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「着いたぞ」
座席の下にうずくまっていたスグルに声がかかったのは、20分ほど激走した後だった。
起き上がって周囲を見渡すと眼前に今回の計測地らしき湖がある。鉄塔はというと、湖の外周三方向を囲うように立ち塞がる断崖の上に建っていた。
珍しい地形だ。まるで巨大な隕石が落ちてできた陥没跡を思わせるこの地形は、世界各地に点在するアトミックブライトの爪痕の一つであった。ここには昔、原子力発電所があったのだ。
2人がジープから降り立った場所には、絶壁を削って作られた奥行き7〜8mほどの洞穴があった。ここが打ち合わせていた場所なのか。ヴォイドの様子を見ても、どうやらこの空洞がキャンプ地のようだ。
「ミチカさんたち大丈夫かな」
車から荷物を下ろすのを手伝いながら時々辺りを窺ってみるが、スグルの耳にはまだバイクの音は聞こえてこない。
「ファイがいるから心配ない」
モルタルで固められた洞穴の地面に敷物と毛布を敷き終えると、ヴォイドは着ていた上着を脱いだ。
右肩から出血していた。普段ならミチカがやってくれるのだが、今は自分で処置をするしかない......と思いきや、スグルが応急箱を持ってきて傷の手当てを始める。
「機械のメンテナンスだけかと思ったら、人のメンテナンスもやるようになったのか」
「そうでもしないと、この危険地帯で生き残れそうにないから」
「分かっているならそれでいい。また一人で出歩かれたりするとこっちも面倒だ」
はぁー。と、小さなため息を吐き出すと、
「ヴォイドさんて、結構根に持つタイプなんだね」
と、チクリ。
消毒を終え、応急テープを貼り終えると、
「ヴォイドさん」
スグルはまだ何か言いたげだ。
「どうした?」
黒い瞳の中に、感嘆のため息が漏れそうなほど美しい顔が映っていた。黙って見つめてしまうと自然に引き寄せられ、そのまま唇が触れてしまいそうな錯覚に陥りかねない。
......が世の中にはそうならない者も稀にいる。
「すっごく臭いんだけど。服や身体にさっきの獣の体液が付着しているみたい」
目の前の美麗な顔を直視して言った。思い切り鼻を摘んで鼻声で。
ヴォイドは咳払いを一つして立ち上がり、渋い面持ちで洞穴から出て行った。
湖の水面は澄んでいて、小魚が泳いでいることからPH値、溶存物質ともに異常はなさそうだ。ヴォイドは着ている物をすべて脱ぎ、湖水で身体を洗い、上服も洗った。これを覗き見る者がいなくてよかった。彼のすべてに心を奪われてしまうか、または己の醜さにつくづく嫌気が差すか───どちらにしても、良いことはない。
キャンプに戻ると、半裸のままスグルの横に座り込む。
小さなエンジニアは美しい筋肉をまとった男の裸体になど目もくれず、今日も夢中で自分にしかできない特殊な仕事をしていた。
「何か作っているのか?」
「太陽光充電機。電線が無い場所だとアシモの充電ができないから、ソーラーパネルでいつでも充電できるようにしようと思って。材料はパドルスクの工房で色々もらってきたんだ。でも将来的には内蔵電池そのものを高性能にしないとダメなんだけどね」
布袋から次々と金属素材を取り出して設計図も無しに加工を始めるスグルは、一度機械に向かうと二度と人間の方を向かない。
そんなつれないエンジニアをじっと見つめ、ヴォイドは急に、らしからぬことをした。
人差し指の背で小さな頰をそっと撫でたのだ。
それへの反応はいかにもスグルらしいもので、ハエでも払うかのように見向きもしないでシッシッとその指を払い除ける。
ヴォイドの顔が何気に和んだ。悪戯心に火がついたのか、もう一度同じ場所に指を伸ばす。
スグルも同じ動作で対抗したが、何度払っても付き纏う悪戯にとうとう我慢ならなくなって、
「ああもう、何?」
不貞腐れた顔をようやく上げた。そして思わずひっくり返りそうになった。
男が顔を傾けて、今にもキスしようかという姿勢をとっていたのだ。
「ちょっ、何?!」
慌てて手で自分の口をガードする。
「日本には感謝のキスなんてものは無かったのか」
「そんなもの無いよ。それに、何の感謝?」
「レージュのことだ。それから......子どものことも」
触れられたくない過去ではないのか。いや特に包み隠すでもなく、
「知らないままでいるより、教えてもらってよかったと思っている。ミチカだったら絶対に言わなかっただろうから」
寂しげな様子ではなかった。どことなくつかえの取れた、清々しささえ感じる口調だ。
「ニュートラルが一般人との交渉を絶っているのは、ある意味理に適っていると思うよ。そこには遺伝子的要因があるんだ。レージュさんは産みたかったんだろうけど産めなかった。その失望が彼女を死に追いやったんだろうって、彼女の友達も言ってた」
