4日目(木曜日)
天井の明るさに気づいて、聡志は起きなければと思った。午前7時55分、間もなく朝食だった。
聡志はベッドを囲むカーテンの隙間から、隣のベッドを覗いた。カーテンは閉じられたままで、聡志は安堵した。
しかしすぐに葛藤へ変わった。隣人に声を掛けるべきか。
晴れない思考で聡志は、起こさなかった事を非難される恐れを回避しようと決めた。
返事があった場合に対応出来る程度の心構えをして、聡志は声を掛けた。
「朝だよ」
大きくない、しかし小さくない声だと聡志は思った。返事はなかった。
「朝食だよ」
聡志はもう一度言ったが、返事はなかった。やるべき事をやったと思った聡志は、扉を開けて食堂に向かった。
早い歩調で発った聡志だったが、自室から離れるにつれて速度は緩まり、詰所前の広間まで来ると歩みは止まった。
向かう場所は患者の巣窟だった。立ち止まり続ける訳にもいかず、重い足取りで聡志は歩みを再開した。
廊下の奥を曲がった。食堂には、2人の女性が席に着いていた。
1人は切り揃えられた黒髪。もう1人は派手ではないものの、長髪で茶髪だった。聡志の高校に、茶髪の生徒はいなかった。
「おはよう」
聡志に挨拶したのは、茶髪の女性だった。聡志は声を掛けられる想定をしておらず、反射の会釈だけを女性に返した。
縦長の食卓は、両側に4つずつ椅子が並んでいた。どこに座るべきか悩む聡志に、茶髪の女性が再び声を掛けてきた。
「席は特に決まっていないよ。でも、そこはいつも空いているかな」
指差された席は、食卓の手前に座るその女性から2つ奥の向かいで、もう1人の女性とは椅子を1つ空けた同じ並びだった。
茶髪の女性の口調と表情は穏やかだった。聡志は指示通りの席に着いた。
もう1人の女性は、聡志に静かな会釈を見せた。聡志は女性と同じ様な会釈を返そうとしたが、頭は不自然に跳ねる様な上下をした。
聡志は女性の反応を気にした。しかし女性は、聞こえ始めたカートを押す音に注意を向けた。
カートが食堂に着くと、昨夕も会った女性看護師は食事の乗ったトレイを1つ取り出し、聡志の前に置いた。カートに近い茶髪の女性は2つのトレイを取り出して、自身の前と黒髪の女性の前に置いた。黒髪の女性は頭を下げた。
看護師は食堂を離れた。残されたカートには、3つのトレイが残されていた。
茶髪の女性は両手を合わせて、小さな声で「いただきます」と言った。黒髪の女性はトレイに会釈をしてから、食事を始めた。聡志も少し頭を下げて摂り始めた。
食卓に会話はなかった。次第に聡志は落ち着かなくなった。
何か話をするべきか。先程は女性から声を掛けて来たので、今度は聡志から口を開くのが礼儀ではないか。昨日皆を無視した事実もあり、それは義務ではないかと聡志は思った。
話すとしたら何を話せば良いか。変な事を言って、悪い印象を持たれたくもなかった。
「入院は初めてなの?」
茶髪の女性が向けた言葉の相手が自分だと瞬間には分からず、しかし気づいた聡志の「はい」は裏返った。聡志は失敗したと思った。
「ごめんね、考え事をしている時に」
女性は両手を合わせながら言い、聡志は慌てて首を横に振った。
「まだ4日目くらいだよね。色々考えるよね」
女性は食事を再開した。黙って食事する女性の様子から、聡志は無言が許されたと考えた。聡志も黙々と食事を摂った。
茶髪の女性が次に言葉を発したのは、食事を終えた聡志が席を立った時だった。
「おはよう、翔龍君」
返事はなかった。聡志は視線だけを女性が声を向けた方に動かした。同室の少年だった。
少年は首を横に傾げ、欠伸をしながらやって来た。
聡志は急ぎトレイをカートに仕舞い、壁際に身を寄せて道を空けた。少年は何も言わず、カートから食事の乗るトレイを取った。
