絶対理想アイドル
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
つぶらやくん。「理想」とは何なのか、じっくり考えたことはあるかい? 僕は未だに、その実態をつかめないでいるんだ。
ある人は、誰かを笑顔にすることが生きがい。そのためならば、犬馬の労もいとわないと話している。
ある人は、自分が誰よりも優れていることを証明し、てっぺんから見下ろすことだと話している。
ある人は、限られた人、限られた世界のうちで、嘘でも本当でも、自分にとって都合がよく、見たいものだけを見て、感じたいことだけを感じる。それを命の終わりまで続けられることだと話している。
全部、その人たちが今までの人生経験で、導き出した答えなんだ。時には生まれてくる場所や時代を間違え、埋もれて消えていったこともあったろう。それって罪はどこにあるのかな。
個人を受け入れられない世界? それとも世界に受け入れられる努力をしなかった個人? これも人によってどちらを責めるか、違ってくると思う。
「理想」って、「理を想う」と書く。本当に求める原理なら、頭の中だけに留めておいたほうがいいことなのかな? たとえ、行動を起こしたとしても、何もつかめずに終わったら? 死してなお、誰にも顧みられなかったら? そこに意味はあるのだろうか。
なんだか、さびしいね。せっかく「個人」。一人の人として生まれ、生きていく機会を得たのに。
――なんで、こんなことを言い出したか?
いや、最近、理想を追った一人の男性の話を聞いちゃって、思うところがあったんだ。
つぶらやくんも聞いてみる? 君はこの話で何を思うだろうか。
今となっては、もう数十年くらい昔の話だ。
その子の家は、父親も母親も芸術に生きていた。その影響があって、彼も小さい頃から多くの作品に触れ、その教養を育んでいった。
彼が興味を持ったのは、彫刻。とりわけ石に興味を持ったらしい。地震大国の日本において、崩れる可能性の大きい石像は、製作者にも高い技量が求められるとか。
けれど、まだ十歳にもならないうちから、彼は歩み始めた。学校から帰れば、ノミを持ち、親が用意をしてくれた専用の作業場で石に向き合う日々。まだまだ修行中の素人同然の作品に、買い手がつくわけはない。石を始めとする、費用のすべては親から出された。
親の才と熱意による汗と涙。それらは、傍から見れば、児戯の時間と手間のために、いたずらにこぼされ、乾いているようにすら思えたみたいだ。
やがて彼には、想いを寄せる女の子ができた。学校で彼女が描いていた絵を、彼が褒めたことから、よく話すようになった子で、将来は画家か漫画家になりたいと話していたそうだよ。
彼の母親も絵を描く人だったけど、風景画を得意とする親に対して、彼女は人物画を描くことを好んでいた。
バッターボックスに入ったバッター。サッカーゴールの前での、キーパーとフォワードの一対一。ハードルを飛び越える陸上選手。今まさにサーブをせんと、トスを上げたテニスプレーヤー……切り取られた一瞬一瞬が、筋肉の震えすら感じられる、躍動感にあふれていたらしいんだ。
彼は心の底から感心した。そして、自分も芸術を志していることを伝えると、彼女はぱあっと、つぼみが開いたような、こぼれる笑顔を見せたんだって。彼はその日の放課後、彼女を連れて、親以外には誰にも見せたことがない、自分の作業場に彼女を招いたんだ。
彼女もまた、作品の一つ一つを丁寧に褒めてくれて、彼は有頂天になった。
「私は描く。あなたは刻む。それで一緒に上を目指そ! お互い、お金に困らないくらい!」
「うん。そしたら結婚しようね! 君にしか見せない、僕の彫刻。僕にしか見せない、君の絵画。その両方を作るんだ!」
二人はそのまま、作業場の屋根の下で、指切りげんまんをしたんだとか。お互いの家庭事情の差を、確認することなく。
同じ「アート」を志しても、絵と彫刻では方向が違う。ましてや二人はそれぞれ、一人の人間。歩みだって異なった。
彼はとある大学の彫刻学科に進むため、美術や芸術学科のある高校を目指し、勉強を進めていた。両親のツテを使えば、仏師などへ弟子入りし、一層、彫刻に打ち込むことができたが、彼はそれをよしとしなかった。
「お互い、お金に困らないくらい」という彼女の言葉が、彼の頭にこびりついていたからだ。
両親は成功しているが、自分も成功できるとは限らない。もし、彼女と結ばれたとしても、お金に困ってしまったら、約束を破ったことになる。そうしたら「君にしか見せない、僕の彫刻」を作ることすらできなくなる、と考えたみたいなんだね。
ならば、しっかり勉強して定職に就き、暮らしに保険をかける。たとえ彫刻でお金を稼げなかったとしても、困ることがないように。生きていさえすれば、彫刻はできる。