慰めの言葉一つもない。だがヴォイドもそれを求めてなどいなかった。
「そうか......長老から聞いたのか。ニュートラルが無謀な遺伝子操作で誕生した種族だということを」
「ヴォイドさんも知ってたの?」
「レージュから聞いていた。初めてお前を見た時、感情をあまり表に出さないところが同じだと思った。だがさすがに先祖ともなると、感情表現の乏しすぎることといったらないな。コミュニケーションの取りようがない」
そう言って、今度は手のひらで頰を撫でようとする。
「やめてください。鬱陶しいから」
スグルはそろそろ本気で怒りかけていた。
「そういう喜怒哀楽は大切だ。嫌われているのがよく伝わってくる」
黒い瞳孔を深い碧眼でひたすら見つめ続けていた男は、この時ようやく目をそらした。
「いつかお前に説教したことがあったな。思いやりや愛の経験が足りないって......我ながらよく言えたものだと思う。人を愛することがどういうことなのか、実は俺もまだよく分からない」
「レージュさんは恋人だったんじゃなかったの」
「愛していたかどうか分からないんだ。軍にいた時、ニュートラルに接近して彼らの秘密を探るのが俺の任務だった。レージュに近づいたのも、任務のためだった」
スグルから離れた視線は、どこか遠く、実在の無い何かを見ているようだった。
「レージュが死んだと聞かされた時、さすがに自分自身を呪ったよ。キヌア=キャリエル=ブラッド────その名で生きるのにも耐えられなくなった。俺は汚れすぎている......名前を捨てたところで、それは変わらないだろうが」
なぜそんなことを語り始めたのか。ミチカにもファイにも語ったことのない暗い過去を、ヴォイドは躊躇いもなく口にしていた。ニュートラルの森を去る時からずっと脳裏によぎっていた追憶の吐露────とでも言うべきか。それがスグルに語られる意味に、おそらくは語っている本人もまだ気づいていない。
「......俺は生まれながらに孤児だった。両親は未だに不明だ。孤児院で育って途中から養父母に育てられた。ヨークの司令官にやらされたようなことを、養母にも命じられてこなしていた時期がある。俺はそれが嫌で家を出た。その足で軍隊に入隊したが、ヨークでも代わり映えがしなかった」
スグルは持っていたドライバーを手放した。作業をしながら聞くような話ではないように思われた。
「アルトゥールは何かと絡んできた。俺の友人をダシにして俺の身体を求めてくることがしばしばあった。どこに逃げても愛の無い行為を求められるのだと諦めた。レージュとは......違うかもしれないと思い始めていたが、成就する見込みの無いことは初めから分かっていた。それでも俺はレージュを抱いた。任務のためなのか、愛しているのか分からないまま────」
視点の線上にある湖は、男の声と同様に波風ひとつなく穏やかだ。ミチカたちはまだ来ない。彼らと合流したらたちまち打ち切られるような話だった。
「愛を知らないのは俺も同じだ。お前のことをとやかく言える立場にない。でも......最近になって分かりかけてきたこともある」
上半身裸の男の顔が、またもやスグルに向けられた。行く先々で行為を求められるのも無理はない。骨格、筋肉、褐色の肌、そしてこの顔────すべてが惚れ惚れする造作であった。
「スグル」
明らかにいつもと違う雰囲気で名を呼び、ヴォイドが再び顔を近づけてくる。
「感謝のキスならミチカさんにしてあげてよ。ミチカさんが森へ連れて行ってくれたからお墓のことも分かったわけだし」
「これは感謝のキスじゃない」
切ない声を振り絞ったヴォイドに対して、若干イラつきを含んだ声でスグルは言う。
「それなら言わせてもらうけれど、レージュさんに似ている部分を僕の中に見出して勝手に想像したりしないで。あの人がエンジニアを志していたことや、僕と同じ年齢だったこと、日本人の子孫であること。それらは僕とは何ら関係ない。もちろん、こっちは引き出せる情報なんて何も持ってないからね」
特有の歯に衣着せぬイタい言い方は、こんな場面でも健在だった。
何も言い返せないまま、ヴォイドはちょっと複雑な笑みを見せた後、荷物の中から新しいシャツを探して身につけた。
間もなくソーラーパネルの作業が再開され、2人の間には何事もなかったかのように、いつもの適度な距離感が生まれた。
ヴォイドは自覚しただろうか。目の前のつれない少年に打ち明けようとしたのは、本来レージュにしたかった叶わぬ懺悔であることを。そして、その懺悔によって過去と決別した自分が、ようやく誰かを愛し始めたことを。