少年は聡志が座っていた隣、一番奥の席に座った。それから食事を摂り始めた。
聡志は自室に戻った。途中で初見の女性と擦れ違ったが、聡志は会釈を忘れていた。
聡志はベッドのカーテンを閉じた。翔龍と呼ばれた少年の名はいかにもと思え、やはり愛想もなかった。
聡志に反応を見せない翔龍は、聡志をどう思っているのか。翔龍は小柄だが、首と腕は聡志より太く見えた。
聡志はベッドの上で、腕立て伏せを始めた。聡志は自宅で毎朝、腕立てと腹筋を30回ずつ行っていた。強がる同級生が現れ始めた中学1年生の頃から、聡志はそれを続けていた。
3日も運動を休んだのは初めてで、腕が重い、弱くなっていると聡志は感じた。聡志は休憩を挟んで、計50回ずつ行った。
運動を通して、聡志の意識にあった翔龍の体格は幾分薄らいだ。
しかし代わりに、別の不安が増し始めた。朝食時の聡志は、多くの過ちを犯していた。
翔龍が来た時、聡志は避ける様に退いて立ち去った。廊下の女性に会釈をしなかった。何よりも配慮を重ねた茶髪の女性に対して、礼すらせずに自室へ戻った。
翔龍に怖気づいて、礼儀を果たせなかった男子。聡志が去った後、皆は何を話したのか。頭を除いて、聡志の身体は冷たくなった。
聡志は扉の開く音を聞いた。翔龍が戻って来た。聡志は現時点の適切な行動を探した。
聡志は1つの考えに至った。聡志は朝が弱いと、皆に思わせれば良いのだ。昼食で上手く振る舞えば、朝は呆としていただけと皆は考えるのではないか。そう思うと今、ベッドに籠るのは適切な行動だった。
理由を得た聡志は布団の中に籠り、昼食に備えて想定をした。
何を話すか、どの様な答えが返って来るのか。考えては行き詰まる事を聡志は繰り返した。
そして11時55分。聡志は心を構えてから、静かにカーテンを開けた。
その時だった。隣のカーテンが音を立てて開いた。
聡志が構えていた以上の出来事が発生した。目の前に、翔龍が現れた。
翔龍は聡志と目を合わせた。何か言葉を発する必要があると聡志は思った。内容は挨拶、お疲れ様が適当と思った。
しかし先に口を開いたのは、翔龍だった。
「お前、名前なに?」
口調は威圧的でなかった。しかし年下と思われる少年から言われた「お前」に、聡志の血の気は引いた。聡志が喧嘩に自信があるのなら、恫喝するところだった。
聡志は答えた。
「飛田」
名字のみが、聡志なりの抵抗だった。
「俺は室園、室園翔龍。よろしく」
翔龍は笑みを見せた。聡志にはその表情が余裕と見えた。喧嘩をしても勝てる、つまり聡志を見下しているとの印象を受けた。
聡志は意を決し、翔龍に言った。
「よろしく」
聡志が丁寧な語尾を省略する事は稀だった。その上相手に背を向けて、先に部屋を出て行く経験は、聡志の過去になかった。聡志は強い人物像を示したかった。
翔龍は聡志の後に部屋を出た。聡志の後ろを歩く翔龍は、聡志との距離をそれほど取っていない様に、聡志は感じた。
効果がなかったと思い始めると、聡志の態度に翔龍は気分を害したのではないか。何かされはしないかとの考えが、頭を擡げた。
聡志は自覚なしに歩調を早めた。翔龍との距離は開いたが、聡志は翔龍を間近に感じたままだった。
食堂には朝と同じ女性2人と、朝の廊下で擦れ違った女性が席に着いていた。
聡志は3人に頭を下げた。2人は会釈を返したが、廊下で擦れ違った女性は、前髪で目元を隠したまま小さな笑い声を漏らした。
笑いの意味を、聡志は理解出来なかった。ただ何らかの蔑みが込められている様に感じた。
立ち竦んだ聡志の横を、小さな体ですり抜けて、トレイを手に取る新たな女性がいた。聡志は女性に急ぎ会釈をしたが、切れ長の目を聡志に向けても、女性は頭を下げずに着席した。
