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猟犬クリフ~とある冒険者の生涯  作者: 小倉ひろあき
1章 青年期

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閑話 クリフォード・チェンバレン 下

 翌日



 ハンナの元に叔父のヒースコートからの使いが来た。


 ハンナはエリーを連れて貴賓館に向かう……紛らわしいが、これは王都からの使節団が宿泊中の建物とは別棟である。彼女は通された部屋でヒースコートと久しぶりに体面した。


「ハンナ、久しいな……美しくなった。」

「叔父上、お久しぶりです……エリー、この方はママの叔父様よ。ご挨拶なさい。」


 ハンナがエリーを促すと「エリーです。4さいです」と挨拶した。


「うん、可愛らしい子だ。あのハンナが子供を育てているとはな……私も歳をとるはずだ。」


 ヒースコートはエリーを見てニコリと微笑んだ。ヒースコートは34才、結婚はしているが子はいない。


「叔父上、実は……」


 ハンナが挨拶もそこそこに本題を切り出した。


 婚約者のクリフが、サイラス・チェンバレンに招かれ8日も戻らないことを伝えると、ヒースコートの顔は見る見るうちに険しくなっていく。


「ハンナ、今ので全てが繋がった……すまん。私には……どうすることも出来ん……」


 ヒースコートの顔が辛そうに歪む。


「叔父上? 一体何を……」

「ハンナ、落ち着いて聞いて欲しい。」


 ヒースコートは大きく息を吸い、ハンナを見つめる。


「お前に縁談が持ち上がっている……王国外務大臣のアイザック・チェンバレン様のお身内が相手だ。」


 ハンナは一瞬、自分が何を言われているのか全く理解ができなかった。


「王国東部の争乱を鎮めるために、王軍とジンデル辺境伯領が軍事同盟を結ぶことになった……いくつかの条件の中に、貴族同士の婚姻による関係強化……お前の入嫁があった。」


 ハンナの耳はヒースコートの声を音をして捉えているが、意味が理解できない。


「チェンバレン様のお身内がお前を見初め、強く希望しているそうだ……思えば初めから私のような者が突然に外交使節に抜擢されたのが不思議だったのだ……初めからお前が目当てだったのだろう……」

