの時間で得た事は、秋津も避けるべき人物との気づきだった。聡志は気の滅入る存在を、これ以上増やしたくなかった。

 昼食時、翔龍は聡志に話し掛けた。

 内容は武勇伝。要は喧嘩の経験談だった。

「そいつを呼び出して、シメてやってさ」

 翔龍は自慢気に語ったが、聡志は不快極まりなかった。人を踏み(にじ)って自分を強く見せようとする傲慢。沸き起こる怒りに反して、聡志は相槌を繰り返した。

 聡志は辛かった。黙々と食事を摂る皆が羨ましかった。特に大江が羨ましかった。月曜になれば退院、ここを離れられる。

 聡志は延々と不幸を受け入れる必要からの、脱却を決意した。

 午後2時前、改寄の診察が始まった。気分の良悪、食欲、睡眠状態の確認。

 続いて改寄は、聡志に尋ねた。

「今、気になっている事はあるかな?」

 準備していた言葉の前振りが来て、聡志は口を開いた。

「自分の入院期間は、どのくらいになりますか?」

 改寄はノートパソコンの画面から、聡志に目を移した。

「気になる?」

 改寄の確認は、退院を焦っているのかと尋ねられている様に思え、聡志は首を横に振りそうになった。

 しかし聡志は気を張り直した。

「期間が分かれば計画と言いますか、段取りを立てて入院生活を送れると思ったので」

 その言葉が適切だったか、自信はなかった。

「確かに、それは言えるね」

 改寄の返事に聡志は安堵した。しかし続く言葉に、聡志の心地は一変した。

「今のところは、まだ決まっていないんだ」

 絶望を悟られないために、表情を変えないでいる事を聡志は忘れた。

 改寄は続けた。

「ご両親を交えて、話し合って決めようと思っているよ。まずは今度の月曜日に話し合う予定にしているから」

「月曜に話し合うんですね?」

 声の裏返りも気にせず、聡志は確認をした。

「あ、ごめん、伝えていなかったね」

 月曜日、もしくは次の日。退院が遠くない可能性を抱き、聡志は高揚した。

 改寄はパソコンから手を離し、聡志に尋ねた。

「飛田君は、どうすれば退院できると思う?」

 聡志は質問が来ると思っていなかった。

「どういう状態になれば、退院できるかな?」

 質問の意味は理解したが、聡志は釈然としなかった。退院を決めるのは医師ではないのか。患者自身が答えられるものなのか。

「どうして入院になったかを、考えてごらん」

 聡志の血の気は引いた。飛び降りたと思われている事が理由だった。返答だけでなく、視点の置き所にさえ聡志は迷った。

 改寄は言った。

「その理由が分かってくれば、退院のためにするべき事が分かってくると思うよ」

 以後も続いた改寄の診察で、聡志は頷きと肯定に終始した。

 診察を終えた聡志が抱いた感情は、退院への期待ではなく焦りだった。

「診察、長かったなあ。お前」

 自室へ戻った聡志に、翔龍は言った。

「俺なんか、あっという間だぜ。体調どうって聞かれて、はいはい言ったら終わり」

 翔龍の話題は移行した。武勇伝。億劫過ぎた。

 聡志は相槌を見せながら、愛想の時間から逃れる方法を考えた。診察にも疲弊していた聡志にとって、考える事自体が負担だと聡志は感じた。

 そう感じた時、聡志は閃いた。聡志は恐れながらも翔龍に言った。

「ごめん、看護婦さんの所に行ってくる。用事があった」

 意外なほどにあっさりと、翔龍は聡志を解放した。看護婦さんという言い方の女々しさに、後悔はあった。

 詰所に着いた聡志は、楠に声を掛けた。

「鉛筆と紙を、貸して頂けませんか?」

「何に使うの?」

「勉強をしようと思って」

 楠は満面の笑みを見せて、聡志に数本の鉛筆と数枚の紙を渡した。

 聡志が閃いたのは、翔龍との距離を取る理由になる学習室の存在だった。

 学習室の扉を開くと、1番奥の席に背中が見えた。大江だった。大江は聡志に振り向かず、聡志も黙って扉から近い席に着いた。

 聡志は暗記していた英文を書き始めた。聡志は英語を得意とし、1行2行に時間は要さなかった。

 聡志の思考は順調に働いた。聡志が学業に自信を失っていた事は確かで、その結果が飛び降りだったとの設定は十分に辻褄が合った。

 聡志は月曜に改寄と両親が集う診察で、語る内容を英文にした。

「学業に自信を失い、自暴自棄になってしまったが、入院してだいぶ気持ちは落ち着いた。もう少しゆっくりしたいと思うが、病室は個室でないため、周りが騒がしくて休めない」

 これだけでも退院する理由としては十分と思えた。加えて「自信を取り戻すためには、努力だけに頼らず、学習の方法を改善する」との考えに至った聡志は、退院を手元に引き寄せた感覚を得た。

 更に最終手段として、偶然の転落を告白する事があった。これは英文にしなかった。

 聡志は英文に没頭した。聡志は大江の手が一切動かず、白紙のノートを見つめていただけだった事に気づかなかった。

 夕食の翔龍は昨日と同じく、欠伸を繰り返すだけで何も語らなかった。

 食後の聡志は、詰所で研いだ鉛筆と追加の紙を受け取った。

 併せて聡志は、看護師に言った。

「母に電話をしたいのですが」

「病棟内の公衆電話を、使って良いですよ」

「お金を持っていなくて」

 看護師は頬に手を添えながら言った。

「私から伝えられる事なら、私が電話しても良いですけど」

 聡志は熱を持った面持ちで言った。

「今度来る時に、英語と数学の参考書を持ってきて欲しいと伝えてください」

 1人きりの学習室で、聡志は消灯まで英文を書き続けた。

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