聡志の意気は消沈した。しかし動かない訳にもいかず、トレイを取った聡志は朝と同じ席に座った。
直後、聡志の隣に翔龍が座った。聡志は続けざまの不幸を感じながら、トレイに向けて両手を合わせた。
食事を口に運ぼうとした聡志に、翔龍が声を掛けて来た。
「お前、高校生?」
再度お前だった。しかも皆の前で言われて、聡志と翔龍の上下関係が定まる恐れを感じた。
聡志は崩したいと思ったが、どう答えるべきか決断出来なかった。率直に「お前と言うな」と返せば良いのだろうが、その先を想像すると口にする事が出来なかった。
「アンタ、口悪いよ」
言ったのは、今朝も聡志に配慮を見せた茶髪の女性だった。
「そうか?」
言葉を返した翔龍に、女性は躊躇いなく続けた。
「当り前よ。年上だと分かっているなら、高校生ですかって聞くのが当然でしょう?」
はいを2回で、翔龍は返事をした。女性は聡志に尋ねた。
「高校1年生くらい? 違ったらごめんなさい」
「はい、そうです」
聡志は即答した。聡志は女性の機嫌を損ねてはならないと思った。
「どこ高校? 俺G中」
「急に学校を聞かない」
「だって笛田姉が、自分が話したら聞いて良いって前に言ったじゃん」
「それは名前の話よ」
「でもどこですか、飛田さん?」
聡志の内で情報が錯綜した。女性は笛田と言うらしい。翔龍はとりあえず「飛田さん」と呼んだ。語尾は目上に対するものではないと感じたが、「さん」をつけた今を無碍にするのはいかがと思った。しかし素直に答えるのは、笛田の配慮に背く気もした。
熟考すれば、同室者である翔龍の方が顔を合わせる機会が多かった。聡志は良いごまかし方が見つからなかったと自分に言い聞かせて、翔龍に答えた。
「K高校」
翔龍だけでなく、皆が聡志に目を向けた。向いた後、再び食事を摂り始めたのは、今朝も食卓にいた黒髪の女性だけだった。
「なんで、そんな頭のいいヤツが入院してんだ?」
翔龍の言葉は崩れていた。ただ馬鹿にした言い方でなく、驚きと素直な疑問という口調だった。
聡志は多少の間を置いてから、答えた。
「飛び降りたから」
食堂の空気は凍てついたと、聡志も感じた。
聡志はこの返答を午前に準備していた。入院理由を尋ねられたら、そう答えようと考えていた。
重い過去を抱えて入院をした。だから軽い調子で周囲は関われず、そっとしておいた方が良いとの印象を与えたかった。
事実と異なる返答だったが、入院の間だけなら隠し通せると思った。そもそも事実が発覚した時には、退院になると聡志は考えていた。
ただ聡志はこの発言を、皆がからかいの種として扱うのではという危惧も抱いていた。
だから聡志は、沈黙を破る声が翔龍だったので、言葉の意味を飲み込むまで怯えを感じた。
「バカじゃないのお前。頭打ってバカになったら、もったいないじゃん」
翔龍に笛田が言った。
「アンタ、口悪いって」
「あ、ゴメン」
翔龍が素直な謝罪を口にしたので、聡志はつい首を横に振った。
「でもすげえな、K高。今度勉強教えてよ」
翔龍は身体を聡志に寄せながら言った。翔龍にとって、周囲から見ても、失礼な行動ではなかった。
しかし聡志は、寛容さを見せてしまったために馴れ馴れしい態度をとられたと感じた。
「あんたは全然、勉強してないじゃん」
笛田は言った。笛田の表情は冗談めいて、翔龍も笛田が非難している訳でないと当然理解していた。
しかし聡志は、笛田はやはり心強いと思った。
「女は怖い、行こうぜ」
翔龍は聡志の肩を軽く叩いた。聡志にとって翔龍の行為は不快だった。笛田から何度も注意されている翔龍が、なおも聡志に馴れ馴れしく接して来る事が理解出来なかった。
