叡智の祝福 静寂の呪い
――ジィ〜ッジィ〜ッジィ〜ッジィィ〜。
蝉の鳴き声が耳鳴りのように響き、勢いよく弾かれたピンボールのように頭の中を駆け巡る。
俺は……何をしていたんだっけ?
さわさわと川の潺が聞こえる。
涼しい風が妙に心地よい。
左腕だけが冷たい。
ああ……左腕が水に浸かっているからだ。
少しだけ首が動く。
辺りを見回してようやく自分の状況が確認できた。
川の中央で流れをせき止める岩の上に、俺は仰向けに寝そべっている。
なんで?
仰向けの視点から、頭上に迫り出した崖が見える。
ああ……そうだ。あそこから。
崖の上に白い影がチラチラと見えている。
あれが、そうか。
俺はアイツに……。
話しは数時間前へと遡る――
「そうか……チーコもバイトくんも、二人とも見ちゃってたのか。う〜ん、困ったなぁ」
「そ、そんなぁ! ちょっと神島くん、なんとかならないの!?」
「そんなこと言われてもねぇ……」
東さんはそう言いながら、がっしりとした体格の優男に泣きついている。
チーコというのは東さんの下の名前。千佳から来ている愛称。
なんだよ。さっきまでの自信満々の態度とは、ぜんぜん違うのな……。
俺達はフードコートの一件の後、一端、廃遊園地を出ている。
そして今は入口の門の前で作戦会議をしているところだ。
会話に加わっているのは、別行動で現地取材などをしていた神島さん。
ここ数日で集めていた情報を報告し合っているという訳だ。
ちなみに裏ド周辺は山岳地形がジャマをして、メールが辛うじて繋がるくらいの電波状況。
そんな訳で、現地で集合をして情報をすりあわせているのだが……。
「まあ、まだ死ぬと決まったわけじゃないし。僕が調べた限りでは"目撃者"は何らかの理由で怪死をしているだけでさ……」
「だけって軽い話しじゃないでしょ! なんか防ぐ方法とかないの?」
「それがねぇ……。バイトくん他に何か気付いたことはないかな?」
神島さんは、俺に向かって話しを振ってくる。
合わせて東さんも、涙目のまま俺のほうを見つめている。
社員二人がバイトに助けを求めるんじゃねぇよ。まったく……。
神島さんは裏野ドリームランド周辺の事件に関してを調べていた。
なぜか噂の骨子がハッキリしない理由を追っていたのだが、その理由が割とシャレにならないものだったのだ。
――この廃遊園地で白い女の霊を見た者は何らかの形で死んでいる。
その死に方も不可解なものが多く、洗面器に顔を付けての溺死や、階段から滑り柵の上に落ちて首を跳ねられた者まで存在する。
死んでしまえば噂を流すこともできない。
しかも、霊を見た者達は、皆一様に口を閉ざしてその時の状況を語りたがらなかったというのだ。
こういった理由が重なり、裏野ドリームランドに関する噂は曖昧なものが多かったということらしい。
加えて、多種多様に尾鰭はひれが付いていき今のような混沌とした内容になっていったのだと……。
俺はその点を踏まえ、神島さんと情報交換を続ける。
「俺が気になったのは警備員の爺さんですかね。あの人は何かを知ってる気がする。いや、隠していると言ったほうがいいのかな? それより、さっきの話しですが、なぜ霊を見た人はその状況を話したがらないんでしょうね?」
「それなんだが……話したがらないというより、"音を立てたくない"みたいでね。あらゆる音に対してノイローゼになるくらい、敏感になっていたらしい。これは全員に共通することだった」
「音か……そう言えば苑田の爺さんも"騒がしくするな"とか言ってたな。ちょっと神島くん。他に調べた話しはまだあるの?」
少し落ち着いたのか、東さんが冷静さを取りもどして会話に加わる。
神島さんは、頷きながらゆっくりと話しをし始める。
「怪死の件はもう少し探ってみるよ。他には開園当時にあった誘拐事件についてだ」
「ああ、確かピエロ姿の爺さんが捕まったんだよね。なんでも営業時間中に女性の生首を持ってパレードに加わったとか」
「チーコもそこまでは調べたんだな。だが、その爺さんが裏野ドリームランドのオーナーだったっていうのは知っているか?」
「ほ、本当に!?」
「ああ、もちろんだ。彼の名は杜代井泉。この辺一帯の大地主だったらしく、関東の建設会社と共同で裏ドを作り上げたらしい」
「捕まった当時は、すでに気が触れてしまっていたという話しだったけど……」
「それがね、ちょっと不思議なんだ。確かに彼は裏ドの誘拐事件に関わっていたようなんだが、犯行現場と思われる地下室全体が崩落する事故があってね。これがどうやら……人為的なものらしいんだ」
東さんと神島さんの話しは疑問を孕みながら続いている。
確かにそうだな。そこまで気が触れてしまった老人が、証拠隠滅のために事件現場を崩落させることができるだろうか?