「そんなっ! 私にはもう!」


 ハンナが悲鳴に似た声を上げた。


「そうだ。クリフ殿は人質にされているのだ……お前が逃げられぬように。」


 ハンナは足元が崩れ落ちたような感覚に襲われ、少しふらついた。


「そんな……そんなのって……」

「ママ、ママ? だいじょうぶ?」


 エリーが心配そうにハンナを覗き込むが、ハンナの目は焦点が定まっていない。


「すまん、私には……どうすることもできん。」

「嫌っ! 嫌っ! 絶対に嫌っ! 私はもうクリフのものだもの! クリフ以外と結婚するなら死ぬわ……死んでやる!」


 ハンナがヒースコートに食って掛かる。しかし、この叔父は……今までハンナの我が儘を全て許してくれた叔父はハンナに厳しい顔を見せ「許さぬ」と言い捨てた。


「王国とジンデル伯には叛けぬ……お前の我が儘でクロフト家を潰すわけにはいかん。断ることも、死ぬことも許さん。」


 ヒースコートの強い意思を持つ言葉がハンナを貫いた。小なりとは言え、貴族家の当主としての覚悟を持つ者が放つ気迫にハンナは気圧された。


 逃げるようにハンナがエリーを抱えてドアから帰ろうとするが、ヒースコートが従者に命じて遮らせた。


「どきなさいっ!」


 ハンナが従者を一喝すると従者は怯んだが、その間にヒースコートがドアの前に立ち塞がった。


「ハンナ、私を斬り、クリフ殿を見捨てるのならば行くが良い……だがお前は貴族の娘だ……この日が来ることは理解していたはずだ。」


 ハンナはふらふらと後退(あとずさ)り、崩れ落ちるように座り込んだ。


「エリーはクロフト村に連れ帰り、しかるべき家で養育することを約束しよう。」


 ヒースコートが従者に命じ、ハンナからエリーを引き剥がした。


「ママっ!? たすけて! ママっ!」


 異常を感じたエリーが泣きわめく。


「エリー! エリーっ!」


 ハンナが力無く抵抗するが、エリーはハンナの手から離れ、部屋から連れ出されて行った。


「ううっ……なんで、なんで……? ……クリフ……助けて……助けてよ……」


 ハンナはその場で床に付し、泣き崩れた。


 居たたまれなくなったヒースコートも無言で部屋から出ていき、ハンナは独り部屋に取り残された。




………………




 数日間、ハンナはヒースコートの元で軟禁された。


 自慢の曲刀は取り上げられ、ただ与えられた部屋で時間が過ぎるだけの日々……奔放に生きてきたハンナにすれば拷問のような時間ですらある。


「ハンナ、入るぞ。」


 ノックが響き、ヒースコートが入室した。

 ヒースコートはハンナの様子を見て軽く溜め息をついた。


「ほとんど食事もとらないそうじゃないか。体を壊してしまうぞ。」


 ハンナはヒースコートの言葉に反応し、無言でキッと睨み付けた。


 ヒースコートが悪い訳ではない……ハンナも十分に理解しているが、何かに怒りをぶつけなければハンナの中で何かが壊れてしまいそうだった。彼もそれを理解しているために何も言わない。


