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「これはわたしの責任でもあるわ」
宿屋の待合所でさっきからずっと頭を垂れたまま、ミチカが唇を噛んだ。
「わたしが寝る前にチェックを怠ったせい。あの子はきっと、夜中に咳で皆を起こしてしまうのを気にして外に出たんだわ」
「自分を責めるなって。隣のベッドに坊やがいないのも知らずに爆睡してた俺の方がよっぽど間抜けじゃねぇか。運良くヴォイドが気付いて探しに行ってくれてよかったぜ。命は助かったんだから、あんまり落ち込むな」
ファイが慰める。ミチカが落ち込むことは珍しいが、こういう時は人生経験豊かな中年男が大人の優しさを見せるのだ。
そこへ、薄暗い廊下の向こうからヴォイドがゆっくり歩いてきた。
ミチカが顔を上げてすかさず駆け寄る。
「スグルの様子はどうなの?」
「あれからずっと塞ぎ込んでいる。夜が明けたら医者を探してくる」
「分かった。それまであの子にはわたしが付き添う」
「なら、俺はテントの設営だな。クモ男の野郎、情報に照らしてもどうやら完全な夜行性のようだ。今度こそ逃さねぇぞ」
ファイの言う「逃した」の意味を、この時3人は痛切に受け止めていた。
ヴォイドがうっかり逃したのではない。逃さざるを得なかったのだ。
この任務には一定の段取りがあり、何より優先されるべきことは奇形種を”生きたまま撮影する”という条件だった。従って、駆除はその後の作業になる。たとえ目の前で人が傷つけられていようとも、撮影が完了するまでは手出しができないのだ。
正午前。テントの設営がそろそろ終わる頃、外へ出ていたヴォイドが宿に戻ってきた。
スグルに付き添っていたミチカを呼び、部屋の外で何やら会話を交わした後、ヴォイド一人で部屋へ入ってきた。
『おかえりヴォイド』
ベッドの上にちょこんと座っているアシモが頭部を滑らかに回転させる。その横で、スグルは変わらず臥せっている。
「様子はどうだ」
『体温は平熱。食欲は無し。多少落ち着いてきた』
「そうか。せっかく落ち着いてきたところだが、これからこいつにしなければならないことがある。もし辛そうだったら、励ましてやってくれ」
『了解』
ヴォイドはベッド脇の椅子を引き寄せ、それに座った。
「医者を探したんだが、どこも出払っていて見つからなかった。だから俺がやる。あの奇形種は人の体内に卵を産み付けて孵化させるらしい。早ければ一日の内に孵化を始めることもあるようだ。そして孵化した子蜘蛛は......」
それ以上はスグルを怖がらせるだけだと思ったのか、言わなかった。無数の子蜘蛛が人の内臓を喰らう様など、誰も想像したくはないだろう。
「とりあえず、卵が産み付けられていないかどうか調べる。嫌だろうが、我慢しろ」
サバサバと言って布団を剥がし、横たわった身体に手を伸ばす。
「イヤだっ......」
スグルは身を強張らせ、その手を払い除けた。
「孵化してからじゃ遅いんだ。お前の命に関わることなんだぞ」
「.........」
頭では理解できる。だが奇形種に体内を犯されただけでも屈辱的なのに、そこにこの男の指が挿し入れられるなど、考えただけで吐き気がする。
それでもこの状況を放っておくわけにはいかないと、臥せった身体は抵抗虚しく、ヴォイドによって半ば強引に横向きに寝かせられ、下半身を剥き出しにされた状態となった。またもや降って湧いたおぞましい衝撃が、再びスグルを打ちのめす。
「力を抜け」
ヴォイドの指先が、股間の窄みに触れた。
「やだ......いやだ......」
『スグル。僕もついてるから大丈夫』
アシモが小さな腕をスグルの手に重ねた。固い、体温のない強化スチールが、絶望しかけた心をほんの少し勇気づけた。
「あっ......ううっ......」
身体の内部に指が挿し入れられ、ゆっくりと内壁をまさぐり始めた。
「力を抜くんだ。脚をもう少し開け」
背後から聞こえる男の声が、やけに甘さを帯びているのは気のせいか。
「......っあっん」
力を抜こうとして思わず変な声が出た。スグルは慌てて手で自分の口を塞ぐ。
漏れた声を全力で取り消したかった────完全に手遅れだが。タイムトリップでもしない限りは。
やがて何かを捕らえて、指がスルリと抜け出た。
「やはりあったか」
