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3日目(水曜日)

 良く眠れなかった。悪い想像が繰り返された。

 加えて頭が痒かった。聡志が最後に入浴したのは、土曜の夜だった。

「今日は、お風呂に入ろうか」

 楠の言葉に、聡志の喜びは瞬間だった。保護室を出れば、他の患者に会う可能性があった。

 楠に促されて、聡志は保護室を出た。そして向かいにある看護詰所に入った。中央のテーブルを看護師達が囲み、彼女達の挨拶に聡志は会釈を返した。

 楠は見覚えのある鞄を持って来た。聡志は鞄から衣類を取り出し、タオルや洗面器は楠が取り出した。

 詰所の一角はオープンカウンターになっていた。カウンターの前には広間があり、そこに患者の姿はなかった。

 聡志達はカウンターの隣にある引き戸から、詰所を出た。詰所経由は近道らしく、誰とも会わず風呂場に着いた。

「私は外で待ってるから。何かあったら声を掛けてね」

 聡志は脱衣場を見渡し、浴室を覗いた。自宅にある風呂より若干広く、使い方に迷う部分はなかった。

 ただ「男性入浴順」と書かれた札に、「室園」「京町」という名前があった。

 少なくとも男性が2人いる。聡志の脱衣は早まった。洗髪し体を擦り、流し終えると脱衣場に一足で戻り、体を拭いた。

「ゆっくりで良かったのに。私が待ってたから、気を使わせたかな?」

 聡志は楠へ、首を横に振って見せた。聡志は渡されたドライヤーで、髪を乾かした。

 楠の後に続いて、聡志は風呂場を出た。短いと知る詰所までの道程に、聡志は油断していた。

 聡志は詰所前の広間に、数名の男女を見つけた。彼等も聡志に気づき、視線を聡志に向けた。

 聡志は反射で、楠の背中に目を逸らした。楠が先を行くので、後を目で追うのは自然だと、聡志は後付けで考えた。

 聡志は詰所を経由して、自室に戻った。

「お昼まで、ゆっくりしてね」

 楠は反応のない聡志を窺ってから、部屋を後にした。

 1人の部屋で、聡志は頭から布団を被った。

 聡志は後悔した。過ちを犯したと思った。人と会う心構えが出来ていなかったとしても、会釈もせずに目を逸らした聡志を、彼等は何と思っただろうか。

 無視をしたと噂されるのは当然で、聡志がここを出た後の仕打ちを練っているのではと、聡志は恐れた。

 挙句聡志は、入浴に付き添ってくれた楠にも、礼を言わず返事もしなかった。聡志の態度に楠は、機嫌を損ねなかっただろうか。

 聡志は今度楠が来たら、「すみません。先程は返事をしなくて。考え事をしていたものですから」と、伝えようと決めた。

 しかし昼食時間、やって来たのは別の看護師だった。食後の聡志は再び、頭から布団を被った。

 午後1時30分、扉がノックされた。改寄だった。

「お風呂、すっきりしたかな?」

 改寄の質問に、聡志は布団の上に正座をして、「はい」と答えた。

「気分はどうかな?」

「はい、だいぶ良くなってきました」

 後ろ向きな返事は、改寄への反抗になると思った。

 病院の中で医師は偉いと、聡志なりに理解していた。聡志は改寄に、好感を持たれたかった。改寄にまで嫌われたら、聡志には味方がいなくなると思った。

 改寄の質問に、聡志は肯定を続けた。看護スタッフに頼れているかとの問いにも、聡志は前向きな返答をした。

 改寄の診察が終盤を迎えたと聡志が感じた頃、扉がノックされた。

 顔を出したのは楠だった。楠は改寄を呼び、改寄は聡志に一言断ってから、扉の向こうに消えた。

