光の王国
アルティナ王国でてこないし……
01 ある使者の絶望
黒肌黒瞳の民が住まうミラレパ王国は、盤流大陸南東にある、山間の小さな国である。
大陸の雄たる西のグリンシーノ帝国、対する文化と芸術の地、南のアルティナ王国、神獣が守護する孤高の華、北のトゥエ皇国などとは比べるべくもない、どころかその異質な色合いや立地から「夜魔の国」や「影の王国」という蔑称まである、色彩的特徴以外特筆すべきものの無い辺境の田舎国家だった。
ほんの、三か月前までは。
ミラレパ王国の玉座の間には、椅子が無い。
寄木細工による素朴な模様が施された木床には厚めの布が敷かれ、中央の一段高く設えた壇に、大きめの座具が置かれているだけである。
王はそこへ、片膝を立てて座る。
臣下は部屋の両脇に並んで置かれたこれまた飾り気のない座布団へ、こちらも片膝を立て、或いは胡坐で腰を下ろす。
広い空間は薄暗い。
灯は四方の壁に据えられたものと、玉座の両脇のみ。光源は炎ではなく、不思議な発光体だった。仄かな光を放つ握り拳大の玉が、小枝で編まれた素朴な籠にポンと放り込まれている。熱の無い柔らかな白光は籠の網目をぼんやりと床に映すが、それがいっそうの薄暗さと粗野さを演出しているともいえた。
従者の待合室と言われた方がまだしも納得がいっただろう。質実剛健と言えば響きは良いが、奢侈に走った部分が一切ない。
あまりの貧相さに、それどころではないと思いつつも、使者が自国のそれと比べてしまったのは無理ない事と言えた。
芸術の都アルティナ王国。その名に相応しい栄華を見せつける玉座の間。
その第一印象は煌めきだ。
黄金で縁取られた壁は白く、柱も白く、床は白大理石を。昼であれば天窓から、夜であれば硝子で光の反射を計算した燭台に蝋燭が灯され、高い天井から燦然と室内へ光を注ぐ。。
惜しみなく降る光は絹と銀の天蓋へ流れ、無数の宝石が鏤められた黄金の玉座、緋色の絨毯が作る赤い道、その両脇に整然と並ぶ、王国が誇る雅びやかな貴人たちを、金糸の髪と白い肌を照らし輝かせる。
その荘厳さは、確かにアルティナ王国の権勢を知らしめていた。
何もかもが遠い昔のようだと韜晦しかけ、使者は微かに頭を振る。
国家の、王家の、王の威を臣下へ、更には他国へと知らしめる要素が悉く欠けている、ミラレパの玉座の間。
かつての自分ならせせら笑っただろう。
なんとまぁみすぼらしい。しかも床に直接座るとは。やはり辺境の貧乏国家。文明の吐息を感じた程度の蛮族に、未だ椅子は早かったか、と。
これは何も己一人だけの話ではない。単なる事実だが、在りし日のアルティナ国の使者は皆、失笑を隠さなかったのだ。
作法もまた自国のそれを堅持していた。大国や中原の国々であればともかく、このような辺鄙な国の流儀に合わせる必要などないと。寧ろ何故、我が国の作法を学ばないのかと。
室内履きの靴に替えることも無く、土足で、立ったまま。
他国の王を、見下ろして。
「なにとぞ」
勿論、今は違う。
冷たい木床に素足で蹲り、額を擦り付けるようにして平伏している。
「何卒ご容赦頂きますよう、寛恕を賜りたく」
そんな己を嗤う余裕など最早ない。
矜持も誇りも自尊心も、何もかも全てを自国の大地へ置いてきた。
………
沈黙が耳に痛い。
こちらを見降ろす視線を感じるが、惧れが過ぎて動けない。顔を上げ、その姿を視界に入れる事すら憚られた。
今なら分かる。
金銀財宝も豪奢な拵えも、この王には必要ないのだと。
存在そのものが唯一無二であるならば、それを容易に知らしめられるのであれば、これ見よがしの「威」を演出する必要などない。
