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世の中で最も嫌いなものの一つが、ファイにとってはこの場所であった。
────病院。
「チッ、情けねぇ......」
忌々しげに舌打ちをして、重い足取りで建物内へと入っていく。
「おぅい、誰かいらっしゃるかい?」
診療時間外なのか、人の気配が無く受付にも誰もいない。
「センセーいるか? 緊急の患者がやって来たぜ」
待合所の長椅子はすべて空席で、廊下も隅から隅までガランとしている。だがそんなことは構わずに、ファイは廊下を進んで診察室の扉を開けた。
「おおっと」
開けた扉を咄嗟に閉めようとしたが、目にした光景がどうも腑に落ちなかったので、結局閉めることなく室内に踏み込んだ。
「き、キミは誰だっ?!」
白衣を着た医師が驚く。
「患者だけどよ」
「診察時間はとっくに終わっている。とっとと出て行きなさい」
そうは言われたものの、そうするわけにもいかないだろう。でっぷりと太った四角い顔の医者の股間にうずくまっているのは、まだ年端もいかない幼女じゃないか。
「いやいや、センセー。ちょっとくらい診察してくれてもいいじゃねぇか。それとも何か? 患者なんかそっちのけで子どもと戯れてる方が楽しいってか?」
「ヒィイイイ!」
こめかみに突きつけられた銃を見て、太った医者は震え上がった。そして幼女の顔を離してズボンのチャックを閉めると、
「あっちへ行ってなさい」
と追い払うように言ってから、恐る恐るファイに回転椅子を差し出した。
医者に診察をさせ、薬を処方させた帰り際、ファイは待合所にぽつんと座っているさっきの女の子を見つけて声をかけた。
「いくつだ、嬢ちゃん?」
「8歳」
裾のほつれた水色のワンピースに、靴下も履かず古いサンダルを引っ掛けている。
ファイは女の子の横に座ると、こっちまでやりきれなくなって重苦しいため息を吐き出した。
「そうか......酷ぇ目にあったな」
「でも、そうしないとお母さんのお薬がもらえないから......」
女の子は泣き出しそうなのを必死で堪えているようだった。今日のファイは、最も嫌いな場所で最も琴線に触れる場面に出くわしていた。
「母さん、具合が悪いのか?」
「うん」
「どんな病気なんだ?」
「それは言えないの。秘密だから」
「でもな嬢ちゃん。オジサンはこのまま嬢ちゃんを放っておけねぇよ。オジサンにできることなら協力するから、一人で抱え込まねぇで話してみな」
ミチカが親を亡くして途方に暮れている時も、こんな感じだったのを思い出す。まったく世の中は残酷だ────健気な少女を見る度に、ファイはそれを痛感する。
女の子はしょんぼりと肩を縮こめて言った。
「お母さん......気持ちはお母さんなんだけど、体がお母さんじゃなくなっちゃったの。どんどん枯れ木みたいになってるの」
ファイは女の子を連れて病院を出た。その子を家まで送る途中、ホテルに立ち寄ってミチカを呼んだ。
「ミチカ、ちょっと一緒に来てくれ。カメラを持ってな」
女の子の名前はローリーと言った。
薬を手に入れられずに悲しげな様子だったが、ミチカが手を繋いで歌を歌ってやると、徐々に無邪気な笑顔を取り戻していった。
街を流れる川縁に、パドルスクの貧民街があった。
「ここがわたしのお家」
と言って、干レンガを積んだだけの粗末な一軒家に、ローリーは入って行った。
病気の母親はどこにいるのか。
────いた。
「ただいま、お母さん」
ローリーが嬉しそうに駆け寄った先に、何本もの木の枝があり、その幹が────母親だった。
ミチカは大きく息を吸い込んだ。深呼吸しないと心臓が止まってしまうかと思ったのだ。
「邪魔するぜ。ローリーの母さんよ」
ファイがやさぐれた挨拶をすると、
「あなたたちは?」
と、どうやら普通に会話はできるようだ。
「ちょいと話がある。娘さんのことも含めてな。ミチカ、ローリーと表で遊んでてくれ」
「分かったわ」
ミチカはローリーの手を引いて、家の外へ出た。
枯れ木のようだと娘に言われた母親は、確かに身体から枝を生やし、その枝が日照不足で痩せ細って萎れていた。ファイが病院での一件を話すと、涙も枯れ果てた身体で嗚咽を漏らしながら”奇形種”は言った。
「薬は優しいお医者さんが無料で分けてくれてるからって、あの子ったら......。ああ、なんてことでしょう。私はあの子にそんな惨いことをさせてしまっていたなんて」
足元から生えた根は、床下の地面の奥まで伸びているようだった。ここから動くこともできず、彼女はまるで本当の木のように、ただ立ち尽くすだけの生活を送っているのだろう。
ファイには、彼女にかける言葉も見つからなかった。染色体の異常は現代の医学ではどうにもできないし、またグローバル政府はこのような被害者を救済する法律すら持っていないのが現状だ。
「可哀想なローリー......私はあの子に何もしてやれない。手足が動けば、あの子の喜ぶことは何でもしてやりたいと思っているのに......。こんな身体ではもはや母親失格です。どうか......どうか私を殺してください。そしてあの子を......お願いです、ローリーをどこか、信頼できる方の里子に出してやってください。お願いします」
悲痛としか言いようがなかった。してやれることがあるとしたら、彼女の願いを聞くことくらいかもしれなかった。だがどんなに辛い状況であっても、母親の命を奪ってしまえば、最も嘆き悲しむのは愛娘のローリーだろう。
「俺には何もしてやれそうにねぇ。けど、あんたの身に何かがあった場合を考えて、嬢ちゃんのことは後々面倒を見てもらえそうな場所を探してみる。ちったぁ苦労はするかもしれねぇが......なぁに、若い時の苦労は買ってまでもしろって言うじゃねぇか。一緒に来たミチカって女も、嬢ちゃんと似たような境遇だったんだ」
ファイはしんみりと鼻をすすった。こういう場面ではお得意のジョークも出てこない。
しばらくして、ローリーが息急き切って家に駆け込んできた。
「お母さん、見て見て! 綺麗なお花が咲いてたよ」
手に持っていたのは、ピンク色の野生のカーネーションだった。
「まあ綺麗ね」
母が微笑むと、ローリーはその花を一輪、干からびた樹皮に覆われている彼女の頭部に添えて喜んだ。
「ローリー。記念にお母さんと一緒に写真を撮ってあげる」
ミチカがカメラを構えると、ローリーは幹の傍に寄り添って笑顔でポーズをとった。
シャッターを切るミチカの瞳には、樹木と化した哀れな奇形種ではなく、深い愛で娘を見守る優しい母親の姿が映っていた。




