1日目(月曜日)
5月末日。通勤、通学の時間を過ぎて陽が高く昇ると、車の後部座席も暑さを感じた。
助手席の母が、前触れなくクーラーを入れた。聡志は冷風を、火照る顔で受け止めた。
一方で聡志の手先は冷感を帯び、聡志は両手を太腿の間に挟んだ。
前日、崖から救助された聡志は、市内の総合病院に搬送された。数々の検査を行い、医師は聡志と両親に「軽度の打撲と擦り傷」と告げた。
その後、医師は聡志に聞いた。
「どうして君は、飛び降りたんだ?」
聡志は答えなかった。医師は両親に、「心の状態を、専門医に診てもらった方が良い」と言った。
総合病院に一泊し、紹介された市内の専門病院に、聡志達は向かっていた。
車中に会話はなかった。聡志は車窓を眺めたが、初見の街並は記憶に留まらなかった。
名の知れた企業で、部長と呼ばれる父を休ませた。それを思う度に、聡志の手先は冷たさを増した。
方向指示器の音が聞こえた。国道から左折すると、目の前に看板が見えた。
「江津病院、精神科、」
読み切れない内に車はまた曲がり、砂利の凹凸が聡志を揺らした。
車は停まり、冷風も止まった。聡志は両親の後に車を降りた。
聡志は駐車場を囲む木々の先にある、建物に目を向けた。先程までいた総合病院の巨大な風貌と異なり、白壁に茶色をあしらった3階建の外観は、平凡に見えた。
建物の自動扉をくぐり、受付で父は受診の手続きを行った。要する時間は長く、母は暫く父を待ったが、先に待合に行き椅子を探した。
「ここ、空いているわよ」
周囲の様子を窺っていた聡志には、母の声が不意に感じた。聡志は母が勧めた長椅子に、腰を下ろした。
心の専門病院と聞いた聡志は、暗がりに活気のない人々が集う光景を想像していた。
しかし実際の待合は、中学の修学旅行で泊まったホテルのロビーより明るかった。そこにいる人々も、テレビを視聴する男性や、本を読む婦人。談笑する若い女性達さえいて、風邪で通う病院と比べても健康に見えた。
他者と同様に振る舞えば、「病者」になれると思っていた聡志は、静かに混乱した。聡志は、周囲と異なるTシャツとジャージ姿の自分は重症なのだと思いながら、床を見つめた。
父も聡志の隣に腰掛けた。父は度々、手元の番号札を確認した。
「番号札12番の方」
聡志は自分の番号を、父の手元から見て取れずにいた。
「番号札16番の方」
遠くから聞こえていた女性の声とは異なる、間近から届いた男性の声は、少し声高で若さがあった。
父は立ち上がり、母が聡志の肩に触れた。順番が来た。聡志はゆっくりと、頭は垂れたままで立ち上がった。
寄って来た男性は長身で、俯く聡志は男性の胸元に下がる名札を目に留めた。医師。
「飛田聡志さんですか?」
返事が口をつかず、代わりに聡志は顔を上げた。大人ではあるが、若い方の大人だった。男性は聡志に目尻を下げて見せた。
聡志は再び、男性の名札に視線を落とした。改寄博久。
「あらき、ひろひさです。読みにくいでしょう?」
医師、そして心の専門家。聡志の手先に新たな冷感が生じた。
聡志と両親は、診察室を過ぎた先にある、面接室に案内された。狭い室内に円卓が置かれ、小振りな4つの丸椅子が円卓を囲んでいた。両親に挟まれて腰掛けた聡志は、窮屈さを感じて肩を縮めた。
聡志の対面に座った改寄が、口を開いた。
「今から30分ほど、こちらを受診されるまでの経過を、お尋ねしたいと思います。その後に診察室で、院長の診察があります。ここでお話し頂いた内容は、許可なく病院の外に漏らす事はありませんので、ご安心下さい」
枕詞に両親は頷いた。聡志も間を置いてから頷いた。
改寄はまず家族構成を聞き、父が答えた。会社員の父と主婦の母。聡志、中学生の弟との4人暮らし。改寄は頷きながらメモを取り、質問を続けた。
「聡志さんの幼い頃、生まれた時からのお話しを、伺ってよろしいですか?」
母が答えた。出生時に問題はなかった。1歳6か月時の健診で、言葉の遅れを指摘され、保健所で行われていた言葉の教室に通った。
「言葉の教室ですか?」
改寄は聞いた。聡志も初耳だったので、視線を母に向けた。
「息を吹きかけて、蝋燭の火を揺らす練習をしました。でも聡志がきつそうにしていたので、2回行って止めました」
改寄は2度頷いた。3歳時の健診は問題なかったと母は言い、聡志は正直安堵した。
次は幼い頃に熱中した遊び。ミニカー、本も多く読んでいたと母は言った。