こちらの無礼を看過したのは、取るに足らない相手だから。
ちっぽけな存在が粋がっているだけ。要するに価値の無い者だから”見過ごして”くれていたのだ。
「……おかしなことを言う」
ずん、と。
全身を見えない何かで押さえつけられた―――そんな錯覚さえ覚えるほどの、重低音。
静かな声は、しかし薄闇に飲み込まれることなく静寂の中へ沁み渡る。
「汝らは自らを、『光の信奉者』と認じていたではないか」
「……は」
盤琉大陸には様々な色彩を持つ種がいるが、アルティナ王国に最も多い色彩は白い肌に青い目、金の髪だ。この色の組み合わせであれば、確実に貴種の血を引いていると見做される程度には、貴族へ顕著に表れる。
だからこそアルティナ貴族は、自らを光の民と呼ぶ。光の王国の、光の民だと。
「大地を照らす三つの太陽を最高神として崇める陽神教。確か全員、女であったな」
「……は」
「アルティナ国民の八割方は、この陽神教の使徒だと。貴族はほぼ全てが入信していると」
「その、通りに御座います」
「三女神の加護によりアルティナの地は光り輝き、富み栄えているのだと。恩恵深い大地に生きる汝らもまた、女神に選ばれし栄光の民であるのだと」
淡々と語るその口調に一切の乱れはなく、どのような感情も汲み取れない。
何よりそれが、恐ろしい。
怒りが無い、筈がないのに。
「光を讃え、白を尊び黒を忌み、そして闇の徒だと吾らを蔑んだ」
「……っ」
身体の震えを止められない。
”畏怖”という言葉の意味を、使者はやっと理解していた。全てが終わってから理解した。
あまりにも遅すぎる。
「『高貴なる光の国の王妃が、夜闇を讃える穢れし姫などあり得ない』 そう、面と向かって言い放ったそうだな。汝の国の王太子は」
蔑みと嫌悪を隠しもせず、公衆の面前で他国の姫を、己が婚約者を侮辱する。
文化国家を以って任ずるのであれば、王太子の言動こそが有り得ないだろう。
尤もそのことを小国側が抗議したとして、アルティナ王家や王国そのものに傷が付くかというと、それはない。
そこそこの謝罪と大国としては些少な和解金、或いは相手方に有利な貿易取引。王太子個人の名誉はともかく、概ね、これで話は付く。
―――ミラレパ王国以外であれば。
「そも、婚約の件はアルティナの先代王より持ち掛けられたもの。吾は気が乗らぬゆえ、保留としていた話であった」
「は?」
思わず、顔を上げた。
座具に座り、立膝に腕を載せた青年が、無表情にこちらを見下ろしている。
目が、あった。
「……ッ!」
薄闇の中、窺い知れぬほどの深淵を覗かせた双眸が、黒く黒く使者を射抜く。
白眼部分が浮いて見えるほどの黒瞳、薄闇にくっきり浮かぶ黒壇の肌。
「ひ、姫君は、我が国の王太子と、婚約をしていなかった、の、です、か?」
「承諾した覚えはない」
「なっ……そんな……!」
「吾が留守の間に、アルティナ王家から招待状が届いた。名目は豊穣祭の舞踏会への招待と、学園視察と、文化交流。一の姫はその招きに応えただけだ」
婚約者候補ではあったろう。が、あくまで候補であり、仮契約すらしていなかった。
汝に言うたところで詮方無いが、との呟きは使者の耳を素通りする。
「それ、は」
では。
では、我が国の王太子は、国賓である他国の姫を。
「石持て追うたそうだな」
「それは違います!」
それだけは、と否定をする為に精一杯声を上げる。
よくよく見れば驚くほど端正な男の切れ長の眼が、ほんの僅か細まった。
たかだか一瞥。
だというのに、虹彩と瞳孔の区別もつかぬ漆黒の瞳の昏さに呑み込まれ、それ以上の言葉が出てこない。