もしかすると、共犯者がいたのかもしれない。
「園内で誘拐された被害者も不明な点が多くてね。その辺は刑事さん達も話したがらなかったんだ。けっこうな数の子供たちが誘拐されていると思うんだけど……」
「……ちょ、ちょっと待って。神島さん、今なんて?」
俺の頭に稲妻のようなものが走る。
そうか。普通の人なら……そう思うはず。
俺は確認の為に神島さんに問い質す。
「誘拐の被害者は若い女性じゃないんですか?」
「えっ? それは……僕はてっきり遊園地での誘拐だから子供が誘拐されていたのかと……」
「そうだ。それだよバイトくん! 神島くん、ちょっとこれを見てくれる?」
東さんは神島さんに先程拾ったビニールテープ巻きの手帳を開いて見せる。
見せたのは誘拐されたと思わしき女性の首なし写真。
俺達はこれを見ていたから、さっきの苑田老人の発言に違和感を感じることができなかった。
「うっ……これは酷い。特殊メイクやCGじゃないよね?」
「ひとつ確認させて。鹿島くんの取材では誘拐された被害者の年齢や性別はわからなかったのよね?」
「チーコもひどいな。僕だってちゃんと過去の記事を総ざらいしたよ。刑事さんや関係者も被害者については箝口令が出ているかのように語らなかったよ。今ですらそうなんだから、過去の記事でも載ってないのは当たり前だろ」
「やはり……東さん! 苑田さんの発言は……」
「ええ、バイトくん。"秘密の暴露"よね。神島くん、その苑田っていう警備員は、被害者が全員若い女性だって言っていたの。私達もその手帳を見ていたから、その時はすんなり聞き逃しちゃったんだけど。これって"関係者のみが知りうる情報"よね」
先程の弱気な姿はどこへやら。
東さんは目を輝かせながら、自慢げに語り出している。
俺が気付いたんだけどなぁ……。
「おいおい、それが本当ならその爺さん、事件の関係者じゃないのか? もしかすると実行犯側の人物だったりして?」
「神島くん、ちょっとその警備員のことも調べてみてくれる? ここを買い取った建設会社の警備員らしいんだけど」
「ここを抵当で手に入れたのは裏ドを共同経営していた建設会社だったはずだ。転売をしたがっているが、特大の傷者物件だから未だに買い手がついていないけどね。よし、そこら辺も調べておこう。だが……そろそろ危険な感じがしてきたし、僕も探索に加わった方がいいんじゃないか?」
「だめよ。今回はサポートに徹するって言ってたじゃない。それにあなたまで"おとなしさん"を見ちゃったら……」
「心配することはないよ。僕はこれでも神主の息子だからね。いざとなれば……」
「でもダメ。どうしようもなくなったら呼ぶから。まずは調べ物をお願い」
「……わかったよ。くれぐれも気を付けてね」
――何……この疎外感。
ま、まあ、俺はどうせバイトですし。
ちょっと淡い期待をしてしまったのは夏の日差しのせいなんですから。
ちっくしょ〜。
俺達は他にもここで起きた事を細々と説明した後、手帳に挟まっていた古文書を神島さんに渡す。
何でも神島さんは、この程度の古文書ならば少々時間を掛ければ読めるそうだ。
古文書が読み解ければ、他にも何か新事実が浮かび上がってくるかもしれない。
神島さんの去り際に、俺は心の隅に引っ掛かっていたことについて調査をお願いしてみる。
「あっ、そうだ神島さん。もうひとつ調べてもらいたいことがあって。裏ドでの事件や行方不明者についてなんですが……」
「うん? それならさっき報告しただろ……」
「いえ、廃園してからの出来事なんです。例えばTV局関係者絡みとか……」
「ふむ。別のチームにキミ達が見たビデオの撮影者を調べて貰っているから、何かわかっているかもしれないな。ちょっと追加で頼んでみるよ。いざとなったらチーコを守ってあげてくれ。頼んだよ、バイトくん」
「そういうのはバイトにやらせる仕事じゃないでしょ……」
俺はそう言いながらも、しまらない笑顔を浮かべて別れの挨拶をする。
頼られるという、これまでの生活では感じられない感覚に酔っているのかもしれないな。
「じゃあ、日暮れ前の18:00頃にもう一度ここで待ち合わせをしよう。くれぐれも無茶をしないでくれ」
「神島くんも気を付けて……」
神島さんはオンボロの社用車に乗り込み、廃遊園地を後にする。
東さんはワンボックスの車影が見えなくなるまで、じっと眺めていた。
その後、俺達は軽い昼食を済ませ、廃園内へと再度侵入を試みる。
園内は相変わらず静寂と赤錆のワンダーランド。
ボロボロに朽ち果てたウサギのマスコット、"ウラビッチ"の着ぐるみがベンチに腰掛けたまま力尽きたように出迎えてくれている。
20年以上に渡る放置のため、敷地内には正体不明の植物がビッシリと生い茂り、人々が活動していた痕跡を覆い隠す。