しかし翔龍に言えるはずはなく、食器の中身が空となり食堂に留まる理由を失った聡志は、翔龍と共に自室へ戻った。
ただ先を行った翔龍との距離を取るために、病棟の設備を確認する様な視線を振りまきながら、自室へ戻った。
自室で翔龍に、色々話し掛けられると聡志は想像していた。話の展開によって、聡志を馬鹿にする内容になる事を恐れていた。
しかし翔龍は、一言だけだった。
「じゃあ俺、寝るわ」
「あ、うん」
あまりにも拍子抜けで、聡志は構えのない返事をした。翔龍はベッド周りのカーテンを閉じて、ベッドに寝転がる物音を立てた。
昼食の時間は終わった。
しかし数時間後には夕食が待っていた。何事もなく乗り切れる保証はなかった。安心出来る要素は、見出せなかった。
聡志が確かに抱いた思いは、この病院から早く出たいという願望だった。
昼過ぎ、改寄の診察があった。診察は詰所の隣にある診察室で行われた。
「2人部屋になったけど、どうかな?」
聡志の正直な感想はきつい、不安だった。しかし聡志は言えなかった。早く退院したいと思う聡志は、どの様な発言が退院を早めるのか、長引かせるのか分からなかった。
押し黙る聡志に、改寄は聞いた。
「慣れない感じかな?」
無視するのは失礼と思い、聡志は頷きを見せた。
しかし聡志は気づいた。慣れないを肯定したら、慣れるための時間が必要と考えられてしまう。改寄はパソコンに入力し、失言を記録されたと聡志は思った。
「他の人達と、話したかな?」
改寄の問いに、聡志は集中を高めて答えた。
「少しですが、話しました」
避けているのだが、話したくないのだが、聡志は少し虚言を含めて続けた。
「元々話す方ではないので、普段と変わらない感じで振る舞えていると思います」
聡志は前出の話題を改めたかった。普段と同じ状態にある聡志へ、無駄に時間を掛ける必要はないと考えて欲しかった。
しかし改寄は、当たり前の質問を続けた。
「どんな話をしたの?」
聡志は無意味な話題と思った。加えて聡志が真っ先に思い起こした内容は、翔龍の失礼な言動だった。
聡志は答えた。
「食事の席や、食器の直し方を教えてもらいました」
改寄は頷いて、パソコンに入力した。
「食欲はあるかな?」
「はい」
「睡眠はとれてる?」
「はい」
診察は終わった。
聡志が自室に戻ると、翔龍はいなかった。聡志はベッドのカーテンを閉め切り、布団に潜り込んだ。
診察前と同じで、明るい未来は見えなかった。確かな未来は夕食が来て、緊張を強いられる状況だった。
夕食以外でも常に、翔龍が無礼を働く可能性があった。聡志は布団を剥ぎ、腕立てと腹筋を始めた。
夕食の時刻となった。聡志はカーテンを開けた。隣のカーテンも同時に開いた。
翔龍は聡志と目を合わせたが、欠伸をした後、何も言わずに1人で部屋を出て行った。
食堂に着いた後も翔龍は黙々と、時に小さく息を吐いて食事を続けた。周囲の人々も、特に口を開かなかった。
良い意味での意外だった。しかし1人で食堂を去った翔龍の後姿を見て、聡志は不安になった。
翔龍は聡志を、本格的に嫌ったのではないか。聡志より翔龍を知っている皆はそれを察して、沈黙を続けたのではないか。
食後の聡志はトイレに寄った。個室で座り、時間を掛けて尿を出し、聡志は帰室を決意した。
自室の扉を開けると、翔龍を囲むカーテンは閉じられていた。聡志もカーテンを閉じ、布団の中で物音に注意を払って過ごした。
午後8時過ぎ。隣のベッドから、微かな寝息が聞こえ始めた。
部屋の照明を消すスイッチの位置を、聡志は知っていた。しかし聡志は、消灯時の看護師に委ねる事にした。翔龍に「勝手に消した」と、言われたくなかった。
煌々とした明かりの下でも、気疲れを重ねた聡志が眠りに就くまでに、さほど時間は要さなかった。