「お前の結婚が決まった……なにぶん、急ぎのこと(ゆえ)、略式になるが両家の当主が立ち会うのだ……問題はあるまい。」


 ハンナは無反応だ。


「明日から身を清めよ……4日後が結婚式だ。」


 マカスキル地方では結婚前に花嫁は3日間、斎戒沐浴し、身を清めることを習わしとする。庶民では廃れつつある風習ではあるが、貴族同士の正式な婚姻ではそうはいかない。


「クリフは、無事なんでしょうね?」


 ハンナが敵意を剥き出しにしてヒースコートを問い質した。もはや叔父と姪の親しさは感じられない。


「ああ……それは先方に確認した。見た訳ではないが、無事のようだ。」


 ヒースコートの言葉にハンナが僅かに安堵の表情を見せた。


「クリフに何かあったら……結婚相手を殺すわ。チェンバレンも殺す。私も死ぬ。」

「エリーはどうするんだね?」


 ヒースコートの言葉にハンナは少し気勢を削がれた様子を見せたが、それも一瞬だけのことであった。


「殺すわ。」


 ハンナの(ほとばし)る殺意を受け、ヒースコートはゴクリと息を飲む。

 彼はハンナとの攻守が入れ替わったのを感じた……自らの命も、娘の命すらも捨てて掛かる相手(ハンナ)に何かを要求するなど不可能である。

 ハンナに考える時間を……否、覚悟を定める時間を与えたのは失策であったと後悔した。


 対するハンナは既に捨て身だ。失うものなどは無く、ただ殺意の塊となってヒースコートを睨み付ける。


「ハンナ、相手の名はクリフォード・チェンバレンと言うそうだ。」


 ヒースコートはそれだけ告げると逃げるように部屋を出た。

 ハンナの気迫に圧されたのだ。


 ハンナの殺意は視覚できるのではないかと錯覚するほどに濃厚だ。気の弱いものなら気絶するかもしれない。


……クリフ、無事でいて。クリフが居なくなったら……私は生きてはいけない。


 ハンナの目から一筋の涙がこぼれて落ちた。




………………




 その日、クリフォード・チェンバレンとハンナ・クロフトの婚姻が発表され、自由都市ファロンは騒然とした。


 ハンナ・クロフトは言うまでもなく猟犬クリフの恋人である。

 そして、その猟犬クリフは貴賓館に向かって以降、行方知れずだ。


「ハンナ・クロフトに横恋慕した貴族がクリフを捕らえ幽閉したのだ。」

「いや、猟犬クリフはもはやこの世にはいない。」

「猟犬クリフとハンナ・クロフトは心中をした。」

「いや、陰謀を逃れ、手に手を取って南へ逃亡した。」


 憶測が憶測を呼び、様々な風説が飛んだ。

 股旅亭のマスターやヘクターは様々な(つて)を辿り情報を集めたが、詳細は何も分からなかった。


 クリフが貴賓館に向かってから安否が知れず、またハンナ・クロフトも帰ってこない。

 何かが起きているのは間違いが無いが、その何かが分からない。


 とりあえず、何かが起きた時に即応できるように情報を集め、待機をするくらいしかできないのだ。


 ヘクターの手下も完全武装で待機している。その数は総勢89人。


 100人に迫る荒事に慣れた命知らずだ……いざとなれば王国の使節団を襲うくらいしてのけるだろう。


 自由都市ファロンは異様な興奮に包まれつつあった。




………………




 その日が来た。



 ドレスに身を包んだハンナはヒースコートにエスコートされ、ファロンの議事堂を進む。


 同盟の一環としての婚姻である、交渉の場であった議事堂が式場に選ばれたのだ。


 居並ぶ貴族の中を伏し目がちにハンナが進む……その凛とした美しさに時折、感嘆の声が上がった。


 ジンデル辺境領の貴族の列にヒースコートとハンナが加わり、結婚式が進行する……身分のある者の結婚式は複数の貴族の立ち会いのもとで為されるため格式があり、時間もそれなりに掛かるものだ。


 退屈をしたハンナが少し目を上げた……すると王国使節団の列に混じり、信じられないモノが目に飛び込んできた。


……クリフ!? クリフが何でここに?


 ハンナが夢にまで見た愛しい男がそこにいた。


……クリフ、助けに来てくれたのね!


 ハンナの目からは涙がこぼれ落ち、視界が滲んだ。

 クリフもハンナを見つめ、視線が絡み合う。


……クリフ……いくらクリフでもこの場から逃げるのは無理……でも、でも、もう何も怖くない。クリフが共に居てくれるなら……


 ハンナはクリフの元に駆け寄りたい衝動を堪え、視線で愛を伝えた。クリフは優しく微笑み、頷いてくれた。


……いいわ、1人でも多く道連れにしてやる。片手で10人、両手で20……食らいついて2人、22人は殺してやる。


 ハンナは(あご)を上げ、周囲を睨み付けた。口元には獰猛な笑みを浮かべている。


 周囲の騎士が膨れ上がるハンナの剣気に少し反応したが、寸鉄も帯びぬ花嫁を取り押さえる訳にもいかない。


 騎士の戸惑いを見て、クリフが苦笑いをした。


「新郎、クリフォード・チェンバレン!」


 司婚者のファロン評議員が新郎の名を呼ぶ。


 ハンナは自らに殺される哀れな新郎の顔を拝んでやろうと貴族の列を注視する……すると信じられぬ光景を見た。


 互いの陣営の間に歩を進めるのは武官の礼服に身を包んだクリフだ。


……クリフ!? 駄目! そんなことをしたら……!?


 ハンナが息を飲んでクリフを見つめる……しかし、意外にも何事も起こらず、クリフは司婚者の前で頭を下げて待機した。


「新婦、ハンナ・クロフト!」


 司婚者の声が響くが、驚きで呆然としていたハンナは反応が遅れてしまった。


 周囲の視線を感じ、ハンナは混乱しながら歩を進めた。


 クリフの横にハンナが並ぶ。


「何で……何でクリフがここに……?」


 結婚式の進行を無視したハンナの言葉に周囲が少し戸惑いを見せた。


「愛しの姫よ、麗しき赤き花よ、今の私はクリフォード・チェンバレン。」

「嘘……嘘だ……クリフが貴族だったなんて……」


 ハンナは口を開けて呆然とクリフを見つめる。

 クリフが苦笑しながらハンナに向かい合う。


「私と結婚して頂けますか?」

「はい……はいっ!」


 ハンナがクリフに抱きついた。

 クリフもハンナを固く抱き締め、長い口づけをした。


「……では誓いのキスを!」


 式の進行を全く無視した2人に戸惑いながらも気を利かせた司婚者が、いくつもの手順を飛ばし、新郎新婦に遅れながらもキスを促した。


 万雷の拍手が議事堂を包む。


……これは何の奇跡だろう? 夢に違いない……でも、夢なら醒めないで……




 ハンナの目には涙が溢れ、悦びで身を震わせた。


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