そのためなのか過剰な"滅んでしまった感"が漂い、ディストピアさながらの様相を呈している……。
「残りの噂って何でしたっけ?」
「そうねぇ……ドリームキャッスルの拷問部屋とミラーハウスの入れ替わりかな? あとはメリーゴーラウンドが勝手に回り出すらしいけど、それは夜らしいから後回しね」
「そのミラーハウスの入れ替わりって何なんですか?」
「それって開園当時の噂なのよ。だから今は何にもないかもね。なんでもミラーハウスに入った人の一部が、ぜんぜん別人格になって出てくるらしいの。同時期に誘拐事件の噂が流れてたから、あまり気にされていなかった噂なのよね」
「ふ~ん。そういえば観覧車の噂もありませんでしたっけ?」
「観覧車は廃園してすぐに解体されちゃったわよ。苑田さんが管理している保養所があったところね。とりあえず、近場のミラーハウスに行ってみましょうか」
観覧車は無くなっちゃってたのか。
廃遊園地の目玉と言えば観覧車なのに。
まあ、錆の浸蝕などで倒壊したら一番危険な施設なので当たり前か。
だからこそ、その存在は貴重だと言われているのだから。
俺達は狸や鹿など園内に住み着いた野生動物を撮影しながら、件のミラーハウスの前まで辿り着く。
中型の体育館ほどの建物は何かしらの大きな力のせいで建物全体が驚くほど歪んでしまっている。
何かあったら、全体がペシャンコになってしまいそうな印象を受けるのだが……。
玄関付近は原型を残してはいるが、水族館と同じく厳重にチェーンで施錠がされている。
建物を眺めながら潜り込めそうな所を捜していると、レンガの塊が崩れ落ちている場所を発見。
隣にあるドリームキャッスルの尖塔が崩れ落ち、ミラーハウスの一部ごと潰れてしまっていたのだ。
これが原因で建物全体が歪んでしまったのだろう。
倒壊している部分を覗いて見ると……どうやらここから内部へ入ることができそうだ。
「どうします? なんか今にも崩れ落ちそうなんですけど……」
「ん〜、パスしよっか。噂は開園当時のものだし」
「そ、そうですよね〜。で、でもあれ、見えちゃってます?」
東さんとの会話の最中、ハウス内のミラーに白い服が映り込んでいる。
あ、あの検査衣は……。
位置的に服は左半身の胸から下しか見えないが、あれは間違い無く"おとなしさん"。
そして小刻みに震える手をこちらに向けて、手招きをしているようにも見える。
「と、撮ってる? 撮ってるよね!? ねねねねっ!!!?」
「ととととと、撮ってます! で、でもどうします!? 呼ばれちゃってるっぽいんですけど!!!」
「こ、こうなったら行くしかないじゃん! 死んじゃうかも知れないなら、原因を突き止めてやろうじゃない。成仏させりゃ、いいんでしょ!!」
意を決したのか東さんは少し興奮気味に前へ進み出す。
しかし、言葉から察する意気込みとは裏腹に、ほんの少しずつしか進んでないけど。
数分をかけてやっと倒壊部からミラーハウスの中に入り込む。
外の光がミラーに反射しており、内部は思ったよりも明るい。
中のミラーは装飾用のミラーテープらしく、経年劣化で剥離し不気味な模様となっているものもある。
そのまだら模様は髑髏や人の顔のようにも見え、ビクビクしながら先を進んで行く。
「ミ、ミラーハウスって、こんなに怖かったっけ?」
「そ、そりゃあ、幽霊に招かれたら、どこだって怖いですよ! つーか、なんで俺を前にするんですか!!」
「あんた男でしょ! 先に行くべき!!」
「ちょっと、こういう時だけ男は〜とか言います!?」
俺はぐいぐいと押され、先へ先へと進んでいく。
ちょ、ちょっと待って! 心の準備が!!
俺は振り返り、東さんに文句を言おうと……。
目の前には白い布。
この見覚えのある服……検査衣。
いつの間にか東さんは消えており、目の前に佇んでいるのは……。
おとなしさん。
下顎だけをカクカクと振るわせ、徐々に右手を挙げ始める。
俺はその姿を見つめるのみで、身動ぎすることも叶わない。
頭があったであろう部分には古文書で読んだ皮膚代わりの粘膜が貼り付けてあり、ちょうど喉の気道部分にぽっかりと穴が空いている。
あ、あれで息をしているとでも!?
「……なっ。おおっせっ……なっ……」
穴から声とも思えない音を響かせながら、その手は一差し指を立てて俺の口に押し当てられた。
なんだ……これ。喋るなってことなのか!?
指の冷たい感触が全身に伝わり始め、不思議と恐怖が収まりつつあった。
「バイトく〜ん。ちょっと、こっち!」
その時、東さんの声が隣のミラー越しから響いてくる。
その声に気を取られ、再び前に視線を戻してみると……おとなしさんは消えてしまっていた。
なんだ……? 彼女は何を伝えたかったんだ?