「図鑑などは好きでしたか?」
恐竜図鑑。今は興味ないが、覚えた恐竜の名前は聡志の記憶に留まっていた。肯定した母に、改寄は続けた。
「幼稚園や小学校の頃に、嬉しかった時や興奮した時、飛び跳ねたりする癖のようなものはありましたか?」
聡志は唐突と思った。しかし母は、「はい」と答えた。
「廊下を歩く時に、壁を手でなぞりながら、歩いたりしていましたか?」
改寄は部屋の壁を片手で触れて、水平に動かしながら聞いた。
「今でも、していると思います」
母の瞳は見開いていた。俯く聡志の瞳は、母以上に見開いていた。
医師は聡志を見透かす力を持っていると、聡志は思った。
質問は続いた。運動は苦手で不器用。しかし学業は優秀で、小学校から中学校まで成績は一番だったと、母は遠慮がちに言った。高校はK高校だった。
「友達との関係は、いかがですか?」
小学生の頃は仲の良い男子がいたものの、中学生以降は同級生が自宅に来る事はなかった。大人しいからと、母は説明に足した。
改寄は顔を上げて、視線を聡志に向けた。
「今回、当院に来られた理由は、紹介状を読ませて頂きました」
本題に入った。昨日、聡志が起こした一件だった。
K高校に進学してから、成績に悩んでいる様子だったと母は言った。そして自宅を飛び出す直前、聡志は弟から暴言を浴びせられたと、聡志の反応を横目で確認しつつ母は言った。
「弟さんとの間で、何かあったのですか?」
「弟が外出する聡志に、本を買ってくるように頼んで。でも聡志が買わずに帰ってきたものですから。弟が、その、死んでしまえと」
正確には「お前使えねえな。死んでしまえ」だった。
「言われた直後だった訳ですね」
母が頷いた後、改寄は書き留める手を度々止めた。
改寄の仕草は聡志に、内容の疑わしい部分を検討している様に映った。聡志の手先は更に冷たくなり、胃液の臭いを口の中に感じ始めた。
背中を深く丸めた聡志に、母は目を向け、父は改寄を見た。
改寄は聡志に言った。
「きつい時に、きつい事ばかり聞いてごめんなさい。後はお母さんから聞くから、待合で待ってもらって良いですか?」
聡志は父と退室した。
父は聡志の隣に座り、目を瞑った。聡志は床にこびり付いた染みを見つめながら、この病院に来た事を後悔していた。
確かに成績は気になっていた。弟の言葉にも傷ついた。しかし家を飛び出したのは、1人になって頭を冷やしたかっただけだと、聡志は振り返った。
崖からの転落は、偶然に過ぎなかった。ただレスキュー隊に救助されるほどの大事になって、「地面があると思っていた」との間抜けな返答は、し辛かった。
加えて総合病院の医師が「飛び降りた」と言ったので、それに合わせるのも悪くないと聡志は思った。心の病になり、休学や休職した等のニュースを、聡志は見聞きしていた。休息と周囲からの配慮が得られる事も悪くないと、聡志は考えた。
しかし専門病院の医師は、聡志を見透かす能力を備えていると思われた。真実が暴かれた時、両親は聡志をどう扱うのか。
戻って来た母が、聡志の隣に座った。聡志は退路が断たれた様に感じた。
「番号札16番の方」
通された診察室には、直立する改寄と、椅子に座るスーツ姿の男性がいた。口髭をたくわえた男性は、机上のパソコンから手を放し、聡志達に向いた。
「医師の江津です」
聡志は男性の名札を目に留めた。院長、江津修。江津に促されて、聡志達は椅子に座った。
江津は聡志に言った。
「何よりも、無事で良かった」
両親が頷いた。江津は両親に向いた。
「ご両親も、昨日は色々と大変でしたね」
江津は言葉の拍を、緩やかにした。
「いや、昨日だけではないですね。聡志さんが幼い時の事も、よく覚えていらっしゃる。ずっと大切に育ててこられたのでしょうね」
母が流涙したと、視線を床に置く聡志にも分かった。申し訳なさを感じるべきと思ったが、今の聡志にはそれを感じる余裕がなかった。
江津は聡志に聞いた。
「昨日、聡志君はどうして、あの様な事をしまったのか。理由を答えられるかな?」
昨夜の出来事。偶然と言うなら今が良いのか、聡志は判断出来ず、答えられなかった。
江津は両親に尋ねた。
「ご両親からは、勉強に悩んでいたり、弟さんからきつく言われたとの話を頂きました。それが聡志さんの負担になっていた事は、確かだと私も思います。ですが、なぜ聡志さんは昨日の様な行動をしてしまったのか。聡志さんを、そこまで駆り立てたものは何だったのか。思い当たる事はありますか?」
