5話 狂った歯車 下
やはり人生を書こうと思えばこんな時期もあります。
その日以来、ハンナは一変した。
あれほど好んでいた剣術には全く興味を示さなくなり、人と会うのを極端に嫌うようになった。
窓を閉めきった薄暗い部屋でしくしくと泣き続け「取り返しのつかぬことをした」とクリフと流れた子に謝り続けるのだ。
そして時には「子供を産めぬ女に価値はない」「死んでしまいたい」などとぶつぶつと呟き、実際に首を吊ろうとしたこともある。
クリフはハンナの精神状態は一時的なもので、時間と共に解決するだろうと思っていたが、もう一月になると言うのにハンナが回復する様子は一向に見えない。
ハンナは現代日本であれば重度の鬱病と診断されたであろう。
しかし、マカスキル王国には心療内科などは無く、鬱病などと言う概念すら無い。
このような場合は「気が触れた」と言われるのだ。
……あのハンナが、まさかこんなことになるとは……
貴族の女にとっては子孫を残すことは何よりも優先されることである。
幼少よりこの「常識」を叩き込まれているハンナが子供を宿しながらも産めなかったストレスは、現代人には理解の及ばぬところであろう。
今日もクリフはハンナに付き添って様子を見ている。
ハンナを注意深く観察すると、不安定なのは午前中が多く、午後からは少し落ち着くようだ。
クリフは午前中はハンナに付き添い、午後からギルドに顔を出すように心掛けている。
思えば、ハンナは元々が感情の起伏が大きく、精神状態が安定していないところがあった……それが悪い方に出たのであろうか。
田舎貴族の出身で幼少より甘やかされてきたハンナが打たれ弱いのも間違いはない。
「どうせ! 誰にも私の気持ちは分からないわっ! クリフだって私のことをバカにしてるんでしょっ! 子供も産めない石女だって!」
先程までしくしくと泣いていたかと思えば、このように感情を爆発させて誰かに当たり散らす……こうなると手には負えない。
……女が子供を失うのは、これほどのことなのだろう。
クリフは暴れるハンナを抱き締めて落ち着かせる。
「ハンナ、クロフト村に行こう、叔父上に手紙を書いたんだ。故郷でゆっくりすれば気分も落ち着くはずさ。」
「クリフっ、私を捨てないで……捨てないで……」
先程まで暴れていたハンナは、クリフにすがり付き泣いていた。
あまり会話が成立していないが、言葉は通じているはずだ。
…………
午後になると、エリーとバーニーがベルタの元から帰ってきた。
「ただいま……お母さんは? 」
「おかえり、エリー。母さんは寝ているよ。」
エリーは心配そうに寝室を眺めた。ドアは固く閉じられている。
睡眠過多は鬱病の症状だ。
ハンナは一日の大半を寝室でぐったりとした風情で過ごすのである。
「俺はギルドに用事があるから少し出掛けるよ。すぐに帰るつもりだが、何かあったらすぐに教えてくれ。」
クリフはエリーをそっと抱き締め「大丈夫だよ」と言い聞かせた。
…………
「……そうか、そんなに悪いのか。」
「ああ、正直な気持ちを言えば、元に戻るとは思えないが……」
ギルドで書類仕事をしながらクリフはマスターに愚痴をこぼしていた。
「酷いときは会話も成り立たないんだ……はぁ。」
「あまり思い詰めるな。お前まで倒れたらエリーはどうなる?」
マスターの言葉にクリフは力無く頷く。
エリーが居なければクリフも挫けていたかもしれない。
父親として娘を支えねばという気の張りは、クリフにとっても心の支えとなっている。
「取り合えず、手紙の配達と温車の手配だな……護衛はどうする?」
「頼む。俺はハンナの世話に掛かり切りになるだろうからな……訳知りの古株を数人。温車は2台頼む。」