俺は不思議な心残りを秘めながら、ミラーの裏側にいる東さんのところへ向かう。
すると彼女の目の前には扉のように開いたミラーがあり、その奥には従業員用のバックヤードが広がっていた。
しばらくここを探索してみると、床に奇妙なラインを発見する。
引き起こすための金具があるが……残念ながら鍵穴があり、ガッチリと閉じられてしまっている。
鍵穴を覗きながら試行錯誤をしていると、スッっと肩口から鉄製の棒が差し出される。
これは……鍵?
「東さん、どこで見つけたん……あれ?」
鍵を手に取り東さんに礼を言おうと振り返ると……そこには誰もいない。
「バイトくん? 呼んだ?」
俺の声に反応して反対側を探索していた東さんが俺の方へ歩み寄ろうとする。
その途中で彼女はミラーのある通路の方向に釘付けになる。
なんだ? 何が……。
俺もミラーのある通路を覗き込んでみる。
――何も見えない。
いや? 遠くに置かれた正面のミラーの中に黒いモノが落ちている。
徐々にこちらへ近づいてきているような。
それに気づくと同時に心臓の鼓動が激しく高鳴り始める。
ずるずるずる――
黒い何かが這いながら近づく。
この時点であることに気が付いてしまう。
あれは鏡の中だ。
だとすれば俺達の後ろの光景なはず。
しかし、俺達の後ろにはバックヤードがあるだけ。
もちろん鏡なども無く、横や斜めにある鏡には"それ"が映っていない。
鏡の中だけの光景だとでも……!?
考えを巡らせている間にも、どんどんどんどん近づいてくる。
気が付くと、それが何であるかわかる位置まで。
これは……頭だ。
濡れた髪の毛にくるまれた人の頭が躙り寄ってくる。
東さんが涙を浮かべ、過呼吸気味に何かを伝えようとしている。
しかし、声が声にならない。
俺も、なぜか声を上げることができない。
徐々に頭がせり上がってくる。
顔が……顔が見えてしまう。
そのことがとてつもなく恐ろしいことのように感じられる。
それなのに目を逸らすことができない。
まずい。このままでは……。
その刹那、髪の毛の束が映っていたミラーが激しい音を立てて砕け散る。
それと同時に金縛りが解けたかのように体に自由が戻ってくる。
しかし、一難去ってまた一難。
突如、目の前に躍り出てくるピンク色の躍動感。
あれは……水族館にいた怪物。
ウラッシーか!?
細長い体をくねらせ、こちらに頭の先端を向ける。
そして、徐々に突進をしながら口を開き始めた。
俺はとっさに東さんの腕を掴み、先程の床にある扉を鍵で開けようとする。
な……なかなか鍵が入らない。
焦りながらも何とか鍵を開け、扉を引き上げる。
同時にむわっと広がる重苦しい空気。
しかし、今は怯んでいる暇は無い。
震える東さんを地下に押し込み、自分もその中に滑り込む。
ごろごろとコンクリート階段を転がり落ち、顔面を強打しながらも地下へ到達。
それと同時に壮絶な音が響き渡り、入って来た入口が崩れてしまった。
おそらく不安定に建っていたミラーハウスそのものが崩れ落ちてしまったのだろう。
「東さん……大丈夫ですか? 俺は……大丈夫じゃないです」
「な、なに言ってるの。鼻血が出てるだけじゃない。で、でも、助かった〜。あれがさっき水族館に出たっていうウラッシーか……ミミズの化け物じゃない」
「安心なんてできませんよ。ここは……どこなのかな? まったく見当も付かない。もしかしたら閉じ込められちゃったのかもしれないんですから」
「たぶん遊園地のメンテナンス用通路じゃないかしら? ……あれ? ここ、電気が付いてる」
東さんの一言で、ようやく俺もその事に気が付く。
ああ……本当だ。通路の所々に電球が弱々しく輝いている。
通路は一方に長く延び、その先はどこまで続いているのか暗闇で見通すことができない。
「地下って確かピエロの事件で爆破されて入れなくなっていたんじゃ?」
「そうよねぇ。そのはずだけど……。オーナーの杜代井泉に爆破されたって。もしかすると、さっきの場所は隠されていたから気付かなかったのかも」
「まさか。警察をナメすぎですよ。なんかヒミツがあるに違いない。嫌な予感しかしませんがね。でも……先に進むしかないのか」
「そういうことね」
退路を塞がれてしまった俺達は、先に進むしか手立ては無い。
やけに湿り気の多い空気が満たされた通路は、打ちっ放しのコンクリートで覆われ、所々に青々とした苔が広がっている。
どう見ても長い間放置されていた通路だが、今は電源が通っているようで、内部全体にゴウゴウと機械音が低く鳴り響いている。