両親は互いに目を合わせてから、首を横に振った。頷いた江津は言った。
「今の時点では、私にもその理由は分かりません。ですから今は、入院した方が良いと思います。まずは、きつい気持ちを落ち着かせる事。そして状態の観察とあわせて、心理検査を受けてもらう事。心理検査は、聡志さんの心の状態や考え方の傾向などを調べるものです。今回の行動を導いた理由が、少し分かるかも知れません。少しでも分かれば、ご両親に、もちろん聡志さんにとって、今抱えているご心配や重い気持ちを、軽く出来るかも知れません」
入院。したくないと聡志は思った。分からないと言われている内に去らなければ、確実に真実を暴かれると思った。
「聡志君は、入院しますか?」
尋ねた江津に、聡志は意思を示した。首を横に振った。
「聡志、入院した方が良いわよ」
母が言った。父も母に相槌を打った。江津の後ろにいた改寄は、診察室の裏手に消えた。
「入院が嫌な理由を、言っても大丈夫だよ」
江津は穏やかさを崩さずに聞いた。
真実を告げるには、今しかなかった。聡志は覚悟を決めて、口を開いた。
「あ、」
しかし聡志の口から、それ以上の言葉が出なかった。
絶望するだけの自分に、戻りたいのか。
その思いが聡志を制止した。聡志自身、浮かんだ感情の意味が分からなかった。
江津は聡志に言った。
「今はご両親の意思に従います。でも私が、この病院のスタッフが大切にしたいのは、聡志君自身です。だから安心してほしい。この病院は、ありのままの君を出して良い場所だからね」
江津は両親に入院の意思を確認し、両親は声にして同意を示した。
江津は1枚の文書を聡志に示して、内容を読み始めた。
「あなたの入院は、精神保健福祉法、第33条第1項の規定による医療保護入院です。つまり医師である私が、入院の必要があると判断して、ご両親の同意も得たので、聡志君は今から入院になります」
江津は説明を続けた。手紙等の通信は制限されない事。原則開放的な環境を提供されるが、今の聡志の状態では、行動範囲の制限が必要だという事等。
読み終えた江津は、聡志に文書を渡した。聡志はそれを指先で受け取った。
江津は机の上から、別の文書を引き寄せた。
「聡志さんが入院する児童・思春期病棟は、20歳未満の未成年者を対象とした病棟です。そこには2人部屋と4人部屋。あと保護室という部屋があります。保護室は1人部屋ですが、部屋の中からドアが開けられない部屋です。言い換えれば、刺激の少ない部屋です。今、聡志さんが抱えている辛い気持ちを穏やかにするには、まずその部屋を使って、落ち着いてから他の部屋に移るのが良いと思います」
江津は文書を聡志に渡した。「隔離を行うに当たってのお知らせ」。理由に「自殺企図又は自傷行為が切迫している状態」とあった。
「それでは病棟に、ご案内します」
江津が言うと診察室の裏手から、改寄と小柄な若い女性が姿を見せた。聡志は彼等と両親に囲まれて、診察室を後にした。
人気のない廊下を奥へ進み、突き当たりのエレベーターに皆は乗り込んだ。
3階が表示されると、扉が開いた。「南3病棟」と書かれた札と、縦長の小窓が2列に並んだ木質の扉が、正面に見えた。しかし開いたのは、右側にある鉄製の扉だった。見た目通りの重厚な音を立てた。
その扉をくぐった直ぐ右側を、改寄は指し示した。
「ここが保護室です」
部屋の扉は開いており、6畳ほどの室内の窓際に敷かれた布団を、聡志は目に留めた。
「ここですか」
母は呟く様に言った。薄緑色の壁も、ベージュ色の床もくすみはなく、清潔に見えた。しかし扉の内側に、ノブがなかった。
母の葛藤をよそに、聡志は何ら抵抗なく、看護師達の誘導に従い入室した。
聡志は鉄製の扉が開かれた際、廊下の奥に、数人の少年少女がたむろしているのを目にした。当たり前だが、他に患者はいた。加えて精神科に入院している人々に、楽観出来る要素は見当たらなかった。現時点で害をなさない、大人達に囲まれていた方が安全だと聡志は思った。聡志は指示通り、ポケットの中身を看護師達に渡した。
牢屋様の部屋に入る我が子に、掛ける言葉を両親が見つけられなかった事は幸いだった。間もなく扉は閉ざされた。
廊下の音は、漏れ聞こえなかった。