「王宮からの放逐は、王家の与り知らぬことだった。予想外のことだった。全ては陽神教の信徒どもの仕業であり、王家に責任はない、とでも言うつもりか?」
「その通りでござ」
「アルティナ王家は、王太子は、配下の統率さえ取れない無能か」
悲劇の発端は王宮内で、惨劇は王都で、つまりは王家の目と鼻の先で起きたこと。
傍から見れば王太子がミラレパの姫を身一つで放り出し、ミラレパ人を魔物呼ばわりする陽神教徒らの前に晒したと、そう非難されても仕方ない状況だった。
全ては大国アルティナの傲慢。
山間の小国如き黙らせることは容易いという驕り。そして信徒達の宗教的情熱を甘く見ていたツケ。
結果、修正不可能な間違いは、大いなる災厄を王国全土へ招いた。
「後生に御座います! どうか、どうかっ」
顔を上げていられずに再び平伏し、地に額を擦り付けて使者は声を張り上げる。
「どうか我らに『夜』をお返しください!」
三か月前、恐らくは帰国したミラレパ王が全ての事情を知った辺りから。
一切の前触れなく、太陽が沈まなくなった。
三つの太陽は天空を動きながら、時に一つになり二つになり、しかしながら決して無くならず大地を焼き続ける。
陽光に晒され続け白くなった世界には乾ききった熱い風が巻き上がり、大地を削りながら王国を吹き抜けた。
夜間に冷やされることなく、降り注ぐ光と熱が溜まった結果、たちまち緑は消え失せた。空には一片の雲も無く、雨は降らず、貯水池から水は減る一方。農作物は立ち枯れてゆき、家畜は力尽き、気温は上昇を続けている。
常に、常に明るい世界に、眼を閉じても瞼越しの世界が白い日々に、民の心身は限界だ。
「汝らは、光が好きなのだろう?」
「限度があります」
「闇を、忌んでいるのであろう?」
「そんなことはございません!」
「ほう? 闇夜を奉じるなど汚らわしい、と吾が姫は王宮の者達に吐き捨てられたそうだが?」
高位貴族どころか、王宮に仕える者たちですら、そのような態度であったのだと。
自らの、王家の、自国の者達の、取り返しのつかない過ちの数々に絶望しつつ、それでも使者は請い願うしかない。
「『夜と護りの神など、光の神の加護ある我が国には不要』とは、他ならぬ王太子が口にしたのだったな」
「……どうか」
「太陽を奉る国が、いっそうの光に満ちた。目出度きことではないか」
「……どうか」
「三女神に縋ったらいい。『輝かないでくれ』と。熱心な信徒の声ゆえ、願いは必ず聞き届けられるであろう」
「……どうか」
その声音に滲んだ嘲りに、使者は漸く本題へ入る隙を得た。
「何を、何を差し出せばよろしいでしょう? 夜の神へ。我が王は出来ること全てを成す、と。王太子や近侍の者達の処刑は決まっています。他に陛下の望むものは」
返答は短く、明快だった。
「生けて返せ」
「吾が娘を、娘に随従した者たちを一人残らず、王国を来訪した時のまま吾が元へ帰すがいい」
「申し訳ございませんっ!」
それは神でさえ不可能だろう。
死者を生き返らせる術などない。
涙で顔を汚しつつ、それでも更に言葉を募ろうとする使者の前で、ミラレパ王は音もなく立ち上がる。
取りすがろうと身を起こす使者の腕を、気配なく近づいていた衛兵が掴んだ。そのまま無言で引きずり起こし、無造作に出口へと連れていく。
「お待ちください! このままでは、このままでは国が滅んでしまいます! 後生に御座います! どうかっ、どうかっ」
「女神に祈るがよい」
その言葉を最後に、夜闇を統べる王は玉座の間を後にした。
ニラレバ食べたい