最近なのか? ここが再び使われ始めたのは。
しばらく歩きながらゴウゴウという音の発生源を発見。
ボイラー室。
遊園地には緊急時用やコスト削減のために自家発電をする施設があると聞いたことがある。電気はここで作られているのか。
窓を覗いてみたが誰もいない。まあ、当たり前か。
「これ……昔から動いている訳じゃないよね?」
「燃料やメンテナンスのことを考えても、それはないでしょうね。ずっと動いていたら耐久年数をとっくに超えてますから。ここ数ヶ月で修理して動かしている……そんな感じじゃないですか」
「やっぱり。苑田の爺さんかな。あの人なら敷地内を自由にできるし」
「でも、不可解ですよ。保養所には電気が通ってるだろうし。ここで電気を起こす理由がわからない。この地下で何かをしているとしか思えない」
「何かって……何よ」
「東さんだって薄々は気付いてるでしょ。あいつが杜代なんじゃないかって」
「だよね。そうとしか考えられない。あの老人が連続誘拐の猟奇殺人犯だったなんて……」
確かに東さんに話しかけるフリをして苑田の爺さんの名前を呼んだ時に数秒の間があった。
それに本物の警備員が俺達のような侵入者を警察も呼ばずに放置するとは思えない。
彼が説明した面倒だからという理由よりも、騒ぎになると困る事情がある……そう考えた方がすんなりと腑に落ちる。
そして決定的なのが、老人の言ったふたつの言葉。
「若い女性ばかりが誘拐された」と「5ヵ月ほど前」。
若い女性が狙われたという、犯人のみが知り得る情報は先程の神島さんへの指摘通り。
もうひとつの"5ヵ月前にここへ戻ってきた"という発言は、ある矛盾をはらんでいる。
彼は"昔、TV関係者といざこざがあって面倒だから"という理由で、俺達の取材を許可していた。
しかし、その後の発言では5ヵ月前にここへ来たという。
たった5ヵ月間の間に起きた出来事を、"昔"と表現するだろうか?
さらに彼は警備員の仕事に慣れていないとも言っている。
慣れ親しんだ職業でないのであれば、昔とはいつのことを指しているのだろうか?
その答えは……神島さんの調査を待つしかないのかもしれない。
俺と東さんは数時間前の出会いに鳥肌を立てながらも、通路を黙々と進んで行く。
突然、全ての光源が落ち、真っ暗闇になってしまう。
……いや、ひとつだけ。目の前にぼんやりと明るい白い影。
おとなしさん。
彼女はとあるドアの方向に指差しをしている。
俺と東さんが凍り付いて見守っていると、薄暗い明かりの復活と共に消え去ってしまった。
「どうするバイトくん? あの部屋を調べろってことかな?」
「そうとしか思えないですね。元々、ここに導いたのは彼女ですし」
「データの容量は残ってる? 今度はバッチリ撮るわよ」
「okです。まだまだ撮れますよ……」
いつの間にかプロ根性が芽生えてきたのだろうか。
俺はハンディカムを構えながら、覗き窓に目張りがされた扉をゆっくりと開けてみる。
ガリガリと何かに引っ掛かるような音を立てながら鉄製のドアが開いていく。
そこにあったのは……無数の薄汚れた医療用機器や診察台。
さらにそこかしこにグロテスクな医療器具の数々が血泥に塗れて散乱している。
そして何より……あってはならないモノがここには存在していた。
――それは数十体にも及ぶ、おとなしさんたち。
手帳に貼り付けてあったポラロイドの首なし女性達が、奇妙な椅子に括り付けられて藻掻いていたのだ。
そのショッキングな光景は気丈な東さんが、持っていたハンディカムを落としてしまうほど。
「な、なぜ……彼女達はポラロイドの!? おかしい! だってあれは数十年まえの写真なはず。なんで生きてるの? なんで今の今まで生きていられるのよっ!!」
「お、落ち着いてください東さん。こいつらは……さっきまでのとは違うみたいですよ? その……幽霊っぽくないっていうか」
「そういえば……。これもおとなしさんなんだよな。でも、なんで拘束台に括り付けられてるんだ?」
「わからないけど……ここに何かヒントがあるかもしれない。少し探索してみましょう」
俺と東さんは手分けをして部屋を調査する。
ここは思ったよりも広く、仕切りで分けられた部分を入れると10帖ほどの部屋が3つ並んでいるくらいの大きさがある。
その仕切りの一番奥にある作業机で、東さんが何かを発見したようだ。
見つけた物は、黒いビニールテープが巻かれた手帳。
これは、水族館で拾った手帳の残りか!?