 聡志の内で不安が湧いた。楠は改寄に、聡志の失礼な態度を伝えているのではと思った。改寄がそれを知れば、聡志が改寄に見せた態度は、作り物だった事が分かってしまう。

 聡志の予測以上に、改寄が戻るまでの時間は長かった。

 改寄が戻って来た時、隣には楠を従えていた。聡志は一点に定まらない視線で、2人を迎えた。

「飛田君、申し訳ないけれど」

 改寄の切り出しに、聡志は相槌の声を出そうとしたが声にならず、ただ小さく口を開いた。

「入院した時と比べれば、飛田君は穏やかになってきたと私は思っていて。本来なら短時間ずつ、この部屋を出て、外の刺激に慣れてもらうのが理想だけれど。でも、この部屋を使う必要のある患者さんが他にいてね。だから急で申し訳ないけれど、今から飛田君に普通の部屋に移ってもらおうと考えているんだ。当然、飛田君が自分を傷つけたり、自暴自棄になる事がなくて。もし、そういう気持ちになったら、スタッフに相談出来ると思えればの話しだから。飛田君の正直な気持ちを、教えてもらえるかな?」

 怯えていた聡志が、繕いを暴かれた訳でなかったと思えた時、改寄に否定的な返答をするはずはなかった。聡志に隔離の解除が告げられた。

 楠が聡志を保護室の外に案内すると、2人の女性看護師が聡志の布団を運び出し、新しい布団を運び入れた。手慣れた作業は聡志の眼中になく、聡志は楠の背中を見つめた。聡志は楠の機嫌を窺いたかった。

 しかし突然届いた詰所内からの奇声が、聡志の集中を掻き乱した。

 奇声の主は男児。小学校の低学年程度と思われる子供だった。

 数名の男性看護師達に抱え上げられた男児は、四肢と体幹を波打たせながら嗚咽した。男児の視線は彷徨い、顎を突き上げる度に甲高く響く声が、聡志の前を通り過ぎて保護室へと運び込まれた。

 保護室からの奇声は続いた。楠は聡志に言った。

「良い子なんだよ。でもパニックになると落ち着かなくなるの。だから刺激のない部屋を使う必要があるのよ」

 聡志は楠に深く頷いた。理由があるにせよ大人達に自由を奪われ、鍵の掛かる部屋に閉じ込められる幼子の姿を、聡志は当然見た事がなかった。異常がまかり通る世界で、聡志は敵を作りたくなかった。

 聡志は詰所にあった自分の荷物を、率先して持った。カウンター横の引き戸から出る楠の後ろに、聡志は従った。

 広間の片隅は移動式の衝立(ついたて)に囲まれ、話し声が漏れていた。楠は左奥の廊下へ進み、突き当たりの扉をノックした。

 返事はなく、楠は扉を開けた。聡志は楠の後ろから、扉の内側を覗いた。

「ここが、飛田君の部屋だよ」

 左壁側にベッド。右壁側はカーテンに囲まれていたが、裾からベッドの脚が見えた。2人部屋だった。

 ベッドのそばには棚があった。左側の棚は空で、カーテンから垣間見える右側の棚には、荷物が置かれていた。物音はなかったが、床に靴を見つけて、右側に人がいると分かった。

 楠と聡志は、荷物を棚に仕舞った。楠の声掛けに聡志は、頷きだけで返事をした。聡志は隣の棚が気になった。

 無造作に置かれていたのは、金色の刺繍を施した黒いジャージで、鞄も黒地に金色の刺繍だった。鞄に描かれたブランド名は、不良が身につける品と聡志は知っていた。

 聡志は楠に、同室者がどの様な人物か尋ねたかった。しかし当人がいて、また聡志にとって理想の返事が得られるとも思えず、聞けなかった。

 整理を終えると楠は、聡志を連れて病棟を案内した。

 衝立の並ぶ広間を通り過ぎると、廊下の左側に多数の扉が並んでいた。空き部屋と楠は言った。

「ここの児童・思春期病棟は、今年の4月にオープンしたばかりなの。それまでは大人と一緒の病棟だったのよ。部屋は30人分あるけど、役所の許可が出たのは、まだ10人分なの」