彼女と出会ってからの彼の作品は、明らかに人物をかたどった石像の数が増えていたんだ。親も含めた周りの人は、趣向の変化こそ認識すれど、そこに潜む意図を理解できた人は、いなかったらしい。
彼女は中学校にいる間、勉強そっちのけで、絵画やアートのコンクールに応募を続けていたようだね。とにかく、彼女は絵描きとして生き急いでいた。
一刻も早く、「絵で稼げる人になること」を目指していたんだろう。
「私は中学を出たら、もう結婚できる。君が結婚できるようになるまでの間で、たくさんお金を稼げるじゃん。ふふ〜ん、女房のヒモ生活とか、男にとっても芸術家にとっても魅力的じゃな〜い?」
膨らみかけの胸をはる彼女に、彼は苦笑いを浮かべて返したそうだよ。
「うん、そうだね。完璧かつ魅力的なプランだ。これ以上ないってくらい、芸術的なタッチによる、『絵に描いたもち』であること以外はね」
「あ〜、言ったな、この〜!」
ぽかぽかと胸を叩かれながら、彼は彼女の目のクマがいっそうひどくなっているのに気がついたけれど、そこを指摘すると、彼女は「目のクマこそ、アーティストの証!」とつぶやきながらも、足早に去っていったんだとか。
そして、三年生いっぱいの時間を使い、彼は勉強を、彼女は絵の応募に打ち込み続けた。
やがて季節が巡り、学校の花壇にデイジーが咲き始めた時。
良い知らせと、悪い知らせが、彼のもとにもたらされたんだ。
良い知らせは、彼が目指す高校に受かったこと。
悪い知らせは、彼女がとある企業の御曹司と、一緒になることが決まったこと。
元々、彼女の両親が経営する会社の業績が不振だとかで、少し前に決まっていたらしい。
その告白も面と向かってではなく、電話越しに伝えられた。
「言い出せなかった。君と話す夢が楽しかったから。本当に絵でお金を稼げたら、お父さんを助けられるかな? いや、たとえ無理だとしても、お金さえ稼げる力があれば、君と一緒に逃げ出せるかな、とも思ったんだ。だから中学校にあがってから、死ぬ気で絵を頑張ったつもりだったんだけど……ダメ、だったんだ。ごめんね。でも、もう一つの約束。『あなたにしか見せない、私の絵』は、絶対に……」
途中でガチャン、と彼は電話を切って、作業場に閉じこもった。それからひっきりなしに電話のベルが鳴り、母親が呼びに来たけど、彼は一切、応答しなかった。
――何が「絶対に」だ。もう、「絶対」の約束を破ったくせに……いや、父さんや母さんが言った通りだったんだ。『未だこの世に、絶対はない』って。
だからアーティストは、崩れることない、「絶対」の一時を切り取るのに、命を賭けるのだと。彼は自分の両手を、まじまじと眺める。
――僕にとっての絶対……それは絶対に裏切らない彼女。
その日から彼は、大量の石と共に、作業場へ引きこもった。せっかく合格した高校の入学手続きさえも断って。
彼は一日中、ほとんど顔を見せず、親が簡単な料理を作業場の入り口に置いておくばかり。でも、夜に皿を回収しに行くと、しっかり空になっている。
両親も生粋の芸術家気質。制作の時には何日も私室に籠るのはザラにあったから、息子に対して、心配より期待が勝ったらしい。いったい、どのような作品ができるのか、楽しみにしていたみたいだ。
けれど、彼の籠城は何日どころか、何十日、何百日と続き、時々、両親に材料の注文をする時以外、外に出てこなかったらしい。とうとう千日に至っても、出てくることはなく、ただノミが石を削る音が、毎日、響いてきたらしいんだ。
およそ千五百日後。その日は彼の作業場から、一切、ノミの音は聞こえてこなかった。
両親が中に入ってみると、そこにはおびただしい数の少女の石像が並んでいたんだ。小学生から中学生くらいまで。それもどうやら、同一の人物を刻んでているようだった。
彼はそのうちの一つ。制服をまとった少女の石像と一緒に倒れ込み、抱きしめながら、しきりにほおずりをしていたらしい。その顔、手、足、腰、胴、胸、首、それぞれが石でなければ、弾力さえ想像できるほどの、丸みとやわらかさを感じるラインだったらしい。
「もう、離れない。離したくないよ」と、涙混じりの声を漏らしながら。彼の目から垂れ落ちる雫が、ザラザラした石の表面を滑り落ちていく
いくら声を掛けても、彼は動こうとも、像を手放そうともしなかった。やむなく両親は、毛布だけを渡して、作業場を後にしたのだとか。
翌早朝。彼の悲鳴が、作業場から聞こえてきた。
両親が駆けつけると、ドアは無理やり破られていて、彼は毛布を跳ねのけながら、仰向けに伸びていた。一緒に眠っていたはずの、石像はない。
彼の頬は、青黒く腫れあがっていたが、病院で診てもらったところ、骨には至らなかったらしい。
何があったのか、と問う両親に、彼はただ力なく、こう返したらしい。
「やっぱり世の中に、絶対なんてないんだね」と。