持っている手帳と合わせてみると、ピタリと寸法が合う。
どうやら手帳の片割れで間違い無いようだ。
内容はある男の日記。
誉響神代を再興し、祖先の無念を晴らそうと実験に奔走していたようだ。
恐らくこの日記の書き手は、杜代井泉。
日付も開園当時と一致する。そして没頭していた実験とは……。
密議、奉海来迎。
女性の頭を外して、知識の神から神託を受けるという人非人の所行。
その内容は凄惨を極めるが、それを完遂しようとする怨念にも似た執念を感じさせる。
日記には、こんなことが書かれていた……。
――――
■ ○×月△日
開園から1年半が経過した。まだまだ被験者の数が足りていない。
子供向けに作りすぎてしまったためか、目的の女性が集まらない。
子持ちの母親など問題外だというのに。
信徒のスタッフがミラーハウスで拉致をするだけでは足りない。
止むを得ず危険を承知でフードコートの飲食物に薬を入れて昏倒させ、地下へと連れ込んで来るが、それでも純潔を保っている者など滅多にいない。
山の奥地で秘密裏に栽培しているベラドンナの数がいくらあっても足りなくなる。増産を指示しなければ。
薬の効果は実証済みだが、こうも記憶が混乱する者が多く出ては、園に悪評が立ち警戒心を持たれてしまう。
警察に勤務する信徒に賄賂の金をまた用意しなければ。
目的が知れてしまったら、警察も動き出すだろう。
あくまで悪評を揉み消すためと思わせて懐柔しなければ。
■ □月△●日
なんとか数人を確保しているが、未だに成功しない。
薬湯の配合がまずいのだろうか?
"どちらも"生かし続けることができない。
"おとなしさま"と"かしかまはん"は二つで1柱となる神。
御美海様の神託を受ける際にどちらのバランスが崩れても、連鎖的に崩壊してしまう。
真の奉海来迎の果てにこそ、我々の雪辱を果たす未来が待つ。
しかし、失敗して虚賂棄転輪となってしまうわけにはいかない。
慎重に事を進めなければ。
■ ●□月▽日
ついに"おとなしさん"を安定化させることに成功した。
しかし、残念ながら"かしかまはん"は御美海涌泉の底に沈んだまま浮かび上がってこない。
これでは"おとなしさま"になることが出来ない。
何が間違っているのか……。
しかし、"おとなしさん"とはよく言ったものだ。
考える脳が無い彼女達は、時折、藻掻くくらいはほとんど動かない。
最近公開された映画……『ゾンビ』といったか?
あれと同じく、彼女らも生きた屍ではあるが、全く逆の性質を持っている。
"かしかまはん"がいなければ、おとなしいのだ。
■ ▼月●○日
何度試しても成功しなかった"かしかまはん"に変化の兆しが見える。
そうか。音だったのだ。
古文書の記す静寂の呪いを避けるには、"かしかまはん"に音を感知する部分を付けなければいいのだ。
音に敏感すぎて些細な音でも狂い死んでしまうのなら、そうしてしまうのが一番だ。
この説を立証するためには切断する位置をもっと確かめねば。
おとなしさん側に外耳孔周辺を残し……いや、この際、後頭部を残して延髄を保護すれば……。
静寂の呪いを回避するための祭も、代用が見つかった。
ここが遊園地であることはデメリットでしかなかったが、こういった使い道があったとは。
我々の悲願が実る日は近い。
そう確信できた一日だった。
■ ▽○月□日
ついに成功した。
"おとなしさま"も"かしかまはん"も、どちらもが健在。
だが……早速行った奉海来迎では、残酷な結末を伝えられる。
まさか……違う。
我々は滅びるために、手を汚し続けたんじゃない。
また明日……奉海来迎を行ってみる。
それでも変わらなければ……。
■ ○月▼□日
最初の奉海来迎から3ヵ月。
どんな聴き方をしても、得られる神託は滅びのみ。
なぜ……どうして密議を成功させたというのに、こんな結末が。
……成功? そうか。
我々の運命に滅びしか残されていないのであれば。
密議など何の役にも立たない。
虚賂棄転輪だ。
かつての誉響神代は三度、滅びの道を歩んだ。
ひとつは静寂の呪いの蔓延、ひとつは明治政府。
そして残る一つこそが禁忌の最たるもの……虚賂棄転輪。
自らの意思で滅びを選ぶという古代の秘術。
その滅びの力は大きな城下町を丸ごと異界へと沈めたという。
誉響神代が時の権力者に疎まれる原因ともなった恐るべき御業。
この世の全てが裏返り、全ての神が去りゆく。
そうだ。滅べばいい。我らと共に同じ道を。
■ ▼月△○日
緊急事態が起きた。
誰かが夜中にメリーゴーラウンドを止めてしまったらしい。
そのせいで"かしかまはん"が密議の音を聞きつけて狂乱してしまった。
今も静寂の呪いを振りまいている。
その矛先は私へも……。
もはやこれまでか。
虚賂棄転輪を引き起こす方法は未だに不明だが、あらゆる限りの呪法、邪法を"おとなしさま"に与えてみる。
教典をもっと簡単に読み解けていれば……。
教主の伝承を途絶えさしてしまったことが悔やまれてならない。
これでは……私の代での復活は諦めねばなるまい。
口惜しや。日本政府め。
いや。この国で我々を弾圧してきた全ての権力者を私は呪おう。
■ ○×月●日
始まってしまった静寂の呪いは、徐々に我々を狂気の底へと引き摺りこもうとしている。
"おとなしさま"が先程、未熟児を産んだ。
信徒の行った陵辱の末、たった2ヵ月で赤子を産んだのだ。
しかし、それは人と呼べる代物ではなかった。
あれは断じて人間などでは……。
あの子は生まれるなり、うねる体を弾ませてどこかへ消え去ってしまった。
……今更、どうでもいいことか。
そんなこと、これから起きるであろう事態に比べれば。
虚賂棄転輪を起こす術は、未だに見当も付かない。
今はただ、音を立てずに気付かれないようにしなければ。
しかし、ここは遊園地。
昼になれば嫌でも喧騒が鳴り響く。
その度に"かしかまはん"は無差別に呪いを振りまくだろう。
一度、密議の邪魔をされ、静寂の呪いを吐き出し始めた"かしかまはん"は誰にも止められない。
残念だが、その事だけは教典の解読で読み解かれてしまっている。
時と共に静まるのを待つしかないのだ。
信徒たちも、ほとんどの者がここを去るか発狂をし始めている。
私も正気をいつまで保てるのか。
地下道から行ける御美海涌泉への道は、すでに封鎖した。
しかし、そんなもの狂乱した"かしかまはん"には何の足枷にもなりはしない。
その証拠に……今、目の前で声にならない"音"を激しく発しながら、私を見つめている。
私と同じ、灰の目を光らせながら。
■ 月 日
ヨーホー!