 定員の少なさに、聡志は多少安堵した。

 廊下の右側にはトイレ。その隣は今朝利用した風呂場で、毎日でも入れるとの事だった。

「順番は決まっていないから。皆で話し合ってね」

 誰も入らない時に使えば良い。毎日入らなくても大丈夫と聡志は思った。

 先に進むと、机と椅子が並ぶ飾り気のない部屋があり、学習室だと楠は言った。隣は面会室。続いてテレビを視聴出来る部屋があった。

 廊下を曲がると、広々とした食堂があった。食事は皆で摂ると聞き、聡志は表情を変えない様に努めた。

「何か確認したい事はある?」

 聡志は楠に質問すべきと思った。スタッフとの関係は大切だった。

「広間の一角に、人が集まっていたようですが。あれは何を?」

「あれはP―Sミーティング。患者さんとスタッフを交えた話し合い。毎週水曜にやっていて、自分の状態を話したり、人の話を聞いたりするの。他にも色々とミーティングや活動があるから、参加の都度教えるね」

 聡志は頷いたが、人と会う機会の多さを負担に感じた。

「他にはある?」

 聡志は首を横に振った。何時(いつ)かは分からないが、ミーティングが終われば人が散らばる。

「何かあったら、遠慮なく聞いてね」

 楠は穏やかな笑みを見せた。少なくとも楠は、嫌悪を表に出す人間ではないと聡志は理解した。聡志は楠の見送りに深く礼をして、自室へ足を運んだ。

 自室の扉を静かに開閉した聡志は、足早にベッドへ向かった。囲むカーテンを聡志は閉じ、壁側に顔を向けて布団を被った。

 布団の白布を見つめる聡志の耳に、ベッドの軋む音が届いた。隣人の物音だった。ミーティングを欠席しているのは、不良だからか。

 聡志は息を潜めた。潜めたところで聡志が来た事は知っているはずで、いずれ会うと分かっていた。

 聡志は今の内に、挨拶をした方が良いかも知れないと思った。しかし物音は一度きりで、静かに時間は過ぎていた。

 隣人は疲れていると、聡志は自分に言い聞かせた。そして聡志は、声を掛けない選択をした。

 物音を立てない様に努め続けた聡志は、いつの間にか眠りに落ちていた。

 聡志が目覚めたのは、要件しか話さない中年の女性看護師が、夕食を運んで来た時だった。

 今日は部屋食との説明に、聡志は一喜した。しかし明朝から食堂との言葉に、聡志は一憂した。

 説明を終えた看護師は、聡志のベッドを囲っていたカーテンを閉じずに、隣のカーテンを開けた。

 聡志の瞳に、隣人の姿が飛び込んできた。

 看護師に促された隣人は、体を起こした。中学生くらい。童顔だが、髪型は市街で見かける後ろ髪を長くした風で、スウェットはやはり黒で金の刺繍だった。

 悪人の印象は特に表情で、不機嫌な顔を看護師に向けていた。

 隣人は聡志を横目で見た。聡志は反射で会釈をしたが、深くならない様にした。

 舐められてはいけないと思った。隣人は聡志に反応を返さず、看護師と共に部屋を出て行った。

 聡志は急いで食事を摂った。早足で詰所に食器を運び、自室に戻るとカーテンを閉じた。

 やはり関わりたくないタイプだった。聡志の浅い会釈に、気分を害していないだろうか。先程まで挨拶をしなかった聡志に、苛立っていないだろうか。

 暫くすると、扉の開く音が聞こえた。布団の擦れる音が聞こえて、静かな時間が始まった。

 聡志は目を閉じたが、小さな物音を聞く度に目を開いた。物音は断続し、聡志は尿意を覚えても我慢を続けた。午後9時の消灯後も、布団の擦れる音が聞こえたので、聡志は微動しなかった。

 隣の音が寝息だけになり、聡志がトイレに行った時、時刻は午前0時を回っていた。

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