ヴォイドの指が、布切れの上に直径3cm弱の白い塊を置く。これがクモの卵のようだ。
「もう一度。残りが無いか確かめるぞ」
「うあっ......ああっ......」
再び、窄みが押し開かれた。
スグルは右手でアシモの手を握り、左手で自分の口を覆った。
「んっん......んっ......んふっ......」
痛みに耐えているつもりが、声がくぐもって逆に変な空気を生み出している。だがこの手を外してまたうっかり変な声が出ようものなら......背後の男とは一生顔を合わせることができなくなりそうだ。
指先は丹念にスグルの体内を徘徊し、ようやく検査を終えた。
「もう心配は要らない。落ち着いたらミチカと一緒にテントに来い」
卵を包んだ布を持って、ヴォイドは部屋を出て行った。
「ああ、死にたい......サイアク」
『1回死んだんじゃなかったの?』
スグルのつぶやきに、人工知能が律儀に言葉を返す。
「それはそうなんだけど......、けれどこんなに不快な出来事は生まれて初めて」
『卵を産み付けられた時とどっちが不快?』
「さっきの摘出の方。軽くクモ男を凌駕してた」
ぼんやりと、ブツクサと。だがある種凌駕しているからこそ、クモ男を忘れられていることには気付かずに。
『それなら卵が孵化した場合とどっちが不快?』
「それは......」
『死ななくて良かったじゃないか』
「────」
何だろう、この言いくるめられた感。こんな時でもAIは着実な成長を見せているようだ。その逞しさが、ちょっと癪にさわる。
「スグル、入るわよ」
ドアが開いてミチカが現れた。
トレイにスグルの食べられそうな食品をのせて持ってきたようだ。
「頑張ったわね。一刻を争うことだったから少々手荒になったかもしれないけど、あなたの命が助かって本当に良かったわ。ヴォイドのやつ、余計な事しなかった?」
『肛門に2度指を突っ込んで掻き回しただけ。他には何もしていない』
まだ若干放心状態のスグルに代わって、アシモが明朗に返答する。
「ヤダ、アシモったら」
ミチカが可笑しそうに肩を揺らす。
「本当はわたしがそれをやっても良かったんだけど、逆にスグルが恥ずかしがるんじゃないかって、どうせやるなら嫌われてるくらいの人の方がいいだろうって、彼なりの気遣いだったのかもね。でもあの卵は貴重なサンプルとして依頼元に提出できるわ。スグルが身体を張って採取した、かなり高額な代物よ」
優しく笑ったミチカは、いつもの髪型に少し胸の開いたセクシーな黒いバイクスーツを着て、ベッドの脇に腰掛けている。大人びた魅力的な顔立ちの中にも、気取らない眼差しと表情豊かな口元は、女性とあまり会話をしたことのなかったスグルに対してすら、全く抵抗感を与えない。
そして、どこか遠くに話しかけるように、その口がしんみりと言う。
「人間生きてると、どうしようもなく辛い瞬間に立たされる時は何度もあるわ。だけど、そんなことも忘れてしまえるほどに幸せな瞬間だって、必ずあるの。それを信じて立ち上がるのはバカだと思う? ────わたしは信じているわ。どんな苦悩の先にも喜びがあることをね。......まあ、あなたの身の上話を信じるくらいだから、それくらいは普通に信じて当然ね。さあ起きて」
彼女は黄金色の液体が入ったガラス瓶の蓋を開けた。
「これを飲みなさい。喉に良いらしいわ」
スプーンで中身をすくって、スグルの口へ運ぶ。
ハニージンジャー────生姜の蜂蜜漬けだった。
「今朝ヴォイドが病院で分けてもらってきたものよ。彼の財布の中は今頃火を噴いてることでしょうね。彼も色々あって、人にああいう接し方しかできなくなった男だけど、根は優しいのよ。だから嫌わないであげてね」
スグルは蜂蜜をスプーン3杯飲み下し、ミチカが運んできたライ麦パンとじゃがいものスープにも少し手をつけた。
食べながら、思っていた。
この人はよくしゃべり、明るく、ポジティブで、面倒見が良く、優しく、そして......美しい。僕に無いものをすべて持っている。そしてなぜか、それらを持たない僕にまるで母親の愛情のような、友人の友情のような、無償の愛で接してくれる。今まで誰も、してくれたことなどなかったのに。
もしかするとこの人の存在こそが、この時空を超えた過酷な未来で、自分に不思議な居心地の良さを感じさせているのかもしれない────
そんな気がした。いや、きっとそうだった。