ようこそ裏野ドリームランドへ!!
ぼくはぴえろの
おおお
ジェットコースターに乗って
ごきげん
聞こえるあの
あたまが飛ぶほどスカッとするんだヨ−ホー
19個の頭は
密議の犠牲者の数と同じ!
あああああ
声が声が声が
さあさあ、みんな寄っといで
最後のショーがはじまるヨォ
みんなにもこの"かしかまはん"を紹介して
あが
な
音を立てるな
――――
「これが……犯行の一部始終か。なんてもんを見つけちまったんだ」
「日記の内容が本物だとすれば、ここの地元の警察は買収されて隠蔽に加担していたってことよね。大スクープじゃない!」
「密議の奉海来迎は成功していたみたいですね。じゃあ、今ここにいるのが"おとなしさん"で、俺達の前に現れていたのは"おとなしさま"なのか?」
「わからない……。でも私達が会った女の霊は、頭は無かったけど耳はあった。ここにいる"おとなしさん"達は、みんな耳が無いし……」
そう言うと東さんは隣の仕切り板の方を覗いている。
首の無い女性が全部で11体。
そのどれもがもぞもぞと、薄暗い部屋の中で蠢いている。
確かに日記にあるように、"おとなしい"。
首の切り口は試行錯誤のためか、千差万別。
様々な角度で切られて、傷口を塞がれている。
……くそ。なんて外道共なんだ。
人をこんな風にしちまうなんて。
俺は彼女達に同情しながらも、部屋の探索を続ける。
この部屋には、まだ何かありそうだから。
手帳のあった机の隣にある棚を調べると、液体の入った注射器を発見する。
これが……ベラドンナの抽出液か。
「バイトくん? なんだそれ?」
「日記にも書いてあったでしょ。ベラドンナから作った薬品ですよ。おそらくはアトロピン。自白剤です。しかも、古い物に混じって最近開発されたペン型のものもある。何をするつもりなのか……」
「ああ、なんか書いてあったね。自白剤なんて何に使ってたのかしら?」
「……ん。言いにくいんですが、たぶん……純潔と書いてありましたから」
「ああ、男性を経験済みかどうか白状させるのか。ゲスだなぁ〜」
「多くの場合、巫女は純潔性を求められますから。ミラーハウスの噂はこれで解決しましたね。自白剤は使われると意識が朦朧とするんです。性格が変わったように見えてもおかしくない」
「なるほどね〜。それとドリームキャッスルの噂も解決したんじゃない?」
「えっ? なんでですか?」
「ここよ。ここの位置って丁度、ドリームキャッスルの下ぐらいでしょ。地下の拷問部屋って、たぶんここなんだわ」
確かに。薄暗い中で血まみれの医療器具や拘束具に固定されたおとなしさんを見たら、拷問部屋に見えるかもしれない。
さらに探索を続けていると、東さんが俺も気になっていたことを話し始める。
「日記にさ……酷いこと書いてあったよね。おとなしさまを信徒が陵辱したって」
「嫌な話しですね。本当に胸糞が悪くなる」
「それでさ、その……出産したって。それって……やっぱり」
「ウラッシーじゃないかってことですね。そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。今となっては確かめる術なんて……ん?」
俺は雑貨が山積みになっていた机の上に、ぽつんと整理された一角を見つける。
そこには奇妙な模様の組木細工が置かれていた。
他の物とは格段に違う扱い。
この手の平に乗るくらいの組木細工に何が……。
「おっと。それには触れないでくれたまえ」
矢庭に後ろから男の声。
ついに登場か……杜代井泉。
「動かんでくれよ。薄暗くても、これは目に入っているだろ」
「ふん。見えてるよ。クズ爺め」
俺は悪態をつきながらも、視線をそれから離さない。
老人の手に握られているのは、華奢な感じの拳銃。
あまり強力そうには見えないが、ひ弱な俺と女性ひとりを相手にするには十分過ぎるほどの凶器だ。
「なんだい。もう警備員ごっこは止めたのか? 苑田さん……いや、杜代井泉か」
「ふふっ。いやはや、やはり奉海来迎の神託は正確だ。今日、記念すべきこの日に贄となる巫女が自ら乗り込んでくるとはね……。先を見通すこの力は、権力者にとって脅威であっただろうな」
老人は、そう言いながら東さんのほうに目を向ける。
贄? 巫女だと? 東さんが?