聡志は室内を見渡した。不透明な窓は外の景色を写さず、目隠しに囲われた便器は清潔に保たれ、同じ空間にある違和感を聡志に与えなかった。
聡志は敷布団に腰を下ろし、掛布団に足を入れた。上半身を起こしていた聡志は、変わるはずのない壁の景色に飽きて横になった。
寝転がった聡志は、天井の端に黒い半球を見つけた。
カメラだと聡志は察した。聡志は布団を頭から被った。
閉じ込められて、監視されている。診察室で「刺激の少ない部屋」と聞いたが、これのどこがそう言えるのか。
下手な行動は、聡志の真実を暴いてしまう。聡志は布団の中に籠り続けた。
時間の経過が分からないまま、聡志は扉がノックされる音を聞いた。
「失礼します」
聡志が顔を出すと、そこにいたのは女性の看護師。診察室にも来ていた女性だった。看護師は抱えていた小さな折り畳みの机を、聡志の前に広げた。
「お昼ご飯を、持ってきたからね」
1度扉の向こうに姿を消した看護師は、食器を乗せたトレイを持って来た。看護師は屈んでトレイを机の上に置き、屈んだまま、視線を聡志に向けた。
「私は楠麻友。あなたの担当看護師になりました。よろしくね、飛田君」
聡志は頷きだけで返事をした。視線も楠と合わせなかった。楠は小柄で瞳も大きく、年上なのは当然だが、可愛らしいと思える女性だった。
ただ聡志は照れのために、楠から目を逸らした訳ではなかった。話し掛けてくる他者と視線を合わせない事は、聡志の常だった。
楠は笑みを湛えながら言った。
「困った事とか、分からない事とか、色々出てくると思うの。その時は呼んでね。ドアを叩いても、おーいでも何でも良いから。そうしたら来るからね」
笑顔のまま言った楠は、聡志の答えを待った。聡志は楠との距離の近さに気づき、2回頷いた。
「ゆっくり休んでね」
そう言って、楠は立ち上がった。聡志は楠の後姿を目で追わなかった。聡志の視線と同じ高さに、楠の臀部があった。
「あ、時計はトイレの所にあるからね」
楠は振り返り、聡志は楠から目を逸らしていて正解だったと思った。便器の背面にある小さな飾り棚の奥に、デジタル時計が置かれていた。
「じゃあね」
楠は笑顔のまま、部屋を後にした。
聡志は食事を半量ほど摂った。食後に聡志は少し眠った。
目覚めた後、聡志は布団の中で空想に耽った。
日頃より聡志は、空想を好んだ。天才漫画家やスポーツ選手。果ては人類の救世主にさえ、空想の中なら成り得た。空想は心地良く、何よりも現実の不安から逃れる事が出来た。
聡志の部屋に再度来訪があったのは、空想が盛り上がりに欠け始め、気だるさを感じていた夕刻だった。
訪問者は改寄だった。聡志は上半身を起こし、下半身は布団を掛けたままにした。改寄は聡志の近くで正座をした。
「少し休めたかな?」
聡志は答えなかった。実際に感じている気だるさが、聡志の無言を後押しした。
「疲れている感じ?」
病者として肯定出来ると思った聡志は、間を置いて小さく頷いた。改寄は聡志に言った。
「私が飛田君の主治医、担当の医師になりました。よろしくね」
聡志の頷きは、先程と変わらなかった。しかし表情は硬くなった。聡志は暴かれる不安を再燃させた。
改寄は聡志に、入室前から用意していた言葉を伝えた。
「薬については、今のところは無しにしておきます。飛田君の状態を見て、都度判断していくね」
改寄にとって、副作用の出やすい若年の患者に対しては特に、珍しい事ではなかった。
しかし聡志の表情は、更に強張った。聡志が本当に心の病気であるかを、調べようとしているのではと思った。
「どうしたの?」
改寄に言われて、聡志は自分の表情に気づいた。失敗したと思った。聡志は衝動で口を開いた。
「大丈夫、です」
聡志は姿勢を崩さず、改寄の無言に耐えた。
「きつい時にごめんね、ゆっくりしてね」
そう言って、改寄は退室した。
聡志は頭から布団を被った。聡志は大失敗したと思った。聡志がとり続けた元気のない態度と、大丈夫という返事は、あまりにもちぐはぐだと思った。改寄の疑いを深めてしまったと思った。
不安定な言動こそ、悪い状態の表れとの考えは、都合の良い解釈として、聡志の中で打ち消された。
聡志は不安にとらわれ続けた。夕方と夜間に数名の看護師が来て、聡志に自己紹介をしたが、聡志の記憶には留まらなかった。
そして午後9時、消灯。聡志は不安に疲れ切っていた。