11話 レモングラスの香水
「なあ、エレン……良かったらなんだが、君を身請けしたい。俺と一緒にならないか?」
秋も深まる自由都市ファロンの娼館で、クリフは唐突に切り出した。
相手は馴染みの娼婦、エレンである。
勿論、クリフはいい加減な気持ちではない……真剣だ。
人間は誰しも肌を重ねればそれなりの情も湧くし、クリフはエレンの人柄を好いていた。
エレンはどうか……と問われれば、好いていてくれる確信は無いが、少なくとも嫌われてはいないはずだ。
クリフはエレンをもう10度以上も抱いている。本当に嫌ならば店に申し出て、エレンはクリフを断ることもできるのだから。
「……ごめんなさい。今は……考えられなくて。」
それ故にエレンの答えはクリフにとって意外なものであった。
…………
この時代において娼婦になるのは大きく3つの道がある。
一つ目は借金だ。借金が返済できなくなり、女衒に金を借り、いくらの借金のカタに何年間働きますと契約をし、女衒から娼館を紹介されて働く道。
二つ目は人さらいだ。女が野盗や傭兵などに誘拐され、女衒や娼館に売却される道。
三つ目は娼館で娼婦が孕み、娼館の子として産まれ成長し、そのまま娼婦となる道。
ちなみに女衒とは売春婦の仲介屋であり、反社会勢力とも繋がりを持つ者が多い。娼婦のレベル(容姿、教養、出自など)を見極め、いかに娼館のニーズに合った女を紹介するのかが女衒の腕の見せ処となる。
今回のクリフのように娼婦を気に入り、貰い受けたいときは、娼館にそれ相応の対価を支払う必要がある。これを身請けという。
もちろん、それなりの高額となり、そのような客が現れることは滅多とない。
今回のクリフの話は、エレンにとっては夢の様な話と言えるものだ。
誰しも喜んで娼婦になり、体を売るものなどいない。
その苦界から救いだしてくれるのだから、断る理由などは無いはずだ。
この様な話を断る場合、大抵は他に想い人がいるか、身請け人を余程気に入らぬかのどちらかとなるが……。
…………
「そうか……分かった。」
クリフはもう何も言わない。しつこく迫るのも野暮と言うものだ。
……他に、好い男でもいたのか。
クリフは少し胸が痛むが、仕方がないではないか。
諦めるより他はない。
「……ごめんなさい。」
エレンが再度呟いた。
クリフは身支度をし、店を出た。クリフはその折りに見送りの店員にふと、尋ねた。
「なあ、エレンの好い男ってのは……どんなやつなんだい?」
この様な泣き言に等しい問いを発するとはクリフらしくもない。
やはり未練というものがあったのだ。
店員は「おや」と言うような顔つきをした後、ニヤついた。嫌らしい笑いだ。
「嫌ですよ、旦那に決まってるじゃないですか……へへっ」
今度はクリフが「おや」という顔つきをした。
何か変だぞ……とクリフの勘がざわめくのだ。
クリフは日夜命をやりとりして生きている。勘の働きで救われたことも1度や2度ではない。
勘を無視することはできないのだ。
クリフは店員に金を握らせて事情を聞いてみることにした……。
………………
事情を整理すると、エレンに借金は無い。
3年ほど前のある日、エレンは娼館にふらりと現れ「働かせてほしい」と店主に申し出たらしい。
エレンは器量も悪くなく、人品も卑しくない。店側は喜んでエレンを迎え入れた。
エレンは借金のカタに働かされる訳ではないので、店側も無理な働かせ方はしておらず、エレンは客を選り好みすらしているらしい。
……どうも変だぞ。
クリフは何かが引っ掛かる。
クリフの他にエレンにご執心の男はいないでも無いが、身請け話などにはなっていないらしい。
……少し、調べるか。
クリフは冒険者御用達の酒場に向かう。情報通のマスターに話を聞いてみよう。
あのマスターなら、ファロンの裏路地の子猫の数すら知っているに違いないのだ。
……エレンのことも何か掴めるかもしれない。
クリフはすでに、仕事のような気持ちになっていた。
…………
クリフは酒場のカウンターに座り、 マスターに事情を尋ねた。
「はあっ? 女の話か。」
マスターは呆れた様子だが、クリフの真剣な様子を見て「ふむ」と考え込んだ。
クリフとマスターはそれなりに長い付き合いである。
マスターは、まさかクリフが恋敵を割り出したり、惚気話のために来たとも思えないのだ。
「あの娼館の訳ありの女か……。」
「ああ。エレンと言う。」
事情を聞き「うーん」とマスターが唸る。
「心当たりは無いんだが、女が娼館で働きたがる理由……金か、身を隠したいか…」
……そうだ。それしか無い。
クリフもマスターの話に頷いた。