それに奉海来迎をすでにしているというのか?
全ては東さんが今日ここに来ることを知っていての行動だったと!?
俺は動揺を隠しながら、なんとか事態が好転する方法を模索する。
「お前の企みなんて、こっちはどうでもいいんだよ。どうやって正気を取り戻して病院から抜け出たのかは知らんがね。ご苦労なこった」
「何を言っているんだ? こちらこそキミらの低俗な仕事のことなど端から計算に入れていない。この後には、こう言うつもりだろ? "他にも仲間がいる。帰らなければ怪しんで警察を呼ぶぞ"と。私は警察など怖れてもいないがね」
「……その程度の読みで神様のご神託とはお笑い種だ。わざわざ聞く必要もない言葉なら、神頼みなんてアテにもならないね」
先程とはまったく異質の雰囲気を放つ老人。
ヤツは俺の言葉に薄ら笑いを浮かべていたが、ふと顎に手を押し当てて考え込んでいる。
「確かにな。実は神託の言葉にはキミの存在は言及されていなかったんだよ。先程のセリフは彼女が言うはずの言葉だった。神託通りなら侵入者は二人。しかし、男の方は伝えられた人物像とは違う……。だが今ここにいるということは、警察を呼ぶはずの仲間はキミだったということだな。まあ、こちらも全てを聞いていた訳ではないからね。このくらいは誤差の範囲だろう。さあ、ふたりとも前を歩いてくれ。終焉の地へ行こうじゃないか」
ふん。あくまで神託の導きだと言うつもりか。
しかし、まだコイツは神島さんの存在には気付いていない。
待ち合わせに遅れれば異変に気付いてくれるはず。
手を上げながら腕時計を確認する。
まだ17:30か。約束の時間まではあと30分ほどある。
まずいな。このままでは何もできない……。
俺達は地下通路を抜け、上り階段を進む。
階段の先は先程の予測通り、ドリームキャッスルの裏手側に出た。
老人は地下への入口に鍵をかけ、さらに先へ進めと促す。
裏野ドリームランドは山間部の空き地を利用した遊園地。
施設を出た周辺は自然が溢れているテーマパークでもある。
ハイキングコースや夏場でも遊べるクロスカントリーなど、数々のスポーツ施設が用意されていた。
自然はなるべくそのままで楽しませるのがコンセプト。
だから俺は今、切り立った崖へ押しやられている。
「ここが終焉の地ってヤツなのか? おれは船越英一郎じゃねぇんだけどな」
「残念だが、どちらも違うようだね。さっきも言った通り、キミはイレギュラーなんだよ。必要なのは巫女だけだ。不安要素には、ここらで退場してもらおうかと思ってね」
「川なんぞに死体が流れたら、いつか見つかるぜ。殺すならどこかに埋めたほうがいいんじゃないか?」
「ふぅ……。今日さえ過ぎれば、後はどうなろうとかまわんのだ。だから警察への通報も怖れはしない。密議までの時間が保てればいい。だから……とっとと死んでくれたまえ。何の恨みもないんだが、そういう運命だったのだろうね」
「バ、バイトくん! ちょっと止めなさいよ!!」
食ってかかる東さんを押し退け、老人はゆっくりとこちらに振り返る。
そして再び深い溜息をつくと俺に銃口を向け、引き金に力を込める。
その灰色の瞳からは何も感じない。
恨みがないというのは事実なのだろう。
だが、殺意はなくても引き金を引けば人は死ぬ。
今、老人が握っているのは、そういう道具。
ああ……こういう時は時間がゆっくり感じるっていうのは本当なんだな。
スカイヤーズビンガム。
フィリピン製の粗悪なコピー拳銃。
その撃鉄が引き上がるのが見える。
老人が引き金を引く瞬間。
薄橙色の巨影が目の前を覆い尽くす。
あれ……こいつ。
ウラッシー?
謎の巨影はそのまま俺を弾き飛ばし、自分諸共、谷底へと突き落とす。
空中を漂い落下する直前、老人と東さんの後ろに白い影。
"おとなしさま"が見える。
でも、少し様子が違う。
頭が……あるじゃないか。
なんだよ。
あんた俺達に助けて欲しかったんじゃ……。
結局、神託を使って老人の望みを叶えるために導いていたのか。
しまらない結末だ。
お人好しが理由で死ぬなんて……。
そんな事を考えながら、俺は真っ逆さまに谷底へと落ちて行った。