温車とは屋根と壁がある馬車のことだ。主に身分の高い女性や病人を運ぶときに使うものである。
年を越して一月ほど経ったとはいえ、まだ雪深い中での移動だ。
病人のハンナや幼いエリーの移動に温車は必要だし、できればハンナのためだけの1台は用意しておきたい。
「よし、手配できたら連絡しよう。クリフよ……お前さんが抜けるのは痛いがハンナを大事にしてやれ。」
「すまん。ハンナが落ち着いたら必ず戻る。」
クリフは決して「治ったら」とは言わない。
クリフの認識ではハンナは「狂った」のだ。治る治らないの「病気」だとは思ってはいない。
そして口にこそしないがマスターも同じである。
彼らに鬱病の理解が低いのでは無く、マカスキル王国では一般的な考え方である。
特に貴族や大商家など、裕福な家庭になると「狂気を発した」と判断されれば、閉じ込められるなど外部との繋がりを絶たれ、ひたすらに「恥部」として隠されることも珍しくは無い。
精神病に対する治療法などは無いし、それ以前に病気だとすら認識されていないのだ。
…………
「……お母さん! 止めてっ!」
クリフが家に帰ると、家の中が騒がしい。
クリフは何かがあったのを察知し、急いでドアを開ける。
見ればバーニーが踞り、エリーがハンナからバーニーを庇うように立っていた。
恐らく目覚めたハンナがバーニーに当たり散らし、エリーが庇っているのだろう。
ハンナの手にはホウキの柄だけが握られていた。
ホウキの柄とはいえ、ハンナほどの武芸者から殴られてはただではすまない。
「止めて! そんな風に呼ばないでよっ! エリーまで私を石女だってバカにするの!?」
「お母さんっ! バーニーを叩かないでっ!」
エリーが必死でハンナを落ち着かせようとしているが逆効果だ。
「止めて! 止めて! そんな風に呼ばないでよっ! お前なんか……」
「止めろ、ハンナ!」
クリフがハンナとエリーのあいだに割って入る。
「お前なんか! 私たちの娘でも無いくせにっ! お母さんなんて呼ばないでよっ!」
バシッと乾いた音が響く。
クリフがハンナの頬を張ったのだ。
「いい加減にしろ。言って良いことと悪いことがあるぞ。」
クリフがエリーの様子を見ると呆然とした表情をしている……かなりのショックを受けたようだ。
……エリーを放ったらかしには出来ないが……こちらも……
クリフが視線を戻すと、ハンナはわんわんと声を上げて泣き始めたのが目に入る。
「エリー、バーニーをお医者さんに連れていってやってくれ。母さんは俺が落ち着かせるから。」
エリーはクリフの言葉で我に返り、バーニーを助け起こした……見れば意外とバーニーの怪我が酷い。至るところで皮が裂け、血が滲んでいる。
後に判ったことではあるが、この時にバーニーの左手首は骨折していた。
医者に連れていかなければ障害が残ったかも知れない。
クリフはハンナを何とか宥め寝室に連れていった。
「誰も私のことをわかってくれない……こんなにも辛いのにっ……」
「大丈夫、大丈夫だよ。」
何が「大丈夫」なのかクリフにも分からないが、クリフはハンナを落ち着くまで抱いていた。
……叔父上には申し訳ないが限界だ。このままでは皆が参ってしまう。
既にクリフはハンナとの離縁まで考え始めている。
自分一人なら耐えられるが、娘を暴力で怯えさせ、暴言を吐くのは許されることでは無い。
……何にせよ、クロフト村に着いてからだ。ハンナが落ち着いてくれれば……
この6日後にクリフたちは自由都市ファロンを去る。
市民にとっては突然のことであり、大いに創造力を刺激され、様々な噂話がなされたようだ。
そしてクリフの人生にとっても1つの転換期を迎えた。
クリフの人よりもかなり長目の「新婚生活」は突然に思わぬ終わりを見せたとも言えるかもしれない。




