2日目(火曜日)
窓から差す陽の明るさで、聡志は目を覚ました。時計は午前6時過ぎを示し、聡志が普段起きる時刻と、ほぼ同じだった。
昨夜あれほどとらわれた不安が、湧いてこなかった。その理由を考えようとも思わず、空想に耽る欲求も湧かなかった。
朝食を終えて、聡志は再び横になった。天井のカメラが目に留まったが、聡志は顔をさらけ出したままでいた。
聡志は薄緑の壁を見て、小学生の頃にアニメの真似をして、草むらに寝転がった事を思い出した。草が肌を突いて、良いものではなかった。
それと比べれば、この部屋の静けさは心地良かった。何よりも1人になれる事が良かった。もし誰も来ないまま過ごせるのであれば、この上ないと思った。
午前中、部屋を訪れる者はいなかった。
昼食後、聡志は昼寝をした。これほどゆっくりしても、また眠れるのだと、聡志は起きた後に思った。
聡志が目覚めるきっかけは、扉をノックする音だった。
現れたのは改寄だった。聡志には昨日の不安が、思い出の様に浮かんだ。聡志は起き上がり、布団の上に正座をした。
「いいよ、ゆっくりして」
改寄の言葉を真に受けるのも、無視するのも失礼と思い、聡志は膝を抱えて座った。
「気分はどうかな?」
改寄に問われ、聡志は迷った。気分は悪くなかった。しかし昨日の今日で、それは言えないと思った。ただ全くのデタラメは見透かされる気がして、聡志は言葉を選んだ。
「ぼおっとした、感じです」
嘘でなく、元気とも言っておらず、一番適切だと思った。改寄は頷きを見せて、穏やかな口調で話し始めた。
「ここの部屋を使った理由は、大きく2つあってね」
改寄と聡志の目が合った。
「1つは自分で自分を傷つける事を防ぐため。もう1つは刺激を遮断するため。人の多い場所はもちろんだけど、1人でいる自分の部屋でも、刺激になる物はいっぱいあるんだ。机の上の物や壁に貼ってある物、窓の景色もそう。元気な時は問題ないけど、心が弱っている時は色々な物を、上手に無視出来なくなってしまう。飛田君には、そういう経験はないかな?」
聡志は正しい返答をする義務を感じた。思い起こされる経験を辿り、聡志は選択した。
「疲れて早く眠ろうとして。その時に限って時計の音が気になって、なかなか眠れなかったりする。でしょうか?」
改寄は大きく頷いた。
「そう。だから疲れている時は、可能な限り刺激を減らす必要があるんだ。それが心を穏やかにするための、近道だからね」
改寄は満足そうに見えた。正解した聡志は、気分の高揚を感じた。
「もう暫くは、今の環境を保っていた方が良いと思うから、この部屋でゆっくりしてね。明日も診察に来るから、状態に合わせて少しずつ刺激を増やしていこうね」
改寄が部屋を去った後、聡志は空想を始めた。
聡志は新米の医師だった。著名な医師となった改寄と再会し、改寄は聡志に言った。
「初めて会った時から、君はセンスのある男だと思っていたよ」
夕食後、聡志は歯を磨いた。洗面所は保護室を出た向かいにある、看護詰所の隣にあった。
周囲に看護師以外の人影はなかった。聡志は壁に貼られた「正しい歯磨き」の図解に従った。
うがいを済ませた後だった。聡志は女性の泣き声に気づいた。
聡志の部屋の隣、同じ保護室の扉が少し開いていた。そこからすすり泣きが、大小と長短を織り交ぜて、意味をなさない言葉と共に漏れていた。
部屋に戻り自室の扉が閉じられても、微かに聞こえる泣き声を聡志は耳にした。頭から布団を被れば全く聞こえず、被らなくとも気になる声量でなかった。しかし聡志は、被ったままでいた。
ここは精神科。泣き声は不気味で、奇妙な人間はやはり居た。
彼女は安全な人物なのか。聡志に危害を加えはしないか。
改寄は「少しずつ刺激を増やす」と言った。この部屋を出れば、何が起こるのか。
聡志は患者達の中に、男性を見つけた。暴力は看護師によって阻止出来るのか。警察と同じく、対応が後手になる可能性があった。その他にも言葉の暴力、いじめられる可能性があると思った。
聡志の思考は、悪い方に展開し続けた。聡志は普段から、悪く考える性質だった。