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「水飴を練って固めたものだよ。美味しいよ」
皺だらけの手のひらには、薄茶色いべっこう飴のようなものがのっていた。目を凝らして見ると、その中に小さな蜘蛛が一匹閉じ込められている。まるで標本のように固まって動かない小蜘蛛の体表は赤と緑の縞模様────その毒々しい配色に、食欲どころか不気味さしかそそられない。
「いえ......結構です」
マントの男の異様な気配を感じ取り、スグルは怖くなって宿に引き返そうとした。
「待ちなさイ。夜道ハ キケん だヨ」
話す声に奇怪なトーンが混ざったかと思うと、薄明かりの下で、痩せこけた顔がにこやかな面相から異形のそれへと豹変した。
ジュルルル.........
闇の合間を縫うように、何かがスグルめがけて伸びてきた。
男のマントから飛び出したのは、8本の触手。それらがスグルの両手両足に絡みつき、あっという間に身動きを取れなくさせてしまった。
「わぁっ!」
叫んだその口に、触手が一本突っ込まれた。細かな剛毛で覆われた直径5cmほどの触肢は、さっき飴の中に見た蜘蛛の節足のようでもあるが環節などは無く、柔軟な動きでヒルのように纏わりついてくる。
「うぐっ、ううっ!」
口を塞がれ、叫ぶこともできない。さらにこの痩せ男の何という形相。両目はいつ分裂したのか8つの黒い単眼となり、口元には2本の鋏角が生え、それがシュルシュルといかがわしい音を立てて蠢いている。
だがスグルを最も驚愕させたのは、男の下腹部から突出したもう1本の突起物だった。これだけが剛毛が無く、電燈の僅かな明かりを反射させながらヌメヌメと肌色にテカっていて、どこかに狙いを定めるかのように鎌首をもたげている。
「ぐうっ! うっ! んんんっ」
必死に抵抗するも為す術なく、肌色の突起物はズボンの裾口から入り込んでスルスルと脚を這い上がってきた。
「んっ、んうっ! うっ!」
ヌルリと股の奥へ侵入してきたクモ男の触肢は多少の柔軟性はあるようだが、明らかな違和感と鈍痛を刻み付けながら悪夢のようにスグルを犯し始めた。
人間の奇形────ファイが言っていたのは、まさにこいつのことだ。
四肢の自由を奪われたまま、生ぬるい異物にグイグイと内臓を抉られるような感覚がしばらく続いた。口を塞いでいた触手が出て行くと、封を失ったスグルの口から泣きそうな声が漏れた。
「おい、何をしている」
どこかで聞いたことのある声だった。
クモ男が動きを止めて、振り返る。
8つの単眼が8つとも、そのあまりの麗しさに一瞬あり得ないまばたきをしかけた────ヴォイドだ。
暗がりに蠢く邪悪な変体を確認した彼は、餌食となっている人物を見るや否や、携えていた細身の剣を抜いて全速力で駆けてきた。
ジュルル.........
8本の触手がスグルの身体から離れ、ヴォイドが剣を振り上げた瞬間、最後の一本もヌルリと体内から抜け出した。クモ男はマントを翻し、素早い動きで後ろに飛び退いた。
触肢がマントに収まると、山高帽の下の顔はぐにゃりと変形して人間らしき造作を取り戻し、そのまま闇の中へ消えてしまった。
「大丈夫か」
「────」
意識はあるが、スグルは何も答えられなかった。
全く理不尽な、悪夢のような出来事は何を以ってこの身に降りかかったのか。クモ男の衝撃と、自分の肩を抱きかかえている男がその恥辱を更に上塗りする人物である事実。電池の切れたロボットさながらに思考と動作を停止していなければ、こんな状況下では自我など保っていられない。
ヴォイドがスグルの身体を抱き上げた。
「────」
嫌だと声を上げることも諦めて、スグルはぐったりと目を閉じる。
宿へと歩き出した男の顔が時計台の電灯に照らし出された時、幸いにもスグルを含めその表情は誰の目にも触れなかった。
珍しいことに、ある一つの、感情のようなものがその美しい顔に浮かんでいた。仮に見た者がいたとしたら────ある者は狂おしい嫉妬に駆られ、ある者はその顔で自分も見つめてもらいたいからと愚かにもクモ男のもとへ走り出す衝動に、駆られたかもしれない。