「女の手配書は最近見なかったが、ちょっとまてよ……ここに古いのが……」
マスターは賞金首の手配書を貼り付けてある看板を漁る。
新しいのを上から張り付けるので、古いのは隠れてしまうのだ。
マスターは2~3枚ほど手配書を剥ぎ取り、クリフに渡す。
「ほれ、女の手配はこれだけだな。」
「……助かる。」
「いや、クリフから女の相談なんて初めてだからな……惚れたか?」
臆面も無くクリフは「まあな」と答え、これにはマスターも鼻白んだ。
…………
手配書は3枚、1枚は年齢が合わない。
2枚の手配書のうち条件が近い方をクリフは眺める。
コーデリア、24才。
ブリントンの町を治めるインタイヤ・カスケンの第2夫人。
インタイヤ・カスケンの弟エリオット・カスケンを殺害、逃亡。
……これが臭いな。
事件は3年と少し前だ。時期も符合する。
……よし、行くか。
クリフはブリントンの町に足を向けた。
もはやクリフは賞金稼ぎの顔になっていた。
………………
2週間後、クリフは娼館の一室でエレンと向かい合っていた。
エレンは慣れた手つきでクリフの外套を脱がし、シワがよらぬように畳んだ。
剣やバックラーなどの武装は娼館に入るときに店員に渡すため、クリフは丸腰だ。
クリフはエレンをじっと見つめた。
エレンはクリフの胸にもたれ掛かり、自然と二人は抱き合う形となる。
……いい、香りだ。
香水だろうか?レモングラスの爽やかな香りと、女の体から生まれる芳しさが混ざり合い、クリフの脳を蕩けさせる。
「俺は、エレンが好きだ。一緒になりたいと言ったのは嘘じゃない。」
クリフはエレンを抱き締めながら耳に囁く。
「……ごめんなさい……私は……」
「いや、いいんだ。ただ、信じられないだけなんだ。」
クリフの手にギュッと力が籠る。
「こんなに優しい目をした君が……人を殺すなんて……」
ピクリ、とエレンの体が強ばった。
「……ごめんなさい……」
エレンは再度、呟いた。
「良いんだ。ただ、何故なんだ?」
エレンは俯いたまま、顔を上げない。
「エレン、俺は……賞金稼ぎを辞めてもいいと思ってるんだ。金も……それなりに貯まったし、君とその……君が良ければ……」
クリフは疲れていた。
賞金稼ぎとして、命のやりとりを続ける毎日に。
クリフはもう、10年以上も熟睡をしていない。物音がすれば直ぐに目が覚めるように訓練されてしまったのだ。
クリフにとってエレンこそが安らぎだったのかも知れない。
……長い、沈黙があった。
クリフにとって、無限とも思えるような沈黙を……エレンがポツリと破る。
「……ごめんなさい……それは、エリオットが私を愛してしまったから……」
俯いているため、エレンの顔を見ることはできない。
「エレン。」
クリフがエレンを改めて抱き締めようとし……咄嗟に身を躱わした。
そしてエレンの右手を反射的に掴み、捻る。
体がテーブルに当り、倒れたテーブルがドカンと大きな音を出した。
カラン、と乾いた音を立ててエレンの右手から髪飾りが落ちた。
片側の先が短剣のように尖っている。
「うっ……く……」
エレンは必死でもがくが、何か特別な技術であろうか、クリフに捻じられた右手は少しも動かすことが出来ない。
バタン、と大きな音を立ててドアが開いた。
「お客さま、どうされました!?」
テーブルを倒した音を聞き付けて店員が部屋に飛び込んできたのだ。客によっては娼婦に乱暴を働くことがあるので、部屋に入ることに躊躇いは無い。
クリフは事を荒立てるつもりは無かったが、第三者に目撃されてはなんとも仕様がない。
「エレン、残念だ。」
「……ごめんなさい……」
エレンがポツリと呟いた。
………………
それからは少し大変だった。
娼館に事情を説明し、店主には少なくない詫び料を渡した。
店主はエレンが訳ありだとは気づいていたし、賞金首を庇う形になっていたため、それ以上は何も言わなかった。
クリフは衛兵にエレンを引き渡した後、少し町をぶらついた……何か目的があったわけではない。
じっとしていたくなかったからだ。
エレンは貴族を殺害している……助かる目は全く無い。
処刑までに少し間があるが、エレンのような若い女は衛兵や牢役人相手に嫌な目に合うことになるだろう。
クリフは「はあっ」と大きな溜め息をついた。
……酒でも、飲むか……。
クリフの足は酒場に向かった。
いつもの、酒場だった。
事情を知りつつも何も言わないマスターに、クリフは感謝した。
グイッと強い酒を煽り、ぼんやりと考える。
……ごめんなさい、か。エレンは何を謝っていたのだろうか……?
「わからねえ。」
クリフがポツリと呟いた。
マスターが、新しい酒を注いでくれた。




